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   天皇制について(その五)

 この国で天皇制が論じられる際に一つの定石になっている論点がある。日本の皇室はなぜ千年以上にわたり時代の有為転変を越えて存続してきたのか。どの論者も必ずこの問題に言及する。こうした問いの立て方自体「皇室は万世一系」という国粋右翼の思想的な罠にはまっているようにも思えるのだが、皇室が中国の皇帝やヨーロッパの君主のように政敵によって滅ぼされることなく存続してきた理由については確かに説明が必要である。実はこの事実は不思議なことでも日本の他に比類のないユニークさを示すものでもない。前回は遣唐使をめぐって日中の近くて遠い空間的な関係を指摘したが、この空間的な関係を時間と歴史の次元に置き換えてみれば、皇室が古代以来ずっと存続してきた理由は簡単に説明できる。

 日本は朝鮮のように中国と陸続きではない一方、ハワイほど中国から離れてもいなかった。だから日本人は中国中心の華夷秩序をめぐり求心力と遠心力に引き裂かれて苦しむことになった。同様に歴史の次元においても、日本は「中国の影響下での中国離れ」という曲芸を強いられた。日中間の歴史と国情の違いゆえに中世以降の日本は帝政中国の国家モデルからどんどん遠ざかったのだが、中国文明圏の引力から完全に脱することは不可能だった。古代律令国家の化石化した痕跡に落ちぶれながらも皇室が京都にしぶとく存続したことは、日本が中国文明の引力を遂に振り切れなかったことを物語っている。だがそれと同時に、応仁の乱以降の朝廷の衰微と化石化は、律令体制を独自なやり方で換骨奪胎するところに日本史のダイナミズムがあったことの証拠でもある。

 ではどのようなことが原因になって律令体制は骨抜きになり日本の中国離れが促進されたのだろうか。まず第一に指摘されることは、日中の国家としての発展段階の差である。華北の黄河流域から始まった中国文明はその後揚子江流域に拡がり、大和朝廷が隋唐に朝貢した頃までには広大な中国大陸の国土の開発はほぼ完了していた。中国に出現した最初の国家は「商」と名乗っていたが、都市と商業の発展が統一国家形成への継続的な圧力になったものと考えられる。国土がまだ開拓中で商業も未発達だった時代には権力構造も流動的で、いわゆる春秋戦国時代が長らく続いた。だが国土の開発が一応完了し商業による富の流通が拡大すると中央集権システムで政治秩序を安定させることが課題になり、全国土を皇帝の所有地とする公地公民制や土地を定期的に民に等しく分配する均田制という一種の古代的専制的国家社会主義体制が作り出された。

 これに対して古代日本はどうだったろうか。奈良時代の日本の人口はせいぜい二百万と推定されており、国土はこれから開拓されるところだった。全国の耕地をタテヨコに規則的に区分けする条理制という耕地の区画法は、国土を開拓していくための方式だったと見ることができる。こんな状態だったのだから、大宝律令が制定されてから半世紀も経たない743年に墾田永世私財法が制定され新たに開墾した耕地の私有が承認されたことも不思議ではない。国家が寺院や有力者による土地の私有を公に認めたことで、日本は中国の公地公民制とは正反対の道を歩み始めた。そしてこの中国モデルからの逸脱が、武士の台頭へと繋がっていく。そうした転機となったのは、言うまでもなく鎌倉時代である。

 かねてから朝廷の威令の及ばなかった関東では土地の開墾が進むと共に開発領主という武装した地主たちが登場し、無秩序な東国での領地の保全を図ってイエの制度を作り出した。有力な領主に忠実な奉公と引き換えに御恩として所領を安堵してもらう制度である。そして彼ら東国武士団が京から下ってきた貴種源頼朝を武家の棟梁のトップに据え、頼朝が朝廷から授かった征夷大将軍の肩書きでその兵権と政権を正当化した時、後に幕府と呼ばれることになる日本独自の権力システムが誕生する。日本の律令体制には中国と違って武官についての正式な規定がなく、将軍は令外の官だった。だから東国武士団は体制の隙間をうまく利用して自分たちの利益にかなう脱律令制の権力システムを編み出したと言えよう。この幕府という体制を生み出すことにより日本は可能なかぎり帝政中国の国家モデルから離れ、その結果例えば朝鮮人から見れば日本は中国皇帝の教化に服することなく武官が支配している化外の民の国になった。

 日本の中国離れのもう一つの要因は、日中の地勢の違いである。中国は概して広大で単調な平原の国だが、日本は小さな島国ながら南北にかけてのその地域の多種多様さは世界的にも飛び抜けている。山々や海岸線が複雑に入り組んだ日本の地勢は、スイスやギリシャに似ている。そしてスイス連邦や数多くのポリスが分立した古代ギリシャの例を見ても分かるように、こうした地勢は地方分権型の国家体制に向いている。天皇がオオキミと呼ばれていた太古の時代から日本が事実上各地に群雄が割拠する豪族支配の国だったことは、おそらく偶然ではない。また後の幕藩体制の成立も、国土の開拓や領地争いという上記の問題とは別に、日本に適した地方分権体制という面もあった筈である。そして江戸時代の幕藩体制の下で各藩は殖産興業策や教育政策で競い合った。この時代に諸地域が蓄積した成果を明治以降に利用できたことが、その後の日本の近代化を中韓両国とは対照的な順調なものにしたと言えよう。

