生還した二人の参謀による沖縄戦回想の比較
        高級参謀・八原博通大佐と航空参謀・神直道中佐  VOL.1


生来の明晰な頭脳とアメリカ留学の経験は、八原を冷静で合理的な作戦思想の持ち主としたが、昭和の陸軍では疎外され、 異端視される存在へ追いやられた。
しかしその異端者が樹てた作戦が、太平洋戦争で米軍に最大の出血を強いたのである。 八原作戦に対する評価は、正式の米軍戦史や米国の軍事史家も例外なく高い評価を与えている。

しかし八原大佐の作戦は、別に奇策であったわけではない。彼は戦後、陸上自衛隊幹部学校での講話で、いみじくも言っている。
「私の当時の戦術思想は、世界共通のそれに他なりません」
とは云え、八原作戦ほど太平洋戦争中、陸軍中央部の非難が集中したものはない。 国軍の決戦に背を向け、いたずらに瓦全を図ったとされ、沖縄第32軍に対する評価も臆病で腰抜けと最低であった。 戦後も旧軍人の一部からの批判は絶えない。

この評価には、米軍沖縄上陸直前に航空参謀として赴任、のちに牛島司令官の命を受けて奇跡的に本土に帰還した 神直道少佐(のち中佐)の報告も影響している。
沖縄第32軍の参謀で生還したのは、八原大佐と神少佐の二人だけである。
しかし両者は4月1日の米軍上陸後、軍司令部内で激しく対立する。神参謀が航空主務者としての立場から、 航空特攻を容易にするため北・中飛行場制圧のための出撃を強く主張すれば、八原大佐は無謀であるとして反対、 あくまでも堅固な洞窟陣地にたてこもって戦略持久作戦を続行せよと譲らない。
両者の確執は戦後まで続き、お互い著書で自己の見解の正当性を主張した。

【沖縄 非遇の作戦】より

 
沖縄戦−それは、本土決戦準備のための戦略持久なのか、天号作戦に基づく航空決戦に寄与する攻勢作戦なのか…
混迷する背景には、最高統帥部の主張する航空戦至上主義と、現地第三十二軍が主張した地上戦重視主義との相克があった。

ここでは生還した二人の著作から見た沖縄戦の実相/対立点を比較していくことにする。

なお細部に亘る検討の余地を残してはいるが、諸般の事情から概略全般での比較にとどめた。

参考資料
沖縄かくて潰滅す 神 直道 著 S42年 原書房
沖縄決戦−高級参謀の手記 八原 博通 著 S47年 読売新聞社
沖縄 非遇の作戦 異端の参謀八原博通 稲垣 武 著 S59年 新潮社

沖縄戦参考資料

第32軍 軍司令部
昭和20年4月1日 米軍上陸時
軍司令官 牛島 満 中将 20期
軍参謀長 長 勇 中将 28期
高級参謀
作戦主任
八原 博通 大佐 35期
後方参謀 木村 正治 中佐 36期
航空参謀 神 直道 少佐 44期
情報参謀 薬丸 兼教 少佐 48期
通信参謀 三宅 忠雄 少佐 48期
作戦補佐 長野 英夫 少佐 52期


       公刊戦史からの引用
12345678 神直道中佐著作からの引用
12345678 八原博通大佐著作からの引用
       青文字は当研究室のコメント

 

■ 序文・あとがきに見る二人の著作背景
沖縄の戦いについては、もう既に数多くの戦記や物語が発表されてきた。ある本は悲惨さに重きを置き、あるものはこの悲惨を軍の 悪に藉した。自分の書こうとするところを強調するあまり、あるいは面白く読ませようとするために、ある重要な部分を軽くふれた 程度にとどめ、フィクションに近い想像を逞しうしているものもあった。また、多分こうであろうくらいの思いつきを、いかにも まことしやかに書いたものもある。

沖縄戦の体験者が現存し、記憶が鮮明で生々しいのに、この二十数年間の記憶が既にそのようである。これから先、記憶の薄れ とともにどのようなものが書かれるかと思うと、実はたまらないのである。(中略)

かつて某雑誌社の依頼で小さな原稿を発表したことがあった。その記事は実際には編集者の加筆により私の意図とかなり違った ものになって世に出たが、旧軍の一部から「公器?を利用して私憤をぶちまけている。愚劣至極」と痛罵を浴びせられ、 「お前のような奴が参謀だったから沖縄が負けたんだ。天下に謝れ」と決めつけられた事がある。それは軍統帥部の機微に触れ た事が、当時流行の暴露記事と見られての悪罵だったようである。軍事を理解している人にすらなお「私憤をぶちまけて」いると 思われるほど、そして「お前のような」私に、敗戦の責を謝罪しろといわれるほど、沖縄の戦いの実相は知らされていない。

