座談会 だれが真の名提督か

大東亜戦争中、巡洋艦以上の艦長を経験した5人の元将官たちによる座談会。
かつての上官に対し、高級士官の立場から心中の感慨を赤裸々にする貴重な発言を転載する。
座談会の主題は、「太平洋戦争中の日本海軍の指揮官を歴史的に評価する」 

歴史と人物/昭和56年5月号より

小島秀雄  44期 元少将 開戦時、南遣艦隊旗艦の巡洋艦「香椎」艦長として南方作戦従事。軍令部に戻り
日独共同作戦を担当。 昭和18年12月に潜水艦で遣独、ドイツ駐在海軍武官。
松田千秋  44期 元少将 戦艦「日向」のち「大和」艦長。その後、第4航空戦隊司令官として比島沖海戦では
小沢艦隊の中で最前線に進出して作戦参加。 終戦時横須賀航空隊司令官
野元為輝  44期 元少将 航空母艦「瑞鶴」艦長として第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。
のち「瑞鶴」は小沢治三郎中将座乗の旗艦となる。 終戦時第903航空隊司令官
横山一郎  47期 元少将 開戦時、アメリカ駐在海軍武官、昭和17年に日米交換船で帰国。
のち巡洋艦「球磨」艦長。 昭和18年海軍省首席副官
黛 治夫   47期 元大佐 飛行艇母艦「秋津洲」艦長でソロモン方面の作戦に従事、のち巡洋艦「利根」艦長
としてマリアナ沖海戦、比島沖海戦に参加。 海軍内の砲術の権威として著名
司会
野村 實   71期
元大尉 軍令部第1部1課等 対談当時 防衛研修所第2戦史研究室
のちに防衛大学校教授 名古屋工業大学教授 軍事史学会会長

 

座談会 1 山本五十六 について
座談会 2 古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎、南雲忠一 について
座談会 3 栗田健男、志摩清英、西村祥治、三川軍一、近藤信竹、伊藤整一 について
座談会 4 井上成美、草鹿任一、宇垣纏、田中頼三 について 他


司会 まず聯合艦隊司令長官ですが、この戦争中、山本五十六、古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎の4人がおりました。一番最初が山本五十六大将ですけれども、松田さんは「大和」が聯合艦隊旗艦のとき、少なくとも軍艦旗掲げ下ろしなど1日2回ぐらいは山本大将と顔を合わされたと思います。
松田 時々 おい松田君、いっしょにめし食わんか、と呼ばれて話をしました。山本長官は非常に情誼に厚い立派な方です。ただ戦のやり方についてはちょっと問題がある。やるには練りに練って、これは間違いないという計画でしなければいけないが山本さんと黒島(亀人大佐 44同期)で、参謀長の宇垣(纏中将 40)さん抜きでやった作戦はどうだったか?手を広げてあれも取るこれも取る。計画は壮大だがこれで実際戦って勝てるかどうかは疑わしい。黒島は僕の同期であり非常に良いアイデアを出す人であったが、もともと軍令部の対米戦略は東郷元帥の日本海海戦の思想をもとに永年にわたって練られていたものがあった。それは決して手を拡ろげることが戦に勝つことじゃないんだ。日本の海軍は攻勢防御の思想を伝統としていた。戦略的には守勢であるが戦術的には攻勢だ。ところが山本さんは手を拡げていった。手を広げる以上守らなねばいかん。陸軍の一個師団置いたって守れるはずはないんだ。片っ端から敵は食い潰してくる。そうもその辺が、どういう目的であんなに手を広げたか分からないんだ。
野元 私は新見(政一中将 36)さんあたりと同意見なんだが、軍令部は当時いったい何をやっていたのか。聯合艦隊に引きづられて軍令部は根本的な大戦略を立てていなかったのではないか。
松田 軍令部作戦課に私は3年余いたが、それまでの対米作戦計画は攻勢防御の思想で練りに練ったものだった。あとの人がどういうふうに計画をたてたか知らんが、おそらくそんなに大きい変化はなかったと思う。
司会 野元さんは開戦劈頭のハワイ作戦についていかがですか?
