アジア国際通信

No.209 (1999/9/1)

SCRIBBLE

  • 天皇制に“おんぶにだっこに肩車”の日本人
  • 天皇制に対して責任を負わなかった参謀本部

天皇制

  • 次は「天皇国家元首」が声高く叫ばれる
  • 維新の偉業を天皇の業績に高める政略が欠落

天皇制 2

  • 外征派と専守防衛派の陸軍を二分した抗争
  • 内乱鎮圧型から近代戦争対応型への転換
  • 帝国主義時代を生き抜く思想的蓄積はあった
  • 滅亡の日まで戦術偏重の日本陸軍
  • 専守防衛派は政治の場で外征派に反撃
  • 『坂の上の雲』巻6の「あとがき」抜粋
  • 「国際貢献」という日本政府のデマ宣伝

SCRIBBLE (NO.209,1999/9/1)

 ◆天皇制に“おんぶにだっこに肩車”の日本人

 ●天皇制に対して責任を負わなかった参謀本部

 「967年を最後に『天皇』は消滅していた」という前号記事に対し、ある読者の方 から次のようなご意見が寄せられた。同様の感想をもたれた方も多かったに違いな い。

「天皇制に関する意見は、大変面白いが、歴史的に見ると一寸甘い。…この民主主義 の世の中で、第二次大戦、大東亜戦争の実質的で、最大の超A級戦犯である天皇制が 生き残っていくことは、世界の笑い者であり、日本人がいかに歴史観と倫理観、責任 意識がないかを示しているといえよう。」

 このようなご意見は、戦後の日本人の間で「常識」といえるほど、疑問の余地もな いものとして受け止められてきたものといえるであろう。しかも、かなり広く深く浸 透したもので、一面ではこのような見方には、リアリティがあったといわざるを得な い。

 ところが、戦後50有余年という時の流れの中で、近年このような「常識」が、急速 に風化の一途をたどっているのもまた事実だ。これは一体どういうことなのか?
 それが真実の一面にしか過ぎなかったからであろう。何万べん繰り返しても、すで に人々の心に届くものではなく、そこからは何も生まれるものがないからに違いな い。

 「第二次大戦、大東亜戦争の実質的な」大半の責任を負うべきは、天皇ではなく 「中間団体」(実体的には参謀本部)であったはずだ。

 “歌は世につれ世は歌につれ”るほどの、“歌”にも等しいはかない存在にすぎな い参謀本部は、継続性が強く消滅する必然性のない天皇制を、日本の歴史上かつてな いほどに、都合よく利用した挙げ句、天皇をすべての批判にさらしたまま、消滅(一 部はうまく雲隠れ)してしまった。(次項へづつく)


天皇制 (NO.209,1999/9/1)

 ◆次は「天皇国家元首」が声高く叫ばれる

 「平安時代央、完全に祭政は分離し、世俗的な権力は藤原氏一門の貴族(中間組 織)へと移行することになる。以来、今日に至るまで、基本的には天皇が祭政統合の 最高権力者に戻ることはなく、世俗的権力は「中間団体」(中間共同体のトップ)が 担うことになる」(「グローバリズムの時代と天皇制」)。

 天皇制は世俗的権力の“武ばった”性格から遠くあることによって、その伝統が継 承されてきた。かの「下克上」という、最も卑しい欲望をムキだしにした戦国の世に あってすら、誰も天皇および天皇制には一糸も触れることがなかった。

 日本近代の夜明けにおいて日本人は、その強力な政治的回転軸として、天皇および 天皇制に“おぶさった”。その後の日本軍参謀本部は、天皇制に“おんぶに”とどま らず、お粗末にも“だっこ”までしてもらう始末であった。戦後の日本人は加えて、 “肩車”(戦争責任のすべてを押しつける)までしてもらって、真実のもう一つの面 を忘れ去り、葬ってきた。

