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  「日本は帝国主義国家でした」は大きなうぬぼれ  
     
  あるシンポジウムにパネリストとして参加した時、会場の若者から「他の国も植民地支配をやったのになぜ日本だけが非難されるのか」と質問されたことがある。この素朴な質問に共鳴する日本人はかなり多いのではないだろうか。例えば「新しい歴史教科書をつくる会」を批判する人々は、日本は戦前の帝国主義、植民地主義を反省しなければならないと言う。だがそう言われれば言われるほど、ヨーロッパには帝国主義の本家だった国がいくつもあるのになぜ日本だけが反省や謝罪を要求されるのか、という疑問が頭をもたげてくる。

 私に質問した若者は、多くの日本人のそうした気持ちを代弁している。そして彼は漠然としてではあるが(1)戦前の日本はかつての英仏両国のような帝国主義国だった(2)帝国主義は悪である---と考えている。実はこの見解は、教科書問題で対立する「つくる会」とそれを批判する人々の両者間でも、共通の前提となっている。教科書論争は帝国主義論争なのである。両者はともに「戦前の日本は帝国主義国家」という認識に立ちながら、そのことの評価の仕方が正反対なだけである。しかし、私に質問した若者が当然のように前提にしていた物の見方は正しいだろうか。

 「帝国主義」imperialismという言葉は、十九世紀半ばに英国で生まれた。近世以来海をわたって主に熱帯地域で奴隷貿易や海賊行為をやってきた西欧人は、改めてこの言葉で自分たちのやってきたことを捉え直したのである。だからこの言葉は、言外に批判や反省を含んだ論争的な言葉だった。少なくとも当時の英国では、帝国主義は「高くつくからやめた方がいい」という世論が支配的だった。そして十九世紀の末にはJ.A.ホブソンが有名な帝国主義論を書き、帝国主義は植民地投資の上がりでノウノウと暮らす特権的で寄生的な金利生活者階級を生んで英国を衰退させると論じた。また新興国のドイツでもビスマルクが「植民地は高くつく」と警告していた。実際、当時のドイツは植民地を持たずに英国を追い抜く工業国になりつつあった。

 帝国主義はよく、植民地の搾取で本国が不当に栄えるシステムとして批判される。しかしこの批判には、あまり根拠がない。早くに中南米の植民地を失ったスペイン、ポルトガル両国を初めとして、インドと中東を失った英国、インドネシアを失ったオランダ、ベトナムとアルジェリアを失ったフランス、コンゴを失ったベルギーなど、どれを見ても植民地を失ったせいで経済的に没落したり破滅した国は一つもない。それに海賊行為がやりたい放題だった十七、八世紀と違って、十九世紀になると植民地の経営は手間とコストのかかるものになっていたのである。

 そのうえ代表的な植民地帝国のオランダや英国は、ヨーロッパでも最も民主化の進んだリベラルな政治的先進国だった。だから後にガンディーのような植民地の知識人がリベラルな本国と植民地の現状の落差に気がついたとき、植民地独立運動が始まったのである。そして宗教戦争の試練を経て国家の主権を尊重することを学んでいた西欧諸国は、世界は少数の帝国がのさばる世界ではなくさまざまな民族の平等な世界であるべきだ、と考えていた。そうした国が帝国主義をやっていたのは矛盾だが、英国やオランダにとっては、海外植民地は近世の海洋的商業的な資本主義の時代が残した容易に振り捨てられない遺産だった。

 そして十九世紀になって改めて過去の行為が「帝国主義」として意識されてくると、それを良心にかなうような形で正当化することが必要になる。そこで出てきたのがヨーロッパ人が負うべき「文明化の重荷」という考え方である。つまりヨーロッパ人は南の世界を文明化するため、カオスに抗して秩序を打ち立て、南の人々を近代国家を運営出来るよう訓育するために植民地を支配しているのだという考え方である。キップリングに代表されるこの考え方が、単なる弁明や宣伝にすぎなかったとは言い切れない。十九世紀のインドでは、せいぜい十万人ぐらいの英国の民間人と軍人が三億人のインド人を統治していたのだから、英国のインド支配は力によるものではなかった。インド史上初めてカースト制度が崩れ出し寡婦が夫の後を追って焼身自殺するサティの習慣が禁止されたのは、この英国統治時代のことだった。英国は文明化が完了すればインドを独立させることをインド人に約束しており、また独立運動の母体となった国民会議の議長に英国人が就任したことも何度かあった。

 ヨーロッパ人は平等な諸民族の世界を理想としていたので、植民地にしたのは東南アジアやアフリカのように国家が未形成な地域かインドのように国内が分裂状態で国家主権が不在の国に限られていた。これが、例えばインドネシアがオランダに謝罪を要求しない理由である。「インドネシア」なる国の枠組みは、オランダが作りだしたものだからである。そして彼らは、日本や中国のようにそれなりの主権が存在する国を開国させるには外交交渉の方針をとった。もっともかなりえげつない交渉ではあったが。この方針の唯一の例外は、普仏戦争でドイツに敗れた屈辱を東南アジアではらそうとして儒教国ベトナムを植民地化したフランスの愚挙である。

