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ライター
●カレーライス
プロフィール:1956年。山陰の小都市に生まれる。生家は古いモナカ屋さん。現在、なぜか女子大の先生。一昨年は白血病に侵され、骨髄移植で九死に一生を得る。このコラムでは、「子ども」を主題に脱力の論陣を張る予定。

Information

●最新刊
『子ども論を読む』小谷 敏 編著
世界思想社 本体2000円
2003年発行
四六判 288頁
ISBN4-7907-0999-X

●既刊
『若者論を読む』
出版社: 世界思想社 ; ISBN: 4790704815 ; (1993/10)

『若者たちの変貌―世代をめぐる社会学的物語』
出版社: 世界思想社 ; ISBN: 4790707083 ; (1998/04)

[目次]

第1回 少年と親分
第2回 歯医者のおじいさん
第3回 おばあちゃんが死んだ
第4回 家族の不和
第5回 犬を飼う
第6回 仲良きことは美しき哉
第7回 東京からの転校生(上)
第8回 サッカーを憎む 東京からの転校生(下)
第9回 夏休みの宿題
第10回 カシムラさんのおしり



第11回 国際もなか資本
第12回 最後の晩餐

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以降のコラムはこちらのバックナンバーより閲覧できます。


第1回 少年と親分

 「光は街の央(なか)よりと…」。ぼくが卒業した小学校の校歌の一節である。校 歌が示すようにこの学校は、学校令発布とともに生まれた古い歴史と、T市の中心に 位置するその立地とを誇りとしてきた。ぼくの小学生時代は、高度経済成長の最盛期 と重なる。この小学校の校区では商店街が賑わっていたから、わが同級生の多くは商 売人の子どもたちだったのである。活発でかわいいあかねちゃんの家は、バー「ブラッ ク」。お店はお母さんがやっていた。お父さんはT市では知らぬものとてない、泣く 子も黙るヤクザの親分だったのである。

 ぼくたちはよく「ブラック」に遊びに行った。あかりちゃんのお父さんは「堅気」ではないから、平日の昼間に家にいることが多かった。子煩悩な彼は、よくぼくたちと遊んでくれたのである。ワキタ君という男の子は、格別親分になついていた。「おじちゃん、馬になれ!」。ワキタ君は親分を馬にして遊ぶのが好きだった。極彩色の入れ墨をほどこした親分の背中にまたがってご満悦のワキタ君の表情を、いまでもぼくは鮮明に思い浮かべることができる。

 ワキタ君は参観日に「学校で楽しいことは?」と先生に聞かれて、「給食!」と答える元気のいい子どもだった。おじいさんも、お父さんも、二つ上のお兄さんも警察官。警察一家に育った彼は、工業高校を卒業すると当然のように警察官になった。就職してしばらくするとワキタ君にとんでもない役目がまわってきた。親分を逮捕しなければならなくなったのだ。 ワキタ君は「ブラック」の2階に踏み込んだ。親分はそこにいた。目を閉じて警察無線を聞いている。床には『警察無線ファン』だかの雑誌が散乱していた。親分は無線傍受マニアの間でも、名の知れた存在であった。「〇〇。銃砲刀剣類等不法所持の疑いで逮捕する」。ワキタ君は、親分の目を見ないようにして、事務的に罪名を告げると手錠をかけた。警察に連行されるパトカーのなかで、親分はワキタ君にこう話かけた。「坊主。大きゅうなったのお」。


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第2回 歯医者のおじいさん

 子どもの頃、近所に歯医者さんが2軒あった。一軒は小奇麗で「近代的」な、高度成長の時流に乗った医院である。ここは子どもの患者にチョコレートやチューインガムをみやげにもたせていた。子ども心にも、患者を拡大再生産しようという邪悪な意図を感じたものである。もう一軒は、おじいさんがやっている歯医者さん。相当な高齢で、診察中も手がブルブルと震えていた。思い出すだに恐ろしい。偏屈で、患者をどなりつける昔気質の医者だった。

