東條首相罵倒事件

 昭和17年8月 ガダルカナル島反攻が始まり、戦勢は日に日に不利に傾き、川口支隊、第2師団、第38師団と
 逐次兵力を投入するが制空権を失ってからは輸送船も駆逐艦も相次いで沈没し、ガ島は餓島と呼ばれた。
 ガ島方面の陸軍用船舶は20万トンと定められていたが、11月参謀本部は37万トンの増徴を陸軍省に要求する。

 だが相次ぐ撃沈によって高速優秀船を20隻近くも失った実情においては
 大局から判断しなければならない政府としてはすぐに許可することはできなかった。
 統帥部の要求を飲むと、国力維持のために最低限の民需船300万トンを割り込んでしまい、
 国内の鉄鋼生産量が低下することになるからである。
 結局12月5日の閣議で陸軍の要求を大幅に抑え、かつ翌年の18万トン解傭を条件としたのである。

 参謀本部側は、幹部が参謀本部第1部長室にて閣議決定の報告を待っていた。
 昭和17年12月5日 2000 陸軍省軍務局長佐藤賢了少将(29)が駆付け、閣議の報告を行った。
 佐藤賢了はガ島からは撤退すべきだと考えており、自身が船舶増徴には否定的であった。

 報告を受けるや否や、参謀本部第1部長田中新一少将(27)は酒の勢いも手伝って
 「ナニ!18万トンの解傭を陸軍に要求するとは統帥干犯だ!」と怒鳴り
 さらに一言、二言言い合ったあと、やにわに鉄拳で殴りつけた。
 軍務課政策班長時代、「黙れ」事件 (注)を起こし、さらには北部仏印進駐に際し
 武力進駐の強硬派としてフランス軍から狂人とも言われたという佐藤賢了は、
 たとえ相手が2期先輩でもおとなしく殴られているような者ではなかった。

 「殴ったな!」と身構えて2つ、3つ殴り返した。
 その場にいた参謀次長田辺盛武中将(22)が、冷静に話しあえ、と止めに入ったが
 「あなたは黙っておれ」と押し返され、田辺中将の参謀飾諸が切れた。
 大本営第15課長 甲谷悦雄中佐(36)が田中第1部長をソファーに押し付け、
 部屋から連れ出しやっとこの場は収まった。

 翌12月6日 政府・統帥部の間で妥協案が練られたが、今度は東條首相が「閣議決定どおり。妥協してはいかん」
 と色をなして叱咤したので再び事態は紛糾。6日の夜、改めて田辺参謀次長は東條首相を説得に行くことになった。
 田中第1部長も強引に同行し、首相官邸に着いた。次長の説得は30分ほどで、終わってしまう。
 東條首相には、ガ島に拘っていては戦争指導全般を崩壊させてしまう。
 船を出さないことでガ島作戦を諦めさせようという気持ちがあった。

 田中部長は、今度は自分が説得するといって首相の部屋に入った。
 木村陸軍次官(20)、佐藤軍務局長(29)、富永人事局長(25)が同席していた。激論約1時間
 臨室に控えていた戦争指導班員・種村佐孝中佐(37)にも双方の声が次第に高く激しくなっていくのがわかった。
 いよいよ解散という間際になり、東條首相らに向って(一説には木村次官に向って)
 「この馬鹿者ども!」(一説には「この馬鹿野郎」)と怒鳴ってしまった。

 東條首相はさすがに落着き冷静に
 「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、
 自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねばならぬ。」と穏やかに諭した。

 やがて暴言を謝した田中部長は杉山参謀総長に辞任を申し出た。
 そして翌日重謹慎15日を申し渡され、南方総軍司令部付へと転任発令を受けたのである。
 後任には綾部橘樹少将(27)が任じられた。

 この事件は、田中部長が職務熱心なあまり暴走してしまった、という性質のものではない。

  =困難な局面に対処してこれから逃避せんとして打った芝居であるとは、私一人の観察ではなかった。
   誰が何と言ってもあの時の田中中将の態度は、思慮あり責任ある将帥、幕僚の
   とるべき態度ではなかったと確信する。 それとともに杉山参謀総長、田辺次長の態度も
   甚だ不満であった。自らこの難局を打開するの決意を欠いて
   事態の推移に引きずられていたことに大いなる不満を観ぜざるを得ない。=
  <西浦進 当時の軍務局軍事課長>

 開戦前から進攻作戦まで指導した猛将田中第1部長は、こうして自らの身を退くきっかけを
 「東條首相罵倒」という事件演出に託して作為したのである。

 田中新一はのちに、第18師団長として北ビルマで敢闘した。
 机上の熱血漢は、前線において大本営高級幕僚の名を辱めないかを憂える人々も少なくなかった。
 しかし事実はそれを杞憂に終わらせた。
 ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は「この人けだし国軍の逸材なり」と評し、
 九州健児の菊兵団長として実質2個大隊になるまで長期持久戦をフーコン谷地に展開したのである。

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 「黙れ」事件

 国家総動員法が衆議院に提出された昭和13年3月3日 陸軍省軍務課政策班長であった佐藤賢了中佐は、
 衆議院総動員法案委員会で限定された事項の説明にあたった。
 すると長広舌に対して宮脇議員はじめ何人から、どこまで発言を許すのか、との声があがった。
 激昂した説明員・佐藤中佐は「黙れ長吉!」と怒鳴りつけた。
 ただ場所柄を考えて「長吉」だけは辛うじて呑み込んだ。
 暴言に対したちまち委員会は混乱し休憩が宣せられた。

 佐藤中佐は杉山陸相の叱責を受け、陸相は翌日陳謝した。佐藤中佐は以降自発的に登院を遠慮したが、
 この事件後国家総動員法案の審議は順調にすすみ、怪我の功名とさえ言われた。

 当時の新聞は、佐藤中佐の黙れを議会開設いらいのことであると報じた。
 さらに注目すべきは、宮脇長吉議員が佐藤賢了の士官学校時代の教官(15期 元大佐)であったことである。
 かつての教官を帝国議会において「長吉!」と怒鳴りつけようとしたことは、後々までの語り草となった。