座談会 だれが真の名提督か VOL.4

司会 ほかに司令長官として、第4艦隊の井上成美(37)、これは珊瑚海の指揮官です。あとで海軍次官になられた。それから第11航空艦隊司令長官の草鹿任一。
小島 井上さんはぼくが海軍大学のときの教官でね、アメリカにはかなわないと、初めから正確に見ていた。だから日本の島を航空母艦に、と考えてアメリカ艦隊を近海に引っ張ってきて叩けという、軍令部の方針そのものだった。慎重なもんだよ。
松田 あのころは、海軍省と軍令部とさかんに喧嘩しよったが、井上成美という人は頭が良くて押しが強くて、口が上手くてね(笑)。
小島 井上さんにはぼくも叱られたんだよ、「お前、ドイツに行って親ナチになっちゃいかんぞ」って。(笑)
野元 井上さんは、うるさいから南方に島流しになったんだろうね。
井上さんは、私が学生のとき奥さんが病気で、一番暇な配置の大学校に回されたらしいんだが、今まで駐在武官なんかやっていて(注 スイス、フランス、イタリア等)図上演習はしていないはずなのに、ずば抜けて教官ぶりは良かったね。さっき例に出した近藤さんなんてのは、ずば抜けておかしかった。井上さんは第4艦隊の長官のとき、ポート・モレスビーに行かずに引き揚げた。三ヶ月たって「秋津洲」の艦長でラバウルへ行ったんだが、モレスビーなど取っても、すぐ交通が遮断される趨勢だったから井上さんはそれを見越して進まなかったんじゃないかとその時思った。艦隊の長官ともなればGF長官が進めって言っても進むことはないんですよ。井上さんは先が見えてやらなかったんじゃないかと思うんです。
横山 はじめての海軍省副官時代、井上さんが軍務局長で、次の海軍省副官のときは次官だった。だから井上さんを非常によく知っている。頭が鋭くて、考える人だったね。海軍では、直感で判断する人を非常に尊重し、ものを考える人を、あいつは遅い、という癖があったが、井上さんは早く適切に考える人だった。これは非常に非凡なことだと思うんですけど、最近の研究によると彼は人に知られぬクリスチャンだったというんだよね。
司会 聖書なんかを見てましたね。
横山 どうも仙台あたりで青年時代に洗礼を受けたことがあるようだ。哲学も宗教も必要じゃないという海軍にあって、彼はそういう素養を身に付けておった。今にして思えば、これは非常に卓越したことだった。アメリカ海軍がなぜ強かったかということで大前研一さんは、キリスト教にそのカギがあるという結論を出してるんです。アメリカでは海軍でも陸軍でも兵隊は一冊ずつ聖書を持っている。困難な場合に遭ったらここを読め、こういう場合ならここを読め、ということをちゃんと指示したページがあるんだ。日本の海軍は精神教育をやり、精神棒で殴ったかもしらんけど、兵隊にこうやればよろしい、という指導を一つもしていない。オフィサー自身は宗教も哲学も何も持っていないままで人の上にたった。これは大変なちがいです。 (注 横山氏もクリスチャンである。)
小島 ドイツの前海軍大臣だったティルピッツも第一次大戦のあと、寺本武治少将(33)に、「ドイツの海軍士官に哲学的教育が不十分であった」と言っています。
司会 草鹿任一中将(37)については・・・
横山 草鹿さんは、ぼくは戦後しかしらないんだ。戦争裁判で南東方面艦隊の事件を担当したアメリカのモンローという検事が非常に草鹿さんに心服して、「オールド、ジェントルマン」と言って彼のうちに何べんも出かけた。オールド、ジェントルマンのために事件を取り下げようと思うから資料を出せとぼくに言う。それで証拠を書いて出したら、Case is dismissed と言って取り下げた。これは草鹿さんの人徳のいたすところだと思うのです。