 「近代的」歯科は流行っていた。門前市を成す盛況である。おじいさんの歯医者にかかるものは少なかった。手が震える歯医者などに、誰も診てもらいたくはないだろう。だが、ぼくはこの歯医者に通っていた。この医院のロビーには、カラーテレビが置いてあった。東京オリンピックをはさむこの時代に、カラーテレビなどまだT市では大変な貴重品だったのである。大好きな「ひょっこりひょうたん島」をカラーで観る。それが「恐怖の報酬」だった。

 T市の真中に広い地所をもつこの歯医者のことを、ぼくの周りの大人たちは「あの先生は分限者(ぶげんしゃ)だけえ」と言っていた。「分限者」とはつまりブルジョアのことである。土地を所有し、医者という人々の尊敬の的となる職業についていた彼は、まさにブルジョアであった。そして、その特権を生かして好き勝手に生きた人生でもあった。 70を過ぎてから人妻を孕ませ、大騒ぎになったこともあった。「バイアグラいらず」の艶福家である。

 しかし彼は硬骨漢でもあった。大戦末期、町内の30代後半の男性に「赤紙」が来た。肺を病んでいて応召が遅れていたのだ。町内会長をしていた歯医者は、壮行会でこんな挨拶をした。「みなさん。もういけません。この戦争は負けです。この人は死にぞこないですで。そんなもんまで兵隊に取る国が、なんでアメリカに勝てましょうに」。憲兵や特高の刑事もそこにいた。だが歯医者に手出しをしなかった。多分、彼らも度肝を抜かれていたのだろう。


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第3回 おばあちゃんが死んだ

 生家のもなかやは、明治元年創業の老舗である。しかし戦争中は商売を中断していた。物資統制令がしかれ、砂糖や小豆が手に入らなかったためである。戦後、商売を再開したのが昭和27年。統制が解除され、シベリアに抑留されていた職人が戻ってきた年である。祖父は昭和16年に亡くなっている。商売の再興を担ったのは明治25年生まれの祖母である。

 祖母は、女傑として鳴らした人であった。商才に長け、華やかな人脈を誇っていた。お茶、お花、書道。芸事百般を器用にこなした上に、何故か薬種商の資格までもっていたらしい。そして祖母は、昔風の商家のおかみさんでもあった。ぼくが小さかったころ、わが家には何人か住み込みの従業員がいた。店の人も家族も同じご飯を食べる。毎日の食事は質素なものである。しかし大食漢の祖母はそれでは足りなかったらしい。市内Dデパートの食堂で、血のしたたるようなビフテキを貪るように食べている祖母の姿は、多くの人に目撃されていた。 祖母は、ぼくが5歳の時に倒れ日赤病院に入院していた。そして翌年一月「三八豪雪」さなかのある朝、祖母はわが家に帰ってきた。ぼくはうれしくて祖母の寝ているふとんにもぐりこもうとした。だが、すぐに異変に気づいた。親戚が集まり、祖母の顔は白い布で蔽われている。祖母に溺愛されていた6つ上の兄は号泣していた。そう。「おばあちゃんが死んだ」。

 初7日の夜。食卓にはビフテキが上った。みたこともないご馳走である。ビフテキ好きだった祖母を偲んで母はこれを作ったのだろう。しかしぼくは、そうはとらなかった。これは牛ではなく、「おばあちゃんの肉」だと思いこんしまったのである。火葬場までついていっておばあさんの骨も拾ったのだが、どこかで肉を取り分けたのだと考えたのである。気味の悪いことをするものだと子ども心にも思ったが、肉はおいしかった。「おいしいか」と母が聞く。「うん、おばあちゃんの肉はごっついおいしいで」。その瞬間、兄の鉄拳が飛んできた。

カレーライスさんのエッセイは烏書房さんでも読めます。烏書房さんへのリンクは以下の通りです。
http://homepage2.nifty.com/hon-karasu/


