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  資本主義をどう超えるか  
     
 90年代以来ソ連の崩壊に悪乗りして、「資本主義が勝利した」とか「現実には市場経済一般が存在するだけなのだから資本主義という中傷語は死語になるべきだ」といった言辞がはびこってきた。とんでもない話である。しかしマルクス主義者の妄説に騙されてきた人たちにかぎってこうした詭弁に引っ掛けられやすいようである。とにかく現実は資本主義の勝利どころではない。80年代あたりから資本主義の危機は深まりつづけ、新世紀初頭の今、その危機は人類社会がかかえる最大の問題になっている。イデオロギーやプロパガンダと縁を切れば、まざまざとこの事実が見えてくるはずである。
 資本主義経済とそれがはらむ問題について初めて透徹した体系的分析を行ったのは、ジョン.メイナード.ケインズである。もちろん今日の世界は彼が考察した1930年代の世界とはいろいろ位相を異にするが、資本主義の危機の基本的な構造は同じである。ここではケインズの分析には立ち入らないが、なぜ資本主義が危機に陥るのかを勉強してみたい人には、彼の主著「雇用、利子および貨幣の一般理論」を一読されるよう勧めたい。ただしケインズの著書に問題の究極的な解決策が書いてあると期待してはならない。

 資本主義がかかえる根本問題は、1)所有 2)貨幣 3)思想の三つの問題に分類できる。この三つは、いずれも市場経済とは別次元の問題であり、ゆえに資本主義は市場経済とイコールではない。まず所有だが、ヒレア.ベロックが「奴隷の国家」(拙訳は太田出版)の中で指摘するように、資本主義の体制的特徴は生産手段に関して社会が持てる者と持たざる者に分裂しており、しかもこの分裂自体が経済活動の動機や条件になっていることにある。生産手段は極少数の有産者によって彼等自身の富を増やす目的で所有されていて、大多数の無産者は解雇や失業の危険に怯えながら彼等に雇われて働くしかない。
 これは、たんなる貧富の差の問題ではない。生産手段を所有する少数者による経済の恣意的な支配は、経済の健全な循環を損ね、それは激しい景気の変動、ケインズの言う有効需要の不足による経済の停滞や失業、さらには恐慌にまでつながっていく。またこの社会の現実は、すべての市民を経済的に自立した自由な人間とみなしている近代憲法の前提に矛盾するが、憲法のタテマエと現実との矛盾は資本主義体制をきわめて不安定なものにする。というのも憲法は、無産の大衆が「自由に」資本家の支配を受け入れて従順に働くことを正当化するが、そのために資本家はノーチェックで暴走し最後には自滅するからである。
 ベロックは持てる者と持たざる者への社会のこの危険な分裂と矛盾をなくすには、できるだけ多くの人々を生産手段のオーナーにするしかないとして、資本家の特権的な所有を没収し全市民に株などの形で分配することを提案している。敗戦後の日本では、農地改革の名でまさにそれと同じことが行われたのだから、ベロックの主張は見かけほど非現実的なものではない。ただ実際にそうした没収と分配をやるためには、敗戦にも匹敵する凄まじい社会の危機が必要だろう。とにかく極少数者による生産手段の所有という問題があるかぎり、資本主義は民主主義に反する寡頭制が経済の形をとったものなのであり、それが惹き起こす問題もまさに寡頭制に特有のものである。庶民の預かり知らぬところでバブルが始まり、それが弾けて税金での銀行救済、財政破綻、出口の見えないデフレになった経緯を思い出して頂きたい。

 次に貨幣だが、問題は貴金属とくに金が史上長らく世界のどこでも通用する普遍的貨幣だったことにある。金は貴金属としての魅力に加えて、決して腐食せず分割しやすいという貨幣に向いた特性をもっていた。資本主義は、市場における交換の自然な産物ではなく、金が無限に蓄積可能な腐朽しない貨幣だったことに関係がある。そもそもこの種の貨幣が存在しなければ、果てしなく利潤を追求する競争など無意味だろう。そして資本蓄積こそが、資本家に市場と労働を支配する権力を授ける。そこで資本家の権力に対抗するには、純粋に市場での交換を促進するだけで資本蓄積には使えない貨幣、あるいは利子を生むどころか蓄積すればするほど損をする貨幣といった新しい貨幣の制度が必要になってくる。こうした貨幣は空論の産物ではなく、実際に使われて成果をあげた例が幾つも存在する。私の知るかぎりでは、欧米のエコロジストの一部が昨今こうした貨幣制度による資本主義の超克に大きな関心を示している。
 ちなみに1971のいわゆるドルショックでニクソン米大統領がドルと金の交換を停止して以来、ドルをはじめとする世界の通貨の殆どは金の裏付けなしに流通している。その意味で今日の通貨は、すでに社会契約の産物なのだといえよう。だが目下のところは、黄金の呪物崇拝にとって代わったのはアメリカの富と権力の威信なのだ。ドルの影響力は相対的に落ちてきてはいるが、いずれ暴落必至のドルを基軸に世界経済が回っているのは危険きわまりない。ケインズによるプルードン的発想に基づく改革案などもあったのに、貨幣制度の改革を怠ったことは、二十世紀における人類の最大の失敗である。

