検証:栗林忠道中将の最後A 堀江参謀回想記



堀江氏の著作による回想記を、以下に掲載する。
司令部内部の人間模様が垣間見れるものの、不思議なことに「兵団長は降伏を主張した」「中根参謀に殺害された」等々の記載は一切見られない。


昭和40年3月発行 堀江芳孝氏著 闘魂・硫黄島(恒文社刊 のちに文庫本となったものではない)
当時メリーランド大学極東部講師

(昭和19年)6月29日の朝は晴天であった。基地司令野中海軍少佐の見送りをうけて機上の人となった。内地の景色をこれが見納めと機上から眺めているうちに眠りに落ちた。
(中略)
おんぼろ自動車で20分ほどの砂道を走って北部落の兵団参謀部についた。12時ちょっと過ぎである。(中略)私はある下士官の案内で、約150メートル離れた兵団長のいる民家に歩いていった。地下足袋で兵隊の開襟シャツを着けた栗林中将は、民家の入り口に立っていた。初めて会う人だ。
「やあ、きたかい。おれも東京師団長であったが、幹候が火災を起こしてクビになりぶらぶらしていたら、こんな騒ぎでこんなところにやってきたよ。内地はどうだい」私がそれに答えようとするとサイドカーが迎えにきた。「陣地を見に行く約束をしたんだ。後でゆっくり話そう。悪いな」と中将は言って、サイドカー上の人となってどこかへ行ってしまった。

(中略)

兵団参謀部に戻ってきて参謀その他と話をした。(中略)誰かが兵団長が細かいとこに口を出し、やかましくて困るのです、と言っていた。午後5時ごろだったと思うが、藤田中尉がやってきて「閣下が今夜、参謀殿と食事をしたいといわれております。用意ができたらお迎えに参ります」という。
(中略)
なんだ君は鈴木(宗作中将)の部下だったのか。頭の良い人だね。教育総監部で一緒だったよ」中将はなつかしそうな顔で続けた。「永田さん、今村さん、鈴木さん、あのころは君、教育総監部はそろっていたよ。相沢とか何とかいう気違いが殺しちゃって、国宝を失っちゃったんだ。あきめくらの馬鹿めらが、愛国だのヘチマだの言って、見さかいのつかないことをやるからこのざまだ」語気が荒い。
(中略)
「分からないものだね。人の運命なんて。かなり前のことだが大尉のころ3年もアメリカにいて、同じ隊の将校に運転を教わり、自動車を買ってあちこちまわったが、軍事と工業の連結は素晴らしいものであった。デトロイトも見たよ。ボタン一つで全工業が動員され、実業家が陸軍長官や海軍長官になって軍需工業の裏づけをやるんだからたまらない。
日本じゃバタ(歩兵の俗称)が幼年学校を出て皇軍の根幹だとか抜かして〜君も幼年学校出のバタ上がりか、失礼、はばを利かせて戦争指導だなんてやらかしているんだから、どうしようもない」「中学出身ですがバタです」私は答えた。「ああ、そうか。いくら言っても欧州帰りはおれたちのいうことは聞いてくれないんだ」語調はますます烈しくなる。

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8月10日、過去40日間の経過報告のために硫黄島に飛んだ。一升ビン2本に父島の水をつめ、風呂敷いっぱいに、ねぎとほうれんそうを入れ、これをぶら下げて行った。父島からの土産としては最高のものであった。

まず参謀部に着くと、堀参謀長、西川参謀長、吉田参謀がいた。参謀長は相変わらず長いひげをひっぱりながら笑って迎えてくれたが、初めて会う吉田参謀と、旧知ながら西川参謀の機嫌が不穏なところへぶつかった。参謀長が吉田参謀と私の間に紹介の手を伸ばし、やや和やいだ。すると吉田参謀が「私は工兵出身で築城の主任で現場で陣地指導をしても後から兵団長がきて片っぱしから修正してしまう。しかも私に何も言わない。けしからん。私の立つ瀬がない。(陸大)専科出を馬鹿にしていやがる…」と息巻いている。
「ちょっと兵団長のところに報告に行ってきます」と私が言うと「どうぞ天保銭(陸大出身者の俗称)二人で仲良くやってください」と西川参謀が皮肉を言う。私は何かあったなと直感した。

(中略)