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第4回 家族の不和

 小学校の校長を長く務めた父方の祖父は、T県同和教育の先覚者の一人であった。被差別部落にある学校の校長をしていた時には、子どもたちの家庭を一軒一軒とまり歩き、地域の人々と親しく交わったのである。この行為は、大正時代のT県の人たちに深い感銘を与えた。もなか屋の女将である私の祖母も、この教育者に尊敬の念を抱いていた一人であった。だから昭和25年、後に私の父となるこの人物の次男が婿養子に来た時に、祖母は大層喜んだ。

 父の頭は25歳にしてすっかり禿げ上がっていた。だが彼は、弁舌爽やかな能吏(県の役人)であった。「品行方正。酒など一滴も飲みません」というふれこみで婿養子にやってきたのである。結婚式の夜に『きけわだつみの声』の一節を朗唱し祖母を感激させた。やはり人格者の息子は違う、と。だがすぐに化けの皮ははがれる。新婚5日目の夜、父は泥酔して帰ってきた。話が違うではないかとなじる祖母に父はこう言った。「やい、ばばあ死ねえ!」。

 祖母は人からちやほやされるのが大好きだった。他方父は無類の毒舌家である。うまくいくわけがない。とうとう父は、祖母を嫌ってY市に単身赴任してしまった。月に一度ぐらいしか家に帰って来なかった。たまに帰ってくれば、祖母との間に口汚い罵り合いが始まるのだ。父は卓袱台に向かい、祖母は帳簿をつけていた机に向かって、背中合わせの格好のまま夕飯を食べている。「反目」を絵に描いたようなこの光景は、ぼくの脳裏にやきついている。

 めったに家にいないトラブルメーカーの父に、ぼくが親しみを感じられるわけがなかった。父に対するこの疎遠な感覚は、かなり後まで尾をひいた。しかし家に帰っている間、父はぼくを寝かしつけながらT県の昔話を語ってくれたのである。彼なりの愛情表現だったのだろう。だが、これはぼくにとってはうっとうしい時間だった。父が好んで語るのは、意地悪なおばあさんが悪事を重ねた末に、最後には罰が当たって死んでしまう類の話だったのだから。


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第5回 犬を飼う

 子どもの頃の住環境は悲惨なものだった。店舗と家屋と工場がくっついている。われわれ家族は、工場の真上に住んでいた。菓子やの工場は、一日中高温で煮炊きしている。冬は暖かくてよかった。夏は地獄である。日中は40度を超え、夜も気温が下がらない。祖母の死後、役人を辞めて当主となった父は「改革」を断行。工場を郊外に移して、家族の家も別途借りることにした。ぼくたちは庭つきの家に住むことになった。昭和40年春のことである。

 庭つきの家に住んで、犬を飼う。これは兄の強い念願だった。「パパはなんでも知っている」。そして「名犬ラッシー」。テレビで刷込まれたアメリカ的な生活様式に、彼は強い憧れを抱いていたのである。引越しがすんで数日がたつと、さっそくぼくたちはDデパートに犬を買いに行った。大枚5000円をはたいて、芝犬を購入したのである。綺麗な犬小屋も一緒に買った。名前はブラッキー。英語の教科書に出ていた犬の名前だと、兄は言っていた。

 ぼくたち家族はこの犬を可愛がった。問題はエサである。昔のことゆえ、ドッグフードなどというしゃれたものはない。そこで、家族の食べ残しやら、近所の八百屋の余りものやらを貰ってきては犬に食べさせていた。この犬はものすごくよく食べた。どんどん食べて、身体もどんどん大きくなった。柴犬なのに秋田犬と見まがう体格になった。ぼくたちは最初、「エサをやりすぎたからこんなにデカクなった」ぐらいに考えていた。だが異変は続いた。

