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  天皇制について(その一)  
     
 とにかく天皇制という代物は、私には日常的にも迷惑である。いまだに平成OO年といわれても、それが西暦何年なのかがすぐに出てこない。それなのにお役所に出す文書では元号で書かねばダメである。私の免許証に「平成19年まで有効」とあるが、明仁氏が二、三年先に急死でもしたらどうするのか。平成19年は架空の年になってしまうではないか。また「応仁の乱は応仁一年に起きました」と元号で言われて、それがいつごろのことかすぐ分かる人はいるだろうか。これが西暦で1467年と言ってもらえれば、ああオスマントルコがコンスタンチノープルを陥落させ東ローマ帝国が滅亡して間もないころだな、と見当がつくのである。海外での契約に際して元号を使っている日本企業などあるだろうか。とにかく元号を西暦に転換する煩わしさだけでも、天皇制を廃絶すべき十分な理由になる。

 しかし天皇制という問題は、もちろん迷惑などという次元のものではない。昨今の日本の論壇の知的な頽廃や停滞は、天皇制が全く論じられなくなってしまったせいではないのか。論壇の右傾化が語られるが、いわゆる自由主義史観の論者たちさえ、担いでいるのは天皇ではなくて司馬遼太郎である。しかし天皇制を議論しないことは、我々の社会生活の中心をなす国家というもの、そして国家を可能にしている政治的権威というものについて何も考えないことなのだ。自分に最大の影響力を及ぼしている存在について無自覚であることなのだ。いや、私は特定の政治的な思想信条からものを言っている訳ではない。日本国憲法は、象徴天皇制についての規定から始まっている。だから天皇制を論じないことは、この国の憲法原理について議論しないことなのである。例えばアメリカ人が事あるごとに独立宣言の意義に言及するように、憲法は公論の焦点や争点になるために存在する。国家の憲法原理が議論されない国は、憲法不在の国である。

 昨今の日本で天皇制が論じられなくなった原因は、容易に見当がつく。それは、「天皇制」がもともと共産党用語だからである。それゆえに、共産主義が崩壊したのに相変わらず天皇制にこだわるのは時代錯誤であり、マルクス=レーニン主義というカルトから脱却できない人間のやることだという雰囲気が広まっている。私なども上述のように「憲法の原理を議論しましょう」と言っているだけなのに、共産主義にひそかな共感を抱いている人間だと誤解されかねない現状である。繰り返すが、日本国憲法が象徴天皇制の規定から始まっていなければ、私が天皇制にこだわる理由はどこにもない(ついでに言うと私は人間としての明仁氏と美智子妃にはたいへん好感を持っている)。それではまず、「天皇制」という共産党用語がどのように成立したのかを簡単に振り返ってみよう。

 日本共産党は、二十世紀前半の国際共産主義運動の産物である。コミュニスト.インターナショナルの略語であるコミンテルンという言葉を知っている若い人は今日では滅多にいないだろうが、要するに日本共産党はモスクワに本部を置くソ連共産党の日本支部として結成されたと言っていい。だからこの党の方針(テーゼという)もモスクワの党の幹部のブハーリンらによって作られた。そして有名な三十二年テーゼに「天皇制」という言葉が登場する。周知のようにボルシェビキには、まずフランス革命のようなブルジョア革命が起きて資本主義社会が生まれ、その矛盾が世界史の科学的な発展法則によってプロレタリア革命に行き着くというドグマがあった。 そして三十二年テーゼでは、このドグマに基づいて当時の日本帝国にフランス革命のモデルがそっくり当てはめられ、大地主を排除する土地改革等と並んで絶対君主制の打倒が日本革命の当面の課題とされた。

