アジア国際通信

No.211 (1999/10/1)

SCRIBBLE

  • 歴史を辿るセンチメンタル・ジャーニー

ドイツ

  • 「天国と地獄」をつなぐ「煉獄」の発明
  • 中世そのままの地方都市に魅せられる
  • ヨーロッパの膨張と十字軍とユダヤ人迫害
  • ゲルマンが形成した「西ヨーロッパ」
  • 日本とドイツと米国は世界問題の中心にある

格安情報

  • ドイツ・オーストリア・ハンガリー格安旅行

円高と国益

  • 米投資家の名義に書き換えられた日本の富
  • 「ミスター円」に内外からブーイング
  • あるまじきだが、あっても不思議ではない

SCRIBBLE (NO.211,1999/10/1)

 ◆歴史を辿るセンチメンタル・ジャーニー

 今からちょうど10年前、ハンガリーに約12万人といわれる東ドイツの人々が、「観 光客」を装って集結し、それらの「観光客」が一斉にハンガリーの国境を超えて隣国 のオーストリアに向かった。9月10日であった。

 この事件こそが、「ベルリンの壁崩壊」、そして「冷戦構造の崩壊」へと連なる、 いわば歴史的な“号砲”となった。10年目の今年、当然何かの記念行事が催されるも のだと思って注視していたが、一向にその気配もなく、またそのことに言及するメ ディアも皆無といった状態であった。そこで、「記念すべき国境」への旅を思い立 ち、9月14日、日本を発った。今回は、いつもの記事のタッチとは少々異なる、その 「センチメンタル・ジャーニー」のレポートとなった。

*その道のツウには良く知られた「知ってて得する」お買い物情報を一つご披露!
 「安売りチケット」の代表的なものとして『HIS』というチケット販売会社が有名 で、最近の航空運賃というのは、驚くほど安いものが手に入いるようになった。とこ ろが、この会社にはもう一つ「裏」会社がある。「裏」といっても別に怪しい会社と いう意味ではない。

 会社名は『ナンバーワン・トラベル』。噂によれば、「主として日本で安い航空チ ケットを手に入れようとする、外国人旅行者向けにつくられた」のだという。ちなみ にその会社に電話をすると、のっけから英語が返ってくる。なにはともあれ、「安売 りよりもさらに安く手に入れる道」というのが存在しているのだ。
 詳しくは、お近くの『HIS』に尋ねると、その会社の電話番号を教えてくれる。

*昨年9月半ばから1年少々の間、“ビル・ゲイツのおごり”で事務所スペースを提 供していただき、MSでは随分と貴重な勉強もさせてもらった。
 しかし、いつまでも“おごり”に甘えているわけにもいかない。なにせ内部の発展 著しく、メンバーの大幅な増員が続いており、10月中にはスペースをお返しすること になった。
 『MSNジャーナル』の仕事は、パソコンがあればどこでもできることなので、これ まで通り今後もつづく。しばらくはわが社もろともバーチャルな空間においみようと 思っている。■


ドイツ (NO.211,1999/10/1)

 ◆「天国と地獄」をつなぐ「煉獄」の発明

 ●中世そのままの地方都市に魅せられる

 思いもかけずドイツを旅することになった。当初、ドイツは東欧に入るための、単 なる「出入口と回廊」としてしか考えておらず、特にドイツのどこかを訪ねる予定は なかった。しかし、机上の計画とは違って長時間のフライトの疲れもあり、一気にア ウトバーンを突き抜けることができず、ドイツの地方都市で宿をとらざるを得なかっ た。

 ネルトリンゲンという、もっとも完璧な形で中世都市の面影をとどめている街は、 1500万年前に巨大隕石が落下した跡にできた、直系25キロの盆地の中央にある。この ような、ドイツの小さな地方都市のいくつかを訪れることになった。

 それらの小さな城塞都市をはじめて見て、自分なりの多くの新しい発見があった。 一番大きな収穫は、最初に宿泊したフランケン地方西部の、ディンケルスビュール (観光コースの「ロマンチック街道」のポイントとしても人気が高い)という、人口 13万足らずの城塞都市を訪れた時のことであった。

 アウトバーンを降り、整備のいい一般道を25キロほど走ると、高くそびえる物見の 塔にぶつかる。今なお、街へのメインの入り口は車一台分がやっと通れるだけの幅し かなく、出入りする車は一台づつ交互に行き交う(観光バスや大型トラックは別の広 い出入口を使う)。城門をくぐって街の中に入ると、道路はすべて石畳に変わる。

