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  ポスト工業化の世紀  
     
 二十一世紀は「テロの世紀」として始まったかのような言説が巷間に満ちあふれている。しかしこうした言説は、現代人がテレビ漬けになっていることの徴にすぎないのではなかろうか。テレビで現場中継された昨年九月十一日のテロは、たしかにハリウッドも腰を抜かすような一大スペクタクルだった。それだけにテロがテレビ視聴者に与えた強烈な印象には、極めて高い政治的な利用価値がある。とくにアメリカ史上始めて選挙で得た地位の正統性を疑われているブッシュ二世にとっては、そうである。テロを機にブッシュがテロに対する戦争なるものを開始した動機については、中央アジアの原油利権なども語られているが、テロショックにつけこんで不正な選挙で大統領になった人物というイメージを払拭するのがやはり最大の狙いだったのではなかろうか。テレビの影響力を信じきっている点では、ブッシュとオサマ.ビンラディンはそっくりである。アメリカの大統領選挙がテレビショー化していることは周知の事実だが、私の上記の見解が正しければ、テロを機にWAR ON TERRORに乗り出したアメリカは外交までテレビ化してしまったことになる。だがその結果はどうか。いまだにビンラディンは捕まらず、イスラム世界ではアメリカへの反感が高まり、おまけにブッシュ政権は自らが間接的にイスラエルとインドの極右を煽ったせいで泥沼化したパレスチナとカシミールの紛争に巻き込まれて身動きできない有り様だ。

 とにかく「テロの世紀」などというのはアメリカのプロパガンダとしか思えない。真に二十一世紀の開幕を告げるニュースは別のところにある。それは、南極周辺の氷山が次々と崩落し始め、地球の温暖化はもはや仮説ではないことが証明されつつあるというニュースである。このニュースと共に始まった新世紀を私は「ポスト工業化の世紀」と命名したい。もちろんこの言葉は工業やテクノロジーそれ自体を否定するものではなく、十九世紀の産業革命以来近代社会を突き動かしてきた歴史的なダイナミズムが地球環境の危機を伴いつつ不可避な限界に達したことを意味している。二十世紀の予期せぬエピローグとなった旧ソ連の崩壊は、たんなる共産主義の破綻というより、むしろ指令経済の形をとってきた工業化のダイナミズムの終焉と見た方がいいのではないだろうか。「工業の精神」はトロッキーが大好きだった言葉だが、スターリンはこのアイデアをそっくり頂戴し、ソ連体制の下では国家の工業化は崇高な犠牲や献身を要求する一種の宗教になった。それゆえにチェルノブイリ原発の大事故は、ソ連邦を統合していた政治神学をも直撃したと言えよう。

 もしこの見方が正しいなら、共産主義に勝った筈のアメリカや旧西側諸国も同じようなポスト工業化の危機の中にあると言っていい。。昨今世にはびこる市場原理主義は、実は資本主義の活力を示すものなどではなく、投資機会の減少、技術革新の停滞など工業化のダイナミズムの限界に突き当たった社会が陥ったアノミー(価値観の崩壊状態)を表現しているのではないだろうか。(実際ケインズは、第二次大戦による軍需で一時的に息を吹き返した先進諸国は戦後には再び長期的な停滞に陥ると見ていた。彼が予想しなかったのは、戦後の石油化学工業とベビーブームによる市場の思わぬ拡大だった)。現在の世界経済の混乱の根本原因は、実体経済が相対的に停滞している中で金融資本が空回りしていることにある。工業化は始めと終わりとサイクルのある歴史的な過程であり、歴史の問題は市場原理では解決できないのである。

 そしてこのポスト工業化の世紀における最大の難問は、我々が否応なく歴史の転機を迎えながら途方もなく思想的に混乱していることにある。トロッキーの「工業の精神」ではないが、工業化は伝統的な農業などと異なり、マックス.ウェーバーが「合理的」と呼んだ生活態度やマルクス主義にその典型が見られる楽天的な未来信仰なしには前進しない。工業化のためには、まず人間精神が工業化されねばならないのだ。工業化の途上にある社会の人々は、中世の人々が神の摂理を信じたように、進歩と解放の福音を信じねばならない。それだけに、我々がそうした社会で一旦身につけた心性や価値観から脱却することはとてつもなく難しい。我々は工業化の論理を内面化してしまっている。だからはっきり言ってポスト工業化の世紀に相応しい思想やモラルは、未だに地平線上に現れてはいないのである。  

 例えば、人類は温暖化や環境破壊の問題を万難を排して克服し存続してゆくべきなのだろうか。もしも人類が存続すべきだとするなら、その判断の根拠はどこにあるのだろう。中世の人々なら、この問いには明確な答えがあった。人類と自然は神の被造物であり、神の作品を破壊することは誰にも許されていないという答えである。だが神なき現代人には、そうした答え方は不可能である。ではどうするのか。環境問題に対し現代人の大部分は、戦後の豊かな社会の価値観で反応する。人々が温暖化や環境破壊を憂えるのは、そうしたトラブルに悩まされることなく豊かな社会の恩恵を享受し続けたいからである。「買ってはいけない」といった本がベストセラーになり持続可能性SUSTAINABILITYという言葉がキーワードになる背景には、この防衛的保守的な反応がある。「環境破壊によって人類は種として絶滅する」といった極端でおそらく非現実的な主張は、ラディカルであるどころか、こうした保守的反応の産物である。

