第343航空隊と皇統護持秘密行動

 昭和20年8月17日 大村(部隊本隊は松山 のちに移動)の第343航空隊司令源田實大佐は横須賀に向かった。
 降伏反対戦争継続論者であった源田司令が、全軍の結集を呼びかけんとして横空に飛んだのである
 横須賀から自動車で軍令部に出頭し、第一部長の富岡少将に会い意見を述べたが、
 終戦は陛下の聖志であり、戦後の米ソの戦略を越えた『負けて勝つ』という戦略上の見地からも、
 「終戦は止むを得ない」とする富岡少将の意思は固かった。

 だが富岡定俊少将には別の考えがあった。
 皇室にどのような塁が及んでも皇統を護持する手段をとらねばならないと考え、
 その旨豊田軍令部総長や米内大臣に進言し、その諒解を得て高松宮殿下に申し上げて賛同を得ていた。
 さらに金丸宮内次官とも折衝し、宮内省からも支援してくれることとなっていたのである。

 富岡少将は実行部隊として源田司令率いる343空に注目し、密かにその意図を伝えた。
 富岡私案でのシナリオは、皇氏または皇女を擁して九州高千穂の山奥五家荘に落ち延びる計画であった。
 あらかじめ大尉を2名宮内省に入れておき、最悪の場合、東京−大阪(淵田美津夫大佐がいた)−四国を経て、
 特攻隊員(搭乗員)による駅伝式に九州へお遷し申し上げて養育する、というものであった。

 8月19日 昼 横須賀から戻った源田司令が部隊解散の訓示を述べた。
 全員に休暇を与える というものであった。
 訓示が終わると、「部隊は解散。ただし搭乗員、准士官以上は残れ」と命じ、
 残った者に対し、「司令は自決する。行動を共にする者は集まれ」と告げた。
 自由意志であったため帰った者もいたが、多くの者が集合した。そして自決する直前になって
 皇統護持作戦のことが明らかにされ、総勢23名は連判状をもって極秘任務に就くこととなった。

 ⇒ しかし忠臣蔵/大石内蔵助の如き人選については少なからず不快感を持った隊員もいた。
   「空中戦で死ぬ覚悟はあるが、なぜ自決しなくてはまらないのか」という歴戦の搭乗員としての誇りから
   自決を拒んだ者たちである。
   話が伝わる間に、司令と行動を共にする者のみ から、搭乗員全員に自決の対象者が拡大したことも
   反発を生む原因となったようである。

 当時、連合軍による天皇の処遇は予断を許さない状況であった。
 23名の連判状は富岡少将に届けられ、メンバーはすぐに行動を開始、其々の役割にしたがって全国へ散っていった。
 身分を偽り、日々の生活の糧を得る一方で極秘任務実行の際の計画を進めていたのである。

 明けて昭和21年1月 メンバーは大分県佐賀関に集合、万一の時にそこから皇子を上陸させるための
 地形偵察などが行われた。
 昭和21年3月頃源田司令以下数名は、川南造船社長で元軍令部顧問であった川南豊作の援助下に入った。
 川南はのちに「三無事件」というクーデター事件に関与する人物で、この作戦の有力な支持者の一人であったのだ。
 極秘作戦の一環として活動の拠点として実行の機会を待ったのである。

 昭和22年 日本国憲法が施行され、天皇の地位は国の象徴として保障された。
 事実上、皇統護持作戦の意味は失われたのである。

 新憲法が施行後も同志の盟約は続いており、司令以下総員が集まって別府温泉にて解散式が行われたのは
 昭和28年正月のことある。
 だが、場所が旅館であり源田司令が解散とは明言しなかったこともあり、全員には解散の意図が伝わらなかった。
 なおも『即時待機』の状態を続けていた者もあり、一方で時間の経過とともに『秘密』が露呈しつつあった。
 そこで、昭和56年1月 2回目の解散式が行われた。 実に戦後36年目のことである。

 この極秘任務で擁する予定であった皇族は、当時8歳の北白川宮道久王との説があるが一方では皇女であるとの説もある。

 なお皇統の護持を目的とする極秘行動はこの343空によるものだけではなかった。
 陸軍を含め海軍の他部隊にもそうした動きがあったといわれている。

 『太平洋戦争と富岡定俊』 『零戦 最後の証言』 他より