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   天皇制について(その二)

 前回は「天皇制」という言葉が共産党用語であることを指摘したが、今どき「天皇は絶対君主で人民の敵」などという講座派流の古典的な議論を口にする人はどこにもいない。こうした教条主義の没落は結構だが、それと同時に天皇制自体も議論されなくなった結果、1970年代あたりから国家論の空白と混迷が続いている。だがこの知的に不毛な状況の中でも、かっての共産党的天皇論にとって替わりうる論を打ち出そうとする試みがない訳ではない。そうした試みをひとまとめにして、民俗学的ないし文化人類学的な天皇制論と呼ぶことができよう。言うまでもなくその代表格は、勅許特権を介した天皇と非農業民等との結びつきに民俗学的視点から注目する日本史家の網野善彦氏だが、祭司王としての天皇といった「金枝篇」のフレーザーばりの人類学系の議論もよく見かける。

 しかし私にはこうした議論は昨今の日本における国家論の混乱や衰退を示すものとしか思えない。戦後の一時期猛威をふるったマルクス主義の国家論は信用を失い、目下のところ国家論の空白を埋めているのは欧米のモデルを教条的に日本に当てはめただけの言説である。それは例えば英米流やハイエク流のリベラル国家論だったり、上っ調子なグローバリゼーション礼讃論や必然論だったりする。これではコミンテルンのドグマを鵜呑みにしたかってのマルクス主義者を笑えない。(ちなみにグロ−バリゼ−ション万歳論は、「国家は経済の上部構造にすぎない」というマルクス説の現代版である)。そうした中では民俗学や人類学の視点に立つ天皇制論は、それなりに日本の歴史と風土に密着した血の通った国家論を目指す志のある試みと言えなくもない。だが問題は、この種の試みの多くが、天皇制を批判的に分析したつもりで実際には学問の名を借りた天皇主義イデオロギーになってしまっていることである。天皇制はこの国の民草の習俗に根を持つとか古代から日本列島の連綿たる文化と一体になって存続してきたとかいった議論は、それ自体近代日本の天皇主義者が事あるごとに主張してきた議論にほかならない。天皇=祭司王説もまたしかり。

 しかし前回に指摘したように、象徴天皇制が日本国憲法の原則になっている現実がなければ天皇制が問題になる理由などどこにもない。。そして我々がこんな天皇中心の憲法を持っているのは、現行憲法が日本帝国の欽定憲法をその57条の規定に従い改定したものにすぎないからである。つまり”国体”は今も存続しており、この国では相変わらず天皇が「公的なるもの」を象徴しているのだ。「国民統合の象徴」としての天皇とは、まさにそのことを意味している。この点で、日本とドイツには同じ敗戦国でも大きな違いがある。この両国は戦争責任のとり方をめぐってよく比較され、日本の煮え切らない態度が国際的に批判の的になる。しかし海外の世論は法の問題に気づいていない。。ドイツではヒトラーが当時のワイマール憲法を一時停止して総統指令で独裁をやったために、戦後の西ドイツはナチ体制を暴力犯罪と規定して戦前との体制上の断絶を確認、全く新たな連邦共和国基本法が制定された。ところが日本では憲法という国家の基本的な次元で戦前が続いている訳で、これでは日本帝国の全面的断罪など始めから不可能である。戦争責任についての日本人のあやふやな態度は、良くも悪くも戦後憲法の素性を反映しているのであり、日本人の心性や道徳的資質には殆ど関係がない。

 それゆえに、天皇制を論じようとすれば現行憲法の前身である明治の欽定憲法に行き着かざるをえない。そして大日本帝国の欽定憲法は、いわゆる明治維新の結果を制度化するために制定されたのだから、「天皇制とは何か」という問いは結局「明治維新とは何だったのか」という問いに重なる。私はかってこのコラムで「明治維新はスキャンダル」(バックナンバー参照)という一文を書いたが、1865年の王政復古のクーデターという暴挙の延長線上で”天皇制はスキャンダル”なのである。従来の天皇制論が殆どみな的外れな論である理由は、それが明治維新論として展開されてこなかったことにある。
 例えば従来の諸説は、明治以降に天皇が神聖不可侵な存在、臣民に対し自分の決定を説明する責任を免れた無答責の存在とされてきた理由を明確に説明できているだろうか。古来日本人は天皇に神秘的カリスマ性を感じてきたからとか、民俗的宗教的伝承の影響力のせいといった説明は、それ自体国家神道の教説を言い換えたものにすぎないだろう。