野元 奇襲的効果は認めるが、反面、米国民を一致させたということにおいてマイナスであったと私は感じるんです。
小島 私もあの作戦は運よくいったから良かったものの、ハワイ作戦というものは、あまり適当じゃなかったのではないかと考えているほうの一人です。
「聯合艦隊始末記」で、著者の千早(正隆 58)元中佐が、山本長官のハワイ作戦を非常に褒めている。あれだけの航空母艦を集結して奇襲したという作戦自体は戦術的にいいでしょう。ところで目標は戦艦と航空母艦だったが、空母は結果的には存在しなかった。山本大将は以前から戦艦の実用的価値はないと云っていたが、危険を冒して航空母艦を集結して攻撃し、それだけで攻撃部隊が帰って来たのはちょっと話が合わない。また、訓練での消耗を補給できる程度の航空機生産力にも拘わらず、将来のことを考えずにああいう作戦をしたのは大間違いです。山本大将は飛行機を育てた人と言われているのに、開戦前の図上演習ではこちらの航空戦力は過半数やられるという考えだった。自分の培養した部下の実力を十分に考えなかった指揮官だったと私は思う。それから山本長官は、将来は海上決戦は起こらないということを言ったらしいが、松田さんが言ったように、日本の海軍は伝統的に敵が来るのを待って決戦で撃滅することをずっと研究していた。ところが山本長官は決戦は起こらない、としてどうやって起こすかを考えない。ただ漠然とあっちをやり、こっちをやり、その皮切りが真珠湾だったと思うんです。
松田 アメリカで聞いた話だけど、山本さんが大使館付武官のころ、若い連中に「おい、きょうはトランプをやろう」と言って、トランプ博打をやるんだ。当時の金で50セントとか1ドルとか賭けて。あの人は非常に博才に長じていた。そして賭けた金でご馳走していたという話が残っていたよ。
横山 ぼくはね、山本さんとトランプをやったんですよ。しかし山本さんが博才に富んでいるとは思わないんだ。というのは博打というのは確率を考え、ある程度根拠をもって打つものでしょう。ところが山本さんはブラフ(はったり)なんだ、全部。こっちは確実にやっていくと必ず勝てる。あのブラフのやり方を見て、普通の人はそれば博才と思ってしまった。ブラフは当るときはすごいがだいたい当らない。僕の合理的なやり方と、彼のブラフとやったら合理的なほうが勝った。それなのに合理的なアメリカに対して山本さんはブラフをやった。 これが非常な間違いだと思うんだ。
司会 横山さんは真珠湾攻撃のときワシントンにおられたのですね。
横山 真珠湾をやるという考えは、当時作戦の構想を練ってみたけども僕の考えにはないんです。なぜなら真珠湾は浅いから沈めたことにならないんです。実際、ほとんど引き揚げられて、すぐ半年あとで使った。沈めるならやはり深海に敵を誘い出して沈めるという邀撃作戦じゃなければダメだということになります。僕は全体の対米戦略で意見がある。それはなぜフィリピンをとったかということです。比島を残しておいて、所在の水上兵力と航空兵力を撃滅する。グアムをとれば向こうから航空兵力の増強なはい。そうすればフィリピンを助けろといってアメリカ国民が騒ぎ出す。となるとアメリカの艦隊が西太平洋にやってくる。それを迎撃する。この火種をなくしたのは極めてまずかった。
松田 当時の僕らの考えでは、アメリカはハワイあたりで示威運動をやってるけれど本当の戦いの準備はできていないだろう。だからフィリピンに手を出せば、必ず向こうは戦備不十分のまま出てくるに違いない。それを叩くのだ。だからとにかくフィリピンを取ろうじゃないかということだ。もちろんその当時はインドとかインドネシアとか、あの辺を取ろうなんていうことは考えていません。それが今度の戦では世界を取ろうとしたんだから、ひどいもんだよ(笑)
司会 真珠湾で成功したあと山本さんは神様になったところがあるでしょう。
野元 開戦前から早川幹夫(少将 44同期)なんか山本さんを神様のように言っていた。聯合艦隊自体では崇敬の的になっておったね。それは陣頭に立って、直接細かいところまで指揮をする、というところにだいぶ人気があったらしいな。