 真実のもう一つの面とは、冒頭の読者のご意見とは逆になるが、日本人は「歴史観 と倫理観、責任意識のなさ」を、天皇にすべての責任を預けて済ませてきたことであ る。

 だから今また、「自自公」という戦術的多数派の跳梁跋扈に、手も足も出せないで いる。この野合集団が丸投げ採決した背筋の寒くなる無内容な一群の法案が、日本を アメリカの世界戦略に従属させ、日本をアジアと戦わせることを目的としたものであ ることが一目瞭然であるにもかかわらず、である。

 そもそも、橋本龍太郎がアメリカの要請に応え、「日米軍事同盟強化」に公然と踏 み切ったあたりから、今日の流れが急速に煮詰まっていったのであり、自国の政治目 的の政略と戦略においては、まったく無能であった日本の参謀本部と大差はないもの であった。

 野合によって安定勢力を形成した「中間団体」が、アメリカの御意向に政略と戦略 をお任せしたまま、まず一連の法案を通すことに集中した。法案の中味など後回しに して、「小さく生んで大きく育てる」などとうそぶくほどの無責任さであった。

 だが、この急造の無責任「中間団体」、これまで同様、「罪」の責任を負うことな く、ほどなく歴史の舞台から消え去る。おごれるもの久しかったためしがないのは、 参謀本部同様、世の常である。

 これからは延命工作が激しくなる。案の定、中身のない分を天皇制の権威で穴埋め するために、「天皇国家元首」説を口走る輩の声がでかくなってきている。

 ●維新の偉業を天皇の業績に高める政略が欠落

 司馬遼太郎は、小説『坂の上の雲』(文藝春秋刊)巻6の「あとがき」で、「ロシ アとの戦争の勝利(1905年9月5日、ルーズベルトが勧告した日露講和調印)によっ て、欧米列強に互すという維新の国家目標を達成した。しかしその後、帝国主義の時 代を生き抜く思想的準備を欠いた日本は、ひたすら欧米列強の帝国主義の陰を追うハ メに陥る」と記している。

 欧米列強に互す、すなわち「不平等条約を撤廃させる」という「維新の国家目標」 が日露戦争の勝利によってもたらされたことと、明治政府が国家目標を失ったという 点については司馬に同意できる。しかし、「帝国主義の時代を生き抜く思想的準備を 欠いた日本は、ひたすら欧米列強の帝国主義の陰を追うハメに陥る」という前段は、 大いなる誤謬であるといわざるを得ない。

 「欧米列強の帝国主義の陰を追うハメに陥る」という同じ轍が、今また踏まれてい るわけだが、実は日露戦争をかなりさかのぼる時期に、「帝国主義の時代を生き抜く 思想的準備」はすでに充分できていた。
 日本あるいは日本軍も決して捨てたものではないのだが、その重要性は司馬のみな らず、これまで見落とされてきた。

 明治7年(1874年)の「佐賀の乱」、明治10年(1877年)の「西南戦争」を最後 に、その後は維新にまつわる大きな内乱の危機は去り、「自由民権運動」の時代に移 る。当然それまでの「内乱対応型」の軍事組織は、近代戦争に対応する制度変革の必 要に迫られた。
 それが明治15年(1882年)のことで、この時の選択の間違いが、日本の国家目標を 今日に至るまで宙をさまよわせることになる。

 この段階で、維新の偉業と栄光を、永遠に「天皇の業績」として神話にまで高める 政略が必要であった。具体的には、伝統的な神秘主義的天皇制に戻ることであるが、 その可能性を封じたのが、山県ら「外征型軍事制度派」による、「近代戦争における し略と戦略の重要性」を驚くほど的確に把握していた陸軍内「専守防衛派」に対する 強権的弾圧と、その勝利であった(詳しくは次項で見る)。

 こうして「中間共同体」のトップに登りつめた山県有朋を筆頭とする日本陸軍、と りわけ中枢機関の参謀本部(近代的大組織である軍を運用する中枢機関)は、理論面 でも実践面でも、決定的に無能であったため、日本最大の政治勢力として自らの無能 を「天皇と皇室の権威」で穴埋めしていった。

