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  戦後日本はなぜ土建国家になったのか  
     
 やんぬるかな土建国家日本。かねてから気になっていたのだが、外国の映画やニュース映像を見ていてダンプカーやコンクリート・ミキサー車を私は見かけたことがない。もちろん外国でも少しは建設車両が走ってはいるのだろうが。だが日本ではダンプカーが走っていない町や村はあるまい。これこそ戦後日本を象徴する光景である。

 しかし度が過ぎる。アメリカの4パーセントの国土しかない日本がアメリカより多いコンクリートを消費し、日本の公共事業費は冷戦期のアメリカの国防予算より大きく、全世界の建設業者の3分の1以上が日本にいる。これはもう狂気の沙汰というしかない。しかし問題は、ゼネコンと政官界の癒着を非難すれば片付くようなものではない。もちろん癒着や談合はある。しかし土建型公共事業が国家的な所得再分配メカニズムになっていることも事実であり、そうした公共性があるから、それをカクレミノにした腐敗や癒着が可能になっているのだと言える。

 昨今は、土建国家日本を批判する声は高まる一方のように見える。しかし戦後日本がなぜ土建国家になってしまったのかについての歴史的な検証や分析が見あたらない。というのも、その種の批判は土建国家を日本国家の汚い一面ぐらいにしか見ていないからである。だが私見では、土建国家日本の歴史は戦後日本の政治史にぴったり重なる。土建国家は、戦後日本の政治的アイデンティティそのものなのだ。冷戦や日米安保を抜きにして土建国家の成立を論ずることはできないし、だからこそ日本では冷戦の終結は土建国家の危機になる。そうした視点に立たなければ、土建国家を越えるこの国の未来など見えてくるはずがない。

 では土建国家日本はいかにして成立したのか。意外に思えるかもしれないが、ターニング・ポイントは60年安保斗争である。この斗争は、たんに安保だけでなく、戦災からの復興が完了した戦後日本の今後の国家目標がナショナルな規模で問われた斗争でもあった。だが斗争の結果として、保守は戦前型天皇制国家の復活を諦める一方で革新は社会主義革命のドグマに自信を失い、これ以後日本人は国家目標を喪失してしまった。保守と革新の双方とも、内心信じてもいないことを錦の御旗に掲げる政治的リアリズムの欠如によって敗北したのである。だがそれでも日本を国家としてまとめていくことは必要である。そして戦後日本にあった唯一のナショナルな合意は戦災からの復興への合意だったので、60年代以降の日本もその延長線上で公共事業による”復興”を続けることになった。当時の池田内閣が全国総合開発計画を作ったのが1962年、建設国債の発行が始まるのが1965年である。ちなみに土建型政治家のチャンピオン田中角栄は1950年代の復興期に建設業者、ついで政治家として頭角を現した人物だった。

 60年代に国家の目標や設計図がしっかり議論されていたら、日本は今とは違う国になっていたかもしれない。例えばフランスのように、トヨタやソニーほどの企業はないかもしれないが国民の生活の質は高く、夏には5週間のバカンスがあるという国になっていたかもしれない。しかし50年代の復興期の日本にすでに問題があったとも言える。この時期の日本は、国民よりも国力を重視する日本の官僚の発想で、いわゆる傾斜生産方式によって国民生活をそっちのけにして重工業を最優先で復興させた。金融システムをはじめとして90年代に破綻した戦後日本のシステムは、みんなこの復興期の遺物である。この点で日本と対照的だったのはイタリアで、この国では住宅供給公社によって市民に住宅を供給することを最優先の仕事にした。同じように貧しい敗戦国だったのに、日本とイタリアの復興はどうしてこんなに違ったのか。これは、経済の問題というよりは、やはり日本人とイタリア人の「人間らしい生活」をめぐる価値観の違いだろう。そして日本では天皇の”玉音放送”によって戦争が終わったのに対し、イタリアではまずファシスト党自身がムッソリーニを解任し、連合軍ではなくイタリア人の武装抵抗勢力が彼を処刑するという、両国の戦争の終わり方にも関係があるのかもしれない。

 また50年代はじめの日本では、再び独立国になるためのサンフランシスコ講和条約の調印をめぐって西側諸国とだけの片面講和でいいかどうかという論争があった。そして共産圏諸国を含めた全面講和を主張する知識人は吉田茂に「曲学阿世」とののしられ、今日なお彼らは冷戦の現実を無視して空理空論を唱えた理想主義者とみなされている。しかし改めて考えると、片面講和で西側の一員になりさらに日米安保条約を結んだことが、戦後日本の経済がひずんでいく出発点だったと思える。この選択の結果、日本はアジア大陸の東端にありながら近隣地域とは切り離され、太平洋の彼方のアメリカへの工業製品の輸出で食べていく国になってしまった。そして効率のいい輸出という観点から70年代には東海道メガロポリス、その後は首都圏に人間と経済資源が集中され、農業と地方は切り捨てられた。

 建設業がふくれあがったのは、切り捨てられた農村の労働力の行き先になったからである。今日のホームレスも、農村出身の建設労働者だった人が多い。そして地方の切り捨てといえば、アジア貿易に古くから実績があり国際的なセンスの豊かな大阪までもが大きく地盤沈下してしまった。ましてや地方の地場産業には、大陸との交流があった戦前には少しはあったような貿易による活路はない。土建国家は、東京中心の対米輸出経済という国策を切り捨てられた地方に受け入れさせるための公共事業のばらまきという、地方買収策の産物なのである。

 こうして通勤地獄や住宅ローンにあえいで働く東京のサラリーマンの源泉徴収税が、公共事業による地方の国土の破壊に使われる。そして買収費をひねり出す必要から、中古車や電化製品は大安売りなのに住宅費や食料品はバカ高いという日本の異常な価格体系が生まれる。日本の庶民は、スターリン時代のソ連並みの消費税をずっと払ってきたと言っていい。食や住のコストの高さは、そうしたことに関わることが男性より多い女性の発言権のなさを示してもいる。そして地方には公共事業によるハコモノはごろごろあるかもしれないが、文化的には地方は無価値とみなされており、結局は一種のゴミ捨て場として扱われている。こうした土建国家のヒズミは、結局戦後の日本国家のヒズミそのものなのである。そうしたヒズミがつもりつもった結果として、この国は貯蓄、外貨準備高、生産設備において世界のトップクラスの国でありながら破滅の淵に転げ落ちようとしているのである。

 結局この国はいったん破滅して1950年あたりの時点からすべてをやり直すしかないのかもしれない。小泉ペレストロイカは、そうした破滅につながりそうだ。そして戦後の土建国家に替わる日本の長期的な展望は、東アジアにEUのような地域市場を作りだすことだろう。そうした方向転換は中韓両国との密接な協力なしにはあり得ないのだから、今の日本に教科書問題や靖国参拝でこの両国ともめている余裕などない筈である。


   
 
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