戦後二十余年、沖縄戦に関しては、既に日米両国の側において公的な戦史が編纂されている。
さらに日米双方の幾多の軍事記者、作家、新聞雑誌の記者諸君、プロの軍人、あるいは直接戦闘に参加した人々の手により その詳細が発表されている。戦友や沖縄県民の勇戦敢闘を称える条章を読んでは無上に嬉しく、またその惨憺たる戦況の叙述に接すると 断腸の思いに耐えない。用兵作戦上の見解に対しても、啓蒙開眼され、そうであったかと反省されるものも少なくない。 反面、認識が浅く、誤解、独断、甚だしきは虚構に類するものもなしとは言えない。

作戦参謀として、この戦いの企画指導に直接携わった私は、自らの立場に省み、また敗者兵を語らずの精神に従い、正面切って 多くを語るのを今日まで拒んできた。だが作戦こそわが命と思っていた私には、作戦の巧拙善悪はいざ知らず、そうではない、 実はこうであったのだと、叫びたいものがある。
戦後もすでに二十有七余年、沖縄も本土復帰した今日である。私の記憶も漸次薄らいでいるが、幸い戦時中ならびに戦争直後 にかけて書き留めておいた記録がある。これを根拠とし、現在までに多く世に出た沖縄戦の史書で問題になった諸点も考慮し、 敢えて沖縄戦の実相をここに訴えんとするものである。

さらにあとがきでは

戦後、沖縄戦に関しては数多くの文書が出ている。しかしそれらの大部は作戦の根本に対する検討が不明瞭で、本質をはずれたものや 事実の誤認に立脚したものが多い。(中略)
沖縄作戦は、決戦か持久か、作戦目的が混迷し、幾多の波乱を生じた。その間の真相を知るものは、おそらく私唯一人と確信する。 歴史のかなたに埋没するのは残念である。本書を世に公にする所以である。

 
■事例1 第三十二軍の創設と現地視察団の派遣

昭和18年9月に設定された「絶対国防圏」は、翌19年2月のトラック島空襲によって重大な脅威を受けるに至った。大本営は、絶対国防圏の要衝である中部太平洋諸島ならびに後方要域の防衛強化に改めて施策を講ずることとなり、南西諸島については19年3月、新たに第三十二軍を創設した。当時の統帥部の対米作戦構想の基本は航空決戦主義であり、創設当時の第三十二軍は、航空部隊の基地設営軍の性格を有するに過ぎなかった。このため地上戦力ははなはだ弱体なものであり、軍とは名ばかりの実状は、第三十二軍首脳陣の大きな不満とするところであった。
特に高級参謀(作戦主任)八原博通大佐は、我が空軍の実態と日米航空作戦の経緯などから合理的に推論して、航空戦力至上主義をとる大本営の作戦思想に対し、大きな疑念を抱くようになっていた。

大本営陸軍部は南西諸島及び台湾方面防衛強化の準備として、昭和19年3月中旬現地視察団を派遣した。
現地視察団は、杉田一次大佐を班長とし椙山一郎中佐、神直道少佐、三岡健次郎少佐、斎藤春義少佐などのほか、第32軍参謀長 予定の北川潔水少将、同軍参謀予定の八原博道大佐が同行した。
一行は3月15日所沢飛行場を出発、南西諸島及び台湾を視察し東京に帰還したが、八原大佐は那覇に残留して作戦準備にとりかかった。 *注釈 杉田大佐、八原大佐に戦後の回想に基づく

【公刊戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦 P19】

(昭和19年)三月中旬、大本営は大本営参謀杉田一次大佐を長とし、部員若干名、第32軍参謀長(中略)数名で視察団を編成して 南西諸島及び台湾東岸地区に派遣し、作戦準備を現地で具体化させることになった。視察研究は短時日の間に終わり、 第32軍要員を沖縄に残して引き揚げた。あとは正式に命令を下達するだけである。この視察旅行の結果、気にかかる事が なかったわけではない。
一部の幕僚要員の中には、沖縄軍参謀となることを、「流された」として悲観視する気配があったし、また航空基地の造成は土方作業であって軍の仕事ではないと主張したりする者もあった。
当時の軍人気質として官衙や学校勤めより第一線で作戦に従事することをよしとした時代であったから、「流された」とする気配は 我慢のならぬ嫌味であった。(中略)

しかし、これらの事も今後の指導で何とかなるだろうと考えた。「何とかなるだろう」は甘く危険であった。この何気ない気配や軽い主張が沖縄戦を通じてどのようにあらわれたか。誰も予見することはできなかったのである。

