◆◆◆ HOMEに戻る ◆◆◆
このコラムのバックナンバーはこちら

     
  2001年9月11日の世界 (その二)  
     
 オサマ.ビンラディンによれば、イスラム世界は目下ムハンマドの時代そのままにユダヤ人やキリスト教徒との宗教戦争の状態にある。他方でアフガニスタン攻撃にアラブ諸国の理解が必要なアメリカは、「この戦争はあくまでテロ撲滅のためのものでイスラムを敵とするものではない」と強調する。私見では、どちらも自分に都合のいいことしか言っていない。
 絶えずコーランを引用するとはいえ、ビンラディンの聖戦思想はかってのアフガンでの戦争体験とその後の亡命生活の孤独さによって形成されたものである。彼はイスラムの伝統を素材に独特の革命イデオロギーを作りだしたのであり、その点で彼はムハンマドやサラディンより、はるかにレーニンやトロッキーのような独断的な革命家に近い。彼は政治的人間なのだ。その一方アメリカの態度は宗教に無関係だろうか。アメリカの憲法は徹底的な政教分離を原則とする憲法である。そして政教分離もまた宗教に対する一つの態度といえる。このアメリカの政治上の原則は政教が未分離のイスラム社会と融和しにくいし、それが一般のアメリカ人のイスラムに対する無理解や蔑視の一因にもなっていると思われる。(ちなみに民主的な先進国でもデンマークのようにキリスト教を国教にしている国がある)。
 ところで宗教とは何だろうか。文明が発達し社会が複雑になってくると、人々が血縁地縁を越えたレベルで共存することが不可欠でありながらますます至難なことになってくる。世界の大宗教の一つの使命は、そうした共存を可能にすることであり、ゆえに多くの宗教が平等を説いた。例えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教では人間はみな神の被造物として平等であり、仏教はすべて生けるものには仏性があるとし、エリート主義的な儒教でも万人は等しく善良で教化可能な素質をもっているとみなされている。ヒンドゥー教のカースト制度は一大例外だが、これも人々の共存を可能にするための制度だったことは事実である。こうして伝統社会ではどこでも、法の権威は宗教によって支えられた。

 そしてこの宗教の観点からすると、欧米の文明を他と分けているものは16、7世紀の宗教戦争の経験である。この時にヨーロッパ人は、共存の絆である筈の宗教が社会を破壊する原因に転化するという前代未聞の経験をした。「教会」というキリスト教に独特の制度が宗教戦争の原因になったのだが、この問題には立ち入らない。それよりも宗教戦争からもっともラディカルな結論を引き出した「リヴァイアサン」の著者トマス.ホッブズの思想に注目したい。
 「人は互いに狼である」というホッブズの警句はよく知られている。彼は宗教に基づく共存が全く不可能な状況を想定し、それでも社会を存続可能にする方策を考える。彼の場合も、社会秩序を生み出すのは平等の原則である。ただしそれは、誰もが等しく他人を殺す能力をもっているという平等である。弱者でもスキを突けば強者を殺せるのだから、人間はみな潜在的にテロリストなのである。だが同時に誰もが平安に生き延びたいという欲望をもっている。そして誰もが善と悪について自分勝手な考えをもっていることが無秩序の原因なのだから、物事の善悪の判断を一括して「主権者」に委ねることに万人が合意すれば、万人が生き延び、生命と財産を享受することができる。
 ホッブズは全体主義を説いているのではない。彼は、ギブ アンド テイクのビジネスライクな論理で社会を創りだせると言っているのである。「主権者」に意見の自由をギブしても、それで命が保障されるなら安いものである。万人がこのギブ アンド テイクの論理を身につけさえすれば、共存という問題はそれ以上考えなくていい。そんな問題にこだわることが、かえって社会の混乱を生む。論理の徹底性という点でホッブズはやはり偉大な思想家であり、その思想は宗教戦争の恐怖と悲惨を反映していた。しかしその後英国が平和になり植民地経営や奴隷貿易で豊かになってくると、彼の思想を土台にスミスの「見えざる手」やベンサムの「最大多数の最大幸福」に代表される功利主義が台頭してくることになる。

 アメリカは自由の女神とジョン.ロックの市民政府論の国であるかに装っているが、現実にアメリカを動かしてきたのはこのホッブズの哲学である。ここにアメリカがイスラム世界と諍いを起こす原因があるのだ。しかもこの両者の関係は決して”文明の衝突”ではない。宗教的伝統としてはキリスト教とイスラムはともにアブラハムと聖書の宗教として親類関係にあり、アメリカとイスラム世界の間には近親憎悪の要素があることが問題をこじれさせる。アメリカ人から見れば宗教改革を経験せず政教未分離で腐敗した独裁者だらけのイスラム世界は、愚鈍で卑屈で迷信深い親類である。そうした意識があるので彼等はイスラムに敬意を払わず、中東は原油とイスラエルの安全の問題でしかない。そしてイスラム世界にとっての問題は、アメリカが近代化の模範たりえないことなのだ。イスラムも政教分離の実現など近代化、民主化を迫られているのだが、共存の問題をギブ アンド テイクで片付けてしまったホッブズの論理は、イスラムの民衆には説得力がない。喜捨とか客人の歓待といったことは彼等には時代遅れの伝統としてポイ捨てできるようなものではない。アメリカ風ではない近代化の模範がないことが、今日のイスラム世界の不幸である。そしてこの不幸が、本来なら近代化を荷なうべきエリートを反米テロに走らせている。宗教の問題は啓蒙主義によって片付いたとみる欧米エリートの見方はあまりにも安易であり、啓蒙主義の非情な性格に鈍感である。

 かって英米両国が大西洋憲章を掲げて第二次大戦で日独と戦ったときには、アメリカにはまだかすかにキリスト教国の面影があった。それは、「テロにはより猛烈なテロで」という今日のブッシュのアメリカではなかった。アメリカがキリスト教国の伝統になお忠実であったなら、文明の衝突どころかイスラム世界に改革のためのよい模範や刺激を与えた筈である。イスラム世界の現状も、ビンラディンが信じるほど単純なものではない。反米テロリストもいる一方、自由と豊かさに憧れて欧米への移民となる者が多いのも今のイスラム世界である。イスラムの心は引き裂かれている。そして結局我々はみな平等と豊かさの間で引き裂かれているのである。このことを我々が率直に認めるときに、ようやくー唯一真のテロ対策であるー正しい国際秩序の模索が始まる。宗教の遺産を安易に切り捨てないグローバルな近代化は可能なのか。グローバリゼーションなるものがあるとすれば、それは全人類を納得させる公正さのグローバリゼーションでしかありえない。なぜなら9月11日に、この世の秩序は市場などでなく正しい秩序についての人々の考え方によって成立していることを我々は思い知らされたからである。

(次回新年のコラムのテーマは「日本の進路」とし、(その三)は2月に掲載します)

     
 
(c)2002 Noraneko Journal. All rights reserved.