陸軍中野学校

陸軍の秘密戦要員を育成する学校。
そもそも陸軍には独立した『諜報・謀略組織』はなく、参謀本部第2部がその種の任務を担当していたが充分ではなかった。支那事変はますます激化し、単なる武力だけでは事変は解決しえないことを痛感した軍首脳は、

1) 国際情勢/機密情報の収集分析
2) 宣伝工作
3) 謀略活動

を任務とする参謀本部第2部第8課(謀略課)を新設、初代課長には影佐禎昭大佐(26)が任じられた。影佐大佐はのちに『王精衛工作』 即ち汪兆銘を重慶から離反させることを支援した人物であり、南京政府軍事顧問も勤めることになる中国通であった。
一方陸軍省も諜報・謀略の重大さを認識し、陸軍省兵務局内に防衛課を新設、防諜任務を担当することとなった。さらに、牛込の陸軍軍医学校と騎兵第1聯隊の間に庁舎を新築、『兵務局分室』を設立した。海軍は既に軍令部第3部の第5課がアメリカ、第6課が支那、第7課がソ連・欧州、第8課がイギリス連邦をそれぞれ諜報担当して機能しており、こと諜報に関しては陸軍より一日の長があった。

そうした中で、諜報戦の重要性を強調しさらなる充実した専門機関/専門要員の養成機関の設置を検討していた陸軍省兵務局の秋草俊中佐(26)や軍務局の岩畔豪雄中佐(30)などが中心となって、昭和12年12月 陸軍省兵務局内に情報勤務要員養成所設立準備事務局が設置された。昭和13年4月には、防諜研究所新設に関する命令により準備を進め、陸軍大臣に属する 『後方勤務要員養成所』 の名称で秘密戦 即ち謀略・防諜・宣伝の要員を養成する期間が東京・九段に設置された。 こうして中野学校は誕生したのである。

初代後方勤務要員養成所長として、設立準備委員の主唱者であった秋草俊中佐が任じられ、昭和13年 7月 第1期学生19名が入所し教育を開始した。
士官学校出身者から学生を選抜されることも検討されたが、近代戦の在り方を想定していた設立準備委員は、軍人勅諭や典範令で軍人精神を叩き込まれた陸士出身者では複雑で臨機応変なる諜報活動は勤まらないであろうとして、予備士官(幹部候補生)出身者から選抜採用された。 (のちに陸士出身者も甲種学生として採用)

各部隊から推薦された人物をまず憲兵隊が改めて調査し、選考された人物のみ東京に召集し、適正と人物試験を厳格に行い、第1期生19名を採用した。中野学校という校名を口にすることは禁じられ、校門には『陸軍省通信研究所』という表札が掲げられていた。部内では秘匿名称として『軍事調査部』とか『東部第三三部隊』と呼称された。中野学校の職員及び学生は、軍服を着用することは認められず、それどころか本名を捨てさせられ、偽名(防諜名)を名乗ることとなった。

第1期生の教育時間は
 学科 1110時間 (軍事学、外国語学 社会学 ほか)
 術科  262時間 (武術 暗号 写真撮影 ほか)
 術外  495時間 (細菌学 心理学 犯罪手口 自動車・航空機実習 忍術)
ほかに実習が準備されており、大東亜戦争勃発後は占領地行政に関する教育も併せて行った。

昭和14年7月 第1期生18名(1名は中退)が卒業。当初は長期の外国駐在勤務務を想定していたが、在外武官室勤務者は多くなく、むしろ戦局に応じて関東軍、支那派遣軍などの特務機関勤務者が多数を占めた。昭和15年8月 『後方勤務要員養成所』を改組して東京・中野駅前(現在の中野区役所)に『陸軍中野学校』として開校。陸軍大臣の隷下に属し、昭和17年からは参謀総長の隷下に入った。昭和19年 8月 遊撃戦部隊幹部要員の短期養成を目的として静岡県盤田郡に二俣分校を開校。小野田寛郎などの残置諜者を輩出した。
本校卒業生は約2200名に達し、世界の至るところで特殊任務に就き大きな業績を挙げた。