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2004年1月  
■民主主義さまざま


 イラク戦争に見られるようなアメリカの愚行、凶行は今に始まっ
たことではない。アメリカ民主主義なるものの歴史は血と硝煙にま
みれている。リンカーンの「人民の人民による人民のための統治」
という言葉は、南北戦争における北軍の戦死者を追悼する演説で使
われ、”正義の戦争”というアメリカのお家芸を正当化するもので
あったし、この戦争中にリンカーンは事実上軍事独裁者として振舞
っていた。それでもアメリカと民主主義を同一視する人が少なくな
いのは、二つの世界大戦を勝ち抜いた大国アメリカの戦時プロパガ
ンダの勝利というほかはない。

 しかしたとえアメリカを民主主義国とみなすとしても、民主主義
にはさまざまな類型がある。そこでこのコラムでは、この民主主義
の類型という点で例えばスイスがアメリカとどれほど異質な国であ
るかに目を向けてみたい。政治学者のカール.ヨアヒム.フリード
リッヒによれば、近代民主主義には四つの類型がある(註)。アメ
リカや南米諸国は長官型、英国は内閣型、フランスは議会型そして
スイスは参事会型である。行政のトップが強大な権限をもつ長官型
は民主主義の独裁的形態である。これは今のブッシュ政権や南米諸
国の歴史を顧みればまさに思い当たることだ。内閣型は民主主義の
貴族的形態であり、これは日本の政界に二世議員がやたらに多い理
由を説明するだろう。議会型は民主主義のまさに民主的な形態だが
、無政府状態に陥る傾向があり、かってはフランスの政治的不安定
性がド・ゴール将軍を登場させた。

 このフリードリッヒの分類に異論はないが、近代民主主義を理解
する上では社会経済的な視点も必要だろう。それは大衆民主主義で
あり、工業化が不断に生産する新しい富をめぐる階級階層間の争奪
戦を表現している。この点では、生産力とか階級闘争といったマル
クスの基本概念は、革命論として定式化されたことに問題があった
が、近代の大衆民主主義の本質を的確に捉えているといえよう。そ
こでは政治は武器を使わない戦争であり、ホッブズの「万人の万人
に対する戦い」が党派争いの形をとったものなのである。それゆえ
にボルシェビズムやナチズムは、民主主義の不倶戴天の敵であるど
ころか、そこから倒錯形態として派生したものと言わねばならない
。そして現代人は、口ではファシズムをけなしても、こうした政治
を平和な手段をもってする闘争や戦争とする考え方にどっぷり漬か
っている。

 ところがスイス人は、政治即ち闘争とは考えない。おそらくこれ
が、ヨーロッパではアイスランドに次ぐー十三世紀に遡るー古くか
らの歴史があるのにスイス型の民主主義が今日なお孤立した例外に
留まっている所以だろう。日本ではこの国は専ら永世中立とか直接
民主主義ということで知られ、そのことで賞賛されたり中傷された
りしているが、このスイス独特の政治観に気がついている人は殆ど
いない。

 スイス連邦の歴史は、1291年にスイスの封土化を狙うハプス
ブルク家の野心に対抗してシュヴィーツ、ウリ、ウンターヴァルデ
ンの三つの森林州が相互援助のための同盟を結んだことに始まる。
その背景には、山国の厳しい暮らしが育んだ農民たちの相互扶助や
協同の習慣があったものと思われる。興味深いことに、オランダの
民主主義も、その起源は海面より低い土地で堤防を維持するための
民衆の協同作業の習慣にあったといわれている。とにかくスイスの
民主主義は庶民の生活の知恵から生まれたもので、思想家や学者の
高尚な理論には関係がなかった。そして1315年のモルガルテン
の戦いで、同盟を屈服させようと侵攻してきたハプスブルクの軍勢
を三州の農民軍が敗ったことをきっかけに次々と新しい州が同盟に
参加した。ちなみにこのモルガルテンの戦いは、続くゼンパッハの
戦いと並んでヨーロッパ史上始めての王侯貴族に対する民衆の勝利
であり、しかもいずれの戦いも劣勢ながら地の利を生かした農民軍
の圧勝に終り、ここにスイス連邦の独自な発展が保証されることに
なった。