 しかし日本のこうした中国離れには限界があった。天皇制とは、この限界の問題なのである。皮肉なことに幕藩体制の確立で日本の中国離れが完了したかに見えた江戸時代に、振り子が逆に揺れ始め、日本を中国化する試みが再開された。徳川の日本は元禄の頃までには戦国の世に逆戻りする可能性は完全に消滅、武士は行政官僚になって都市に住み、恣意的で専制的な体制ではあったが幕藩体制は次第に国家の様相を帯び始めた。早くも1657年には後の国学の支柱となる「大日本史」の編纂が水戸藩で始まり、つづく十八世紀には新井白石、荻生徂徠から本居宣長、安藤昌益にいたる思想家が日本史上初めて国家論を展開した。だが幕藩体制が擬似的な国家に変質すればするほど、日本人が周知している国家のモデルは帝政中国しかないという問題が浮上してくる。その意味では幕府の儒教による文治主義は、たんなるプロパガンダとは言えない。武家のオイエの論理に即して日本的にアレンジされたものとはいえ、幕府はそれなりに儒教的国家体制による権力の正統化と安定を意図したのである。

 天下をとった家康は朝廷を徹底的に無力化し天皇を只の京都の文化人にしてしまうことに成功した。そして水戸派の国学も元々は幕府の権力の正統性を確立することを狙いとしていた。しかし徳川家のこの成功が長期的には裏目に出る。武家のトップである将軍を任官する権利が朝廷にあることは、家康が思ったようなたんなる形式的儀式的な事柄ではない。朝廷の介在は、武家の事実DE FACTO としての領地所有が公法的に保証された権利DE JUREとしての所有になることを意味している。だから皇室を廃絶したりすれば、武士は自分の足元を危うくすることになる。そして水戸藩が国学で幕府の足元を固めようとすればするほど、日本における究極の公法上の権威は朝廷にあることがますます表面化してしまう。幕府は意図せずして後日反幕勢力が幕府を攻撃するための強力な武器を作ってしまった。

 他方で国際政治の視点からすれば、徳川幕府による日本の”中国化”は、明に朝貢して日本国王として冊封されようとしたかっての足利義満の試みとはベクトルにおいて正反対のものだった。幕府は中国中心の華夷秩序の外で儒教国家日本を作ろうとしたのだ。だがこれは国家間にも君臣の序列があるとする儒教の普遍的位階制の論理に反する。徳川の日本は、いわば無免許の偽儒教国とされかねない。。そこで日本が中国を貶めることが必要になり、満州の蛮族に征服された明などより日本こそ真の神州や中国と言えるのではないかという議論が出てくることになる。とにかく中国が二つもあってはならない。この議論が伏線となって、国体論で正当化された近代日本の日清戦争以降の膨張主義が生まれる。大日本帝国は、帝政中国に代わる天皇中心の新たな華夷秩序を皇軍の力で東アジアに打ち立てようとした。近代の天皇はたんなる日本一国の王ではない。中国の天子というライバルを押しのけるアジアの大帝なのである。

 以上の日本史の文脈が、明治維新のスキャンダラスな性格を説明する。天皇を担いだ明治維新とは一体何だったのか。それは、とんでもない反動だった。幕末の日本では身分制は大きく揺らぎつつあり、百姓一揆が頻発し平等主義的な民衆宗教が人心を惹きつけていた。また開国後には、列候会議の形で議会制の萌芽も生まれていた。ところが王政復古のクーデターは、古代天皇制復活の見かけの下に幕府が江戸時代にその基礎を作った国家主義の遺産を復活させた。戊辰戦争はかっての敗者の西軍が東軍に復讐した第二の関ヶ原で、開国という歴史的転機には何の関係もない源平合戦まがいの勢力争いにすぎなかった。この戦に勝った薩長官軍は、全土を平定し人民を支配する新しい幕府として明治の藩閥政府を作った。中江兆民によると今昔の違いは、かっては秀吉や家康など支配者は一人だったのに、明治政権では複数の人物が将軍様に成り上がったことにある。そして”明治の幕府”の権力も、教育勅語に見られるようにやはり儒教的国家主義によって正当化された。

 明治の欽定憲法は天皇を神聖不可侵なるがゆえに無答責な存在としたが、実際に無答責NOT ACCOUNTA-BLEになったのは、明治の元勲が幕府から受け継ぎ純化させた恣意的な寡頭制支配の構造だった。この国の支配層が性懲りもなく「民族の伝統」と称するものの実態は、天皇を衝立にした軍部や官僚の無責任な支配を可能にしたこの権力構造なのである。黒船の圧力による開国は、日本人が欧米と修好しその政治制度に学んで中国的な国家モデルの呪縛から解放され、古くからの固定観念を相対化する千載一遇の好機だった。しかるに明治維新はこの好機を台無しにしたばかりか、日本に合わない外来の国家モデルを極端な事大主義で無理をして支えるというこの国の宿痾をどうしようもないほど悪化させてしまった。つまり日本人は明治維新によって日本という国の体制的な欠陥と心中してしまったのである。

 天皇制に関してはもうひとつ、帝政中国の中央集権型国家モデルが日本の地勢や風土に合わないという問題も重要である。これについては興味深いエピソードがある。明治初年にいわゆる岩倉視察団が欧米に外遊した際には、ヨーロッパのどの国を近代日本国家のモデルとすべきか調査することがその重要課題になっていた。そして結局モデルは明治の元勲好みのプロイセンに落ち着いた訳だが、実はスイスも候補に上がっていた。「回想の明治維新」の著者として日本でも知られるロシアのナロードニキのメチニコフは、日本列島の地域的多様性を根拠にスイス連邦をモデルにするよう一行に勧めたという。これは今日でも、というより今日ではなおさら再考に価する提案と言わねばならない。      (続く)


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