 その結果が、天皇制に最もふさわしくない、天皇を日本軍の最高責任者、大元帥に 祭り上げ、統帥権を天皇直属にしてしまうという愚挙であった。しかし、この歴史的 な誤りに、身命を賭して反旗を翻した一群のずば抜けて優秀な将軍たちが、「専守防 衛派」であった。

 この山県一派とその後継者の無能集団が、その後60余年にわたって日本列島に君臨 し、ついには目的も目標もない無謀な「絶対戦争」に日本人を駆り立て、自国民はも とよりアジアの人的、物的資源にいたずらな犠牲を強いる「時効なき歴史的大罪」を 犯すことになる。

 挙げ句の果てが、日本を無条件降伏という無惨な敗戦に至らしめ、アメリカの属国 へと追いやり、あわせて「天皇制」を未曾有の存亡の危機に追いやった。
 この「時効なき大罪」は、未だに償われていない。(次項へつづく)


天皇制 2 (NO.209,1999/9/1)

 ◆外征派と専守防衛派の陸軍を二分した抗争

 ●内乱鎮圧型から近代戦争対応型への転換

 幕末・維新の政争と内乱を勝ち抜いてきた軍人政治家たちは、戦争目的と手段の関 係、政略と戦略の知識と感覚を経験的に身につけ、維新の偉大な政治目的を達成する ための、不可欠の要素として軍を運営した。やがて、「内乱」の可能性も遠ざかり、 近代戦争対応型への脱皮の時を迎える。この時こそが、近代日本の国家目標を明確に すべき重要な分岐点であった。

 1882年(明治15年)、それまでの「内乱対応型」であった日本陸軍の編制・用兵 を、日々増大するロシアからの軍事圧力に備えて、「外征型」に改めるための軍制改 革が桂太郎(大佐)によって提示された。

 これに対して、「専守防衛型改革」を主張するヨーロッパ陸軍兵学に造詣の深い、 一群の知将たちから猛然と反対の声が挙がり、陸軍を二分する抗争に発展した。

 陸軍の長老・山県有朋は、陸軍内の根強い「専守防衛派」を強権的手段をもって一 掃し、「外征型改革」を決定していった。この時同時に、明治3年に採用されたこれ までのフランス・モデルを廃し、ドイツ・モデルに切り替えることと、陸軍大学(参 謀適任者養成機関)を設置し、教官をドイツから招くことも決定した

 大江志乃夫著『日本の参謀』(中公新書)によれば、この「外征軍備」への転換に 反対し、「専守防衛」を主張したのは、農商務大臣・谷干城(たてき)中将、元老院 議官・鳥尾小弥太中将、東京鎮台司令官・三浦梧楼中将、参謀本部次長・曽我祐準少 将、近衛歩兵第一旅団長・堀江芳介少将などであった。

 谷中将は、政略・戦略に通じた抜群の知将であった。それは日清戦争の最重要局面 で、伊藤博文首相に宛てた手紙によくあらわれている。日本陸軍に、このような誇る べき「帝国主義の時代を生き抜く分厚い思想的蓄積をもった人物がいた」ことは、広 く知らされてこなかった。

 ●帝国主義時代を生き抜く思想的蓄積はできていた

 日清戦争の最高統帥機関として、天皇のもとに大本営が設置され、宣戦布告(1894 年)後の大本営会議には、伊藤博文首相が列席した。元老としての政治的発言の大き さでは、山県と伊藤が申し分なく他を圧した。

 山県は第一軍司令官として戦地に出征したため、文官とはいえ現職首相である伊藤 の天皇に対する影響力は、大本営会議構成員である他の軍人にくらべて絶大であっ た。従って、日清戦争の戦争指導では、大本営の戦略が政府の政略に従属するという 構図となった。