 この街は、中世にヨーロッパの主要商業販路網の合流点(ヨーロッパはこういう街 が点在する)として大いに栄えた。しかし「三十年戦争」(1618〜1648年)のあとは 衰退し、永い静寂の中にあったという。したがって、中世そのままの姿をとどめるこ とになり、最近になって観光的価値が見出され、街として見直されることになった。

 美しいドイッチェ・ハウスの町並みや、街の守護神でもある『聖ゲオルク教会』な どを訪ねているうちに、唐突でうまく説明はできないのだが、「煉獄」という概念が 急に身近になった。「煉獄」という言葉を、知識としては知っていた。しかし、本当 は何のことなのかさっぱり判らなかった。ましてや、その概念によって解き放たれた ヨーロッパ人の心性の変化が、「ユダヤ人迫害」の引き金になったなどとは…。

 旅をすると、それまで頭のどこかにバラバラに散らばっている漠然とした知識が、 その地の空気(雰囲気)や大地、景観に触れたり、目の当たりすることによって突 然、筋道のある一つの「理解」を得られることがある。筆者には、これが旅の大きな 魅力になっている。

 「制度」や「物」は、説明や解説などが比較的整然としているためか、知識として 取り込みやすい。しかし、それが生み出す「心性」といったことまでは、なかなか思 いおよばない。自覚的には特別な宗教の信者ではないのだが、明らかに異教徒である 筆者の場合、「煉獄」というのは、まさに「わけのわからないもの」のひとつであっ た。

 ●ヨーロッパの膨張と十字軍とユダヤ人迫害

 13世紀以前(正式には)、キリスト教徒にとって死後の世界は「天国と地獄」しか なく、歴史的な社会構造や環境の大きな激変の中で、多くのキリスト教徒がこの観念 に縛られて苦しんでいた。とりわけその筆頭は商人たちであった。

 逆説的には、都市の発達に伴う商業の隆盛が、新たに「煉獄」という概念を“発 明”させた。「天国と地獄の間には、この世で犯した罪の償いを徐々に清める煉獄と いうものが存在する」というものであった。

 ヤコブス・デ・ボラジネの『黄金伝説』の中に、それはハッキリと姿をみせるのだ が、1274年にはついに、『リヨン公会議』で正式に「煉獄」という存在が承認される のであった。

 十字軍(1096年の第1回十字軍遠征から、1189年の第3回まで)と同時にヨーロッ パでは、ユダヤ人迫害運動が沸き起こった。
 それに先立つ中世ヨーロッパのキリスト教社会では、ユダヤ人以外の異教徒は改宗 させられたり、殺されたりした。ところが、ユダヤ人は唯一の異教徒にもかかわら ず、改宗を強要されることもなく生き残った。つまり、暗黙のうちにユダヤ人は保護 されていたわけで、迫害されるこなど基本的になかった。

 それは、「イエスがユダヤ人であった」ということと深い関わりがあるようなのだ が、ともかく教会はユダヤ人を教区教会の外側に置き、11世紀ごろまでその存在は、 むしろ必要とされていた。なぜならば、キリスト教では「商業は卑しい職業」とされ ており、外国人とりわけユダヤ人に委ねられていたからである。キリスト教のタブー が、ヨーロッパにおける商人階級の成立を著しく立ち後れさせていた。

 しかし一方、西ヨーロッパでは、そのころまでに内陸植民が進み、ドイツではいわ ゆる「東ドイツ」(一時期、東ドイツが社会主義国家化した遠因は、この時に始まる であろう)といわれる地などへの、東方植民によって耕地の拡大がはかられ、発達し つつあった都市への人口集中、すなわち「人口増加」が大きな社会問題になってい た。

 このヨーロッパの社会的膨張の結果が、「十字軍」という発想に大きく寄与するの であるが、とりわけ騎士層には当時、新たに獲得した土地の領主となる道が開かれる ようになっていた。

 人口の増加は各地に都市を成立させるとともに、ユダヤ人以外の商人層を誕生させ ることになる。ところが、そこにはあらゆる面で有能なユダヤ人がすでにあり、しか も彼らは封建社会の外側に位置し、キリスト教徒が縛られていたような「罪深い行為 である利子徴収を禁じる」などの、商売上の一切のタブーをもたなかった。

 いつの時代の戦争もそうであるが、十字軍遠征の主要な動機である「欲望」という 側面は、「聖戦」の建前の後ろに深くしまわれていた。同時に、「煉獄」という新し い概念を誕生させることによって、キリスト教徒商人たちに、タブーを犯しても救い の道が残されていることを指し示し、彼らの心の負担を解き放ちつつあった。