小島 人格者だったね。

司会 主要な指揮官では、ほかに宇垣纏(40)さんがいます。開戦時のGF参謀長、ついで第1戦隊司令官、第5航空艦隊司令長官で終戦のときに特攻機に乗り、沖縄に突っ込まれたという方です。
私は昭和8年、9年に砲術学校の戦術科長だった。そのころは大正11年資料の命中率で海軍大学の兵棋演習が行われていた。私はそれを実際の命中率に直した改正案を作って軍令部に出した。当時、宇垣さんは海軍大学校の戦術科教官で、ぼくに砲術学校の戦術は戦術ではなく、算術にすぎないと言ったんです。私はへんなことを言う人だなと思っておった。宇垣さんは戦術をごく大雑把に考える人なんだろうと思う。残された日記の『戦藻禄』なんか見ると、勇ましく書いてあるが、数字的な基礎にもとづいての勇ましさじゃない。
司会 司令長官レベルで主だった人はお話にだいたい出ました。ここで第2水雷戦隊司令官の田中頼三中将(41)に話を移します。この方はルンガ沖夜戦で巡洋艦撃沈1、大破3という戦果を挙げました。陸軍部隊に糧食、弾薬を輸送する途中に起こった海戦ですけど、アメリカ側のモリソン戦史その他には、田中中将は非常に優秀な指揮官として出ています。
私は、第11航空艦隊、第8艦隊、第8方面軍の兼務参謀としてガダルカナルに派遣された。そのとき話を聞いたんですが田中司令官は勇敢ではないと部下が言うんです。その一例として、ジャワ方面の作戦中、駆逐艦4隻を旗艦「神通」の直衛にして、輸送船には直衛をつけないということを部下が憶えている。永年水雷戦隊にいるから、その統率とか、訓練戦闘は上手だったろうと思いますよ。褒められるのは戦の結果で、部下の評判なんかは問題にされませんからね。アメリカ軍はその結果を見て、非常に勇敢な名将のように言うが、部下だった人はだれも名将とは思ってないんだ。部下から勇敢だと思われるぐらいの指揮官じゃないと、いかんのじゃないですかねえ。
小島 成功すれば褒められるのさ。
司会 今日ご出席の方の中で、松田さんが第4航空戦隊司令官をしていらっしゃる。シンガポールで航空戦艦「伊勢」「日向」に燃料を積み、ガソリンのない内地へ持ち帰るのに成功された。
松田 「北号作戦」という名前をつけたが、これは戦じゃない。油であれば何でもいいから、持てるだけ持って来いっていうんだよ。「伊勢」「日向」には格納庫の大きいのがある。そこにいっぱいドラム缶を積んだ。敵をやっつけるのが戦の価値だが、こんどは敵にやっつけられないことが戦の価値だと考えたね。向こうは「伊勢」「日向」その他が、何しに出てきたか分からなかったらしい。きっと突入してくるだろうと考えたようだ。私はその気持ちが良く分かるから、突入作戦をやるように進み、敵を欺いてついに無疵で呉に入った。 軍令部から喜ばれましたよ。富岡君(軍令部第1部長 45)がわざわざ呉に来てね、おかげさまで助かります、と言った。呉に入って「大和」の伊藤第2艦隊長官に挨拶に行ったら、油は全部おれのところへくれ、と言われた。そこであるだけ全部を「大和」に移した。「大和」はそれで沖縄特攻に出て行ってしまった。だから建艦を立案して「大和」を産み落としたんもおれだし、「大和」に末期の水をくれてやったのもおれだ、と私は言うんです。
小島 松田が主張して「大和」が生まれたんだな。
司会 「北号作戦」でお持ち帰りになった油は、今まで航空ガソリンだと思っていました。
松田 いや、航空ガソリンもありましたが、重油もある。終戦後、アメリカの第7艦隊の少佐参謀が「大和」のことを根掘り葉掘り訊きました。そのときこちらから「北号作戦」はどうだって訊いた。いや、あれはすっかりやられた、と言う。だから私は、この作戦は消極的な手柄だと思って自慢してるんですよ。