 最後に思想という問題だが、実はこれこそ資本主義にとって最も深刻な、その命取りになりかねない問題なのである。利潤の追求と資本蓄積ということには、いかなる思想もない。資本主義は、本質的に無思想なのである。無思想だから、それには文化を創造し人間を教育する能力がない。そこで資本主義は、この大問題をあれこれの有力な思想に寄生するという戦略によって解決してきた。例えば冷戦期のアメリカは敵であるソ連のマルクス主義に寄生し、経済発展と労働者階級の生活水準の向上というマルクス主義の課題はむしろ自由企業によってこそより効果的に実現されるというレトリックで資本主義を正当化してきた。
 してみればソ連の崩壊で寄生してきた思想が消滅したことは、アメリカにとってイデオロギー的な打撃だったことになる。この思想的空白をなんとか埋めようとして、資本主義の思想を造り出そうとする試みが90年代のアメリカに幾つか現れたが、出てきたものはマンガ的代物でしかない。そしてこの90年代以来凶暴で狂信的な原理主義が世界各地ではびこるようになったのも、おそらくこの思想の空白に関係がある。ついでに言うと、目下のイスラエルの暴挙の背景にあるのもオウム真理教まがいのユダヤ教原理主義である。
 この資本主義の無思想性ということが、かってあれほど多くの人々がマルクス主義に惹き付けられた理由を説明する。「資本主義は共産主義による人類の解放の歴史的前段階」と説くことによって、マルクス主義は資本主義の下での人生の無意味さを耐えられるものにしてくれた。ゆえに熱烈なマルクス主義者の多くは、プロレタリアとは似ても似つかない中産階級出身の知識人だった。
 そしてマックス.ウェーバーの有名な論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の<精神>」も、資本主義の無思想性に関係がある。ウェーバーによれば、史上に通例として存在したのは高利貸し、守銭奴、政商らの賎しい資本主義にすぎなかった。これと対照的に近代の資本主義は”合理的方法的”に利潤を追求するが、そのために必要な現世内禁欲の精神を資本主義は自力で生み出すことができず、プロテスタンティズムに寄生することでそうした<精神>を手に入れたのである。先進国の社会の現状は、このウェーバーのテーゼの正しさを物語っている。戦後の豊かな社会はプロテスタント的な謹厳実直な社会倫理をふやけさせ腐食させる結果になり、現代の資本主義は先祖帰りして、今や高利貸し、守銭奴、政商の賎しい資本主義になってしまったのである。

 それでは、所有と貨幣の制度の根本的な改革によって生まれてくる「資本主義を超えた社会」とは、どんな社会なのだろうか。その社会を支えるのは、どんな思想なのだろうか。これについてはいろいろな考え方があるだろうが、「労働と出生の意味について深く考える社会」というのが私の予感である。
 資本主義は、人間の最大の関心事は欲望を充たすことという虚構の上に成立している。この虚構が本当ならば、この世は泥棒、強盗、詐欺師、強姦魔で満ちあふれてしまうだろう。それに我々の衣食の好みひとつとって見ても、人間の欲望は経済学の「需要」に還元できるほど単純なものではない。おまけに現代人の欲望の実体は、「ウチの製品を買わないと人間失格ですよ」といった類いのコマーシャルに煽られた不安であることが多い。しかし資本主義の軛から解放された社会においては、無理に有効需要を作り出して体制の安定を図る必要がなく失業の不安もないので、人々の関心は欲望の充足よりは充実した意義ある労働に向かうだろう。人間は、自分の尊厳と社会的承認の根拠を労働に求めるものだ。失業者は、たんなる収入源の途絶ではなく、自分の人格的尊厳が社会的に否定されたというトラウマに苦しむ。それゆえに資本主義を超えた社会では、労働はたんに生き延びるための身すぎ世すぎの手段ではなくなり、人々を結びつけ人格的に発展させる社会の根源的で永続的な絆として現れてくるだろう。
 そして子どもを生み育てることは、「投資」のような経済活動ではない(もっとも奴隷主はいつの時代でも奴隷の出生率を高めようとしたが)。子どもを生み育てることは、すべての人間にとってその出生が祝福であるような社会を作ることができるという希望に結びついている。資本主義から解放されて人間がたんなる労働力ではなくなった社会においては、新しい世代の出生と成長という人類社会の中心的な事柄に今よりはるかに大きな注意が払われることだろう。そう言えば環境破壊が問題になるのは、それが将来の世代にツケをまわす行為だからである。人類が現在の世代で終わりならば、このまま環境破壊のどんちゃん騒ぎを続ければいい。だが公然とそれでOKというのは、アメリカのブッシュ政権ぐらいのものである。このように、環境問題についての世の関心の高まりという形で、新しい世代の出生に深い関心をもつ社会がすでに生まれてきているといえそうである。
 経済的にはこの社会は利子なき市場経済であり、そこには競争や企業利潤も存在する。しかし利潤はますます市場を支配する力を示すものではなく、個人や企業のサービスに対する社会の評価を表すものになり、謝礼や表彰のようなものに近付いていくだろう。そして資本家の権力と無関係になった競争は、生存競争ではなく、さまざまなコンクールに似たものになることだろう。だがこの社会を経済学的に論ずることには、あまり意味がない。というのもここで肝心なことは、社会が経済ではなく文化によって統合されていて、経済は共同体の文化が表現されるための手段のひとつにすぎないことだからである。
 ところで最後に、どのような経路でこの資本主義を超えた社会が生まれてくるのかという問題が残っている。残念ながら、おそらく資本主義の超克には社会の全面的な破局が必要だろうというのが私の予感である。そして幸か不幸か、今日の資本主義は日を追って不安定化し次第にそうした破局に向かっているようにみえる。しかしたんなる破局はジャングルのような社会をもたらすだけである。やはり決定的なことは、労働や出生や人生の意味についての人々の考え方が静かにそして確実に変わってゆくことなのである。


     
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