司会 次に山本長官の指導した、もう一つの大きな作戦としてミッドウェー作戦についてお話いただきましょう。
(中略)日本陸軍が、国民に国土の防衛をやかましく教育しておったから、(東京初空襲のように)1回や2回空襲されてもたいしたことはないのが実情だった。それなのにミッドウェーを取って敵空母の奇襲を避けようとしたのだな。ところがこれを取ったって迂回してくれば何のことはないんで、まったくあれは被害妄想のようなことじゃないかと思うが。
松田 僕は当時「日向」艦長だったが、図上演習があり、米国通というので赤軍(敵軍)の総指揮官をさせられた。図演では米軍は相当足の長い飛行機(陸上機)で索敵する。日本軍は艦上機だけ。米軍は日本軍の行動が手に取るようにわかるので、やりたいだけやれる。ところが僕が図演で日本軍をやっつけたところをそのまま審判すれば士気に影響するというので、その損害は極めて軽微として作戦成功と審判された。
小島 何のためにミッドウェーに行ったか、まったく分からない。
横山 僕に言わせれば、海軍大学校の図演だったら零点だ。(笑)
松田 図演の結果のように、さんざん負けるところを負けないようにして出撃したわけで、この思いつき作戦が失敗したのは当然です。
小島 ぼくの長官だった小沢(治三郎中将 37)さんは、ミッドウェーには何のために行くのだろうって初めから反対しておった。山本さんは勝ち戦を一つやったから、もういっぺんブラフが利くという頭なんだね。
松田 あれはだれが考え出したか?やっぱり山本さんでしょうね。
司会 山本さんですね。ミッドウェーに行けばハワイで撃ちもらした空母が出てくる。それを叩ける。そうすれば航空母艦で健在なのは日本側だけだという着想のようですね。
松田 アメリカではパールハーバーの不意打ちを全国民が非常に怒って、さっそく総力戦態勢で国家総動員をした。日本はミッドウェーの敗戦の真相を公表せず、まだ日本は勝っているような気分でのんびりしていた。横山さんはアメリカから帰ってどう感じましたか。
横山 ぼくは、ミッドウェーで負けたあとの17年夏に(交換船で米国から)帰ってきましたが、不思議だったのは軍令部が泊り込みをせず、出勤退庁してくることでした。これじゃ戦に勝てんと思った。軍令部は作戦をやってるんじゃないか、作戦に昼も夜もないんで、交替で休むのは結構だがそれを出勤退庁とは何事か、と言ったんだが効き目はなかった。
小島 それは君の言うとおりだよ。日露戦争中でも軍令部は泊り込みだった。毎日弁当をうちから運んでくる。あの当時でもそんくらいやってるのにね。
司会 山本大将の評価が非常に低いのには驚きました。それでは開戦時にどういう人事が良かったのでしょうか。
横山 幕僚が悪かった。
幕僚はほんとうに悪かった。
横山 参謀長以下悪いでしょう。
野元 黒島でなくて、先任参謀には島本久五郎(少将 44同期)を人事局では考えておったらしいな。
司会 黒島さんが昭和14年 聯合艦隊の先任参謀に行かれましたが、人事局の原案では島本久五郎、人事局第1課長になった人ですけどその人が聯合艦隊の先任参謀に行く予定でした。
横山 長官はアメリカを知っとったけれども、参謀長以下アメリカを知っていなかった。
私はね、そこにいる松田さんが一番先任参謀に適任だと思ってるんだ。
松田 それには時期が遅いんだ。僕が軍令部を去って3、4年経ってるからね。あの当時の1課長は中沢(祐中将 43)さんだろう。中沢さんは大佐じゃちょっと気の毒だが、先任参謀になるのがよかったと思うんだ。
横山 中沢さんみたいなアメリカにおった人を使えばよかった。
小島 島本もアメリカ駐在なんだよ。(注 大正13年〜大正15年) しかし長官が気に入らなかった。
司会 山本さん自身は残っている手紙を見ると、自分は聯合艦隊司令長官(以下GF長官)として適任とは思っていない。すでに15年の終わりあたりには次の後任を考えている。俺の後任は米内光政大将(29)が最適任だ。それがダメなら嶋田繁太郎(32)古賀峯一(34)。それから候補にあがり得る人として、豊田副武(33)、豊田貞次郎(33)。これだけ山本さんは言っております。果たして誰が一番良かったか?
