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2003年10月  
   人権論の現在 (その二)

 近代日本の人権思想といえば、当然まっ先に取り上げられるのは部落解放運
動の誕生を告げた記念すべき文書「水平社宣言」であろう。明治維新は「天皇
の前の臣民の平等」を掲げる国家を作り出したが、それが「民族 NATIONの成
員としての平等」とは別のものであることを一際痛切に感じとったのは新平民
とされた被差別部落の人々だった。自由民権運動の壮士は「よしやシビルは不
自由でもポリチカルさえ自由なら」と歌ったが、部落民たちはその不自由きわ
まりないシビルの世界にそっくり取り残されただけでなく、封建制下の賤民身
分は今度はいわれなく差別され虐待された少数者という近代の刻印を押されて
再生産されることになった。そして部落問題に事実上無関心だった政府がとっ
た態度は、部落民をあくまで劣位の存在とみなした同情と融和の政策であり、
部落民自身に差別の原因があるという発想に基づく部落改善運動の奨励だった


 だが大正時代に入ると、この状況は変わり始める。大正デモクラシーの波が
高まり米騒動が政府の足元を揺るがす中で水平社が1922年に結成され、そ
の創立者たちはそれまでの同情と融和の政策と決別し「特殊部落民は部落民自
身の行動によって絶対の解放を期す」(「水平社宣言』)と表明、全国の被差
別部落民に自らを励まし団結して自由と尊厳を確立するための闘争に立ち上が
るよう呼びかけた。その宣言文を起草したのは奈良県の被差別部落の寺である
西光寺に生まれた西光万吉(本名清原一隆)で、社会主義者の平野小剣の手も
入っていると言われる。簡潔なものながら「水平社宣言」は近代日本の政治文
書の中では例外的な気品と情熱に満ちた名文である。水平社は、呼びかけに応
じて全国各地から駆けつけた多数の部落民を京都市の岡崎公会堂に集めて結成
された。その際演壇から「宣言」を読み上げた水平社創立者の一人駒井喜作の
声は万感胸に迫って何度も途切れ、始めは会場に広がっていたすすり泣きの声
は最後には歓呼と拍手に変わったという。

 現在の日本では、「水平社宣言」は近代日本が生んだ人権思想の古典的テキ
ストとされるのが普通である。だが私は、この評価に異を唱えたい。「宣言」
は何よりも弱く小さく虐げられた者の政治的自己解放の証しであり、その意味
で、この国の民主主義の歴史における記念碑的な里程標と見なければならない
。かってハンナ.アレントは公的な光の下に現われることを人間に決意させる
すぐれて政治的な徳としての勇気について語ったことがあるが、「水平社宣言
」はそうした勇気という徳が見事に表現されている世界的にも滅多にないテキ
ストである。この宣言の特徴は、「エタ」、「特殊部落」、「ケモノの皮を剥
ぐ」といった今日の目で見ればとんでもない差別用語が堂々と使われ、部落民
自身が内面化してきた差別者の価値観が誇らしい政治的自己主張の根拠とされ
ていることにある。「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ」と「宣言」
は告げる。そして勇気が問題であるがゆえに「卑屈なる言葉」と「怯懦なる行
為」が断罪される。

 「宣言」の冒頭の「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」という言葉
には「共産主義宣言」の影響があるとされるが、この文書を起草中の西光は「
特殊部落という言葉は削った方がいい」という助言を断固として撥ねつけたと
いう。彼がこの言葉を使うことに固執したのは、差別用語を差別用語として成
立させているのは社会生活の中に構造化された権力なのだという認識があった
からではなかろうか。差別用語を通用させているのは権力関係なのであり、部
落民自身がそうした用語をあえて自立と尊厳を意味する言葉に転倒させ、それ
にふさわしい構造を転換させ脱臼させるような闘争を続けるならば、差別だけ
でなく権力自体の究極的な無根拠性があらわになる。だから虐げられ軽侮され
声を奪われた者こそ、すべては政治であり力関係であることを学びとる必要が
ある。「烙印を投げ返す」という言葉は、そうした自己の教化でもある解放の
道筋を浮き彫りにしているように思われる。