 では、そうした歴史をもつスイスの民主主義はどのようなものだ
ろうか。フリードリッヒが参事会型とした体制をスイス人自身は「
協定民主主義KONKORDANZDEMOKRATIE」と呼んでいる。その原則は、
多数決をとらないことである。というのもスイス人にとって民主主
義とは、党派争いの形態や方法ではなく、「切り捨てられた、無視
された」と感じる者を一人も出さないことだからである。そこでス
イスでは選挙制度だけでなく政府自体が比例代表制になっており、
すべての政党が選挙での得票に応じて政府に参加するので野党とい
うものは存在しない。スイスの政府は連邦参事会BUNDESRATと呼ば
れる七人の参事の合議機関であり、第二次大戦後は各政党がその勢
力比に応じて2:2:2:1の比率で参事を出すいわゆる魔法の方
式ZAUBERFORMELが定着している(ただし最近の選挙でEU加盟反対と
移民に対する規制強化を掲げる新政党スイス人民党が大勝したので
、この方式にはひと波乱ありそうである)。 七人の参事は連邦の
議員と共に毎年選挙にかけられるが、大抵は自ら引退するまで何年
でもその職に留まる。そして一年任期の持ち回りで参事が交替で大
統領になる。これはカリスマ的な人物が出てきて独裁者になる危険
を未然に防ぐための措置である。この参事会の構成には、言語、地
域、宗教など政党以外のことも配慮されている。一つのカントン(
州)からは一人の参事しか出せない。チューリヒ、ベルン、ヴォー
からは殆ど常に参事が出るので、残りの四人の出身地域には細心の
注意が払われている。そして参事のうち少なくとも二人は、フラン
ス語およびイタリア語を話す地域から選ばれることになっている。

 このスイス独特の協定民主主義は、スイスが小国ながら民族、言
語、宗教、地域などの点では極めて複雑で、歴史的にはいつ空中分
解してもおかしくない国だったことを抜きにしては考えられない。
スイスは三つの民族と五つの言語をかかえるミニ国連のような国な
のである。映画「第三の男」の中でオーソン.ウエルズ扮する悪徳
闇屋のハリーが「スイス五百年の平和は何を生んだというのか。鳩
時計だけだ」というセリフを吐くが、実際にはスイスは蜂起や暴動
で内乱状態になったことが何度もあった。そうした国で三森林州以
来の同盟を守り抜くことはどれほど困難なことだったか。政治を闘
争ではなく合議と妥協によって信頼を醸成する行為とみなし、誰も
切り捨てない協定民主主義は、スイス人の生活の知恵が生んだもの
なのである。永世中立の原則や直接民主主義も、理想の所産という
より、複雑な国を信頼感でまとめていくための知恵にほかならない
。  スイス連邦は、今日なお孤立した例外である。スイスの体制
をお手本に国作りをした国はない。だが私見では、この流れが逆転
してスイスこそ民主主義の普遍的なモデルとされる時代が来るかも
しれない。現在、世界の至るところで民主主義に対する幻滅が広が
っている。それも当然で、これまで民主主義と称されてきたものは
、工業化と総力戦に大衆を効果的に動員する政治の方式以上のもの
ではなかった。ポスト冷戦、ポスト工業化の時代には人々は民主主
義を醒めた目で見るようになる。そして自分の関心事にはまるで関
係のないところで権力エリートが演じているパワーゲームが民主主
義の名で売り込まれていること、エリートと民衆の関係はペテンや
たぶらかしの関係でしかないことに気づく。人々の政治からの疎外
感はかってなく深い。今年初めのイラク戦争に対する欧米の反戦デ
モのプラカードによく見られた「私の名を使うなNOT IN MY NAME」
という言葉は、現代人の心情を浮き彫りにしている。

