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二十世紀の謎
ホロコーストはなぜ起きたか(全四回)
 
 
 最終回 なぜドイツ人はナチスを政権に就けたのか
 

 友人のカレル・ヴァン・ウォルフレンの話では、海外では日本人が想像する以上に日本とドイツの戦争責任のとり方の違いが話題になるらしい。きちんと反省し謝罪するドイツ人と言い逃れたり居直る日本人。この違いは、両者の道徳的資質の差というより、両国の憲法の違いに関係しているように思える。ドイツではヒトラーが憲法を停止して独裁を行ったので、戦後西ドイツは憲法をゼロから新しく制定した。だからドイツ人自身がこの憲法を踏まえてナチス第三帝国のやったことを暴力犯罪として断罪できる。ところが日本では戦前の帝国憲法の改定という形で新憲法ができたので、ある意味では”国体”が今でも存続していることになる。これが日本の戦争責任を曖昧にし、時代錯誤的な居直り発言の余地を作っている。しかし日本人とは対照的にきちんと戦争責任を認めても、ナチスに加担したドイツ人の汚名は容易に消えない。大抵の人はドイツ人ときくとナチスを連想する。ではなぜドイツ人はナチスを政権に就けてしまったのか。
 まず、十九世紀の初めにはドイツという国はなかったことを思い出そう。当時中欧にあったのは中世以来の神聖ローマ帝国であり、三百六十以上の小領邦国家や自治都市がこの帝国を形成していた。そこにドイツという新しい国を出現させたのは、フランス革命の衝撃だった。周知のようにフランス革命はジャコバン派の恐怖政治をへてナポレオン戦争に行きつき、ナポレオン軍は中欧一帯を占領して神聖ローマ帝国を解体した。このナポレオンにイェナの会戦で敗れたプロイセンは、それ以後ナポレオン型の軍事的に強力な中央集権国家を目指し、やがてプロイセンの力による統一によって1871年にドイツ帝国が誕生した。しかし他方では、ナポレオンではなくジャコバン派に共感し、革命の精神に立ってカイザーの帝国を打倒すべきだと考える人々も多かった。その結果はどうなったか。若い国ドイツは、精神的に二つに分裂した国になってしまった。
 左翼と右翼はフランスの革命議会における議席の配置から出てきた言葉だが、フランス革命の衝撃から生まれた国ドイツでは、政治はフランス以上に徹底して左右対立の構図で動くことになった。フランスもその後パリ・コミューンやドレフュス事件など国論を二分する危機を経験したが、フランス人は左も右も乙女マリアンヌの像に象徴される共和国の市民という意識を完全に失うことはなかった。だがドイツには、そうした民族的なまとまりがなかった。官僚、軍人、大地主が支配するドイツ帝国は当時のヨーロッパで最も権威主義的な国家だったが、社会民主党も十九世紀末までにはヨーロッパで最大最強の左翼政党になり、巨大な官僚機構や系列組織を擁するこの党はまるで国家の中の国家だった。冷戦期の東西ドイツの分断には、長い前史があるのだ。
 鉄血宰相ビスマルクは、民族的なまとまりのなさというこのドイツの弱点を的確に認識していた。そこで彼が打った手は、国策への協力の見返りに労働者階級の境遇を改善する「社会政策」の実施だった。その結果、ドイツ帝国は十九世紀末までには、各種の保険や年金の完備した世界で最も進んだ福祉国家になっていた。社会民主党は第一次大戦勃発に際し、日頃の反戦平和の主張に反してカイザーの戦争を支持してレーニンらを激怒させたが、ビスマルクの福祉国家は労働者を大いに満足させていたのである。
