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2004年3月  
イスラム世界にどう向き合うか(続)-

 前回に続いてイスラム世界のことを書く。というのも日本では、自衛
隊のイラク派兵をめぐって憲法論議はあっても、自衛隊が赴く中東とは
どんな地域でその現状はどうなのかがさっぱり議論されないからである。
だが自衛隊のイラク行きは、これまで原油取り引きとピラミッド観光ぐ
らいしか縁がなかった日本と中東の関わりの一大転機を意味する。これ
は例えば、日韓併合がそれ以後の日韓関係を規定したことにも比較され
よう。イラク戦争をめぐって独仏両国がアメリカと対立したのは、両国
の首脳部には中東世界の歴史や実情について一定の認識があったからで
ある。日本が今後どんな地域に関わることになるのかも考えずにアメリ
カの行くところならどこでもノコノコ付いていくのは、憲法問題は別に
して、それだけでも主権国家のやることではない。

 中東イスラム世界の現状は火の車である。この地域は世界でももっと
も急速に人口が増大している地域であり、旧弊な教育制度のせいもあっ
て、どの国でも若者の失業率は15から50パーセントに達している。
国家の効率的で公正な公共サービスはなきに等しく、権力者は万事がコ
ネと賄賂の社会を横暴に牛耳り、貧富の差も甚だしい。そして外資は混
乱を恐れて中東には近寄らない。頼みの綱だった原油からの収入も減る
一方で、例えばサウジアラビアでさえ1980年代には国民一人あたり
平均二万七千ドルあった年収は現在、六千ドルにまで落ち込んでいる。
この現状は、革命直前の帝政ロシアを憶わせるものと言えよう。

 しかし宗教が長らく中東イスラム世界の足を引っ張ってきたことがこ
の窮状の原因という安っぽい啓蒙主義的な見方はおそらく正しくない。
拙著「民族とは何か」(講談社現代新書)の中でそう受け取られかねな
い書き方をしたことを少々反省している。中東世界は何世紀も前から長
期的な停滞や衰退に苦しんできたのだが、その原因は宗教ではなく貿易
にある。コロンブスの新世界到達を契機に世界商業の中心が地中海世界
から大西洋に移ったことが中東の衰退を決定的なものにした。これはビ
ザンチン帝国にとって代わったオスマントルコの軍事力では解決できな
い問題だった。そして帝国というものはオスマントルコも例外ではなく、
本来保守的であり征服した地域の現状維持を志向することも考える必要
がある。

 さらに中東はインドや東南アジア地域と異なり、比較的に遅く十九世
紀後半以降に英仏両国によって植民地化された。両国が当時はこれとい
う特産物もなかった中東を植民地化したのは、興隆するドイツに対抗し
て東西間交通の要衝を押さえるという地政学的な動機に基づくものだっ
た。インドや東南アジアでは、植民地化が後の現地人による近代国家形
成のための下稽古となった面があることは否定できない。ところが中東
では、遅れて植民地化されたためにそうした上からの近代化をアラブ人
が長期にわたり経験することはなく、また地政学的動機に基づいていた
せいで英仏両国の統治は、横暴で無責任なものだった。近代の人類学は、
ヨーロッパ人が熱帯地方を統治する必要を背景に生まれたものだが、こ
れに比べて欧米ではイスラムの研究が重要視されなかったことも注目に
価する。この軽視は、かのサイードのいわゆるオリエンタリズムという
より、無意識のキリスト教的偏見に起因しているのではなかろうか。

 中東イスラム世界は今日なおその土台においてはウンマ即ち信徒の普
遍主義的な共同体である。そして中東の街に響きわたるハザーンを耳に
したりモスクでメッカの方角にひれ伏す人々を見ると、日本人は中東は
信心で凝り固まった世界と思いがちである。そこからイスラム教徒は狂
信的という偏見も生じてくる。だが江戸時代に日本人が皆幕藩体制下で
どこかの寺の檀家であったり御伊勢参りが盛んだったからといって、当
時の日本が特に宗教的な国だったとは言えないだろう。なるほどイスラ
ムの戒律は信徒の生活を包括的に支配しているが、それだけ宗教が社会
の習俗に同化されているとも言えるのである。

