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   天皇制について(その四)

 風薫る五月、ある人が中国からの客を日本の田舎に案内した。そして道すがら空に翩翻とはためく鯉のぼりを指して「どうです、珍しいものが見えるでしょう」と言ったところ、その中国人は破顔一笑、「あれはもともと中国にあったものですよ」と答えたそうな。こうしたエピソードは少なくない筈だ。お茶や生け花から下駄、のれん、チャンチャンコまで、和歌の詩型や花鳥風月の美学から子供のジャンケン遊びまで、日本人が純日本的と思っているものの大半は中国から伝来したものである。その中には梅干しや和服、食事をお膳で供する習慣など中国ですでに消滅してしまったために、いかにも純日本的にみえるものもある。ある中国の学者は「日本に来ると唐の時代の中国に戻ったような感慨を覚える」と言ったそうである。そう言われて考えてみれば京都は中国語で皇帝の住まう都つまりメトロポリスを意味しており、奈良は朝鮮語でクニの意味である。一国の代表的な古都にそろって外国語の名前が付いているという例は、世界的にも稀なのではなかろうか。中国が日本に及ぼした影響は、これほどまでに広く深く包括的である。寺尾善雄氏の「中国文化伝来事典」(河出書房新社)の頁をめくっていると、これでは純日本産のものはカツ丼ぐらいしか残らないのではないかと思えてくるほどだ。

 前回に述べたように、天皇制の問題は古代以来の日中の交渉とりわけ帝政中国に対する後進地域日本の反応という視角から捉え返すべきだというのが、私の主張である。そこでまず銘記すべきは上記のような日中の関係であり、中国の娘文明といってもおかしくない日本の位置だろう。一国が頭のてっぺんから足のつま先までこれほど他の文明に影響され感化された例は、世界史的にもそうない。だがその一方で日本は朝鮮のような小中華には、なりたくともなれなかった。先進国中国の文物の導入によって文明化した国であるにもかかわらず、古代このかた日本にとって中国は常に近くて遠い国に留まった。私見では、中国とのこの微妙な隔たりこそ日本の歴史と日本人の民族心理を考察する上での決定的な鍵なのである。
中国と日本の関係を微妙で不安定なものにしたのは、東シナ海という地理学的要因にほかならない。日本列島に住んでいた倭という集団はすでに紀元239年の大昔に女王卑弥呼の使節を魏に行かせており、その後倭国は隋にも使節を派遣している。しかし古代の日中関係がクライマックスに達した時期は、何といっても630年から二百六十余年にわたり大和朝廷が唐に遣唐使を送りつづけた頃である。大化の改新で律令国家創設への助走を始めた古代日本は、663年に白村江の戦いで唐.新羅連合軍に大敗した結果唐のオブザーバーが乗りこんで来るような事態を迎えた。それゆえに中国的律令体制を確立して唐におもねりつつ国家の安泰を図ることは朝廷の至上命令となり、そのためには中国について正確な知識をもつ人材が緊急に必要とされた。そうした国家エリート養成のプロジェクトの要をなしたのが、遣唐使船による留学生の派遣と仏教文献など国家体制の整備に不可欠な文物の輸入だった訳である。それゆえに遣唐使の派遣は、日本の国家体制改革の成否が賭けられた国策として行われたものであり、これを中国とその周辺国の間の通常の朝貢と同列に見ることはできない。

 ところがこれは、今なら宇宙旅行に近いプロジェクトだった。当時大和朝廷は新羅と敵対関係にあったから、朝鮮半島の西岸に沿い陸地から離れずに航行して大陸に渡るという安全な航路はとれなかった。しかし日中を隔てる東シナ海は、英仏両国に挟まれたド−ヴァー海峡などとは比較にならない広大な海であり、しかも日本はユーラシア大陸の端に位置しているためにその近海は気象が変わりやすく、世界でも有数の荒海である。当時の造船や航海の技術では、無事に唐と往復できたならばそれは奇跡に近かった。史家の推測では、難船を想定して一隻に百人以上が乗り組んだ船四隻で船隊を組んで渡洋し、その一部が揚州付近に辿りつけば上出来ということだったようだ。航海の困難さを物語るように、二世紀半に間に遣唐使船が出帆したのは僅か十八回、そして八世紀のピーク時でも全船隊が無事に往復できたのは一回だけという。遣唐使の派遣は894年に菅原道真の進言で取り止めになる。その背景として唐の衰退が指摘されているが、もともと国家存続の危機の中、律令国家創設という至上命令の下で強行された危険きわまりないプロジェクトだったことは否定できない。こうして日本を本格的に中国の娘文明にするという企ては、挫折に終ったのである。そしてその後には俄作りの律令制の皮相な形骸だけが残った。