 十字軍には、もとより無規律な浮浪・放浪者の大群がつき従い、無一文の彼らは もっとも激しく途中の村々を襲撃・掠奪しながら進んだ。主としてこの襲撃の対象に なったのが、異教徒・ユダヤ人の村々であった。このような事態を生んだ背景には、 「煉獄によって解き放たれた時代の気分」という後押しが、大きく作用したことは容 易に想像がつく。

   ◎十字軍メモ

 1096年、第1回十字軍にはフランス、シチリアのノルマン貴族などとともに、ドイ ツの諸侯も加わっていた。この時はエルサレムを占領し、一定の目的は達成した。  1147年の第2回十字軍には、ドイツ王コンラート3世が、フランス王ルイ7世とと もに参戦したが、さしたる戦果は挙げていない。

 ちなみに1189年、ドイツの皇帝バルバロッサは十字軍遠征を決意し、軍勢10万を率 いて陸路聖地に向かった。しかし、途中の川で事故にあい、皇帝は溺死してしまう。 皇帝の突然の死で、大軍は崩壊し、諸侯も兵をまとめて帰国、十字軍は失敗する。

 十字軍は敬虔な信仰心から、聖地奪還のための聖戦として位置づけられたのだが、 上に記したように、十字軍と平行してユダヤ人迫害の運動が沸き起きた。しかし、当 時のヨーロッパ、とりわけドイツが抱えていた事情がそれを欲したのであり、教皇も 皇帝との闘争で失われた権威回復の絶好のチャンスにすり替えた。この「本音の政治 力学」こそが問題の本質であり、行動を規定していた(イラクやユーゴへの空爆が頭 をよぎる)。

 ●ゲルマンが形成した「西ヨーロッパ」

 恥ずかしながら筆者は、ドイツ人というのがすなわちゲルマン民族だとばかり思っ ていた。しかし、広い意味ではアングロ・サクソン(ザクセン)やフランス(西フラ ンク)もゲルマンであり、「一般的にドイツ人は、ゲルマン民族と区別されている」 ということを知らなかった。

 「民族」の概念規定も厳密には議論の余地はあるが、英語でドイツのことを 「ジャーマン(すなわちゲルマン)」と呼びつづけているのは、ずいぶんと歴史的事 実を無視した乱暴な話であるということになる。
 古代ギリシャ人は、自分たちが理解できない言葉を話す人々を「バルバロイ」と呼 んだ。それは「わけのわからない言葉を話す人たち」という意味であった。古代後期 のローマでも、ローマ人(人種、民族、習俗が異なっていても、ローマ帝国の内側に いる人々を含む)にとって、帝国の境界外の「他者」は、「蛮人」すなわちバルバロ イであった。その代表格が「ゲルマン人」と総称された。

 ゲルマン人社会は紀元前6世紀ごろに、中央ヨーロッパ北部とスカンジナビアの南 部で、鉄器を使用する民族として生まれたとされ、古代の文献によれば、彼らの身体 的特徴として金髪と碧眼が挙げられている。

 時は変わるが、バルバロイの一地方では、ロマンス語とフランク語が主流であっ た。ところが、その間に挟まれて、さらに主流とは異なった言葉を使う人々(「民 衆」)がいた。そのことを記した文献に、「ドイツ」という言葉が登場するのだが、 「ドイツ」とは種族や言語の名称ではなく、「民衆の言語」という意味の単語として 登場する(786年、アミアン司教ゲオルクがローマ教皇ハドリアヌス1世に宛てた書 簡)。

 カール大帝が東フランクと西フランクの両王国を統一(771年)し、800年、ローマ のサン=ピエトロ寺院でローマ皇帝の冠を、教皇レオ3世から授与され、476年に滅亡 した西ローマ帝国が復活する。

 しかし、「カールの帝国は単純な古代帝国の復活ではなく、古代以来の古典文化、 キリスト教(ローマ=カトリック)、ゲルマン的要素の3者が融合したまったく新し い世界、すなわち西ヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった」(『詳説・世界史 研究』山川出版)。

 ●日本とドイツと米国は世界問題の中心にある

 「西ヨーロッパ世界」は、今日のドイツを中心として形成された。
 以来、今日に至るまで、ほぼドイツは良くも悪くも様々な「ヨーロッパ問題」の中 心的存在となる。十字軍しかり、とりわけ20世紀の両大戦はもとより、ヨーロッパの ほとんどの「戦争と平和」の問題の中心に、多く「ドイツ問題」がからんでいた。