 また日本ではイスラム教をベドウィン的な砂漠の宗教と誤解している
人も多い。予言者ムハンマド自身商人の出であり彼はメッカで布教を始
めたのだから、こんな見方は問題外である。しかしながらコーランと剣
をかざしたムハンマドの大征服が、アニミズムから一神教に転向したア
ラビア内陸部の部族とその部族的な連帯と忠誠のエートス、イスラムの
歴史家イブン.ハルドゥーンの言うアビシーヤなしにはありえなかった
ことも確かである。古代から中東は、アジアと地中海世界を繋ぐ世界で
もっとも重要な通商上の回廊だった。イスラムの大征服は、それまでこ
の利益の多い通商を独占してきたビザンチンの陰りに関係がある。あえ
て言えばイスラム教は、アラビア内陸部の部族というプロレタリアート
が地中海沿岸都市の裕福なブルジョアジーに富の公平な分配を要求した
紀元七世紀の”マルクス主義”だったとも言える。

 だが一旦大征服が完了すると、イスラムは古代からの長い歴史をもつ
地中海型都市文明を信仰によって変革するどころか、反対にこの文明に
同化されてしまった。イスラム教は、この文明の表層を覆うヴェールに
すぎないものになってしまった。これは不思議ではない。ローマで国教
になったキリスト教も似たようなもので、やはり地中海沿岸都市文明に
同化されてしまい、一種の密議宗教に堕す危険に曝された。ローマ帝国
が滅び、まだ未開のゲルマン人がアルプス以北のヨーロッパでその遺産
を継承してとき始めて、キリスト教文明と呼べるものが誕生したのであ
る。

 してみれば中東イスラム世界は信心で凝り固まった世界どころか、無
力化した宗教が民衆の伝統的な習俗や都市文明の遺産に寄生して生き延
びてきた世界と言わねばならないだろう。そこでは宗教は慈善の教えに
よって底辺の民衆を支えたこともあるかも知れないが、それ以上に機会
主義的な権力者に民衆を統制する手段として利用されることになった。
イスラム過激派には、男の近親者の付き添いなしに外出するなとか、そ
の際にはヴェールを被れとかコーランに書かれていないことを女性に強
要する傾向があるが、これを見てもコーランは欧米における聖書ほど細
心に読まれておらず、社会の通念がそれに優越する場合があることが分
かる。

 こうした中東とイスラムの歴史を踏まえて我々はイラン革命を再考す
る必要がある。この革命は、中東イスラム世界の歴史上始めて、コーラ
ンに基づいて共和国を創設し「法の支配」を確立しようとする試みなの
である。私自身は、護憲評議会に陣取るイランの守旧派聖職者たちに共
感するところはない。しかし欧米の世俗的近代的な「法の支配」にして
も、その発端はジャン.カルヴァンが宗派の拠点となったジュネーヴで
行なった厳密に聖書の教えに基づく神政政治にあった。そしてカルヴァ
ンのように異端者や風紀紊乱者を焼き殺したり車裂きにしていないだけ
イランの聖職者は良識があると言うべきだろう。またシーア派はイスラ
ムの分派的少数派であるだけに、コーランに忠実であると共にそのコー
ラン解釈は柔軟と言われている。中東ではまずコーランとシャリアの権
威が確立され、それが民主主義や共和主義の枠組みとなる試練に充ちた
過程が必要なのである。現在イランでは、先の議会選挙をめぐり護憲評
議会と改革派の間で国論が二分されるような危機が進行しているが、こ
れもパリ.コミューンに至るまでの十九世紀のフランスの動揺と混乱を
想起すれば、驚くようなことではない。そしてアメリカのメディアに見
られる、イランのシーア派とサウジアラビアの復古的反動的なワハビ派
を共にイスラム原理主義者としてごっちゃにするような見方は言語道断
と言うほかはない。

 アメリカはイランを中東の不安定化要因としか見ていない。イラクの
サダム.フセインがアメリカの後押しでホメイニのイランに戦争を仕掛
け、ついでアメリカに切り捨てられた経緯も、やはりイラン革命の波紋
の一つと見るべきだろう。しかもイラン革命以来のアメリカの中東政策
は、原油の確保やドルの維持といった一見明快な経済合理性で説明でき
るものではない。今のアメリカはその冷戦後の国家的アイデンティティ
に関して殆ど精神病理学的な分裂と混乱の状態にある。アメリカは新た
な神話を必要としており、キリスト教とテクノロジーと世界貿易によっ
て人類を救済する選ばれた国という神話で国家を再生させようと図って
いる。そしてアメリカがこの神話を実験するフロンティアとして選んだ
のが、聖書ゆかりの地の中東にほかならない。こうしてイランとアメリ
カが中東イスラム世界の運命を賭けて対峙する闘技場に日本は自衛隊を
送りこんだのだということを我々は忘れるべきではない。  
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