 この遣唐使船の苦難の航海に、今日に至るまで日本という国の歴史と国柄を左右してきた大問題が鮮やかに凝縮されている。島国の日本には、中国と陸つづきの朝鮮やベトナムのように中国と密接に交流することは不可能だった。しかし日本は、フィリピンやハワイほど中国から離れているのでもなかった。日本は磁石のように中国が発する磁気に否応なく吸い寄せられた。この中途半端な地理的位置ゆえに日本は、帝政中国の華夷秩序の内にはないが、さりとて完全にその外にあるのでもない座りが悪い国になってしまったのである。そして十九世紀に欧米諸国の海軍と商船隊が極東に進出して来るまでは、東アジアには中国の華夷秩序以外の国際秩序は存在しなかったから、日本が中国とは別の文明圏に入るという選択肢は問題外だった。(別の文明圏に入って中国の影響から離脱するという選択肢を初めて日本に与えたのは、ペリーの来航を契機に大平洋を挟んで成立したアメリカとの関係である。だから近代の日米関係はたんなる外交の枠を越えた日本史上の一大転機をなしており、日本とヨーロッパの交流などとは全く異なる意味をもっている。この問題は後に論じたい)。

 この日本の曖昧な地位は、何よりもまず日本人の独特な民族心理を生んだ。日本人は中国の圧倒的な影響力を感知すればするほど ー朝鮮人のように中国学校の優等生になるには決定的なハンディキャップがあったからー 日本の独自性や中国からの自立、中国との対等な地位さらには中国に対する優越性さえ主張するようになった。そうすることで辺境意識に悩む日本人は、その孤立感や劣等感から脱却しようとした。日本人の中国に対する反対感情両存的(アンビヴァレント)な心理やそこから生じる中国(と或る程度まで朝鮮)に対する妙に居丈高な態度を示す例は、古代以来枚挙にいとまがない。これは遣唐使以前の話だが、隋の煬帝に送られたというあの有名な「日いずるところの天子、書を日没するところの天子に致す」という国書も、華夷秩序への無知と共にそうした劣等感ゆえの居丈高な姿勢が現れたものと見ることができよう。そしてこの点では、漢意(からごころ)を目の敵にする本居宣長はやはり典型的な日本人だったことになる。だがその一面では母なる文明国中国への親近感もなくなりはしなかった。この日本人の分裂した心理は、今でも親中国的な朝日新聞と中韓アレルギーの文藝春秋の張り合いにまで後を引いていると言えるかもしれない。

 こうして見ると日本と中国および韓国朝鮮とのギクシャクした関係は、必ずしも日清戦争以後の近代に始まったものではない。日本人の民族心理のせいで両国との関係は既に古代から問題含みだったのである。この奇妙に縺れた関係は、例えば隣り合った英仏両国のライバル意識などとは全く異なるものだ。そしてやたらと居丈高に日本人の独自性やユニークさ、”万邦無比の国体”といったことを言い立てる傾向も、近代天皇主義者の専売ではなく昔から日本人の心理に潜在していた傾向と見ていいだろう。天皇制とは根本的にはこの日本人の屈折した民族心理の問題なのだというのが私の見解である。すなわち帝政中国の華夷秩序の内でも外でもないという曖昧な形でこの国が中国の周辺に位置づけられたことが日本人の心理に刻印した一連のコンプレックスこそが、天皇制の精神なのである。「天皇」という中国から輸入された思想を担ぎながらそれを純国産の国体だと言い張る国粋右翼の倒錯に、それは典型的に現れている。だがもちろん天皇制は、たんなる心理現象ではない。それは制度と歴史の次元においても厳然として存在する。そこで次回は、日本の曖昧な地位がどんな制度と歴史をもたらすことになったのかを考えてみたい。
(続く)


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