 しかしこれとは別に、1970年代にイヴァン.イリッチによって代表されたようなエコロジーという思想がある。これは一見ポスト工業化の時代に見合ったラディカルな新思想に見える。だがよく見てみると、人類は産業社会という「旧体制」から自由で公正なエコロジー社会へと解放されるというその議論は見覚えのあるものだ。これは左翼が工業化の論理の枠内で作りあげた解放の理念に緑色の衣を被せたものにすぎない。しかし自然と伝統によって課されたさまざまな制約からの近代人の解放こそが環境破壊の根本原因なのだから、これでは問題は解決しない。実際エコロジーという言葉が広まり始めた1980年代以降、言葉の流行とは裏腹に環境破壊はさらに進行し経済成長はさらに強力な呪文になった。専門科学としての生態学は、環境問題の分析には不可欠な道具である。しかし生態学から思想や価値観が生まれてくる訳ではない。現実にはエコロジーは左翼思想の焼き直しにすぎず、「工業の精神」に足を掬われたままである。

 このようにポスト工業化の世紀に相応しい思想や価値観は未だ存在せず、我々は思想的に深く混乱した五里霧中の状態にある。もちろん私もこの混乱に巻き込まれている一人にすぎないのだが、来たるべき思想をめぐる二三の予感なら多少はある。そうした予感を語らせてもらうとすれば、まず第一に、工業化の時代の進歩信仰に対する解毒剤として我々はかなり徹底したペシミズムを信奉する必要がありそうだ。資本主義、共産主義のいずれの形態をとるにせよ、工業化は常に浪費的で能天気なオプチミズムと一体になっていた。しかし人類の長い歴史の中でサンシモン、コント、マルクスらがプロメテウス的ないしファウスト的な未来信仰やオプチミズムを解放の福音として広めたのは、つい最近の十九世紀のことにすぎない。それ以前にはどんな思想家にとっても人間は愚かで傷つきやすい危うい存在、能力や可能性よりも生得のさまざまな制約によって特徴付けられる存在だった。過去の思想家たちは概してタフで忍耐強い人間であり、だからこそ彼等は人生の本質は苦しみにあると考えた。そして人間と人生についてのこうした謙虚で冷静な見方を荒唐無稽な幻想や妄想に置き換えることが工業化の思想的前提になった。彼等のこのリアリズムが現代人にはペシミズムに見えるとすれば、それは工業化の福音に洗脳されて我々が余りにも愚かで弱い甘ったれた人間になってしまったせいなのである。

 第二に、進歩の理念とは一体何だったのかを我々はもっと問いつめる必要がある。進歩とは「人類が種として利益を得るためには個人はその犠牲になってもやむを得ない」という残酷な思想である。進歩とは、苦楽を感じ泣き笑いする個人というかけがえのない存在の否定であり抹殺であり、個人に対するテロである。スターリンがそうしたテロリストだったことは明白だが、経済発展のためには時代の変化についていけない個人は切り捨てられても当然とする資本主義的な進歩、シュンペーターのいわゆる創造的破壊の過程も残酷であることに変わりはない。そして皮肉なことに種の利益を至高のものとする価値観が、今や種としての人類を傷つけている。ゆえにポスト工業化の世紀の思想的課題は、市場で取り引きするセールスマン的個人という虚構ではない、真の個人としての個人の再発見である。 

 第三に、これは既に指摘されていることだが、環境破壊は将来の世代に対する不正である。子供を生み育てながら彼等に破壊された生態系と枯渇した資源を残すということは許されない。しかもこのような度外れた不正が放置されたままになっていることは、人類の思想に何か根本的な欠陥があることを示唆している。実際、人類の長い歴史をとおして人間が子供を生み育てることの意味を問うた思想家は皆無に近かった。僅かな例外は、楽園を追放されたアダムとイヴがアベルとカインを生むことから人類史の叙述を始める旧約聖書と「エミールもしくは教育について」の著者ジャン=ジャック.ルソーである。出生と子育ては長らく自然現象のように自明なこととみなされてきた。しかしポスト工業化の世紀において子供を生み育てることは、人類の未来に関して希望を捨てないという意識的倫理的な選択とならざるをえない。そうした選択に関わる存在として子供は、もはや未熟な大人ではなく、人間が人間であることの深遠な意味を象徴する存在に変わる。おそらく大人こそ出来損ないの子供なのだ。どんな大人も一度は子供だった。その記憶を鮮明に蘇らせることが、多難な新世紀の出発点になるだろう。


     
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