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   天皇制について(その三)

 天皇制論はあくまで明治維新論として展開されねばならないことを前提にした上で、古代以来の日本史における天皇制について考えてみたい。そこでまず気がつくのは、日本史において天皇制は常に公法の問題だったことである。日本史上で天皇制が歴史的大転換の契機となったことは、三度あった。最初は701年の大宝律令の制定による中国型律令国家の成立、ついで明治維新に続く1889年の大日本帝国欽定憲法の発布、そして1946年の日本国憲法の公布である。いずれもこの国の公法の歴史における転機をなした出来事である。してみれば天皇制とは「日本人にとって公法とは何か」という問題に等しいのであり、明治維新で突如化石化していた古代天皇制が再生してくることも、この国における公法の伝統に関係しているのである。

 ここで私が単刀直入に「国家」と言わず「公法」というややこしい言い方をするのは、ほかでもない。国家という言葉は曖昧な使い方をされるからである。たとえばクニthe country と呼ぶしかないような地域的共同体を国家と呼ぶ人がいる。そうした人にとっては、古代の日本列島にあったクニのオオキミが中国的律令制度の導入をきっかけに天皇と称されるようになったことは、歴史的な飛躍や断絶を意味しないだろう。古代中国の公法が導入される以前から日本には”天皇”が実質的に存在していたことになるだろう。しかしオオキミのようなたんなる首長chieftain は、どれほど権勢を誇ろうとやはり国家の主権者sovereign ではない。オオキミは領土や隷属民を所有していたかもしれないが、公法の形で明示される公的な権威をもっていない。つまり私が言いたいのは、国家はあくまで主権の概念によって定義さるべきで、それによってたんなるクニと区別されるということである。そして主権が存在するための条件は(1)効力のある体系的な公法が公示されていること (2)何らかの国際秩序に関与し共同体の対外的統一性を意識していることである。

 してみると八世紀に帝政中国から律令制度と皇帝思想が導入され古代天皇制が生まれたことによって、日本列島に始めて国家らしきものが形成されたということができよう。もちろんその際に土着のオオキミの伝統と中国のシステムがどのように接合されたかが大きな問題になるが、その考察は別の機会に譲る。またこの古代日本国家の形成は、”国力”が自ずと発展した結果ではなく、新羅の興隆など朝鮮半島情勢に絡んだ外圧によるものだったようだが、そうした歴史的事情にもここでは立ち入らない。いかにも安普請で作られたこの律令国家が日本の中で実効支配していた土地は、おそらく近畿地方だけだったろう。だが見かけだけにせよ、日本にも天皇を主権者とする公法を備えた国家が誕生した。そしてこの国家は対外的統一性も意識していた。「日本」という国名は中国から見て日本列島が日の出る方角に位置していることを意味しているが、この国名が示すように日本は帝政中国を中心とする東アジアの国際秩序(華夷秩序)に属する国家として自らを対外的に位置づけたのである。

 多くの点でまだ未開の面影を残す国だった古代日本は、帝政中国の強烈で包括的な影響の下で国家を形成した。この古代史上の明白な事実を私は天皇制という問題を解く鍵にしたいのである。天皇制を日本固有のものとみなして一国的な枠組みで捉えようとするアプローチは、それ自体天皇主義的というしかない。天皇制は国際関係から、古代以来の日中の関係の視角から再考される必要がある。私のこの問題提起がマルクス主義的な天皇制論とは全く異質なものであることはお分かり頂けると思う。日本の歴史における天皇制の功罪を問うことは、国際関係論の視点から帝政中国が古代の日本に及ぼした影響の功罪を問うことなのである。