三月下旬になると、私は沖縄に先行し、現地における軍の創立準備に着手した。
これより先、三月九日、私は陸大教官より新設予定の第32軍の参謀要員を命ぜられた。(中略)作戦課に出頭して、軍の性格や 任務の説明を聴取した。その際、つい愚痴が出て、こんな有れども無きが如き微弱な兵力ではいかんとの仕ようがないではないかと 不平がましい質問をしてしまった。(中略)
(作戦課長の)服部大佐は私より陸士が一期上であり、大東亜戦前、一時作戦課員 として一緒に勤務したこともある親しい間柄であったので、「今は閑職でも、そのうち忙しくなることもあるだろう」と低声で 励ましてくれた。
八原高級参謀も、台北の宿舎で、神少佐に向かい「私は特に落度はなかったように思うが、なぜこんな辺地の参謀に させられたのだろうか。仕方がないから僧俊寛になったつもりで、珊瑚礁を砂にくだきながら飛行場造りでもやりましょう」 と、自嘲気味に語ったという。
【沖縄 非遇の作戦】より

この時点での神少佐は、大本営参謀(第二課課員 南西諸島方面担任の航空主任)であって第三十二軍参謀ではない。
前任の航空参謀釜井耕輝中佐(39期)の転出に伴い、20年2月26日より第三十二軍参謀に任じられている。(6月10日中佐進級)しかしこの時点で既に両者の見解の相違が現れている。

 
■事例2 南西諸島の防備強化と配備研究

昭和19年7月、絶対国防圏の一角たるマリアナ諸島が陥落するに及び、大本営は新たに「捷号作戦計画」を策定する。
敵米軍の侵攻方向によって、捷一号から四号計画を定め、陸海航空兵力と聯合艦隊をもって海上で撃滅、さらに上陸する残敵には、所在地上部隊をもって殲滅せんとする方針である。台湾方面は捷二号作戦と称され、南西諸島にも大兵力が充当された。4個師団、5個旅団の大兵力を増強され航空基地設定軍の地位を脱した第三十二軍は、決戦準備に全勢力を傾け、来寇する米軍の撃滅に必勝の自信を抱くに至った。

第32軍高級参謀八原大佐は6月27日上京し、中央部が南西諸島を超重視していることを知った。
防衛総司令部の総参謀長小林淺三郎中将、西部軍参謀長芳仲太郎中将及び八原参謀を防衛総司令部作戦室に集めて作戦研究を実施した。 防衛総司令部では南西諸島特に大東島の防衛を重視して八原参謀の意見を聞いた。
八原参謀は大東島を視察(19年4月27日) したこともあって現地の状況は知っており、「米軍の大東島来寇の算は極めて少なく、この島に過大の兵力をあわてて投入する 必要はない」旨を述べ、これに関連して無数の島々に限りある兵力を分散配置するのは適当でなく、沖縄本島に集結すべきであると主張した。
これに反し防衛総司令部の意向は、敵が利用する虞がある航空基地及びその適地にある島々を確保してその利用を防止すべき であるというにあった。

【公刊戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦 P50】

19年6月中旬であった。防衛総参謀長小林浅三郎中将は、西部軍参謀長と沖縄軍高級参謀・八原博通大佐を 総司令部に招致した。大本営、防衛総司令部、西部軍がその指揮の責任において南西諸島防備に努力したにもかかわらず、 現地軍自体必ずしもそれに対応する気配が感じられなかったからである。(中略)

打ち合わせ開始の冒頭、八原大佐は現地軍の構想を先ず述べたいといって口をきった。同大佐は人も知る俊秀であり、 陸軍大学を恩賜の軍刀で卒業し、米国に遊び陸大兵学教官の職を経た人である。
「奄美大島、宮古、石垣、沖永良島、南大島の諸島の兵力を全部沖縄に集結し、同島の防衛力を強化す」 八原大佐の主張はそれに尽きた。防衛総司令部の幕僚達は実にあっけにとられ、奇妙な驚きさえ覚えたのである。 無条件の前提では、その考えは有力な、いな最良の方策であったかもしれなかった。しかし作戦構想には必ず前提がある。
(中略)米軍がかりに沖縄本島を監視するにとどめ、その他の島々に航空基地を造成したら結果はどうなるのか。 (中略)現地軍の構想の中には、「己の周囲になるべく多くの兵力を集めて健在を図ろう」とする考え方と、航空武力を必ずしも 重視しないとする考え方が、微妙にちらついていた。
防衛総司令部加藤高級参謀、西岡作戦主任参謀は(中略)と説明して納得させようとしたが、八原大佐は頑として自説を主張した。

