インパール作戦の敗将 牟田口中将の晩年

 あれは昭和40年ごろだったかと思うが、はっきりした記憶はない。
 しかし8月19日という日だけは、覚えている。その日の午後、杉並の連光寺で、
 インド独立の志士・チャンドラボースの慰霊祭が行われた。ボースはネール元インド首相とともに、
 インド独立運動に生涯を捧げた熱血の闘士で、インド民衆から救国の英雄と畏敬された人である。

 (中略)
 8月15日、日本の無条件降伏を知ったボースは、シンガポールから日本への亡命の途中、
 台北で飛行機事故に遭遇重傷を負い、19日の午後、台北陸軍病院で息をひきとった。
 ボースの遺骨は故国へ還ることもなく、連光寺に保管されたまま今日に至り、その命日には
 旧ビルマ方面軍ゆかりの人たちによって、ひそかに法要がいとなまれていたのである。

 その日、私は元駐独大使の大島浩中将に偶然電車内でお会いし、
 「よかったら出席してみないかね。珍しい顔ぶれが揃っているよ」と誘われたことから、
 好奇心も半分手伝って、大島さんのあとについていった。

 なるほど、大島さんのいうとおり、珍しい顔ぶれが本堂の広間に集まっていた。
 元ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将、元第28軍司令官・桜井省三中将、
 元第18師団長・田中新一中将、元第28軍参謀長・岩畔豪雄少将、
 第15軍作戦参謀・橋本洋大佐など、将軍、参謀数十人が、駄菓子を頬張り、
 でがらしの茶をすすりながら、懐旧談にひたっていた。
 どの人も、かつてボース氏とともに、ビルマの戦場で英印軍と戦った人たちである。
 私は大島将軍から紹介されて挨拶をかわしたあと、なにげなく回廊の濡縁にでた。
 そのとき私は意外な情景をみたのである。

 濡縁の階段の片隅に、ひとり背をつぼめてうずくまり、天にむかってそそり立つけやきの大樹を
 見上げている老人の姿がそこにあった。降るようにかしましい蝉しぐれに、耳を傾けてでもいるのか、
 老人の目は空間の一点にそそがれたまま、動こうとはしない。
 広く禿げ上がった額、象のように細い目と目尻のいくつもの小皺。そして、太く逞しい猪首の赤ら顔−
 <−牟田口廉也!>
 私は写真でしか知らない、牟田口中将の特徴ある風貌を思い出していた。
 だが、そうして佇まっている牟田口将軍の姿は、私には異様に映った。異様でなくてなんであろうか−
 かつて、ともに戦った仲間たちが、何年ぶりかで一堂に会し、久闊を叙しあっているというのに、
 その談笑の中に入ろうともせず、ひとりぽつんと空の一角をみつめているのだ。(中略)
 私はそこに見た−
 汗のしみた白い開襟シャツの背中をまるめたまま、ひとり物思いに耽る老将軍の後姿に、
 憂悶と孤愁にも似た翳りが、色濃く刻めこまれているのを−(中略)

 法要がおわったあと、私は、大島さんの紹介で、牟田口さんと名刺を交換した。
 そのとき、大島さんが冗談めかしにいった。
 「牟田口さん、あなたにもいいたいことが、たくさんあるでしょう。どうですか。この人にきいてもらっては」
 老将軍はうすい眉をぴくりとうごかして、私を一瞥したあと、あいまいに頷いただけで境内を出て行った。
 それから二週間ほどして、私は牟田口さんから一通のハガキをうけとった。
 「…一度懇談の機をえたいので、折よき日にご来駕ありたし」といった文面だった。

 (中略)
 私が調布石原町に老将軍を訪ねたのは、それからさらに三ヶ月ほどすぎた十月末であった。

 相良俊輔氏(作家)


相良氏は、牟田口中将より元英国軍インパール作戦当時の作戦参謀だったパーカー中佐からの手紙を見せられ、
『私が計画したインパール作戦が、戦略として妥当なものであったのか、作戦そのものが無謀であったのか、もう一度確認したい』 と言われ、その後数回にわたり中将宅を訪問、作戦に関する資料や遺族からの恨みの手紙等を読み、戦後二十年、多くを語らなかった牟田口中将の心のうちを、何らかの形でまとめて発表することを約束する。
しかし昭和41年8月、心筋梗塞に脳梗塞を併発し牟田口中将は急逝、約束は果たせなかった。

死去する一ヶ月前に、牟田口中将はこう言ったという。
『たとえパーカー中佐の証言によって、インパール作戦が間違っていなかったことを確認し得たとしても、数万の部下を死なせたという事実は、けっして消えはしない。やはり、私の心は生きている限り、晴れやしないのです・・・』