 「EU」やヨーロッパの共通通貨「ユーロ」を筆頭とする、次世紀にわたる重要な諸 問題も、ドイツの存在が大きくかかわっている。

 カール大帝の死後、カールの孫たちの争いからカロリング王国は崩壊(843年)。 この時、王国の東半分に住む人々が、上記した言葉から「ドイツ人」と呼ばれるよう になった。ちなみにこの時、カールの孫たち3人がそれぞれ領土を分割支配すること になり、後のイタリア、ドイツ、フランスの基礎がつくられるのだが、ここではこの 時に歴史上はじめて「ドイツ史」が姿を現したことを確認するにとどめたい。

 ヨーロッパ諸国の言語は、それぞれの国や民族を示す固有名詞から名付けられてい る。
 フランス人はフランス語、イタリア人はイタリア語といった具合である。ドイツ民 族の発端はゲルマン諸部族なのだが、それは「ドイツ」という表記にはつながってい ない。

 このことからも「ドイツ人」という民族が形成されてくる背景が、他の民族あるい は国家とは大変に異なった複雑なものであったことがうかがえる。さらに、驚いたこ とに、その表記や成立については、言語学者や歴史家たちの間で今なお論争が続いて おり、確たる定説はないのだそうだ。こういうことは日本列島人である筆者には、な かなか理解するのは困難である。だが、「ドイツ」に踏み込むことは、ますます必要 だ。

 ドイツの歴史を少しひもといてみると、筆者などはかの地特有の判りづらい歴史的 概念の前に、たちまち理解が停滞してしまう。そしてなにより人種、民族、文化、宗 教、社会システムが複雑で、つくづく日本というのは、奥は深いが単純な歴史であっ たと思う。

 近代の日本は、多くドイツから範を採った。このことの意味をさらに深く探ってい くことは、重要であるように思う。今日、世界経済の中心に、アメリカと日本とドイ ツの“三羽がらす”があることの重さを考えると、今回の旅で、今更ながらドイツを もっと身近に引き寄せる必要を、強く感させられた。■


格安情報 (NO.211,1999/10/1)

 ◆ドイツ・オーストリア・ハンガリー格安旅行

 ハンガリーに入るためにはいくつかのアプローチがある。諸々検討した結果、もっ とも費用が安く済む方法として筆者が選んだのは、成田発〜香港経由(トランジット で行き帰りとも2ないし3時間の待ち時間あり)〜ドイツ・フランクフルトの往復 (キャセイ航空)8万5千円であった。

 フランクフルトでレンタカーを借り(7日間以上だと割安)、1日当たり約3000円 少々(ガソリン代別)。正味11日間だったので、ガソリン代を入れて、航空運賃以外 の交通費は全部で約6万円ほど(4人だと11日間で1人当たり、なんと1万円少々で 済むことになる)。

 ドイツもオーストリアもアウトバーンはすべて無料。ドイツとオーストリアの間に 国境はあるが、道路はつながったままで障害物はなにもない。ハンガリーは入国の際 に、ゲートで出入国の簡単なパスポートと書類上のチェックはあるが、入国してから 少し走ると料金所があり、オーストリアへの出入りに際してそれぞれ一車両約700円 を払うだけで後は無料。

 車だと、宿代の高い大都市を避けて30分も走れば、郊外や小都市の宿を好きに選択 できる。それと、郊外や小都市は大都市と違ってどこも比較的治安がいい。  概ね、朝食付き一室が3〜5千円で、小さいがさっぱりとしたきれいなホテルに泊 まれる。二人なら半額ということになる。

 ウィーンのホテルは高いのでペンションを選んだ。やはり朝食付きで1室約4500 円。すべて行き当たりばったりの予約なし。
 一般に東欧はホテル代が高いので有名だが、ハンガリーの小さな地方都市では、小 さくてきれいなホテルが朝食付きで、一室約3500円であった。また、夜遅く女性が独 り歩きしていた。

 なお、香港〜フランクフルト間の所要時間は、行きが約13時間、帰りは10時間半ほ ど。
 シベリアが航空路として開放されたためであろう、ほとんど「シルクロード」に 沿ってやや北方上空を飛ぶので、昔の「南回り」と比べると大幅な時間短縮になって いる。■


円高と国益 (NO.211,1999/10/1)