6月27日 私は所属する西部軍参謀長芳仲中将に随行して空路上京した。(中略)防衛総司令部では本土防空の高等司令部 演習が実施中であった。(中略)この演習中、現在のマリアナ失陥の戦況において、大東島の価値について論議の一場面があった。
参謀本部、防衛総司令部ともにマリアナ線を攻略したアメリカ軍は、勢いに乗じ、まず大東島を奪取し、これを足場にして 南西諸島に殺到する公算が大であるとし、とりあえず大東島の守備を強化すべしという意見が強かった。やや即席的であったが 求められるままに私見を申し述べた。(中略)

今、南西諸島の防備を強化するとせば、大東島如きに幻惑するのをやめ、もっとも要地である沖縄本島にこそ急遽兵力を増派 すべきである。従来太平洋の島々に、所要に充たない地上兵力を逐次泥縄的に分散配置し、逐次敵のために撃滅されてきている。 真に来攻を予期する重要な島を選んで、決勝的地上兵力を時機を失せず配置し、十分な戦闘準備を整えることこそ肝要である。
私の意見が極端と思われたのか、芳仲中将は「君の意見を拡大すれば、沖縄本島も棄て、さらに重要な九州に兵力を集結すべき だということになるぞ」と揶揄された。

太平洋での作戦は、空軍によって決を争うというのは、わが最高統帥部不動の方針である。私の意見は、この戦略思想に対する 疑惑に発する一種の抵抗であった。すなわち、わが航空と海上の戦力が、敵に比してガタ落ちしつつある現況に鑑み、地上戦力の 活用を一層重視すべきであるとの意見なのである。


■事例3 第9師団抽出問題

よく知られているように、捷一号作戦発動に伴い兵力の比島集中に腐心した大本営は、台湾、沖縄から兵団抽出を決定、台北での協議を経て沖縄からも第九師団(原守中将)を抽出するに至った。しかし、後に服部卓四郎作戦課長が「魔がさしたとしか言いようがない」と述懐したように、敵上陸が必至とされた沖縄からの兵団抽出は、第三十二軍の作戦構想に極めて重大な影響を及ぼすこととなった。

第九師団の抽出は、築城や訓練の成果が逐次向上しつ必勝の自信を高めつつあった沖縄部隊に精神的に大きな打撃を与えた。 「沖縄では敵にひと泡吹かせてやる」と意気軒昂、作戦準備に精魂を傾けていた剛強の長参謀長もがっかりした様子であった。
*注釈 八坂中佐(第32軍船舶参謀 20年1月29日に離任)の戦後の回想に基づく

【公刊戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦 P135】

沖縄作戦の当事者は私を含めて、大本営の施策を非難し勝ちである。しかし冷静に最高統帥部の考えを思うと、当然の処置であり、 全般作戦の立場から首肯しなければなるまい。(中略)
大本営は第9師団抽出以来、その補填のため一個師団を沖縄に派遣する腹案をもっていたが、逐次具体化し在姫路第84師団を増派 することを内定し、1月22日内奏を終え、第32軍にその旨を打電した。が、あとを追って不可解にも大本営は突如としてこれを 中止し、沖縄軍はまさしく糠よろこびに終わった。この事も前の第9師団抽出と同様、沖縄側当事者から非難される事である。
13日「沖縄島に在る兵団中、再精鋭の一兵団を抽出するに決せり。その兵団の選定は軍司令官に一任す」との電報を受領した。 万事休すだ!!論議はしなかったが、台北で提出したあれほど理路整然とした軍の意見書は、ついに採用されなかったのである。 せめて一兵団を抽出するのであれば、沖縄からでなく宮古からにしてもらいたかった。それに沖縄から抽出するのなら、 後日、代わりの兵団を補充する意図を、一言漏らしておくべきであった。
大本営の電報を受領した軍司令官や参謀長は案外冷静であった。なぜに平素の強情を発揮して、沖縄防衛陣の崩壊を進んで 阻止しようとされないのだろう?(中略)
11月17日、(第32)軍の報告に基づき、大本営は第9師団を比島方面に転用する旨発した。軍司令官は、台北会議に提出された 意見の如く、沖縄島の防衛には責任を負わずとは、この際中央に対して意思表示もされず、また別に激越な行動にも出ず、 そのまま大本営の命令を遵法された。今や実質的に、沖縄防衛の希望はこれを契機として永遠に消滅し、日本の運命はさらに 決定的となったのである。
この上さらに姫路の第八十四師団の派遣が一旦上奏されながら、一夜にして中止と決定されてしまう朝令暮改を迎え、大本営の決定を肯定的に捉える神参謀は別にしても、第三十二軍首脳陣の大本営を含む上級司令部に対する不信感は、ますます助長することになる。
なお、台北での会議に際し、通常熱狂する性格の長参謀長は不思議と冷静で、八原大佐を強く戒め沈黙を命じているが、この理由は、外交家肌の長参謀長が八原大佐の交渉下手を懸念してのこと、とも言われている。


沖縄戦回想の比較 VOL.2