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2003年7月  

   百姓一揆と出世主義革命

 戦後の日本人は日本帝国を断罪しながらも、それを生み出した明治維新を歴史的審判の俎上にのせることができなかった。この戦後の日本人の限界を代表しているのが、司馬遼太郎である。とにかく維新なるのものは、薩長の権力亡者による何の名分もないクーデターにすぎなかった。日本を開国させ近代化に着手し、さらに公論による政治という思想を広めたのは、徳川幕府の功績だった。ところが倒幕の徒党には何の思想もなかった。彼らは天皇を担いだが、別に国体論に鼓舞されていた訳ではない。クーデターの成功が既成事実になった後で彼らはそれを正当化するために、すでに尊皇攘夷運動と共に息絶えていた国体論の亡霊を蘇らせ、天皇を神格化した。

 しかし維新がそうしたスキャンダルにすぎないとすれば、なぜそれが易々と成功し民衆にも結果的に受け入れられたのかという疑問が出てくる。当時の日本の国論は公武合体論が大勢を占め、そのうえ将軍は天皇に建前上は大政を奉還していたのだから、薩長には三分の理もなかった筈である。しかしいざ薩長がでっちあげの密勅をかざして官軍として旗揚げするや、資金にも戦力にも乏しい自称官軍の前に幕軍は総崩れになり、穏健派はうろたえながら彼らに追随するだけだった。情勢がこのように一変した背景には、幕府やその親藩の深刻な財政危機があったように思われる。だがそれだけではあるまい。結局幕府側には身分制を超えて近代国家を創設するための確固たる思想がなく、幕軍には将軍への忠誠に代わる戦の大義が欠けていたのである。この点では、徳川幕府は打倒されたというより自壊したと言った方がいい。

 しかしムラの農民や職人を中心とした民衆は、クーデターが作った政権を唯々諾々として受け入れた訳ではない。むしろ彼らは新政権に激しく抵抗した。そうした抵抗の頂点をなすのが、明治初年に西日本一帯に吹き荒れた新政反対一揆である。この一揆は、十七世紀に惣村の成長と共に始まり幕末にかけて激しさを増してくる百姓一揆のクライマックスでもあった。一揆に立ち上がった民衆は、新政府の政策の中でも地租改正と並んで学制令と徴兵制に抗議した。明治初年において民衆は、学制と徴兵制という近代日本国家の二大支柱と激突していたのである。竹槍で武装した彼らは、学校や役所を焼いたり打ち壊したりし、県庁を占拠した場合もあった。この新政反対一揆は近代日本史上最大規模の民衆蜂起であり、明治維新を考える上では西郷隆盛の西南の役などよりよほど重要である。

 ところが、この一揆は資料には事欠かないのに歴史家によって研究されることが殆どなかった。ましてや時代小説やテレビドラマにもなっていない。だから世人は維新に対する抵抗というと、西南の役か秩父事件ぐらいしか思い出さない。なぜ新政反対一揆は、ことさらに近代日本人の記憶から抹殺されてきたのか。その理由は明らかである。明治維新を”建国の偉業”としたい体制側にしてみれば、維新がこれほど広範で激烈な民衆の反撃に遭ったということは知られてほしくないことである。だが体制を批判する側が線香花火のような秩父事件は大いに持ち上げながら、それより遥かに大規模な新政反対一揆には事実上口を噤んできたことには、少し複雑な事情がありそうだ。実をいえばこの一揆は、地租改正や学制や徴兵令だけでなく穢多非人の賎称を廃した1871年の太政官布告に対しても抗議するもので、各地の民衆は学校や役所と並んで被差別部落を襲撃したのである。薩長藩閥政府が四民平等を打ち出す一方で民衆の方は身分差別や偏見に固執しているのでは、民主主義的反体制派にとっては何とも具合が悪い。そこで左翼系の学者が多い歴史学会などでは新政反対一揆を民衆運動としては評価しないことになったように思われる。

 もっとも当時の日本の庶民が差別と偏見に凝り固まっていたとするのは、誤った見方だろう。維新の前後には一般の農民と被差別部落民が共同で一揆を起こしたり、あるいは部落民の伝統的な生業への一般人の参入許可を求めたりといった動きもあったようだ。しかし概して、明治国家の強権への西日本の民衆の抵抗は部落解放への抵抗でもあったことは否定しがたい。なぜそんなことになったのか。

