自衛隊創世期 1

 昭和25年 朝鮮戦争の勃発はアメリカの対日占領政策の転換をもたらした。
 マッカーサー元帥の書簡により警察予備隊が誕生、大量の旧軍人の公職追放解除が実現した。
 続いて昭和27年保安隊に、昭和29年に自衛隊へと発展していった。

 戦後半世紀が経ち法的には未だ国軍としての認知が受けられていないものの、国民の誰もが戦後日本の『新生軍隊』と見ており
 帝国陸海軍の伝統を受け継いだ唯一の武力集団は、まぎれもなく自衛隊なのである。
 自衛隊の創世期は旧軍との関係は極めて密接であった。

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 警察予備隊の創設に着手した政府は、75000名からなる武装集団の編成・人事についてGHQと協議を進めた。
 ところが当時GHQ内部では、民政局(GS ホイットニー少将)と第2部(G2 ウィロビー少将)とはマ元帥の直属機関で
 ありながら、互いに反目し事あるごとに権限争いをしていた。
 警察予備隊に関する日本政府に対する指示についても同様で、第2部は旧軍人を中心とした部隊をつくろうとしたが、
 民政局は追放中の旧軍人の起用には消極的であり、両者の見解は異なっていた。

 第2部のウィロビー少将は、GHQの戦史編集局にいた元作戦課長服部卓四郎大佐(34)を起用
 服部を中心に予備隊の部隊幹部編成を行うことを命じた。
 服部元大佐は、陸士出身将校の中から約400名の幹部人選を行い名簿作成を開始した。
 また同じ頃予備隊の軍事顧問団長シェパード少将から
 大橋武夫予備隊担当国務相と予備隊本部長官・増原恵吉(のちの防衛庁長官)に引き合わされ、
 「武官は服部が人選して新隊員を入隊させよ」との指示も受けた。

 一方岡崎官房長官は、
 下村定元大将(20)、飯村譲元中将(21)、上月良夫元中将(21)
 辰巳英一元中将(27)、宮崎周一元中将(28)、山本茂一郎元少将(31)
 ら6人の将官をまねいて、別に警察予備隊創設について意見を求めた。

 これら元将官の中には服部元大佐が予備隊幹部の人選を行うことは適当ではない との意見が強かった。
 即ち『戦争指導の中枢にあって日本を敗戦に導いた人間が、再び同じ事をしようということは断じて看過できない』というものであった。

 そこで岡崎はこの旨をGHQ民政局に連絡、民政局はこれを受けて、服部らの起用を進めていた第2部に反論した。
 GHQ内部で約3週間議論がかわされ、結局マ元帥の裁定から服部大佐ら旧軍人の起用は見合わせることに決定した。

 さて、旧軍人を用いないとすると、幹部将校は役人や民間人から起用しなければならない。
 吉田首相は宮内庁次長である林敬三を推薦した。これには増原恵吉の推薦もあった。
 増原と林敬三とは、一高−東大−内務省が一期ちがいで増原が先輩であった。
 さすがに民間人が部隊指揮官となることに対しては難色を示す者が多かったが、林の実父は陸軍中将林弥三吉(8)という
 楠正成の研究家であった。「林には陸軍の血が流れている」という言葉がGHQを納得せしめたのである。

 このように部隊の最高指揮官としては林敬三が就任することとなったが、隊員は入隊しても指揮官不在の状態がしばらく続いた。
 募集は急速に行われたので、募集してきた者は満州からの引き揚げ者とか民間で失業したものなどが多く、
 一口で言うと雑軍に等しい状態であった。
 しかも正規の指揮官はいない。そこで仮の幹部として多少でも軍隊経験があるものや学歴のあるものを
 連隊長や中隊長とした。たとえば警察署長経験者は大隊長とする という具合である。
 だが上等兵であったものがポツダム中尉を名乗る といった終戦時のドサクサに紛れての経歴詐称は相当数あった。

 この雑軍状態は、旧軍人の追放が解除されるまで続いた。
 また、内務官僚を部隊指揮官のトップに据えるという悪しき伝統はこの後も続き
 「内務軍閥」と称される「素人軍人」の台頭を許すこととなり
 さらにはシビリアンコントロールという曲解された不当なる官僚支配を助長することとなった。

 シビリアンコントロールとは『軍事に対する政治の優位』であって、『元軍人(自衛官)に対する文官(官僚)の優位』ではない。