 当時のソ連ではすでにスターリンが独裁者の地位を確立しており、テーゼにはボルシェビキの教条主義と国際社会におけるソ連の安全を最優先させるマキアベリズムが入り交じっていた。それはとにかく、テーゼのロシア語原文にあったMONARCHIYAという語が辞書どおり「君主制」と訳されず「天皇制」と訳されたことが、この共産党用語の発端である。私は永らくこの「天皇制」という訳語は日本共産党関係者の独創なのだと思っていた。日本の実情では天皇を君主と言われてもどこかピンと来ないので変則的な訳語を作ったのだと思い込んでいたのである。だが、これは間違いのようだ。MONARCHIYAの訳語については、当時のコミンテルン駐日代表カーリス.ヤーンソンの介在もあって「天皇制」になったらしい。

 細かいことは分からないのだが、この変則的な訳語が生まれた一因は、ツァーリズムとの連想であるようだ。ボルシェビキの目で見ると国家神道に支えられた日本の天皇は、西欧型の君主より、政教一致のロシア帝国でロシア正教の教皇を兼ねるツァーリに似ている。この特殊性を強調するために「君主制」に代えて「天皇制」という語が選ばれたようだ。そうなると、日本人の独創どころか、当時の日本共産党のモスクワべったりの姿勢がこの訳語の背景にあったことになる。とにかく1930年代の日本を革命前夜の十八世紀末のフランスと重ねてみたり、天皇をロシアのツァーリに見立てたりと、今日から見ればこのテーゼの歴史認識は荒唐無稽というほかはない。その後獄中の共産党の幹部から転向者が続出したのも、むべなるかなである。

 しかし日本帝国が大戦に敗れ占領軍によるこの国の民主化が進行する中で、この言葉は広く世に知られるようになり、日本とその歴史を考えるキーワードになるに到った。戦前の庶民は天皇制という言葉を知らなかったのだが、戦後日本の社会では保守派や右翼までがこの言葉を使うようになった。三島由紀夫が天皇制について語ったのは、彼が共産党のシンパだったからではない。1950年代の日本で共産党系ないし共産党シンパの知識人が大きな影響力を持っていたことも、天皇制という語が世に広まった一因ではあるだろう。しかしこの語が広まったより根本的な原因は、それが日本語の中の政治用語上の空白を埋めて社会の必要を充たしたからである。「天皇制」は、たとえ出自的には国際共産主義運動の副産物であろうとも、日本人にそれまで欠けていた国家というものを論じるための貴重な語彙を提供したのである。

 明治維新が生んだ国家は欽定憲法の大きな限界があったとはいえ、一応憲法を持った民族国家NATION-STATEの体裁をとっていた。そしてこの限界内で、大正期には議会主義、民本主義などの運動があったことも事実である。ところが維新の正当化に使われた徳川時代以来の国体論では、この疑似民族国家さえどうにも基礎付け正統性を保証することが出来なかった。具体的にいえば、いかにこじつけようと国体論から欽定憲法の論理を導出することは出来ないのである。しかも明治以来の体制エリートは、国体論に替わる彼等なりの近代国家の論理を打ち出すだけの才も能力もなかった。この体制エリートの無能さが残した空白を埋めたのが、共産党用語「天皇制」だった。それゆえに保守派や右翼が共産党用語を弄して国粋主義に居直るという滑稽なことも起きる。

 このように近代日本で国家を論じようとすれば、天皇制という用語なしにまともな議論は出来ないのであって、このことは共産主義イデオロギーとは無関係である。これは、「明治維新」という歴然たる右翼用語を左翼の歴史家も使ってきたのと同じことである。しかも現行憲法の象徴天皇制は、カリスマとしての天皇個人を否定して象徴としての社会的な役割を天皇に負わせるものなのだから、天皇=制度の一つの完成形態ともいえる。これだけ述べてくれば、私が天皇制にこだわることに共産主義やマルクス史観は何の関係もないことは理解して頂けると思う。私の論旨をもう一度まとめると、私が天皇制という問題にしつこくこだわるのは 1)それが今の日本国の憲法上の原理だからであり 2)また近代日本の国家とその歴史を天皇制という用語を使わずに論じることは不可能だからである。そしてこの国における天皇制の歴史は古代に遡るとはいえ、近代の天皇制はあくまで明治維新が産み落したものである。そこで次回はまず、維新と天皇制の関係について考えてみたい。(続く)



     
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