 ピンと立っていた尻尾も耳もダランと垂れ下がり、褐色の毛並みが汚い黄土色に変色していった。それでもまだぼくたちは「エサをやりすぎたから汚くなった」などと言っていたが、そんなことがあるはずもない。ぼくたちは雑種をつかまされたのだ。だがデパートに抗議をしなかった。この犬はすでに家族に溶けこんでいたからである。ぼくたちはこの犬を「ブラ」と呼んだ。「ブラッキー」という立派な名前も命名の由来もそのうちみんな忘れてしまった。


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第6回 仲良きことは美しき哉

 早期教育熱は衰えることを知らない。文字を早く読めるようになることが、本当にいいことなのだろうか。ぼくの祖母は、就学前の子どもに読み書きを教えることに批判的だった。「小さいうちから文字っちゃあなもんを教えたら、学校で先生をだらず(馬鹿)にするようになる」というのがその論拠だった。一理あるならん、とぼくも思う。先生を「だらず」にするかどうかはさておくとしても、既知のことばかり習ったのでは子どもも退屈するだろう。

 私の妻も、別の理由で子どもが文字を早く覚えることを喜ばなかった。どうせ学校に上がればいやでも読み書きを覚えなければない。文字のない世界からそんなに早く引き離す必要はない。それが彼女の主張である。これにも、なるほどと頷くものがある。文字は読めなくても子どもは文字に囲まれて生きている。読めないからこそ、「何だろう」という驚きの感覚も生まれてくるのではないか。また、文字が読めないことで広がる子どもの妄想も面白い。

 ぼくは、小学校に上がる前からひらがなとカタかなは読めた。寝室の本棚には世界文学全集が並んでいる。寝床で、その背表紙の文字を読むのが好きだった。漢字は読めないからこんな調子である。「…と…」(『赤と黒』)、「…と…に…りぬ」(『風と共に去りぬ』)。『アンナカレーニナ』は全部読めたが、アンナという女性に「カレーを煮なさい」と命じる話なのだろうと思っていた。そんな単純な話が、どうしてあんな分厚い本になるのか不思議だった。

 小学校の低学年のことである。父がお土産にお皿を買ってきた。それには、「仲良きことは美しき哉」と書かれていた。「武者小路実篤っちゅう人の言葉だ。ほんにええことを言いんさる」と父はご満悦だった。「仲良きことは美しき」までなんとか読めた。しかし「哉」が読めない。その皿にはかぼちゃの絵が書いてある。「哉」は「かぼちゃ」だと思いこんだ。「仲良きことは美しきかぼちゃ」。こんな言葉を有り難がる父は変な人だと、ぼくは思った。


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第7回 東京からの転校生(上)

 5年生の夏休み明け。1学年下にシマノ君という男の子が東京から転校してきた。色白でハンサム。勉強もスポーツもバツグンによくできる「できすぎ君」である。田舎の悪ガキどもが彼をよく思うわけがない。悪ガキどもは、下校途中のシマノ君にちょっかいを出した。するとシマノ君はこう切り返す。「やめなよ。君ぃ」。この一言が悪ガキを逆上させた。「こいつテレビみたいなことばを使うっちゃ!」。悪ガキは、さらに激しくシマノ君をいじめた。

 当時、東京と地方の間の格差は途方もなく大きかった。人々は方言のなかに地域の後進性の刻印を見出していた。奄美・沖縄のような「方言札」こそなかったものの、学校でも方言の使用は奨励されなかった。しかし、先生たちにしたところで純正な標準語だか東京弁だかに実際に触れた者は誰もいなかったのである。「あんたらあなあ、T弁ちゃあなもんを都会に出て使ったら恥ずかしいだで」。方言の禁止を方言で説く。そんな光景が日常化していた。

 東京弁など、われわれにとってはまさに「テレビのなかのことば」でしかなかった。それをシマノ君は自在に使いこなす。さらに彼はスポーツ万能、学力優秀等々、多くのプラスの記号を身にまとっていたのである。彼は、まさに東京的なるものの象徴であった。彼の前に立つと、ぼくたちは言い知れぬ劣等感に苛まれたものである。1学年下の彼に負けているという意識が、とくにぼくたちの学年のなかでシマノ君への反発が強かった理由なのだと思う。

