対米英心理作戦 日本軍によるもの1



伝単=宣伝謀略=ビラの撒布は、まさに戦わずして敵を制する古典的かつ単純な謀略の第一歩である。
組織化されていない伝単そのものは、日清、日露の戦役から見ることができたが、戦略化された正規の伝単の登場は、上海事変の昭和12年からと云われている。そして大東亜戦争に際して陸軍は、参謀本部/大本営陸軍部第二部第八課=総合情勢判断、宣伝・謀略、暗号解読、防諜等=が主として管掌し、海軍は大本営海軍報道部=昭和20年5月には陸海軍報道部として統合=が担任した。それ以外にも、前線部隊が独自に行ったもの、在外公館、通信社等報道機関によるものも存在した。

参謀本部第二部第八課(課長武田功大佐のち西義章大佐、永井八津次少将)の伝単作製グループは、文筆家、漫画家、画家などが徴用され軍嘱託の宣伝・報道班員として配属されており、 これはドイツ軍のPR(宣伝中隊)の組織編制を参考にしたものである。アメリカ人の国民性や心理を知るために、そこでの生活が長かった帰国者の知識も大いに参考とされた。
内容は以下に紹介するように、文章よりも訴求性の高い絵、イラストが多く、オフセットの多色印刷機による本格的なものであった。 対して米英のものはモノクロが主体でカラーのものは稀であった。印刷は鮮明で米英軍のものより絵は上手く、紙質は別にしても技術的にも高かった。日本軍が大東亜戦争中に撒いた伝単は約千種類に達するといわれている。

一方敵側=主として米国による伝単作戦は、昭和17年(1942年)6月に発足した「OWI 戦時情報局」がその中心を担った。日本を知る米知識人、二世、日本研究家などが、コロラド大学やミシガン大学で日本語の特訓を受けながら、通訳、対日放送、宣伝ビラ作製にあたった。しかし英語に精通した日本人に比較して、日本(語)に精通した米国人・英国人はあまりに少なく、人情の機微をつくような日本語が必要とされたために結局は日本兵捕虜を利用することとなった。
日本本土に対して大量の伝単が撒布されるようになったのは昭和20年2月17日からで、東京では特に計38回各種類のものが投下された。(財)「東京空襲を記録する会」の資料集によると、日本に投下された伝単の総枚数は458万余にのぼったという。

暗号解読等の情報戦では苦戦を強いられた日本ではあるが、心理戦、殊に謀略伝単については、米英を凌駕した内容であったといえよう。


伝単集1   伝単集2   伝単集3   伝単集4   伝単集5   伝単集6   伝単集7   伝単集8

 

英印離反を図ったもの

大英帝国の存続のために、無抵抗のインド人たちは
大砲のえじきになっている、という意味の言葉が
各国語によって書かれている。

上部 ウルドゥー語/北部インド、パキスタン
中部 ヒンディー語/インド主要領域
下部 ベンガル語/バングラデシュ

一般インド人対象

復讐!復讐!
いつまでも英国の奴隷になるな!

インド独立

英鬼から解放するのはこの斧だ。
我等インド人には苦しい歴史がある。
独立の斧を振る以外にインド人の救いの道はない。

拷問と虐殺で明け、搾取と餓死で暮れた
インド300年の歴史を、今こそ我々は
独立の斧で呪縛を断ち切れ。

原住民の反英感情を煽るため、
アンダマン諸島に撒布された伝単。

インド人の飢餓をよそに、豪華な食事を楽しむ英国人

   謀略ビラ 2