自衛隊創世期 3 Y機関

 昭和26年3月 ダレス特使が日本の再軍備について検討すべく来日時に、鳩山一郎と共にダレスと面談したのは
 野村吉三郎元大将である。野村元大将は再軍備計画野村案なるものをダレスに手交した。
 その後の再軍備プランの土台となったもので、案を作ったのは福留繁元中将、富岡定俊元少将で、
 アメリカ側との連絡には保科善四郎元中将が野村元大将を補佐し、
 国内で海軍の意見を代表し政府と折衝したのは山梨勝之進元大将であった。

 野村元大将は駐米武官、駐米大使を勤め、ワシントン軍縮会議には随員として出席するといった経歴を持ち、
 米海軍に知己が多く、また保科元中将は最後の海軍省軍務局長として復員将校を掌握していた。
 即ち、野村元大将と保科元中将の二人が後のY委員会と海上自衛隊誕生に最も影響を与えた人物であった。

 陸軍OBの服部機関と辰巳機関に見られる派閥抗争に対して、海軍OBは比較的一本に結束していたのである。

 昭和26年11月 首相官邸の岡崎官房長官から山本善雄元少将のもとへ電話が入った。
 米海軍から貸与を受ける艦船、兵器、需品の受領、保管及びこれらを運用するための制度について
 委員会をつくって欲しい、との申入れであった。
 山本元少将は吉田茂の駐英大使時代の駐英武官であり、まさに辰巳栄一元陸軍中将の場合と同様である。
 早速野村元大将の意見を求め、官房長官の申入れを引き受けることとなった。

 検討の結果、元軍人8名、海上保安庁の文民2名 計10名からなる委員が選ばれ
 海上保安庁内に準備委員会が発足した。

山本 善雄  元 少将(47) 軍務局1課長−軍務局長
秋重 実恵  元 少将(機28) 軍需局長
永井 太郎  元 大佐(48) 教育局1課長兼2課長
長沢 浩  元 大佐(49) 軍務局第1課長 等
初見 盈五郎  元 主計大佐(経8) 経理局第3課長
吉田 英三  元 大佐(50) 軍務局3課長
森下 陸一  元 中佐(機34) 人事局員
寺井 義守  元 中佐(54) 軍令部1部1課航空主務員
柳沢 米吉    海上保安庁長官
三田 一也    警備救難監

 これが後に海上自衛隊生みの親となったY委員会である。
 このうち長沢、吉田、寺井の3人はそのまま海上自衛隊に入った。

 そしてすべては山本元少将らの思惑どおりに進み、昭和27年4月には海上保安庁に海上警備隊が発足、
 同年8月警察予備隊が保安隊に発展した時、海上警備隊は、運輸省(海上保安庁)から保安庁の指揮下に移り、
 昭和29年7月、保安庁は防衛庁と改称、今日の海上自衛隊と称するに至った。

 隊員の募集や部隊の設置は、陸の予備隊の場合とは異なり充分な準備期間があり、
 Y委員会で慎重に立案していたので円滑に行われた。

 米海軍はいろいろな面で育成に協力したが、干渉がましいことは一切しなかかった。
 好敵手だった旧帝国海軍を信頼しており、編成や人事はすべて日本側
 −そのほとんどが旧海軍軍人−の手に委ねられたのである。