 「他の国も帝国主義をやったのになぜ日本だけが」と言う人は、ヨーロッパの旧宗主国と旧植民地の間で今も続いている親しい関係を見落とさないで欲しい。英国とインドなどその旧植民地諸国は、今でも大英連邦という形でつながっている。フランスは旧植民地のアフリカ諸国と独自な関係を保っている。最近の例では、東チモールのインドネシアからの独立に際して、旧宗主国のポルトガルが仲介の労をとった。これらの国は、ヨーロッパ人の植民地として近代的な主権国家への道を歩み始めたのであり、ゆえに旧宗主国とはいわば先輩後輩の関係にある。

 十九世紀半ばには帝国主義には懐疑的だった西欧諸国は、世紀の終り近くなってからベルリン会議によるアフリカの分割など、急に帝国主義への傾斜を深める。その理由は、やがて第一次世界大戦として勃発することになるヨーロッパを舞台にした戦争の予感である。独仏の対立を中心にした戦争がいずれ必至という情勢の中で、植民地の確保は戦略的に重要とみなされたのである。しかし大戦は、結果的には植民地の独立を加速させた。結局帝国主義とは、近代ヨーロッパの民族国家(ネーション・ステート)がリベラリズムから一時的に脱線することで生じ、それも一世紀ほどしか続かなかった現象なのである。

 こう見てくると、大英帝国をモデルにした帝国主義論は日本には全然当てはまらないことが分かる。「大日本帝国」には近世ヨーロッパの海洋的商業的資本主義が作りだした海外の交易ポストのようなものはなかったし、ましてや明治の日本に植民地に注ぎこむべき過剰な資本や商品があった訳ではない。この帝国はいわば行きがかりで出来たもので、その背景には前回のコラムで指摘した明治国家の無思想性ががあった。

 明治政府は天皇主権の中央集権国家を創出しようと廃藩置県をやった。この政策は、長らく薩摩藩に支配されてきた琉球王国を沖縄県に変えなければ完了しない。ところが琉球は以前から清にも朝貢しており、薩摩と清への両属関係にあった。だから明治政府は沖縄県を作ろうとして、維新の延長線上で清とトラブルを起こすことになった。また明治政府は維新後に朝鮮に国書を送り体制の転換を通知したが、朝鮮の大院君は日本の開国を非難すると共に、日本の国書に「皇」という中国の皇帝しか使えない文字が使われていることを理由に国書の受け取りを拒否した。小中華を自負する朝鮮は、完全に中国の皇帝を中心とする冊封体制の中にある国で、天皇などというものを認めなかった。ここでも明治政府は、中国を中心とする東アジアの儒教的な華夷秩序にぶつかったのである。

 この華夷秩序という「古代」の論理は本来なら、諸民族の平等な世界というリベラルな「近代」の論理で超克さるべきものだった。ところが明治政府は、民族の論理というものを理解できなかった。そこで日本がやったことは、中国の皇帝中心の華夷秩序を日本の天皇中心の華夷秩序に武力を使って置き換えることだった。この「大日本」の秩序においては諸民族は文明開化(近代化)の度合いによって序列化され、朝鮮人、台湾人その他は二流三流の「皇民」として位置付けられた。

 この「大日本主義」にはリベラルな本国と植民地のコントラストもなく、文明化が完了したら独立させるという約束もなく、なかんずく異民族支配の意識が欠けていたので被支配民族に日本風の神社を参拝させたり皇居を遥拝させたり、さらには朝鮮人の創氏改名といったひどいことも行われた。だからアジア諸国民の日本帝国に対する怒りや反感には、単なる帝国主義批判と同列には扱えないものがあるのだ。

 そしてこの大日本主義を正当化したのが、徳川期に水戸学が作りあげた国体論であり、そこでは天皇を頂く日本こそ東アジアにおける真の「神国」、「中国」とされていた。天皇は、日本を越えて東アジア全域に威光を行き渡らせ中韓両国を平伏させる存在でなければならなかった。

 ヨーロッパの帝国主義は、世界商業の副産物であり、また民族の平等という理念を否定するものではなかった。しかるに日本の大日本主義は、鎖国が育んだ尊王攘夷の精神が維新後に膨れあがってモンスター化したものなのである。

 そして最後に付け加えれば、植民地支配の特徴は立法と司法が植民地行政の一環でしかないことにある。植民地には行政しかない。この点では、日本の庶民は徳川時代には武士階級により、明治以後はエリート官僚によって植民地人のように扱われてきたといえる。日本人は自分の国で植民地化されている不思議な民族なのである。
(次回は、「2001年9月11日の世界」)

     
 
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