 ◆米投資家の名義に書き換えられた日本の富

 ●「ミスター円」に内外からブーイング

 8月23日、7か月ぶりの110円台という円高となり、以降さらにこの基調が続くこ とになった。夏休みの海外旅行シーズン終盤に入っての急激な円高進行であった。結 果としてトップ・シーズンに海外に出かけられた方は、数パーセントから数十パーセ ントの割高ということになった。

 旅行者ならば、「冗談じゃないわよ〜」と一発吼えれば済むであろうが、なお輸出 を経済の根幹とする日本の産業界にとっては、一定の基礎体力があるにせよ、「膨大 な富」が一瞬にして消えてなくなることに変わりはない。“覆水盆に返らず”とも、 せめて犯人さがしでうっぷんを晴らそうというのも、理解できないことではない。

 急激な円高進行の“舞台裏”の一部が、通貨当局者や財務官OB、国際金融筋の間か ら漏れ伝わってきている。これらをひとまとめにして、ここでは「国際金融スズメ」 と呼んでおこう。各国通貨マフィアから「ミスター円」の称号まで頂戴した榊原英資 ・前財務官に対して、「国際金融スズメ」の間をはじめ、「国際社会」からも轟然と 批判が沸き起こっているのだ。

 普段ならなかなか知ることのできない“奥の院”が、なにやらごそごそと蠢いてい る。むろん、利権と権力が激しくからむ場面であり、あることないことがない交ぜに なっているに違いない。すべてを鵜呑みにはできないが、こんな時に可能な限り「証 言」を集めておくのは悪くない。

 ●あるまじきだが、あっても不思議ではない

 今年6月から7月にかけて、財務官退官を控えた榊原氏は、断続的に「円押し下げ 介入」(円安誘導)を実施した。これが現在、「どうしても介入が必要というわけで はなかった」として問題視されているのだ。つまり、「今日の急激な円高は、榊原氏 による不必要な円下げ介入の反動である」というのだ。

 あるまじき行為ではあるが、「この介入を(榊原氏が)個人的な目的に利用したフ シが濃厚である」という、あっても不思議ではない指摘まで飛び出している。「介入 で円安を演出することで、宮沢蔵相の歓心を買い、自身の財務官留任を実現させるこ とが狙いだったのでは」というのだ。

 6月下旬、榊原氏の「留任なし」がほぼ確定的になった。そのころの円は121〜122 円台という局面であったが、榊原氏は執拗に介入を繰り返した。「国際金融スズメ」 の間では、これは「明らかにおかしな行動」と受け止められた。一説によると、「榊 原本人がこの介入を『退官する自分へのはなむけにしたい』と公言した」という。

 榊原氏は、ニューヨーク連邦準備銀行に、直接自分で委託介入を要請する電話をか けたのだが、先方から「日銀を通さないのはルール違反である」として断られる、と いう場面もあったという。やはりどうも榊原氏の退官問題を抱えた「ご乱心」の気配 が濃厚のようだ。

 日本の「国際金融スズメ」だけではなく、8月9日の『東アジア・太平洋中央銀行 役員会議』や、直後の12日に開かれた国際決済銀行『月例中央銀行総裁会議』でも、 参加各国から日本に対して介入の意図を尋ねる声が相次いだ。

 また、榊原氏が退任したあとに、新任の黒田東彦・財務官を大蔵省に訪ねたガイト ナー米財務次官から、「なぜだれも榊原氏を止められなかったのか」という疑問が出 されたという。黒田氏は「円の押し下げ介入など言語道断で、榊原氏の行動に強い疑 問をもっていたが、榊原氏が全権をもっている間は動けなかった」と語ったという。

 今回の円高の背景には、「アメリカ経済の過熱」への警戒や、「日本経済の景気回 復期待」を受けて、主としてアメリカの投資家が割安感のある「日本買い」に走った ことが大きかったであろう。こういった局面で、いくら介入を行っても効果がないこ とぐらい、榊原氏ほどの人物が判らないなどとは想像しにくい。やはり「ご乱心」 だったのであろうか?

 しかし、単なる「ご乱心」でかたずけるのも釈然としない。円売り介入は、日本へ の投資をもくろんでいた投資家にとって、こんな美味しい話はない。確実に高くなる 円を榊原氏が安く維持してくれているのだから、安心して円を買い込める。「日本の 富」の名義がだれのものに書換えられて行ったかは自明のことであろう。

 榊原氏がやったことは、もとより「日本の国益」のためではなかった。一体、海外 投資家にはどれほどの利益がわたったのであろうか。■

Jimbo Takami ,1999