大東亜戦争の目的は、@に自存自衛であり Aにアジア諸国の解放=植民地体制の粉砕にあった。
緒戦の連戦連勝によって植民地の人々に独立の希望を与えただけでなく、戦時下の短期間に植民地民族を組織し、訓練し、軍事力・行政力を養成し、独立精神の高揚を促すといった 非常に困難な任務を見事に執行したのは、下記に代表される機関であった。

南 機 関

大本営はビルマ独立と援蒋ルートの一つであるビルマルート遮断を目的として、鈴木敬司大佐(30)を長とする大本営直轄の工作機関を設立し、これを南機関と称した。南とは鈴木大佐の偽名 南益世より命名されたものである。

オン・サン(アウンサン スー・チー女史の父)、ネ・ウィン(後の大統領)ら30人のビルマ独立の志士を中心として昭和16年末 BIA(Burma Independence Army)ビルマ独立義勇軍を編制、川島威伸大尉を教育隊長として海南島などで軍事訓練を施した。
BIAは第15軍のビルマ進攻作戦に参加、様々な活躍を見せた。ビルマ攻略後、日本は軍政を実施しビルマの独立を当初は認めず、独立を主張していた南大佐は昭和17年7月 大本営の命により帰国し南機関は解散の止む無きに至った。

しかしその後の昭和18年8月 ビルマは独立を果たし、30人のビルマ学生が陸軍士官学校に入学した。彼等は終戦後、ビルマ国軍の中枢として独立後のビルマを支えた。
その後正式にビルマ国防軍が新設され、南機関にかわってビルマ軍軍政顧問部が設置された。澤本理吉郎(30)少将、櫻井徳太郎少将(30)が任じられたが終戦直前、英軍への内通者による叛乱が起き、日本軍はラングーンから撤退、軍事顧問部は解散した。

 
F 機 関

大本営は開戦前、日本は対英開戦の場合を考慮しマレー方面におけるインド独立工作のためタイ武官である田村浩大佐(28)の下に参謀本部第8課の藤原岩市少佐(43)を長とする機関をバンコクに設置、これをF機関と称した。機関長の名前と‘自由’という意味から命名された。

当初は参謀本部や中野学校から派遣されたわずか10人程度からなる小規模なものであったが、開戦後、F機関はインド独立連盟と協力して工作活動を行い、シンガポール陥落に伴い多数の帰順したインド兵捕虜をもってインド国民軍(INA)の編制に当たった。F機関の目的は、日本軍の戦闘を有利に進めることと同時にインド独立軍を建設しインドの独立を勝ち取ることでもあった。やがてビルマ攻略によって発展的に解消し、インド独立支援の活動は岩畔機関に引き継がれた。

 
岩 畔 機 関

インド工作は、マレー作戦の期間中は当面英印軍を内部崩壊に導くために対インド人工作を主としていたが、マレー作戦終了に伴い直接インド全体に呼びかけ、反英運動を激化させインドの独立と戦線離脱を狙った。そのためF機関に代わり岩畔豪雄大佐(30)を長とする岩畔機関が設置された。

昭和17年4月 サイゴンで編制され、総務・政治・情報・特務・軍事・宣伝の6班からなり、設立当初は約250人であったが、やがて500人を超える大組織となった。軍事班はシンガポールに設置され、インド国民軍約10000名の指導的役割を担った。F機関によって開拓されたインド独立工作を、大規模な国策的施策に拡大し基礎作りを果たしたのが岩畔機関であった。
やがて発展的に解消し、その任務は光機関に引き継がれた。

 
光 機 関

インド独立運動の英雄・チャンドラ・ボースがドイツから潜水艦を乗り継いで来日したことにより、ボースと親交が深いベルリン駐在の山本敏大佐(32)が、岩畔豪雄大佐の後任として機関長に任命され、昭和18年3月 これを機に岩畔機関は光機関と改称された。 ヒカリとは、インド語で『ピカリ』という言葉と、『光は東方より来る』という伝説の光という意味より命名されたものである。

大本営は昭和18年秋ころから遊撃戦を重視し、ビルマ方面の遊撃戦をチャンドラ・ボース指揮下のインド国民軍を中核として実施することとし、光機関は昭和19年1月 南方軍遊撃隊司令部となった。任務はインド独立運動の援助とビルマ全土に展開される遊撃戦の指導と実行でインパール作戦にも参加した。機関本部には機関長のほか参謀部、副官部のほか岩畔機関同様各班があり、別にマライ支部、タイ支部、サイゴン出張所などがあった。昭和19年1月からは磯田三郎中将(25)が光機関長に任ぜられ終戦まで軍事顧問団として活躍した。

この他にも、インドネシアのPETA(祖国防衛義勇軍)やスマトラ・マレー義勇軍などをを養成し独立を支援した第16軍(ジャワ派遣軍)や南方軍などから組織されたグループなどが存在した。独立闘争が実を結ぶことのなかったアジア各国の独立は、大東亜戦争によって達成されたのである。