 そこで、もともと一揆とは何を意味していたのかを考えてみたい。この言葉は後に竹槍などを手にした農民の武装蜂起を意味するようになったが、元来は政治的資格において平等な人々の一致団結を意味した。そうした平等と団結を可能にしたものは、中世末の荘園制の崩壊の中から生まれた惣村という共同体であり、徳川時代をとおしての惣村自治の発展にほかならなかった。この時期に日本のムラの世界が実現した自治は、世界的に見ても驚嘆すべきものと言っていい。年貢上納の義務はあったものの、ムラは村極めという村法を定め代表の合議による行政を行い、会計監査の能力まで備えた事実上のミニ国家だった。そして十八世紀以降それまでの豪農に代わって小百姓が台頭してくると村の民主化が進み、村民の互選や籤あるいは入れ札という選挙で村民の代表が選ばれる慣行が各地で定着した。このムラの自治の発展と共に「百姓」は誇らしい言葉になり、公儀の側も村民の要求や主張を無視して体制を維持することはできなかった。実際、徳川時代に起きた何百という一揆で、幕府や藩の側が政治的に完敗した例はあっても農民側が完敗した例は一つもなかったように思われる。これはあの農民戦争におけるドイツの農民の壊滅的敗北と較べると驚くに価する。だから徳川時代後期に一揆が一段と頻度と激しさを増してくるのは、農民の窮乏の徴などでなくムラの自治の確立と繁栄の表われなのである。

 新政反対一揆において西日本の民衆は、明治政権に抗しまさに身体を張ってこの自治の伝統を守ろうとした。だが同時にその時、惣村自治の限界や問題点もあらわになったのである。ムラの民衆は近世を通じて身分制に内在する支配や搾取の要素を可能なかぎり希薄化し形骸化することに成功した。だがこの成功ゆえに彼らは身分制という体制の枠組みに無頓着になってそれを温存し、さらには自分たちの自治権と身分制の存在を同一視するに至ったのである。ゆえに明治政府に対し自治を守ろうとする運動は、同時に身分制を維持するために部落解放に反対する運動にもなった。自分たちが享受している事実としての自治を普遍的な規範や価値観にまで高められなかったことが、日本の民衆の致命的な弱点だった。その結果彼らは「天皇の前における平等」を掲げる明治政権に足をすくわれ、ムラはやがて天皇制国家の下部細胞として再編成されていく。

 ムラの民衆のこうした限界は、おそらく宗教というものを骨抜きにした徳川幕府の政策に関係がある。「神の子としての万人の平等」を教えるキリスト教は、島原の乱を機に日本では殆ど根絶されてしまった。また王法に対する仏法の優位という仏教思想は、いわば日本版の自然法として一向一揆などを支えたのだが、幕府は仏門をその行政の下部機関に貶めることに成功した。その点では、幕末に主に西日本に登場する黒住教などのいわゆる民衆宗教がどれも一種の平等思想を説いていることは極めて興味深いのだが、その広がりは草の根知識人の間での国学の影響力などに較べても限られたものでしかなかった。。

 こうして日本では、ムラの民衆の輝かしい自治の伝統が、皮肉なことに平等の原理によって身分制を克服することに対する思わぬ障害になった。では彼らに敵対した明治政府は、どのような形で身分制を清算したのであろうか。明治維新は無思想なクーデターだったが、大久保や岩倉らの倒幕の動機をあえて思想とするならば、それは「学問のすすめ」における福沢諭吉の思想と同質な出世主義の思想だとするほかはない。明治維新をあえて革命としてこじつけるならば、王政復古の看板の下で実現したのは、出世主義革命なのである。「出世」はもともと禅宗の言葉だが、世を捨てることを意味したこの言葉が地位の上昇を意味するようになったのは、出家して比叡山に入った公家の子弟の昇進が早かったせいだという。出世には昇進の度合いを測る公認の尺度が必要だが、近代日本では究極の地位である天皇への近さがそうした尺度になった。そうした出世双六のゴールを勤めること以外に近代の天皇制の存在理由はない。

 しかしムラの民衆は普遍的平等の理念を知らなかったにせよ、出世の観念にも無縁だった。ムラで代表に選ばれることは出世ではなかった。ゆえに明治政府は、一つの新奇なイデオロギーとして民衆に出世主義を叩き込まねばならなかった。学制と徴兵制は、近代化のための実際的必要からというより、民衆を出世主義で教化洗脳するために作られた制度だったと言えよう。こうして明治の国家と社会は、平等の理念を棚上げにしたまま、日本独特の出世主義のイデオロギーで身分制を清算することになった。これは今さら言うまでもない周知の事柄である。しかし忘れてはならない。明治維新と天皇制出世主義国家の勝利に見えるものは、自治の伝統を普遍的平等の理念に結びつけることができなかった日本の民衆の思想的敗北の所産なのである。この明治維新が生んだ国家の命脈はすでに尽きている。そして普遍的平等の理念の下でムラの自治の伝統を復活させるという明治初年には架空の可能性に終った試みが改めて我々の課題となるとき、日本人はようやく「民族」になり、維新が生んだ国家は歴史のゴミ箱の中に消えるのである。 
   
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