その夜、兵団長の宿舎で40日ぶりで会食した。ウイスキーを2、3杯空けると「参謀は専科出ばかりで役に立たないし、独歩の大隊長は、お墓一歩前のロートルで仕事にならない。のろまで歯がゆくてしようがないが父島はどうか」という。
私は今日参謀部に到着したときの空気を思い出しながら「父島でも老齢者が多くて、船の卸や荷物の分散が夜中の2時3時になると、部隊が動かなくなります。大隊長も陸士17期とか18期の召集中佐が主体ですもの、無理もお願いきないし、困ったものです。陣地構築にしてもどうせ近々死ぬのだから、そんなに穴を掘っても仕方がない。楽しく死んだ方がよい、という先輩にもぶつかりましたよ。60越して腰が曲がり出せばやむを得ないのじゃないでしょうか」といった。
「日本も終わりだよ」と、彼はつぶやいてウィスキーを注いだ。私は兵団長が余りにも自分独りで現地指導に出、アクセク働いて神経衰弱気味になっていることを知った。
(中略)
翌8月11日朝、私は兵団司令部の朝礼なるものに出た。(中略)それが終わると兵団長が参謀長を面罵し、ひげで作戦はできない、と凄い剣幕である。私は顔を背けてその場を逃れ、何食わぬ顔をして参謀部にもどってきた。下士官の出してくれるお茶を飲みながら、司令部内の空気を考えて見た。
(中略)
第二旅団司令部にかけ寄った。たまたま街道大佐(砲兵隊長)と堀参謀長がきていた。旅団長(大須賀少将)と堀参謀長が、兵団長から見込みが悪くて叱られてばかりいると私に語った。私は十五分か二十分ほどこれら三人の大先輩から色々と話を聞いて、はっと分かった気持ちになった。

(中略)

どうしてあれほどの鉄石の態度が出たのか私にはわからない。あるいは、栗林家の血の流れなのかも知れない。自分の思ったことを人の前でずばりといい、いったら最後、とことんまできかない強引なところがあった。
(中略) 温厚篤実タイプは兵団長の強烈な意志と両立できなかった。とうとう参謀長と旅団長は更迭となり、その後に歩兵戦闘の権威がきた。もっとも大須賀少将は健康がすぐれず、更迭後、師団司令部付となったが入院した。

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<前兵団参謀長 堀大佐について>

鉄道畑の人で陸大専科出身であった。他人の話をよく聞いて小さな手帳にメモをとる習慣を持つ、きわめて温厚に見える堀大佐が、なぜ長いひげを伸ばしていたのかわからない。また、かなり親しいように見えていた兵団長との仲が、どうして悪くなったのか私にはわからない。8月、私が硫黄島に行ったときはすでに二人の仲はどうにもならないところまできていた。
両方とも他に求められない長所を持ちながら、どんな家庭でも、どんな司令部でも米軍でも同じことではあるが、特に離島においては、昼の夜も一緒に生活するため深刻になるわけである。12月30日付けで混成第2旅団司令部付となった。誠に気の毒な人である。戦闘にあたっては3月9日朝、混成旅団の万歳攻撃で戦死したとも、5月ころまで洞窟内に生きていたともいわれている。私個人から見ると、親しい、親切な、控えめな上官であり先輩であった。悲劇の人であった。


<栗林兵団長の最後>

これについては色々な人々(日本人ほか米国人も含めて)から話を聞いているが、米軍が上陸してくる直前の2月3日公用で東京に出張し帰島できなくなった元高級副官小元少佐が、戦後生還者から聞いた情報が正しいのではないだろうか。

最近同氏から私に送られた手紙は、このように述べている。

栗林兵団長は軍紀の厳しい将軍であり、時間の厳守、即時実行主義の人であった。しかし一面温情あふるる面もあった。絶えず島内を巡視し、隈なく地形地物を記憶し、陣地の編成、構築を指導し、この間ポケットに恩賜のタバコをしのばせ精励する歩兵に分けておられた。コップ一杯の水で歯を磨き、顔を洗っておられた。司令部でも野菜作りを始め、これを炊事に供出した。甘藷は1年中つるを延ばして育成し、その新芽の尖端1センチくらいをつんで湯にとおして醤油をかけてよく食べられた。
次に兵団長の最後については色々報道されているが、実際は3月27日であり、常時側近に行動していた下士官の話によると、17日の夜の出撃時に脚に負傷して行動が不自由となられ、27日朝、高石参謀長、中根参謀とともに自決された・・・これが真相のようです。


<あとがき>

私はこの冊子でできる限り正しいもの、つまり真相を伝えようとした。そして遺族はじめ、生存者各位、引揚援護局はては米国人から惜しみのない熱烈な協力を得た。しかし1万9千名の遺族全部に満足していただくような詳細にして正確なものができないことを残念に思っている。