 そして私が強調したいのは、水平社のこうした闘いは被差別部落にその意義
が限られたものではなく、民主主義社会における少数者や弱者が政治的に自己
を解放する過程の普遍的なモデルを提出していることである。権力によって投
げ込まれた位置から逃げずに、そこから権力に向かって投げ返すことが肝心な
のだ。その点では、無力感から生まれるルサンチマンとは異なり、屈辱感や劣
等感に苛まれた意識ほどラディカルなものはない。「水平社宣言」は、おそら
く高校の倫理の授業などで人権学習のテキストとして使われることが多いだろ
う。しかしそうした使い方は、政治的解放の普遍的なモデルを開示しているテ
キストをむしろ矮小化し、人権の名の下にそれを被差別部落民という少数者に
まつわる例外的なエピソードに貶めてしまうことになりはしないか。「宣言」
がこの国の民主主義の歴史的な里程標であり自分たちにも関わるものであるこ
とに、若い世代が気づかずに終ることになりはしないか。「宣言」は通り一遍
の人権学習ではなく近代日本が生んだこのうえない政治教育のテキストとして
使われるべきだというのが私の主張である。その意味では、我々は誰もが部落
出身者なのだ。

 そしてあえて付言すれば、人権思想として見るならば「水平社宣言」は時代
の限界を引きずっているし、もともと普遍的な人権思想の表明を意図したもの
とも思われない。人権は、突き詰めれば個の自由と尊厳という信条に行き着き
、部落差別が糾弾される究極的な根拠もそこにある。しかし「宣言」には、個
の尊厳という言葉は出てこない。 これは理解できることだ。「陛下の臣民と
しての平等」に対し自らをあえて文字どおり「特殊」な存在として対置するこ
とで権力の普遍性を突き破ることが水平社運動の課題だったからである。「宣
言」が部落民の政治的な自己組織化への呼びかけである以上、個としての人間
ではなく「祖先」の尊厳が語られざるを得なかったし、逆説的だが、そうした
自己限定なしには他者を差別する者に人間であることの普遍性を突きつけるこ
とは不可能だった。だが同時にこの自己限定ゆえに、同じ日本帝国内の差別さ
れた少数者であった当時の在日朝鮮人や沖縄人が「宣言」に共鳴したことはな
かったようである。

 もっとも「宣言」に人権思想の要素が全くないとするのは言い過ぎだろう。
前回のコラムで人権論は宗教の胎内で育まれたものであることを指摘したが、
「宣言」を起草した西光は寺に生を享け、水平社創立の中心になった奈良県の
部落の青年たちに大きな影響を与えた三浦大我も仏教者だった。部落民の受難
を象って西光がデザインした水平社の旗である荊冠旗にはもちろんキリスト教
の影響がある。だがマルクス主義者佐野学の影響なしには水平社運動はありえ
なかったことも事実である。起草者の西光はその後共産党に入党し治安維持法
違反で服役中に獄中で国家社会主義に転向、翼賛体制に加担したが、敗戦直後
に自らの戦争協力を恥じてピストル自殺を図って未遂、戦後は平和主義者とし
て原水禁運動に邁進した。西光の生涯はやはり人権思想家というより一途な活
動家にふさわしいものだった。

 「水平社宣言」をめぐって何かをあげつらうことは、私の真意ではない。「
宣言」に限界があったとすれば、それは現代という時代の限界それ自体と言う
しかない。これも前回のコラムで述べたように、自然権とキリスト教の遺産を
超えて普遍的な人権思想を確立するという課題に関しては、人類社会は依然と
して模索中なのである。そして個の尊厳と政治的にラディカルな態度を両立さ
せる方策についても、我々はまだ暗中模索している。「宣言」と共に日本人も
そうした模索を始めた。それだけに「宣言」を人権思想の完成された古典であ
るかのように見なして呪物化することは、この模索の中断に繋がるだけでなく
、政治教育の第一級のテキストである「宣言」の意義を見失わせることになり
かねない。これが、私が言いたかったことである。  

 (完)  

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