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2004年5月  
我々が 明治維新で失ったもの (その二)


 歴史にIFは禁物と言われる。しかし日本が開国によって国際法的
共同体に組み込まれ主権国家となった、いわば民族としての仕込み
の期間がもしも明治維新によって中断されなかったらという問いは、
たんなりIFではない。明治国家は形の上では開国しながら、実は徳
川時代の鎖国の遺産を国体論その他の面で継承してしまった。「も
しも維新がなかったなら」というIFは、そうした遺産を解体するた
めには不可欠の視点なのである。

 そこでIFに居直って、1854年の開国の後、海外から新鮮な空
気が流れ込んでくる中で幕藩体制の危機が深まるという状況がしば
らく続いたらどんなことが起きていたか想定してみよう。 まず徳
川時代にもこの国は完全に鎖国していた訳ではないことを思い出す
必要がある。鎖国体制には長崎という風穴が開いていた。オランダ
人を出島に閉じ込めるといった限界があったとはいえ、長崎は唐人
街や孔子廟もあり港は貿易船で賑わい、住人は外国語や外国料理に
親しんだ国際都市だった。シーボルトの医学を挙げるまでもなく海
外の知識や文物は、東アジア交易圏の一環をなすこの都市から日本
に入ってきた。してみれば長崎は開国日本にとっての先達的な土地
として、新しい日本の模範となり学校となる筈だった。実際、近代
日本で最初に鉄道が走り西洋料理店が開業し、西洋式印刷術が導入
され、禁を解かれたキリスト教の教会が浦上天守堂の名で建設され
たのは、この国際都市長崎においてだった。新たに開港地となった
函館、横浜、神戸は当然長崎を範としたであろうし、そうした諸都
市から近代化、国際化のうねりが日本全土に波及していったことだ
ろう。最後の幕臣榎本武揚が函館に立てこもり蝦夷共和国を創設し
たのは、偶然ではない。

 維新を主導した西国雄藩のうち、土佐藩から人材が輩出し、後の
自由民権運動でも土佐出身者の活躍が目立つことが不思議がられて
きた。薩長は共に密貿易まがいのことをして藩政に成功した藩であ
り、また関ヶ原以来の徳川家に対する遺恨も積もっていた。しかし
土佐藩にはそうした要素はなく、また片田舎のこの藩が特に”リベ
ラル”だったとも言えない。しかし土佐から日本の転機を荷なう人
材が輩出した理由は、簡単に説明できるのである。他の藩と異なり
土佐藩は家臣の子弟を長崎に留学させた。ここ長崎の自由で国際的
な空気の中で坂本竜馬は日本人として最初に国際法を学び、少年の
中江兆民はフランス人の神父からフランス語の手ほどきを受けた。
彼らは土佐というより長崎の人間というべきだろう。そして維新前
後における土佐藩出身者の活躍は、長崎が日本の近代化、国際化を
主導する都市となりえたことを鮮やかに示している。そういえば、
自民党系の市長が天皇の戦争責任に言及するキリスト者だったりす
るのも、長崎ならではのことではなかろうか。

 もし維新がなかったら日本は徳川将軍を首班とする列侯会議によっ
て統治されただろうが、どのみち幕藩体制は終焉を迎えただろう。
たとえ開国という外圧がなかったとしても、頻発する農民一揆や大
塩平八郎の乱で揺さぶられた幕府は自壊しつつあった。その先がど
うなったか確かなことは言えないとしても、三つばかり推測できる
ことがある。まず第一に、幕府がすでに「公議興論」を開国後の政
治の原則としていた以上、それからはみ出すような統治はありえな
かったろう。第二に、天皇は京都の名門貴族に留まり、日本は列侯
合議体制の延長線上で連邦制国家になったであろう。第三に、将軍
が列侯の一人に格下げになると共に参勤交代という制度のお蔭で膨
張した江戸は著しく衰退し、おそらくその地位を実力のある商都大
阪に譲っただろう。これらは、根も葉もない推測ではない。西南の
役、維新後に自由民権運動が起こり大阪がその拠点になったこと、
幕府崩壊後に江戸の人口が激減し江戸城が一時乞食の住処になって
いたことなどは、そうした可能性が潜在していたことを示唆してい
る。

 しかし維新の結果、長崎ではなく東京が日本の近代化を主導する
ことになったために、日本はまともな国際化ばかりか適切な都市化
の機会をも失ってしまったように思われる。振り返れば室町時代の
末期頃には、日本は商工業の発展による活発な都市の形成期を迎え
ていた。町衆という言葉が広まったのもこの頃である。この点では
幕藩体制は農民支配と並んで、上からの軍事的な観点による都市形
成(お城下)によって下からの自発的な都市の形成を押さえ込む狙
いを持っていたということができよう。幕藩体制のこの面がよく分
かるのは、例えば伊勢参りである。伊勢参りという”観光産業”は
社会の都市化が進行していたことを示しているが、それはまた幕藩
体制の下で都市形成のエネルギーがあらぬ方向に逸れてしまったこ
とを物語ってもいる。 従って幕藩体制の揺らぎは、室町期以来封
じ込められていた都市形成のエネルギーを再び解放した筈である。
勿論地域差はあったろうが、私見では日本各地とくに近畿地方など
では、農業の商業化、農村手工業の発展に伴いそうした動きが存在
していたという痕跡を見つけるのはさほど困難ではない。否、明治
政府の号令下でその後日本がきわめて短期間に都市化したこと自体、
当時の日本に都市形成のエネルギーが充分に充電されていたことな
くして考えられない。しかし維新のせいで、このエネルギーはまた
もやあらぬ方向に逸れてしまった。

 地中海文明を見れば一目瞭然なのだが、都市の範型は港町である。
またアルプス以北の西欧では中世以来発達した河川交通が経済の動
脈になった。その点ではパリやフランクフルトのような西欧の内陸
部の都市も、セーヌやマインに沿った一種の港町として生まれ発展
したといえる。その点では、国際貿易港長崎が都市の模範となり、
横浜、神戸、函館がそれに倣い、さらにかねてからの商都であり水
都である大阪が日本を代表する都市になることが、日本にそれなり
の都市の文化が育つための最善の道順であったと考えられる。だが
そうはならなかった。薩長藩閥政府が正式な法令もなしに東京を首
都としたのは、関東東北の幕軍とその残党に睨みをきかせるという
クーデター首謀者ならではの純然たる軍事的な理由からだった。そ
して江戸改め東京という名称自体、古からの伝統を無視して天皇の
居宅を関東に移すことを正当化するために「東の京都」をでっち上
げたものだった。

 パリやローマは一国の首都であると共に、イル.ドゥ.フランス
やラツィオ地方の一都市でもある。だから地方都市パリやローマと
しての郷土料理などもある。だが東京は徹頭徹尾政治的で不毛なフィ
クションだから、東京地方というものは存在しない。誰にとっても
東京は郷土ではない。そしてこの文化も伝統も個性もない根無し草
の東京という抽象的フィクションが、近代日本の都市の模範になっ
た。東京を都市の基準とすることは、たんなる富と権力と人口の集
積地を都市とすることである。維新の結果、日本人は本物の都市の
甘美な魅力を知る機会を失い、さらに都市の市民としての習俗やモ
ラルを身に付け損なった。日本の都市は果てしなく膨張して国土を
破壊し社会を荒廃させるだけの癌にも似た存在になってしまった。
こうして我々は今日もまた維新のおぞましいツケに喘いでいる。 
 (完) 
 

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