 このように左右の対立で民族としてまとまりに欠けるドイツでは、その代わりに国民の経済的なつながりが重要になった。理念なきこの国家は、一種の経済団体になった。ここに、ドイツ人がナチスを政権に就けた最大の理由がある。ナチスに投票した者で、ユダヤ人を虐殺してほしいとか大戦争を始めてほしいとか思っていた者は殆どいない筈である。バリントン・ムーア・ジュニアがその著「不正」(註)の中で引用している当時の世論調査を見ても、反ユダヤ主義は、今の日本の「第三国人」などと同じで、消え去りつつある古い世代の偏見にすぎなかった。政治的に混乱し経済的に破綻した1930年代のドイツにはとにかく強力な指導者が必要だと思って、人々はヒトラーに票を入れたのである。ヴェルサイユ講和条約の不当さに対する怒りや不満はあったろう。しかし何よりも彼らは「一つの国、一つの国民、一人の総統(ein Reich,ein Volk,ein Fuehrer)」というナチスのスローガンに惹きつけられた。だからナチスに政権を与えたのは、 労務対策として作られた福祉国家に慣れオカミの善政を期待する大衆の奴隷根性だったと言わねばならない。
 それにしてもヒトラーは、社会の周辺にいた人間だったせいか、民族的なまとまりのなさというドイツ国家の弱点をよく見抜いていた。彼はワイマール共和国の国論の分裂から漁夫の利を得た。ナチスは一度も選挙で絶対多数をとったことがないのだが、左翼が社会民主党と共産党に分裂していたおかげで政権にありついた。そのうえ左も右もヒトラーの危険さに気づかず、ナチスの勢力拡大を自分たちに都合のよいように解釈していた。すなわち右翼はナチスは反共の防波堤になると思い、左翼はナチスは「歴史の必然」である筈のプロレタリア革命の前夜に起きた茶番劇だと信じていた。
 そして左も右も政治的に無能だった。三十年代の大恐慌下のドイツでは、やはり赤字財政と公共事業による失業問題の解決というケインズ的政策が必要だったろう。だが左にも右にも、ケインズ的政策を実施するための前提である挙国一致の雰囲気を作り出す能力が欠けていた。その点、「国家社会主義ドイツ労働者党」という左翼まがいの党名を名乗りながら保守派にも歓迎されるナチスには、左右対立を越えた総統の下での挙国一致を外見だけでも演出する能力があった。実際、ナチスが実施したさまざまな政策は、左にも右にも分類できないものが多い。そしてヒトラーがあれほどユダヤ人にこだわったのも、左右の対立をユダヤ人とアーリア人の架空の対立にすり替える必要があったからだと言える。こうして政権に就いたナチスは、有名なアウトバーンの建設など直ちにケインズ的政策を実施したが、それは戦争を準備するためのケインズ主義だったのだ。
 そして改めて振り返ってみると、ナチスの抬頭にはジャーナリストや学者、教会関係者などドイツの知識人にも大きな責任があったように思える。とくに不思議なのは、ヒトラーの「わが闘争」を知識人がきちんと読んでその内容を検討した形跡が殆どないことだ。どうせろくな学歴もないアジテーターが書いた唯の宣伝文書と思ったのだろうか。この本を読んでみれば、ヒトラーが戦争をやるだけではなく、どんな戦争をやるのかまで事前にはっきりと分かった筈である。ヒトラーの本を分析して世論に警告することを怠った知識人の責任は重い。一方、ナチスのシンパになった知識人の方も無責任極まりない。哲学者のハイデガーは晩年になってから一時はかなり熱烈なナチスのシンパだったことが明るみに出て論議を呼んだが、このハイデガーにしても「わが闘争」を読んで感激してナチスのシンパになった訳ではあるまい。
 そこで結論としては、二つのことが言える。第一に、ナチスを極端な民族主義とするよくある見解は間違いである。ドイツには国家主義や軍国主義、左翼イデオロギーはあっても安定した民族意識がドイツ人になかったことが、ナチスを育てたのである。そして第二に、ナチスにまつわるドイツの汚名はいまだに消えないのだから、経済さえよくなればと悪魔と契約した奴隷根性の代価はきわめて高くついたということである。
 (次回は「戦後日本はなぜ土建国家になったのか」)

 (註)Barrington Moor,jr " Injustice,the Social Basis of Obedience and Revolt " 1978, New York

   
 
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