中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一海軍中将の最後

    真珠湾では攻撃の不徹底さを非難され、ミッドウエーでは大敗の責任を問われた南雲提督。
    兵学校36期を5番で卒業した秀才であり、「艦隊派」に属し、水雷戦を専攻しながらも不慣れな機動部隊の指揮にあたり
    ミッドウエーの後つねに死に場所を求めていた南雲中将は、昭和19年7月、海上ではなく陸上で死を遂げた。
    ではその最後はどうであったのか?

公 刊 戦 史

@7月5日 南雲中将、斎藤中将等は訣別電を発し、翌6日に自決した。 <第12巻 マリアナ沖海戦 P618>
A「サイパン島守備隊ニ与フル訓示」の後、すなわち7月6日9時から10頃の間に、南雲長官、斎藤師団長、井桁、矢野参謀長は最後の突撃に先だって自決した、これと前後して第5根拠地隊司令官辻村少将、辻北部支庁長なども相次いで自決した。 <第6巻 中部太平洋陸軍作戦1 P503>

Aは第43師団参謀平櫛孝少佐の戦後の回想及び第2復員局調整「サイパン島在留邦人の戦闘協力に関する資料」とによる。

豊田 穣 「波まくらいくたびぞ−悲劇の提督・南雲忠一中将」

南雲長官は第3種軍装の襟章を副官荘林中佐の手でむしりとらせて焼いた。7月6日夜 地獄谷の陸軍の別の洞窟で、斎藤中将と井桁少将が自決した。それを知った南雲長官は残存の海軍将兵を集めると(中略)、襟章のない軍装のまま、戦闘帽も黒線のない兵用をかぶって、拳銃を構えてタナバクの米軍に向ってバンザイ突撃を行った。 南雲中将は乱軍にまぎれてマタンシャからタナバクのあたりのいずれかで最後を遂げたが、時刻は7月7日未明と推定される。

ジョン・トーランド 「大日本帝国の興亡」

地獄谷の最後の洞窟には、南雲海軍中将、斎藤陸軍中将と井桁陸軍少将の3人の将官が自決を覚悟して潜んでいた。7月6日朝 斎藤中将は告別の辞を参謀平櫛孝少佐に伝えた。(中略)3人は自決のため新しい洞窟に移り、切腹と同時に介錯の副官が後頭部を撃った。南雲中将の介錯者は誰も申し出るものがなく、ついに陸軍の若い副官が「私にその仕事をさせて下さい」と言って志願した。時刻は7月6日午前10時頃と見られる。そして3名の死体は、南雲中将を中心にしていた。

モリソン戦史(モリソン博士による米海軍の準公刊戦史)

7月6日夜の最後の突撃はタナバクの米第27師団に向けられた。(中略)この最後の突撃前に斎藤中将と南雲提督の2名は自決しており、その幕僚の大部分が後を追った。 斎藤中将は切腹とともに介錯の副官に拳銃で撃たれ、その遺体と灰は後で確認のうえ、ホーランド・スミス(米上陸軍指揮官)によって陸軍中将のランクに応じた埋葬が行われた。 斎藤中将の洞窟の近くの洞窟に、南雲中将は60名前後の幕僚等といたが、生存者の証言によると南雲提督は7月6日に拳銃で自決した。しかしその遺体と遺品が敵に渡らぬようなんらの痕跡も地表に残さぬように埋葬された。

元海軍兵長 石川倉太郎氏の証言

第55警備隊第7分隊の通信兵で南雲中将に最後まで付き添った人物 としている。

7月6日午後6時 南雲中将からの訓示がサイパン島中腹、電信山砲台に伝えられ、石川氏らの残存兵は島の西北部の集結地205高地に向った。 (中略)参謀数名と共に南雲中将がいた。戦闘服の半ズボンに半袖シャツ、第3種戦闘帽をかぶり、腰に拳銃の身なりであった。 7月7日午前2時過ぎに集結完了、最後のブドウ酒が回し飲みされた。午前3時30分、南雲中将の右手があがり武力なき自殺的総攻撃が開始された。 (中略)石川氏は南雲中将にピッタリついてマタンシャの海岸を4キロほど南下したが、占領されていたタナバク砲台の敵陣地から機銃掃射を受け、その1弾が南雲中将の右大腿部を貫通した。 倒れた中将を500Mほど離れた洞窟に同僚の下田峰夫兵長と二人でかつぎこんだ。 この時参謀2名が同行した。(中略)手当てしようにも出血がひどく手の施しようがなかった。この間中将は終始無言。 やがて観念したのか、腰から拳銃を抜き取り、本土の方を向って「天皇陛下万歳」とひとこと声を発し、銃口を右頭部に当てた。 轟音が洞窟に響いた。時に7月7日午前4時30分。同行の参謀2名もその場で拳銃を抜き自決、後を追った。 中将らを葬る余裕もなかった。石川氏は部隊に続けと洞窟を飛び出したが、下田兵長は戦死。 この時目標の警備隊本部から玉砕を告げる信号弾が上がった。石川氏は独り密林に逃げ込み、まる2年密林生活を送り、昭和21年8月11日に米軍に降伏した。
「突撃の夜、じっと沖の敵艦を見つめていた中将の姿が、今でも目に焼き付いて離れません。」

元陸軍少佐 平櫛孝氏の証言

第43師団参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀 最後の突撃の際負傷して意識を失い捕虜となって戦後生還した。

南雲中将が最後の突撃で将兵と行を共にしたというのは事実ではない。斎藤中将の遺体を丁重に葬ったという米側の記事も事実ではない。 7月6日午前10時頃 洞窟の一段高いところを掃き清めて自決の場所とし、斎藤中将を中央に、右に南雲提督、左に井桁少将が祖国に向って正座した。高級副官鈴木二郎陸軍中佐の「よろしゅうございましょうか」との声に、「どうぞ」と南雲中将が答え、3名が軍刀を逆手に持ちそれぞれの腹にあてた。 鈴木中佐の右手が挙がった瞬間、3名の後ろに立っていた3名の副官(南雲中将には荘林規矩郎海軍中佐、斎藤中将には牧野秀夫少尉、井桁少将には柳本冨士雄中尉)の拳銃が火を噴いて3将軍はどうと前にうつぶせた。 荘林中佐は南雲中将の後始末をつけてから自決または突撃死したと思われる。なお平櫛少佐によれば、3将軍自決の後の陸海軍幕僚会議で意見が分かれ、海軍側は総攻撃不参加を宣言、陸海軍は袂を分かったことになっている。

 
    以上のように南雲中将の最後についての説明はそれぞれ異なっている。すなわち

     @ 南雲中将は陸軍の2将軍(斎藤師団長、井桁軍参謀長)と最後まで一緒だったのか?
     A 陸海軍の洞窟は別だったのか?
     B 南雲中将は最後の突撃に参加したのか?

    またその時間は

     @ 7月6日の朝なのか?
     A 7月6日の夜なのか?
     B 7月7日の未明なのか?

    判然としない南雲中将の最後は、その悲劇性を深めている。
    なお戦死公報の日付は昭和19年7月8日であり、同日付で海軍大将に任じられた。