 そして民主主義の空虚さに対する人々の抗議は、エリートが横領
する公共性を偽物とみなし社会に向かって自分のアイデンティティ
ーを振りかざすという形をとる。人々は自分のアイデンティティー
に閉じこもったり、あるいは自分の要求を見境なしに他者にぶつけ
たりする。こうして先進諸国では、政治と社会の断片化が止めどな
く進行している。そしてこのような社会の断片化と空中分解の危険
こそ、かねてから国家を構成する要素の複雑さゆえにスイス人が直
面してきた危険にほかならなかった。それだけに三森林州の同盟に
始まるスイスの協定民主主義がそうした危険を見事に克服してきた
歴史は、改めて現代世界にとって貴重な示唆に富むものとして現れ
てくる。そのうえスイスの伝統は、特定の理想ではなく民衆の生活
の知恵の産物なのだから、それはイデオロギーが終焉した時代には
一層意義深い。孤立した例外であるどころか、スイスが民主主義の
普遍的なモデルとされる日はさほど遠くないかもしれない。

 最後にもう一つ、スイスに独自な民主主義が開花することができ
た理由について付言しておきたい。その理由については、スイス人
が稀に見る品行方正な民族だからという見方がありうる。銀行の不
正や移民排斥などどこの国でもあるようなことがスイスで起きると
外国のマスコミがそれとばかり騒ぎ立てるのも、スイス人が優等生
として日頃からそねまれているからだろう。だがこれは勿論裏返し
の偏見である。スイス人は欠点も美点もある普通の人間の集まりに
すぎない。またアルプスという天然の要塞ゆえに国防が容易なこと
など、一連の特殊な地理的、歴史的条件がスイスの民主主義を可能
にしたという見方もありうる。だがこうした条件は決定的ではない
。例えばやはり民主主義の長い歴史をもつオランダの国土は、スイ
スとは正反対の海に沿った平地であり、外敵の侵入は容易である。

 そこで私が強調したいのは、スイス人はどこの国や民族にもあっ
たような自治と民主化の機会を逃さず、小さな芽を辛抱強く大事に
育てて協定民主主義を作り上げてきたという事実である。とにかく
スイスの民主主義の歴史は、革命的な決起や叛乱によって勝ち取っ
たといったものでは全然ない。十三世紀のスイスは、三州が同盟を
結ぶ以前にすでに神聖ローマ皇帝によって形の上では自治を認めら
れていた。形式的な自治権を承認された地域はほかにも少なからず
あったのだが、それを建て前のままで放置しておかなかったのはス
イス人だけである。また三州の同盟にしても, 1291年の七月に
ハプスブルク家のルドルフが皇位の後継者を残さずに病死した権力
の空白に乗じて以前からの絆を確認する形で結ばれたもので、決起
といったものではなかった。 同盟の結成に際して三州が交わした
「永久なる兄弟の絆」という文書は、一寸中世日本の農民の起請文
を想起させる文書だが、読んでみるとその地味で実務的な内容に驚
かされる。放火や強盗などの刑事事件には三州が連繋して解決にあ
たることなど司法に関わる条項が目立つ。これは、ハプスブルク家
が司法権を梃子にスイスの封土化を進めていたことを物語っていよ
う。村人間の紛争を口実にした外部からの干渉に余地を与えないた
めには、まず地域的な司法の自治の確立が必要だったのである。後
のシラーの戯曲「ウイリアム.テル」やそれを基にしたロッシーニ
の歌劇は、こうした弛まざる堅実な自治確立の歴史にフランス革命
の劇的な民衆蜂起のイメージを重ね合わせている点で、スイスの歴
史を誤解させるものと言わねばならない。

 また永世中立国というスイスの独自な地位も、スイス人が自力で
勝ち取ったものではない。この地位は、要衝スイスをめぐり強国が
相互に牽制しあったせいで、1648年のウエストファリア条約に
基づく僥倖として小国スイスに与えられたものである。しかしスイ
ス人は、この僥倖をその後の国民皆兵制や国際赤十字の創設、国際
会議への場所の提供といったことで裏打ちし、確固たる自主的な国
家の原則に作り上げてきた。民主主義に関して我々がスイス人から
学ぶべきこと、それはどこにでもあるような機会を逃さず、そして
庶民の生活の知恵に基づいて小さな芽を倦まず弛まず大事に育て上
げてきた根気強さと志操の堅固さなのである。

 (註) Carl Joachim Friedrich Demokratie als Herrschaft
und Lebensform ,1959 Heidelberg
邦訳は小山博也訳フリードリッヒ「現代政治」 
理想社 1964年。
 

 
 
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