 「東京の子どもは」というフレーズがシマノ君の十八番だった。「東京の子どもは冬でも半ズボンなんだよ」と言って、雪が50センチ積もろうが、1メートル積もろうが半ズボンで来たのはまだご愛嬌だ。だが午後から大砂丘にスキー遠足という日にまで半ズボンで登校して来たのはいただけない。クラスの連中はみんな怒っていた。泣いている者さえいた。「討ち入りだ!」だと言って騒ぐ彼らをなだめたのは、ぼくとクラス委員のカシムラさんだった。


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第8回サッカーを憎む 東京からの転校生(下)

 シマノ君には2歳年上のお姉さんがいた。元気のいい女の子だった。ぼくの学年の悪ガキどもが弟君をいじめていると、「ちょっとあんたたち、何してんのよ!」と威勢のいい啖呵を切り、彼らに飛びかかっていったものである。腕力でも気迫でも、悪ガキどもに全然負けてはいなかった。シマノ姉の逆襲にあってコテンパンにやられた悪ガキどもは、こうぼやくのが常だった。「東京の女は、ごっつい(とても)強いっちゃ。ほんにおとろしいわいや」。

 シマノの君のおねえさんも、顔は弟にそっくりだった。そして「テレビのなかのことば(東京弁)」を操るところも弟と同じである。しかし、不思議に地元の子どもから嫌われてはいなかった。もちろん人柄の違いもあった。だが、それ以上に「東京のことばは女々しい」と、ぼくらが感じていたことが大きかったように思う。シマノ君が「やめなよ」というのは気持ちが悪い。でもお姉さん(女の子)ならそれも許せる。そんな思いがぼくたちにはあった。

 ぼくも東京弁は苦手だった。そして、彼の前にでるとナチュラルに馬鹿にされているような印象をもった。その点では悪ガキと変わらない。しかしシマノ君をいじめるのは、恥ずかしいことだと思っていた。偏狭な田舎者根性丸出しではないか、と。それに彼から聞く東京の話はとても刺激的だった。彼もぼくには一目おいていた。シマノ君の目にぼくは、読書量豊富で知識欲も旺盛な「土着の知識人」と映っていた。二人の関係はとても友好的だった。

 春になった。シマノ君はサッカー部に入ってきた。メチャクチャうまい。6年の誰かがレギュラーから外れる。みんながそう思った。レギュラーから外れたのはぼくだった。それからぼくは「反東京・反シマノ」のイデオローグに豹変した。「東京のもんらは、わしらをだらずにしとるけえよお。もっとシマノをいじめたれえや」と悪ガキを焚きつけるようになっていた。ワールドカップで日本中が興奮しているが、ぼくにはサッカーを憎む気持ちがある。


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第9回 夏休みの宿題

 中学一年の時の担任だったキシモト先生は、英語弁論の達人だった。「T市で唯一、RとLが発音し分けられる男」、「長年の修練の結果、彼の舌は石になっている」等々、多くの伝説に包まれた人物でさえあった。教師としての彼は、中学生を大人扱いする人だった。彼の出した夏休みの宿題がふるっていた。「夏休み中に一度、徹夜をすること」。徹夜するぐらい熱中できる対象をもたない人生はつまらない。それがキシモト先生の持論だったのである。

 この「宿題」をぼくはとても新鮮に感じた。小学校の先生たちは夏休みに入る時、判でおしたように「規則正しい生活を」と繰り返していた。それをキシモト先生は、「徹夜せよ」、「熱中せよ」というのだ。ぼくは徹夜をしてメルヴィルの『白鯨』を読むことにした。前年の夏、影丸譲也が『少年マガジン』誌上で劇画化していたのを読んでいた。ものすごく面白かった。今度は「大人の本」で読んでみようと考えたのである。早速本屋で文庫本を買った。

