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   天皇制について(その六)

 日本はその歴史と国情において中国と大きく異なりながら、中国の周辺国でしかありえなかったために中国文明の引力を振りきることができなかった。その結果、日本人は国家というものを帝政中国モデルでしか考えられないという歴史的な負の遺産が生じた。この日本のディレンマの一大転機となったのが、アメリカの提督ペリーの率いる黒船の来航とそれに続く開国である。これによって日本には、アメリカの影響の下で中国中心の華夷秩序を相対化する可能性が開けた。中国はもはや世界の中心ではなく、さまざまな国のひとつにすぎない存在になった。もっぱら商売しか頭になかった当時のアメリカにそんな意図はなかったにせよ、日本を中国文明の周辺という窮屈な位置から解放したのはペリー提督なのである。

 これ以後日本は、中国とアメリカという二つの巨人にサンドイッチにされ引き裂かれる国に一変した。この構図は、明治維新から日清日露の戦争、日中戦争をめぐる日米の対立と開戦、アメリカ主導の日本の占領と民主化、冷戦期の日米安保体制をへて今日まで変わっていない。つまり日本の近現代史は、あくまで「中国とアメリカの間の日本」という観点から考察さるべきなのである。その証拠に、近代日本に実はヨーロッパは何の歴史的な影響も及ぼしていない。ヨーロッパは一部のエリート層の”教養”とパック旅行のOLがパリやローマで買い漁るブランド商品として存在しているにすぎない。かっての仏教や儒教のようにダンテの詩やカントの哲学が日本人の知性と感性の一部になったとは到底言えない。中国に代わって近代日本の文化、社会、政治、経済に抜き差しならない影響を与えてきたのは、あくまでアメリカなのである。

 それにしての中国とアメリカは、なんという対照をなしていることか。儒教とビジネス文明、道教とピューリタニズム。中国は過去何千年も存続してきた世界最古の文明であり、その特徴は秩序と位階を重視する集団主義、祖先崇拝にみられる根深い伝統主義にある。この静的な中国とは反対に動的なアメリカは移民が作った若い国であり、競争的な個人主義と革新的なフロンティア精神、きわめて流動的な社会構造によって際立っている。近代日本は、この殆ど正反対の特徴をもつふたつの文明の間でバランスをとるという至難の技を強いられたのである。

 しかも中国を「反動」、アメリカを「進歩」とみなして日本の近代化即ちアメリカ化と即断できれば苦労はないのだが、話はそう簡単ではない。過去の日本に中国が及ぼしてきた圧倒的な影響は、一朝一夕にかなぐり捨てることができるようなものではない。それに史上どこでも帝国的秩序はおぞましいものであったとはいえ、帝政中国にはローマなどにはみられない人道主義の要素があったことも否定できないだろう。中国文明が日本に及ぼした感化は、すべて否定的に評価され切り捨てられていいものではない。他方でアメリカは、マックス.ウエーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の<精神>」の中で論じたキリスト教精神の倒錯がもっとも徹底的に演じられた国である。プロテスタントの宗教的熱情がビジネス倫理に転倒されたという点では、西洋でもアメリカほどそれが甚だしい国はない。近代の日本人にとって、アメリカは決してそのまま万事模範になる国ではない。

 それゆえに近代日本人の精神史的な課題は、中国とアメリカというふたつの文明の間で悩み抜きながら独自にして普遍的な日本人の新しいエトスを模索することにあったと言える。そうした模索を代表したのが俗人ながら深いキリスト教信仰をもったアメリカ人ウイリアム.S.クラークを教頭とした札幌農学校に学んだ内村鑑三や新渡戸稲造など、いわゆる札幌バンドの明治知識人だった。私見では彼らはたんにクラークの精神に感化されてキリスト者になった西洋文明への転向者ではなく、日本の過去と未来、中国とアメリカの間で悩みつつ模索することが近代日本人の逃れえない課題であることを理解した人々だった。この点では、無教会派キリスト者の内村鑑三がやはり典型的である。彼は「儒学の勉強に励めば将来美女が手に入る」と言った父に儒教の根本的な欠陥を見い出すが、同時にキリスト教には無縁だった母が、なまじの宗教者など比較にならない敬虔な人間だったことも記憶していた。そしてキリスト教国の筈のアメリカに邪悪な者、貪欲な者が満ちあふれていることも知っていた。彼に武家の出の限界があったことも確かだろう。しかし内村にとってキリスト教は解答ではなく、近代日本人として生きる苦悩と試練に筋道をつけるための倫理的選択だったように思われる。ちなみに札幌農学校で内村と同期だった広井勇は近代日本の土木工学の父とされる存在だが、この”清きエンジニア”(内村の言葉)は「土木工学の使命は、人々の労苦を軽減し神に思いをひそめる文明人に相応しい余裕を与えることにある」と考えていた。札幌農学校の人々は、日本の近代化、工業化を精神的意義で裏打ちする方途を模索していたのである。