 天皇の神格化は、開国前後の幕末の日本で尊王攘夷論が演じた役割に間接的な関係がある。尊王論は本来は水戸学が太平の時代における徳川幕府の権力を正当化するために作り出した言説だったのだが、日本近海に外国船が頻繁に出没し始めた十九世紀前半の時代状況の中で攘夷論に結びついた。そして幕府がぺリーの黒船の外圧に屈して開国し幕藩体制の要である鎖国政策を放棄したとき、その権力は正統性を失い、薩長など西国の諸藩には関ヶ原の合戦の敗者復活戦をやる絶好の機会が訪れた。そこでよろめく幕府を叩く大義名分として、安政の大獄から桜田門外の変までの一時期、尊王攘夷論の影響力は絶大なものになった。 

 だが所詮は時代の空気を反映したものにすぎないこの国論は、しぼむのも早かった。攘夷の急先鋒だった薩摩藩は薩英戦争を機に英国に留学生を送るほど親英的になり、勤王の志士たちのバイブルとなった「新論」を書いた水戸学の会沢正志斎も晩年には開国論に転向してしまった。となると幕府から権力を奪取したい連中には、倒幕の論拠としては尊王論しか残っていないことになる。ところが開国後の日本の大勢は幕府と朝廷を和解させる公武合体論に傾き、そのうえ将軍徳川慶喜は抜け目なく大政奉還の儀式をやってみせることで尊王論者を出し抜いてしまった。将軍が天皇に政権を返上申し上げた以上、幕府を討つ理由はなくなった訳である。そこで大久保、岩倉らは慌てて討幕の密勅をでっちあげ、なりふり構わず王政復古のクーデターをやることになる。無理が通れば道理引っ込むとはこのことである。

 徳川慶喜の巧みなマヌーバーのせいで、討幕派の権力亡者らは正統性を全く欠いたクーデターを強行する羽目になった。そのうえ彼等は、開国後ひときわ活発になったこの国の世論を前に、何とかしてこの暴挙を正当化せねばならない。そこで名分上では進退極まった彼等は、天皇は世俗を超越した神聖な存在であり、神聖不可侵な天皇から実権を奪った過去の幕府の行為ほど畏れ多く不埒なものはないと言い張ることになった。そしてこの苦し紛れの妄言が、そのまま明治憲法の原則になってしまった。京都の人々にとっては皇室は神秘的カリスマなどでなく、京都の数ある名家の中のトップの家門にすぎなかった。この京の名誉文化人とでもいうべき存在だった天皇が突如現人神になった理由はただひとつ、維新の犯罪的でスキャンダラスな性格を神聖なる天皇のヴェ−ルで覆い隠すためである。そこに思想などありはしない。尊王も攘夷も国体論も天皇の神格化に直接の関係はない。まずクーデターという行為ありきだったので、国家神道という天皇制の神学は明治に入ってから試行錯誤のつぎはぎ細工で作られた。

 このように見てくると、天皇制の歴史的な意味を決定しているのは明治維新であることを踏まえないためにいろいろ馬鹿げた説が出てくることがお分かり頂けたと思う。天皇制に関して問題にさるべきなのは、どこまでもその政治的な機能なのだ。もっとも私は英国の左翼の論客エリック.ホブズボ−ムのような、近代において伝統と称されるものは実は権力者によって新たに発明されたものだという立場をとるつもりはない。天皇制は維新に際して無から創造された虚構ではない。後に明治の元勲と呼ばれることになる討幕派にとって天皇がかくも利用価値があった理由は、やはり古代以来の日本の歴史の中にある。そして天皇制は理由なくして一千年以上”皇統連綿”で存続してきた訳ではない。しかし明治維新というプリズムをとおしてこそ、この日本史における天皇制という問題もその核心があらわになってくるのである。そこで次回は、古代以来の日本史全体を理解する鍵としての天皇制について考察することにしたい。


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