司会 最後に、太平洋戦争中に最も優れた海軍の指揮官はどなたであったか、1名挙げていただきたいと思います。
小島 ぼくは小沢さんの下だけにおったが、この人が早くGF長官になればしあわせだと思ったぐらいだった。
野元 私も小島君と同じ意見です。小沢さんは作戦の計画実施ともによかったし、人の統率という方面もよかった。小沢さんはマリアナ沖海戦は予期した戦果をあげ得なかった。しかしそれは小沢さんの罪ではない。技術および哲学、両方ともに日本はアメリカに比べ劣っていた。小沢さんの力量を発揮できなかったことは、非常にお気の毒であったと思うんです。
松田 指揮官については特に意見はないが、艦長については一つある。私が司令官のとき部下であった「伊勢」艦長の中瀬。
司会 中瀬泝少将(45)ですね。
松田 比島沖海戦で、小沢さんの旗艦の正規空母1隻、それから特設空母3隻、これがみんなやられた。敵は飛行機の余勢をかって全部「伊勢」攻撃に来た。112機とか記録にある。魚雷攻撃、急降下爆撃をしてくるが、中瀬艦長はうまい具合に避け、一発も当っていない。人格も統率もよし、戦も上手だし、操艦もうまい。その当時は爆撃回避なんていうことは卑怯だと思ってあまり考えてなかったんだな。
そんなことないですよ。あなたの研究した本で、ぼくなんか一所懸命だった。
松田 私は標的艦「摂津」艦長を3ヶ月ばかりやった時戦争になった。そこで、今まで代々の艦長が残した記録に自分の考えを加えて『爆撃回避法』という本を書いて、教育局長に参考に提出したんだ。
あなたが研究したのが、日本海軍唯一の本ですよ。
松田 あの本で、僕は爆撃回避の上手下手によって海戦の勝敗が決まるというようなことまで書いた。それから比島沖海戦まで3年たってるでしょう。皆がみなじゃなかったらしいけど、爆撃回避についての考えが非常に疎くなっている。敵機が爆撃に来たら、これはもうどうにもしようがないと思うようになった。それが比島沖海戦で栗田さんが逃げた原因なんだ。爆撃に来たら避けてしまえ、という自信があったら、どんどん進んで行きますよ。僕と同じ思想で中瀬艦長は奮戦した。
レイテに行く前ですが、リンガ泊地における兵術研究会の論議を聞いて、「利根」の士官に、私は一等司令官として、宇垣纏中将、白石万隆中将(42)、早川幹夫少将の3人をあげたことがある。しかし海軍全体としていうと、第8艦隊司令長官の三川軍一中将ですね。その参謀長の大西新蔵少将(42)もえらかった。この二人とも水雷戦隊で潮をかぶって鍛え上げた人ではないが、にもかかわらず寄せ集めの艦隊(第8艦隊)を率いて、あれだけの戦果をあげたのです。しかも空船を沈めるとか、そういう欲張りをしないで、適当な時に引き揚げ、敵の航空母艦の翌朝の空襲を避けるように逃げた。これなんか本当に立派な指揮官だと私は思うんです。付け加えたいには、三川長官、大西参謀長ばかりでなくて、日本海軍の錬度が高かったことですね。
横山 ぼくが推奨するのは山口多聞(少将 40)。この人は偉かったと思うな。ミッドウェー海戦も彼の言うとおりやっとったら負けなかった。第二次攻撃隊を速やかに発進しておけば、急降下爆撃がいくら当ったって火災を起こさなかった。
小島 惜しい人を殺したんだよ。
横山 艦とともに艦長は殉ずる、という各級指揮官の考え方が悪いと思うんだ。艦長作り、司令官作りはたいへんな日時と金が要るんですよ。それを艦が沈没したらいっしょに死ぬなんて、そんな馬鹿なことはないと思うんだ。強靭性がなかったことが日本海軍の欠陥でした。

『歴史と人物』 昭和56年5月号より