横山 その前にね、軍縮会議でクビ切った人に適任者がおるんです。
小島 堀悌吉(32 S9年中将で予備役)さんか。
松田 嶋田さんという案は相当ある。あの人は、人の立てた案を見て、自分が気に入らなきゃ採用しない。私は嶋田部長の下で軍令部部員をやっているとき、私の立案に対し、「おい松田、これはダメだよ」と突っ返してくる。何ヶ月もかかて考えたことだから間違いないつもりで1ヶ月ばかり放って置いて、「あれからずいぶん研究しましたが、この他には手がありません」とまた出すと「宜しい」と言ってめくら印を押してくれた、そういう性質でね。イタリア武官はやってるけどアメリカのことは知らんですよ。
野元 私は前に片桐英吉さん(中将 34)の参謀をやったことがあるが、片桐さんあたりは、米内さんが長官としては一番良いという意見だったな。
松田 長官としては、作戦的な頭のほうもあるだろうが、統率力がなくちゃダメなんだな。その点米内さんなんかいいんだね。山本さんは海軍大臣がよかったよ。
小島 日本じゃ難しいんだけど、シンガポール作戦のあとで小沢さんあたりにすぐバトンタッチすれば一番いいと思った。パールハーバーが済んで、今度は少し慎重な人ということで小沢さんが行ったら良かった。ところが日本じゃ順序からいってダメなんだね。アメリカやイギリスならやるよ。
私はね、米内大将なんていうのは絶対ダメだと思うなあ。少佐の時にジュトランド沖海戦などを研究していろんな先例を絵にして各鎮守府艦隊を廻った。聯合艦隊の末次(信正 大将 27)長官、2艦隊の高橋(三吉 大将 29)長官、呉の中村(良三 中将 27)長官は朝から夕方まで6時間ずーっと聴いておった。ところが佐世保鎮守府の米内長官は顔も出さない。要するに日米戦争になればどうせ負けるんだという考えだから将来戦、ことに決戦なんかを研究する具体的なことなぞ関心がなかった。 私は経験からいえば、嶋田大将が一番宜しい。そうでなければ豊田副武大将がいい。豊田さんは私が「日向」副砲長のときの艦長、軍務局に居たときの軍務局長。この人は非常に合理的であるし、意志が強い、やかましいから人気はなかったらしいが、統率力がある。
横山 ぼくは山本さんを非常に買います。それから米内さんも良いと思う。他に皆さんの考えなかった人として少し古いけど中村良三(27)、この人を推したいんです。あの人は海軍大学校長で非常に頭を訓練してるんですよ。艦政本部長なんかに置いとかず前線にだすと非常に働いた人だと思うんです。
いや、私は反対だね。中村さんは昭和4年の小演習のとき赤軍の長官になった。そのとき作戦計画を自分で作って戦隊の司令官とか艦長には、おまえ達にはどうせ分からんから、おれの書いた通りやれ、という統率ぶり。それから昭和6年2艦隊の長官のときも非常にまずい作戦がある。自分は良いことを考えても部下が動くように訓練ができない。自分だけ偉いと思って部下に教えずに、おれの言うとおりやれという統率ですから、あの人は聯合艦隊の長官には最不適任と私は思った。
横山 しかし、非常に頭のいい人だ。
小島 頭はたしかにいいね。
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