 執念で白鯨を追い求めるエイハブ船長の冒険には心踊るものがある。しかし、こちらも生涯最初の徹夜に挑むのだ。心の高まりはいささかも、かの老船長に劣るものではなかった。しかし、うんざりするほど長い本だ。とても一晩で読みきれそうにはなかった。それでも、とにかく7月21日を「冒険敢行」の日と決めた。13歳の誕生日の前日である。夜9時に『白鯨』を読み始める。9時にはもちろん意味がある。クジラと「9時だ」を掛けたのだ。

 クジラにまつわる長い長いぺダントリーを何とかクリアした頃には日付けが変わっていた。その時ドアが開いた。大学受験浪人中の兄がそこにいた。「まだ起きとっただかいや。今日はお前の誕生日だなあ。お祝いをしようで」。兄は冷蔵庫から何本もビールをもってきた。ぼくたちはそれを次々と空けてしまったのである。翌日、ぼくは生涯最初の二日酔に苦しんでいた。トイレでもどしながら、ぼくの頭にはこんなフレーズが渦巻いていた。「吐くゲー、はくげい、白鯨…」。正直に言おう。ぼくは、この大作をまだ読み通したことがない。


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第10回 カシムラさんのおしり

 沖縄には、調査で何度か足を運んだことがある。その時、「やまと奥さん」ということばを聞いて驚いた記憶が残っている。専業主婦のことだ。沖縄では、たくましく女性が働くのが標準である。だんなの稼ぎに依存している女性の存在は、「やまと」の奇習と映るのだろう。昭和30年代、T市の商売人の街でも、専業主婦をやっているお母さんなど数えるほどしかいなかった。みんな決まって転勤族で、モダンな空気を漂わせている家庭が多かった。

 ウエムラさんは、そうした家庭の娘で大変な美少女だった。勉強もよくできた。性格が少しきつかったが、それもあって女王様めいた雰囲気のある子だった。もう一人の美少女がカシムラさん。大変な秀才で気さくな人柄だった。当時としては多い4人兄弟。そのことについて両親が「あんねは信仰しょうんさるけえなあ」と話していたのを覚えている。性の知識などまるでないから、「コウノトリと仲のいい宗派なのだろうか」などと考えていたものだ。

 5年生の時、岡山の姉妹校(校名が同じ)との交流会があった。宿舎に一泊したのだが、興奮していて消灯時間を過ぎても誰も寝ない。ぼくが狸寝入りをしていると、悪ガキどもはクラスの女の子の誰が好きかという話に花を咲かせていた。男の子の異性の好みは、不思議に集中する傾向がある。この時もウエムラさん派とカシムラさん派に見事に二分されていた。

 夜がふけると話は佳境に入った。こんな話を始める奴が出てきた。「わしゃあなあ、女風呂をのぞいただけえ。もう毛の生えとる者(もん)やおっぱいの出とる者もおったけえよお」。この男はカシムラさんのおしりも見たという。ぼくはカシムラさんが好きだった。こいつを殴ってやろうと思った。しかし、寝ていることになっているのでそれもできない。するとそのうち、ぼくが標的になっていた。「こいつだけが寝とるなあ。叩き起こして、誰が好きか言わいたろうで」。悪ガキどもがぼくのふとんに飛びかかってきたが、瞬時にして皆飛び退いた。「ごっつい犬くさいっちゃ!」。その夏ぼくは、駄犬ブラとずっと遊んでいたのである。


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第11回 国際もなか資本

 60年代末の学生反乱の嵐は、山陰の小都市にも及んでいた。地元唯一の国立T大学(断じて東大にはあらず)は、69年に入るとロックアウトされ、授業ができなくなった。当時の若者たちのことを「紛争世代」などという。しかし実際には、いわゆるノンポリ学生が圧倒的に多かったのではないか。彼らにしてみれば突然ふってわいた長い長い休暇である。わが生家のもなかやにも、暇をもてあましたT大のお兄さんたちが何人かバイトに来ていた。

