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  ヒトと動物  
     
 私は自然科学の分野で出てくる新見解や新理論には、あまり関心がないほうである。というのも門外漢がお粗末な誤解をする恐れは大きいし、例えば化学者プリゴジーヌの「ゆらぎ」といった理論がそのまま人間や社会の考察にも使えると思い込むのはカント以前といっていい認識論的な誤謬だからである。だがそんな私でもかねてから気になっている現代科学の近年の見解がある。それは神経生理学や霊長類の研究の進展によって、人間と動物の境界がぼやけてきていることである。
 近代人は長らく人間と動物を分け隔てるものは知性や知能であると信じてきた。しかし近年の霊長類の研究によると、類人猿は高等数学の基礎的仮定をなしている構造や関係を理解できるようである。また脳生理学の分野でも磁気共鳴画像法といった新しい技術で生きているヒトや猿の脳を観測することが可能になり、そこから従来の定説を覆す知見が生まれてきている。コルビニアン.ブロードマンといえば脳内の各種機能の局在を示す脳の地図を作ったことで有名な二十世紀初めのドイツの解剖学者だが、彼は1912年に発表した論文で「人間の前頭連合野は霊長類の中では並外れて大きく、そのお蔭で人間はすぐれた認知能力を発達させ、目的を思い浮かべたり目的実現のための計画を立てることができるようになった」と主張した。しかしこれも最近の研究によると、脳全体の中で前頭連合野が占める比率は人間でも類人猿でも36から39パーセントぐらいで大差はないらしい。
 だからといって近い将来にオランウータンがノーベル賞をもらう可能性はあまりなさそうだが、人間と動物の差は知能にありとする伝統的な見解が崩れてきているのである。十七世紀の哲学者デカルトは、ヒトは思考する存在であり、動物はゼンマイ仕掛けの機械のようなものと考えた。しかし科学の最新の知見を信ずるならば、現代の科学技術を生み出した人間の知能なるものは、要するに猿にも潜在的している能力が異常肥大したものにすぎないことになる。種としてのホモ.サピエンスを特徴づけているのは、おそらく知能ではないのだ。

 そこで新しい問いが生じてくる。人間を人間らしくしてきたものは、知能でないとすれば一体何なのだろうか。この問いに対しては哲学者は昔から「人間は動物と違って死を意識している」と答えてきた。プラトンによれば「哲学とは死の予行演習」である(プラトンのこの議論は、私見では、同性愛の相手だったソクラテスの刑死に若き日の彼がショックを受けたことに関係しているが、この問題には立ち入らない)。だが哲学者が何を言おうと、こんな思想は間違っている。ヨーロッパの歴史を例にとれば、一般の人々までが死を意識しはじめたのは、誰もが孤独な個としての自己に向き合うことを迫られた宗教改革と宗教戦争の時代のことだった。そして「エセー」の著者モンテーニュのような人は、生き甲斐のある良き生を生きている人間は死と和解できることを指摘し、人々を死の想念と恐怖から解放しようと努めた。興味深いことにその際に彼は、下層の民衆のほうが死に怯えたりしないことに気付いた。彼が領主をしていたボルドー地方の農民は、自分の死期が近づいたのを知ると畑に行って穴を掘り、その中にうずくまって従容として死を迎えた。

 私の考えでは、人間としての人間を特徴づけているのは死の意識ではなく、人類に独特の出生の体験である。ヒトにおいては、出生ということはたんなる種の繁殖という生物学的事実ではない。ボルクやアドルフ.ポルトマンの生物学的人間学によれば、哺乳類としてのヒトの一大特徴はネオテニー(幼形成熟)にある。幼形成熟とは、個体が幼児の特徴をそなえたまま大人になり性的にも繁殖する現象のことだが、ヒトはその完璧な例である。動物の仔は生まれてくるとすぐに歩き始め成長も早いのに、ヒトの子どもは毛も歯もない胎児に近い未完成の状態で生まれてくる。そして赤ん坊の間は大人につきっきりで世話をしてもらってやっと成長できる。他にも幼形成熟が見られる動物はあるが、これほど大人の世話になるひよわな生き物はヒトだけである。この脆弱さゆえに、ヒトは生まれながらに自己完結していない他者と世界に開かれた存在、他者と世界に影響されながら個体として成長していく存在である。そして大人になってもヒトは幼児の特徴を失わない。
 だから人間の人間性というものを理解したければ赤ん坊をよく観察しろということになる。すでにいたいけな赤ん坊の他者と世界との関係に、人間は社会的存在であることがあらわれている。人間は物質的必要を充たすためだけでなく自分を精神的に支えるためにも社会を必要とする。人間を人間にしているのは、社会の絆なのだ。そしてこの社会の碓固たる絆なしには、知能の産物である科学技術の発展やその成果の継承や蓄積もありえないだろう。なかでも人類に固有の言葉の能力は、おそらく幼児期におけるヒトの社会化の体験と深く結びついている。この点では、言語学者のノーム.チョムスキーが言語能力はヒトの生得的な知性から派生すると主張するのは、人間と動物を知能で区別する旧い考え方の蒸し返しとしか思えない。

 しかしながら幼児期にヒトに刻印されるその社会性は、すぐに仲良しコミュニティを生み出すようなものではない。幼児は、世話してくれる母親の絶対的な権力に依存するほかはない自分の無力さを体験する。その一方で、泣叫べば大人が面倒をみてくれることを知り、他者を支配したがるようになる。こうしてすでに幼児の段階で、人間の社会には権力と支配、依存と隷従がつきものであることが示されている。そして人間は幼児の特徴をもつ存在なのだから、大人たちの社会もこのヒト独特の欠陥を完全には解決できない。人間社会が存続していくためには、社会はこの幼児の自己中心主義とナルシシズムを文化の力で克服するほかはなく、文化の力が弱くなると、たちまち人々の心の中の我が儘で傲慢な幼児が顔を出し、社会は自然状態に逆戻りする。
 しかしこの文化というものを生み出すのも、ヒトの幼児期に根ざす社会性である。おそらく文化の源は、赤ん坊が見せる他者に対するあの好意にみちたまなざし、他者と世界に対する無限の信頼感にあるのだろう。そこには、不安と無力の感情を克服する生き生きした他者と世界の肯定がある。出生したことへの喜びと感謝がある。これは無償の肯定であり「苦労のない人生なら生きることをオーケーします」といったギブアンドテークによる承諾ではない。人間がパンだけでなく文化を必要とするのは、この信頼と肯定の感情を力強いものに意図的に育てあげていくことが社会の存続に不可欠だからである。ヒトと動物を根源的に分けているのは、そうした感情である。そして感情といえば、ヒトの幼児並みの知能を発揮するチンパンジーすら、けっしてヒトの赤ん坊のように泣いたり笑ったりすることはない。同様にたんに無力感に苦しむだけの人間は泣きはしないし、他者を支配したがる人間は笑うことはない。というのも、涙と笑いには生の現実を受容しようとする人間の謙虚さと謙虚さがもたらす解放が含まれているからだ。泣き笑う人間は、自分の殻にこもり知性と意志によって運命を支配しようとする妄執から解放されている。泣き笑うことは、神にも動物にもありえない人間に固有の営みであり、泣き笑うときに人間はひときわ人間らしくなる。そして人間社会は、そのもっとも深いところでは、涙と笑いを共有することによって成立しているのである。

     
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