 これが偶然とはいえ、戦争の決定的重大局面で、山県が大本営の指令を無視して 突っ走ろうとした「絶対戦争」を、辛うじて回避するという“不幸中の幸い”となっ た。

 現地司令官である山県は、「朝鮮から清国の手を引かせる」という当初の戦争目的 を勝手にこえようとした。山県は功をいそいで大本営の作戦計画を公然と無視し、な んと北京を目指す「絶対戦争」に突入するという、軍事戦略の私物化の挙にでた。以 後、日本陸軍のこの悪癖は、その消滅の日まで抜けることがなかった。

 山県の「絶対戦争」を放置すれば、清朝政権が崩壊する危険があり、日本は講和の 相手を失って、泥沼の戦争に引きずり込まれること必定であった。だが、軍人にある まじき山県の愚劣な行動を抑制できる人物など、すでに陸軍内部にあろうはずがな い。しかし、伊藤首相が天皇に、山県司令官の更迭を進言し、天皇は勅使を派遣して 山県を帰国させた。

 伊藤は、北京への関門である山海関をこえることなく、しかも威海衛を攻略して清 国の海軍力を全滅させ、台湾に兵力を送って講和会議の領土問題を有利にすすめるこ とを主張。大本営は、伊藤の政略にしたがい、北京方面への作戦を最後の決戦として 保留する方針に転じ、講和会議で台湾割譲を主張する政略作戦として澎湖島を占領し た。

 この時、谷は伊藤に手紙を送り、1866年のプロイセン・オーストリア戦争における ビスマルクの政略を例にあげ、清国に対する領土割譲要求は、日清両国の永遠の友好 を阻害すると忠告。この時の谷の念頭にはロシアへの国土防衛戦争の政略があったに 違いない。

 有名な「ビスマルク政略」とは、敵野戦軍を壊滅させ大勝してウィーンへの追撃を 主張するモルトケ参謀総長を制して、ビスマルクはオーストリアが二度とドイツ統一 の敵に回らないことを戦争目的とし、オーストリアに対してきびしい講和条件をもと めずに、後のフランスとの戦争に備えたことを指す。

 伊藤の政略も、軍人・谷の忠告を聞き入れることなく、朝鮮から清国の手を引かせ るという当初の戦争目的をこえ、その結果、手痛い失敗を犯すことになる。
 すなわち、清国に過大な領土割譲要求を突きつけた結果、「三国干渉」を引き出し てしまい、日露戦争の原因をつくっただけでなく、谷が懸念した中国大陸人民の深い 反発をかう端緒を開くことになる。

 「伊藤政略」も、優れた「ビスマルク政略」に倣った谷の、「2つの正面に敵を作 らない」という、先を見越した政略の足下にもおよぶものではなかった。山県に至っ ては政略はおろか、軍事戦略など完全に欠落した単純な「絶対戦争主義者」にすぎな かった。

 ●滅亡の日まで戦術偏重を抜け出せなかった日本陸軍

 時は1882年に戻る。
 「専守防衛派」の三浦は、『経済軍備論』をもって「外征派」の無謀を指弾した。 他に類を見ない自然的条件に恵まれた島国日本の軍隊が、侵攻作戦を目的とするヨー ロッパ大陸の陸軍を模倣することの過ちを指摘した。さらに、「軍隊を駆りて軍紀中 の模型中に入れ、あたかも機械的にこれを鋳造せんとす」と批判した。この三浦の批 判は的中した。

 また、参謀本部次長・曽我祐準少将も、防衛軍隊と侵攻軍隊は兵制・軍制のあり方 からして異なり、「攻撃は最良の防御」という箴言は戦術次元としては成立しても一 国の軍備には適用できないと説いた。

 山県ら軍主流派の面々には、「帝国主義時代を生き抜く思想的準備」はおろか、政 略と戦略、そして戦術の区別がないまま、ひたすら「外征軍備」を急いだ。そして、 すでに記したように、反対派を権力的に追放してしまった。