 功罪と言ったが、天皇制を俎上に乗せる限りは、罪の部分が議論の対象にならざるをえない。しかし功の部分ももちろん大きい。礼儀正しさや他人への気配りなど我々が日本人の良き資質と信じているものの多くは、中国文明の感化なしには考えられないだろう。日本人の精神性の基盤をなす仏教、儒教、道教も中国人から学んだものである。それに中国が悪しき模範だったかどうかは、もともと論点ではない。むしろ問題は、日中の交渉につきまとったさまざまの歴史的で偶然的な制約や齟齬に関わっている。それは中国という他者に日本が反応したことから生じた関係の構造、そうした関係の歴史的な構造の問題なのである。

 そうした関係の構造を決定したものとして最初に挙げられるのは、日中間の途方もない歴史的発展段階の落差である。日本が見よう見まねで律令国家を作ったとき、中国にはすでに殷王朝の青銅器文化以来の二千二百年に及ぶ国家と文明の歴史があった。これは、ローマとゲルマンの蛮族に例をとって対比できるようなものではない。ローマとゲルマンの蛮族の差といっても、ローマ人も紀元前六世紀頃まではまだ蛮族にすぎず、その文明の歴史はさほど奥の深いものではなかった。だからゲルマン人が移住してローマ社会に同化するのも難しいことではなかった。これに対し日中間には、保育園児と博士号所有者ぐらいの落差があったのだ。だから中国が及ぼす影響は、未開状態を脱してまもない日本列島の住民を押しつぶしかねない程の圧倒的で強烈なものだったに違いない。第二に、日中間には国情に関しても巨大な差異があった。広大な大陸国家中国とはきわめて対照的な、地域的多様性に富む小さな島国の日本。この国情の違いがもたらしたものについては、後で考えてみたい。

 この日中関係の構造をめぐって私がまず注目したいのは、日本史とヨーロッパ史の相違である。地理的にも歴史的にも、古代日本にとって国家のモデルは帝政中国以外にありえなかった。しかも当時の日本人にとり、隋や唐は比類ない権威と栄光に満ちた歴史的に現役のモデルでもあった。だから律令制の導入に際して当時の日本人に選択や比較考量の余地は全くなかった。ところが十一世紀頃ヨーロッパ世界が形成されはじめた時期のヨーロッパ人の前には、古代ギリシャの都市国家の共和制、ローマ帝国、ゲルマン人の部族社会、カトリック教会の行政組織そして聖書の古代イスラエルなどさまざまな国家のモデルが存在し、その中から最適と思えるものを自由に選択したり必要に応じて異なるモデルを組み合わせたりすることが可能だった。しかもカトリック教会以外のモデルはすべて既に死滅した過去の国家であり、それゆえにヨーロッパ人は何の政治的圧力も感じることなく多種多様な国家モデルに向き合うことができた。

 もちろん、だからと言って彼等が過去の国家モデルに啓発されて最善最良の国家を作りだしたとは言えないだろう。しかしヨーロッパ人は少なくとも国家にはいろいろな作り方があることを学び、そこにはかなりの度合いの自由があることを発見した。言い換えれば、彼等は国家というものに対し実験的な態度をとり、どんな国家も暫定的できわめて人為的な制度にすぎないとみなすようになったのである。インドや中国その他の社会の根深い保守性に比べてヨーロッパの社会は本質的に革命的であるといわれるが、その原因はここにある。

 しかるに国家に対するヨーロッパ人のこの自由で実験的な態度こそ、歴史の女神が日本人には禁じたものだった。地理的、歴史的な偶然から、日中の歴史や国情の相違を無視して日本人は帝政中国の国家モデルを鵜のみにするほかはなかった。そして律令制度と皇帝思想の日本への導入には、現存する先進的大帝国隋や唐の威信と栄光にひれ伏すような卑屈さが伴っていた。これに加えて、呪術的心性から脱却しきっていなかった当時の日本人には中国思想は難解であり、律令国家のイデオロギー的支柱となる政治思想は道教を中心にして呪術的に解釈されることが多かった。こうした一連の事情が、日本史における天皇制という問題を生みだすことになる。日本列島における国家の形成は、当初から、国家という存在に対する異常なほどの呪物崇拝的で事大主義的な態度と一体になっていたのである。 (続く)


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