東條内閣打倒工作

 昭和19年6月頃、戦争の前途を悲観する空気が漂う中、重臣層や木戸内大臣を中心とする宮中側近等の間に
 反戦平和の動きが活発化してきた。
 これらは以下の意見に集約された。

 東條内閣は盲目的に戦争を推進するのみであるから速やかに打倒し戦争終結内閣に代えなければならない、として

 @−A ただちに終戦内閣に移行する案
 @−B 中間内閣(終戦準備内閣)を立て、その後機を見て終戦内閣に移行する二段階案

 A 東條を交代させると戦争責任の所在が不明瞭になるから最後まで続行させ、敗戦責任を東條一人に負わせる案

 近衛文麿は@−A 直ちに皇族を首班とする強力内閣を作り終戦工作に入るべきである として
 文書にしたものを木戸内大臣に手交し、のちに重臣たちの意見を聞き、@−B 中間内閣を作る案に考えを変えた。
 木戸内大臣は暫く東條に国政を任せ、どうにもならない時期を迎えたら一挙に終戦に持ちこむ皇族内閣を作る
 との意見であったが、のちに近衛文麿の意見に同調した。
 @−B の意見としては、岡田啓介、末次信正、小林躋造らの海軍大将や木戸幸一らがあり
 東久邇宮陸軍大将が強く主張されたのがAである。

 <近衛日記 昭和19年6月22日>

  東久邇宮は余に次ぎの如く語った。
  「東條も今度は弱ったようだ。とてもやっていけない、と言って来たので私は、『今絶対に辞めてはいかん。
  内閣を改造してでも続けよ』と言ってやった。私は東條に最後まで責任をとらせるが良いと思う。
  悪くなったら東條が皆悪いのだ。すべての責任を東條におっかぶせるが良い。
  内閣が変わったら責任の帰趨がぼんやりし、最後は皇室に責任が来るおそれがある。
  だからあくまで東條にやらせるがよい…」 と。

 <近衛日記 昭和19年6月24日>

  木戸内大臣来訪 内大臣の考え次ぎの如し。
  いよいよ戦争中止と決定せる場合、陸海官民の責任のなすりあいを防止するため、
  陛下が全部ご自身のご責任を明らかにされる必要あり。
  かくすれば東條も黙過し得ず、適当の処置をするであろう。
  (ここで言う適当の処置とは、戦争の全責任は自分一人にあることを申し上げるであろうこと、と判断される)

 倒閣工作は木戸内府と重臣たちを中心にしたもので、
 近衛公、東久邇宮、平沼騏一郎、若槻礼次郎、松平秘書官長、重光外相らで、
 最も活躍したのは、予備役海軍大将岡田啓介であった。

 重臣とは、総理大臣及び枢密院議長経験者として「前官礼遇」を皇室から受けている人達のことである。
 公式な権限や責任は持たないものの、当時の慣習として後継内閣の首班を決める時の重大な役割を有していた。
 従って重臣間に緊密な連絡が生まれるということは、東條内閣の早期退陣を促し、
 退陣後の次期総理大臣の選定に関する意志の疎通を育てることとなった。

 岡田大将の長男・貞外茂は軍令部(のちに戦死)に、女婿・迫水久常は政府企画院に、
 義弟・松尾伝蔵(2.26事件で岡田の身代わりとなって死亡)の娘婿・瀬島竜三は参謀本部に居り、
 それぞれが要職についているため陸海官の情報に広く通じていた。
 さらに海軍は、密かに米内光政大将をはじめ井上成美中将、高木惣吉少将らが終戦工作を企図しつつあり
 岡田大将はそれらと意を通じることによって(連携とまではいかなかった)、終戦工作を有利に働きかけたのである。

 東條内閣を打倒する決め手は2つ。
 @ 東條首相の陸相・参謀総長兼任をやめさせて統帥の確立を迫ること。
 A 海軍部内で悪評盛んな嶋田海軍大臣の更迭を迫ること。
 この二点で追い詰めることによって東條内閣打倒に追い込もうとするものであった。

 昭和19年7月13日 東條首相は木戸内大臣と会談し、内閣を改造しこの難局を引き続き担当する決意を述べた。
 これに対して木戸は、前記2つの点と重臣を内閣に入れる点の三条件を迫った。
 東條はこの三条件が天皇の御意志であることを確認し、その線に沿った改造に着手した。
 嶋田海相は退任し、新参謀総長の人選も進んだ。次ぎに他の閣僚の交代に続き国務大臣岸信介に辞任を迫った。
 ところが岸はガンとして単独辞任を承知せず、総辞職を主張した。
 東條側近の一人である四方諒二東京憲兵隊長は、半ば強圧的に辞職を迫り、一方でテロの噂も流した。
 しかし岸は屈することはなかった。岡田啓介の手が裏から回っていたのであった。
 さらに重臣の入閣についても、重臣たちは申しあわせて入閣を拒否した。
 こうした動きをしった東條は7月18日ついに総辞職を決意したのである。

 東條の側近たちはこれに対して、非常手段に訴えようとした。
 総理大臣秘書官である赤松貞雄大佐(在職中は文官扱い)によれば、「私達はこれに対する積極的行動を起こしかけた。」
 として、重臣以下の反東條勢力を一網打尽にする計画を実行しようとしたが、
 「お上の御信任が薄くなったときは直ちに辞めるべきである」として東條は7月18日ついに総辞職を決意したのである。
 なお一説によれば
 「形勢不利」を悟った東條は、ひとまず首相は辞するが次ぎの内閣では陸相で残留し実権を握る
 というのが本心ではなかったかとされている。
 しかし小磯次期首相(陸軍大将)と梅津参謀総長の反対でその目論みも潰れ、
 東條は重臣の肩書きを残すのみとなって表舞台から退場したのである。

 かくして日本の運命を決した東條内閣は、2年9ヶ月の在任の幕を閉じた。
 第1候補者であった南方軍総司令官寺内寿一元帥は、職務上その地位から離脱するのは好ましくない、との理由から
 後任には、朝鮮総督・小磯国昭予備役大将が任じられた。