 その後、陸軍将校の大多数が加入していた、ヨーロッパ陸軍兵学の研究団体「月曜 会」を解散に追い込む(「月曜会事件」1889年〔明治22〕2月)。

 そもそも、プロイセンのウィルヘルム1世皇帝やナポレオン3世のように、天皇自 らが戦場に赴いて陣頭指揮を執ることは、地政学的にも現実的な選択ではなかった。 加えて、外征型の軍政を採用する場合の合理的な政略・戦略は、山県らの頭脳をもっ てしては到底編み出せるものではなかった。

 日本陸軍は山県有朋という人物が結成した、単一派閥が支配する閉鎖的な軍隊に墜 し、軍人の本来的な専門的職域である「兵学の研究」の芽を摘み取ってしまっては、 最後まで日本陸軍からオリジナルな戦略論が生まれなかったのも、むべなきことで あった。

 谷や三浦らを権力的に追放するのではなく、日本陸軍の「ヨーロッパ陸軍兵学」の 研究を深めるきっかけになっていたならば、20世紀の近代大衆軍隊の出現によって一 変した、「政略と戦略」を重視した、優秀な国防軍を建設できる可能性はあった。

 しかし、その芽は早々に摘み取られ、日本陸軍はその滅亡の日まで、戦術偏重から 抜け出すことができず、泥縄式に戦線を拡大させる「絶対戦争」の泥沼にはまりこん でアジアを蹂躙し、挙げ句の果てに完全無条件降伏という、これ以上ない恥ずべき自 滅的結果を招くことになる。

 ●専守防衛派は政治の場で外征派に反撃

 山県らによって陸軍を追われた「専守防衛派」の将軍たちは、その後どうしたか。  貴族院議員となって、国民の耳にとどく政治の場で、山県らの外征軍隊建設に対し て公然と批判を開始した(1891年〔明治24〕)。

 直前まで参謀本部次長の職にあった小沢武雄中将が、貴族院で演説に立ち、「参謀 本部無用論」などの建議案を展開した。小沢は曽我の後任として参謀本部次長に就任 した。しかし彼もまた「専守防衛派」であったため、その地位を追われ、貴族院議員 となったばかりであった。

 その小沢が「統帥権の独立を廃し、統帥権を内閣の統制のもとに置くべきである」 と主張したのだから抜群の説得力があった。この建議案は対清戦争を急ぎつつある陸 軍の、外征戦争を不可能にする提案であった。

 また、統帥権を内閣の統制のもとに置くというこの方針は、「中間共同体」のトッ プである内閣がすべての責任を負うものであり、天皇に責任がおよぶことを回避でき る唯一の選択でもあった。

 当然、山県の陸軍は総力をあげて、これら議会での動きをつぶしにかかった。議会 の傍聴席には、合法的に武装した軍人が埋め尽くし、無言の圧力をかけた。成熟して いない議会にこれが威力を発揮し、建議案は97対78で否決される。
 さらに、「軍機に属することを議会で公表した」という理由で、小沢から終身官で ある武官(陸軍中将)の身分を剥奪した。

 だが、処分の法的根拠があいまいで、違憲違法が貴族院・衆議院でも問題になり、 新聞が取り上げる騒ぎになった。議会でのたびかさなる質問に陸軍は、「文武官の任 免は天皇の大権事項に属し、議会で答弁のかぎりでない」という回答拒否をつらぬき とおして、逃げ切り、政界での反対意見も封殺していった。これでは、軍が自ら「す べての責任は天皇にある」というに等しく、「卑怯!」の誹りを免れない。

 軍には、正面から正々堂々と論陣をはるだけの知的準備がなかった。その結果が、 いたずらに「天皇」を切り札に使う“困ったときの天皇だのみ”に逃げ込むことにな る。この安易な手法が明治・大正・昭和と貫き、軍人を芯から腐らせ、挙げ句の果て にあろうことか天皇をすべての批判の矢面に立たせて、自らは消滅してしまうので あった。