 さすがに大学生である。若くて元気で仕事の飲みこみも早い。たちまちもなかやの大きな戦力になった。それだけではない。当時中学1年生だったぼくの遊び相手としても、彼らは好適だった。つきあってみて驚いたのは、彼らの存外な幼稚さである。「あしたのジョー」や「天才バカボン」を熱心に読んでいた。「卍がため」のかけ方を教えてくれたのも彼らである。勉強をみてくれたこともあるが、彼らの学力は大変怪しげなものだっと記憶している。

 やがて紛争も終わり彼らも大学に戻ることになった。両親は彼らにバイトを続けてほしかったのだが、彼らにも就職や卒論がある。そこで、このお兄さんたちの送別会を開くことになった。「あんたらあ、ほんによう働いてくれた。いまの若い者(もん)でもええ者はおるなあ。みんながみんなヘルメットかぶってゲバ某振るうわけじゃあありゃあせん」。そう父が言うと、「ええ、ぼくらノンポリですから」と学生の一人が応え会はなごやかに始まった。

 やはり若さである。彼らはよく食べかつ飲んだ。そして酒がまわるにつれて、従順だった彼らの様子が徐々におかしくなっていった。「社長さん(父のこと)、そりゃあ考えが古いで」などと言い出した。そのうちこのノンポリ青年たちの口吻は、全共闘の闘士のそれと寸分違わぬものとなっていったのである。「ブルジョアジーたるう、もなかやのオヤジはぁー、アメリカ帝国主義と結託してぇえ…」。父は腰を抜かして「お前らあ、アカかいや」と叫んだ。

 「国際バナナ資本」はたしかにある。しかし「国際もなか資本」があったら恐いだろうな。


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第12回 最後の晩餐

 北海道では、葬儀の際に「バナナもなか」なるお菓子が配られていたらしい。北国の人々のなかには南への憧れが強い。バナナはそれを象徴する果物だが、昔は高級品で庶民の口に入るものではなかった。永別の時の「バナナもなか」は庶民のかなわぬ夢の象徴である。バナナをふんだんに食べられる西側市民の生活をテレビで知ったことが「壁」崩壊の原因となったと聞く。ぼくぐらいの世代の人間には、往時の東ベルリン市民の心境が実によく分かる。

 ぼくが子どもの頃、外食などめったにしなかった。ごくたまにきつねうどんを食べにいくのがせいぜいだったように思う。一度通信簿に5がたくさんならんでいた時、「ロゴス」というしゃれた洋食屋さんでハンバーグを食べさせてもらったのが最高のゼイタクだった。ハンバーグだからよかった。これがビフテキだとどうか。これから両親が一家心中の相談をもちかけてくるのではないかと心配になって、せっかくの肉ものどを通らなかったに違いない。

 自分の子ども時代を語る時、駄犬ブラの存在は欠かせない。雑種犬だったブラは、身体の頑健さが大きな取り柄だった。そのブラの様子がどうもおかしい。明らかに元気がないし、目が牛乳のように白濁している。あわてて動物病院に連れていくと、獣医が「ジステンバー」という診断を下し、「死の告知」を行った。「もうこの犬はいけますまいやあ。明日あたり死ぬでないかな。今夜は何でもこの犬が食べたいちゅうもんを食べさせてやってつかんせえ」。

 ブラの希望を聞くことはできないが、死ぬ間際に食べたいものといえばビフテキにきまっている。その晩、「最後の晩餐」があった。縁側に上げられたブラは、一人(?)ビフテキを食べている。人間のおかずは焼いた干カレイである。翌朝、犬小屋をのぞくとなんとブラは元気になっていた。雑種犬の逞しさか。ビフテキの呼んだ奇跡か。しかしわが家の人々は、喜びに涙したりはしなかった。その時の父の行動がわれわれの気持ちを代弁していた。父は、「犬のくせにビフテキっちゃあなもん食いまわって」と言ってブラを蹴っ飛ばしたのである。



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