 1947年に教育基本法を起草した識者たちの中には、南原繁東大総長のように内村ら札幌農学校出身者に深い敬意を抱いていた者が少なくなかった。その南原が、「近代日本の学校には東京帝国大学と札幌農学校というふたつの異なる流れがあったのだ」と言っていることは意味深長である。また近代日本とアメリカといえば、社会主義や労働運動も往々誤解されているようにソビエト.ロシアから入ってきたものではない。アメリカでスクールボーイという住み込みの下僕として働き苦学して大学を出た片山潜の経歴が物語るように、社会主義と労働運動はアメリカから日本に移植されたものである。これは森鴎外らがヨーロッパに留学して明治のエリートになったのとは対照的である。そして大正デモクラシーも、その要というべき自由教育運動はやはりアメリカに影響されたものだったし、津田梅子以来の近代日本の女子教育もアメリカの影響を抜きにして語ることはできない。

 こうした視点から振り返ると、天皇制は近代の日本人が抱えた問題に対するボール紙でできた間に合わせの偽の答であったことが見えてくる。それは、中国とアメリカの間で悩みつつ独自にして普遍性をもつ近代的民族国家日本を作り上げるという課題を一貫して回避し隠蔽するための仕掛けだった。国体論は、そうした問いかけを押しつぶすための虚構であり妄想だった。明治の天皇制国家は”和魂洋才”によって徳川以来の儒教的国家主義に欧米のテクノロジーを接ぎ木しようとした。そして帝政中国の後継者として皇軍の力で日本中心の新たな華夷秩序を東アジアに押し付けようとした。この日本帝国は、結局中国とアメリカの狭間で立ち往生し、日中戦争から真珠湾攻撃をへて自滅した。それにしても、この真珠湾攻撃に先立って日本の指導層がアメリカの文化や社会を研究した節が全くないことに、歴史からの逃避と引き蘢りの産物である日本帝国の素性が見事に現われていたと言えよう。

 米中両国に対する日本の敗戦は、近代日本がその課題と試練から逃避したことに対する歴史の女神の懲罰でもあった。ゆえに戦後日本は、中国とアメリカの間で悩み模索するという課題から再出発しなければならなかった。例えば先に述べた教育基本法は、この課題を意識していたといえる。しかしこうした再出発は、占領軍総司令官マッカーサーによって不可能にされてしまった。東京湾上の戦艦ミズーリ号で日本降伏の調印式が行われたとき、艦上にはペリーの黒船が掲げていた記念すべき星条旗が再び翻っていた。しかしマッカーサーは第二の開国を日本に強いるどころか、裕仁天皇を東京裁判から免責にし、GHQが作成した新憲法でも象徴天皇制の形で天皇制を温存した。その背景には、日本の官僚機構を使って占領行政をやる間接占領に成功を収めることで、将来の大統領選出馬への布石をしくという計算があったといわれる。こうしてアメリカの史家ジョン.ダワーのいう天皇制民主主義が、戦後日本の新たな国体になった。

 この天皇制民主主義は、何をもたらしたであろうか。第一に、中国とアメリカの間で悩みつつ民族独自の在り方を模索するという可能性を戦後の日本人は奪われた。しかし日本帝国と国体論は完全に破産した以上、今さら儒教的国家主義を国家のバックボーンにすることもできない。第二に、そこで天皇制民主主義は、日米安保とワンセットにされることになった。民族国家としての独自なバックボーンをもたない戦後日本はアメリカにもたれかかり、アメリカは日本の「外骨格」(ウオルフレン)をなすことになる。これは隷属とか植民地化ではなく、宿主と寄生動物の関係である。もちろん、このアメリカへの寄生は日本の政治文化のアメリカ化を意味するものではない。それどころか、マッカーサー以来の戦後の日米関係は、大日本帝国の亡霊がゾンビのようにさまざまな形で腐蝕しつつ戦後日本で生き延びることを可能にしてきた。こうして今の日本では「中国とアメリカの間の日本」という開国時に提起された問題は、保守支配層のゾンビ化した儒教的国家主義をアメリカがスポンサーとなって支えるという腐臭を放つ最悪の状態に行き着いている。今日の日本で天皇制が意味しているのは、日本国はゾンビ的国家だということ、バックボーンとなる何の国是もなく中国とアメリカの間でふらふらしているクラゲのような支離滅裂な国だということなのである。   (続く)


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