 「中間団体」にすぎない参謀本部は、常に責任や批判が天皇に向かわないように、 自ら責任をとれる万全の政略的準備を為し、あらゆる事態に対処すべき存在でなけれ ばならなかった。少なくとも「専守防衛派」には、その政略は明確に組み込まれてい た。

 山県ら「外征派」には、作戦軍総司令官が、数個の軍を統一的・組織的に指揮運用 するような、日露戦争の時代に通用するだけの政略・戦略は持ち合わせていなかっ た。
 本質的に軍は、国家目標実現の手段にすぎないのだが、日露戦争を戦った日本軍 は、山県有朋の単一派閥として、盤石の国内最大政治勢力にのし上がっていた。それ が、天皇という権威を専横して、亡国への道をたどる軍国日本を形成していった。

 ●司馬遼太郎『坂の上の雲』巻6の「あとがき」抜粋

 …(戦争に)素人の国際ジャーナリズムが一戦局ごとに日本の勝利を宣言し、すば やく世界中に宣伝してロンドンの金融街だけでなく、ペテルブルグの宮廷までにそれ を信じさせたのである。20世紀初頭までの戦争としては希有の現象であるようにおも える。国際情報が日本をどんどん勝たしめて行ったのである。

 ナポレオン戦争においては、これが逆であった。ロシアに侵入したナポレオン軍は 文字どおり破竹の勢いですすんだが、「ロシアは負けに負けている」という情報を、 英国は流さなかった。英国を主導国とする多くの国が反ナポレオン側に立ち、ロシア に対し全面的な同情的立場をとっていた。

 それからみると、日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者であった。というよ りタイムズやロイター通信という国際的な情報網をにぎっている英国から憎まれてい た。英国の情報機構がしつこく日本の勝利を報じ、その電報が各国の新聞に掲載され た。極端にいえば満州の陸戦における行司役はタイムズとロイター通信であった。そ れによって国際的な心理や世論がうごかされた。

 日本が情報操作が上手であったわけではなかった。世界中の同情が弱者である日本 にかたむいていたし、帝政ロシアの無制限なアジア侵略に重大な危機意識をもってい た。そういう面でのすべてが日本に有利であり、逆にいえば喧嘩というものはそうい う諸条件が醸成されている場合でしかしてはならないことをこのことは教えているよ うでもある。

 …日露戦争は陸戦においては決して勝ってはいなかった。負けてはいなかったが、 押し角力にすぎなかった。たとえばクロパトキンは…その著書のなかで「日露戦争は わずかに前哨戦にすぎなかった」と書いているように、ロシアの伝統的な戦法は、ナ ポレオン戦争やヒトラーのソ連侵入戦の場合においてもみられるように、一つの土俵 に執着せず次々に土俵を空けては後退してゆき、最後に敵の補給線が伸びきったとこ ろではじめて大攻勢に出るのである。満州におけるロシア軍のとった戦法も多分に伝 統的なものであった。

 …日露戦争を、政略・戦略・戦術ぐるみの一切合財の規模において、日本をして勝 利に締めくくらしめたのは、日本海海戦における日本側の完全以上の勝利によるもの であった。この一戦で、両国の複雑な戦争計算がはじめてただ一つの共通の答えを出 した。ロシアが完敗した。

 ●「国際貢献」という日本政府のデマ宣伝

 今日、アメリカに突っつかれて、自衛隊を「外征型」へ転換させるための法改訂が 強行されているが、そもそも自立した指揮権すらないという、政略・戦略のいずれを とっても、山県の時代よりも著しく劣る中でそれは進められている。

 湾岸戦争の結果に明らかなように、世界に向かって「我が国の自衛隊は外征型では ない」と言い切れば、それで必要充分であたっし、それこそが正しい選択であった。 ところが、自立的政略・戦略をもたない日本政府は、「国際貢献」というその場しの ぎのデマ宣伝で世論を誘導し、時間の経過に耐えられないまったく誤った決定を下し た。■

Jimbo Takami ,1999