奴隷の国家 序文
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 本書は、英国の文学者・思想家ヒレア・ベロックが1912年に刊行した彼の社会批評の分野の主著『奴隷の国家』Hilaire Belloc:The Servile State の完訳である。ベロックは、彼の長年の盟友で「ブラウン神父もの」のミステリーで知られるG・Kチェスタートンに較べるとなぜか日本では知名度が低いが、英国では20世紀前半の英国文学界を代表する作家の一人とみなされており、本書も英語圏ではJ・S・ミルの『自由論』に匹敵する自由論の名著と評価されている。
 しかし訳者が80年以上も前に書かれた本書の邦訳を思いたったのは、たんなる名著という理由によるものではない。この訳書を世に問うた主な理由は、二つある。一つは、これから述べるように、米ソ冷戦と東西のイデオロギー対立が終った世界に、ぺロックが20世紀初頭に論じた問題がひときわ鮮明に回帰してきているからである。もう一つは、今日の日本では自由主義と資本主義が本来敵対関係にあることを知らない人が多すぎるからである。安易に自由主義と資本主義を同一視する人々(この点では、いわゆる市場万能主義者もマルクス主義者も同類である)は、反資本主義的自由主義の古典といえる本書を読んで、自由主義本来のモラルからどれほど資本主義に対する仮借ない批判が出てくるか改めて思い知ることだろう。

著者:ヒレア・ベロック
訳者:関 曠野
発行:太田出版
定価:2000+税

 旧ソ連の崩壊で冷戦が終結してから10年近くになる世界は、相変らず深い混乱の中にある。90年代の初めにはこの冷戦終結という事態は、さしあたり西側が東側に冷戦で勝った「資本主義の勝利」として受けとめられた。だが少し考えてみれば、この解釈がおかしいことはすぐに分かる。この解釈は、ポスト冷戦の未知の状況を相も変らず東西対立という冷戦期の古い眼鏡で見たものなのである。そしてソ連社会主義の自壊は、それだけでは何ら資本主義を正当化するものではないし、ましてや資本主義が人類に残された唯一の選択であることを証明しない。むしろその後の90年代における内外のさまざまな経験は、資本主義に対する世の疑問と懸念を深めてきた。例えば、まともな近代経済は市場と企業の経済であることには今日誰にも異論はない。しかしこの経済はイコール資本主義体制であって、我々は今後とも大規模な失業や通貨投機その他の災いを宿命的な必要悪として甘受し、それに耐えていくしかないのであろうか。資本主義こそ民主主義であり、中国、北朝鮮、南の独裁国その他で外資の力で資本主義が発展すればこうした国は民主化されるというのは本当だろうか。それに利潤の効率的な追求という論理が教育や文化の原理を生みだせないことは、余りにも明白なのではあるまいか。

 私見では、我々はいまだにイデオロギ−対立とプロパガンダ合戦という冷戦期の後遺症をひきずって生きている。20世紀は戦争と革命の世紀といわれる。訳者はこれに「戦時プロパガンダが思想にとって替わった世紀」と付け加えたい。実際第一次世界大戦を契機にウッドロウ・ウィルソンのアメリカとレ−二ンのソ連が世界を二分して以来、資本主義や社会主義という言葉は一種のときの声、戦時プロパガンダの材料になってしまい、こうした言葉で物事を深く冷静に考えることは殆ど不可能になってしまった(そして冷戦期には東西両陣営のいずれにとっても、現実ないし仮想の戦争が体制延命と国民統合の秘策であったことは言うまでもない)。
 そしてここに、1912年つまり第一次対戦勃発の2年前に刊行されたべロックの本書が改めて読み直されていい一つの理由がある。この時代の人々は、まだ党派的なプロパガンダに毒されていなかった。当時も資本主義や社会主義、労働者の権利といった間題は時代の焦点と言っていいほど大きな関心を集めていたが、人々はそれを党派的偏見から自由な知的で論理的な問題として論じ合った。それは、スターリンやポル・ポトではなく劇作家のバ−ナ- ド ・ショーが社会主義を代表していた古き良き時代だった。そして迫りくる世界大戦の嵐の前の小春日和ともいうべきこの時代はまた、19世紀のヨーロッパを苦悶と激情をもって揺さぶり続けた一連の諸問題を総括し、それに対する包括的な回答を見出そうと人々が努力した時代でもあった。フランス草命からパリ・コミューンに至る流血の動乱、産業革命に伴う労働者階級の悲惨、ナポレオン戦争以後の国際秩序の再建、衰退したキリスト教に替わりうる新しい社会倫理の模索--そうした問題に歴史の高みから落ち着いて思いをめぐらすべき時が来たと人々は感じていた。だが同時に彼らは、開幕したばかりの20世紀の世界に、自由の多血症に苦しんだ19世紀とはまるで相反する何か不吉なものが社会主義や民主主義の美名の下に到来しつつあることも予感していた。
 なかでも本書の著者べロックが20世紀初頭の英国に見たものは、資本主義の勝利でも社会主義への全進でもなかった。彼が本書で主張するところによれば、英国では資本家、労働者、社会主義知識人の三者の合意と協力の下に「奴隷の国家」が出現しつつあり、この英国を先頭に、近代産業社会は古代以来の奴隷制の再建に向かっている。「奴隷」とはマルクス主義者のいわゆる搾取などよりはるかに強烈な言葉だが、ベロックはこの言葉をたんに極端な比喩として使っているのではない。古代社会においては奴隷制は殆ど普遍的で自然な制度だったのであり、産業社会はそうした状態に復帰しつつあると彼は言う。

 奴隷制が現代に再建される究極の原因は、資本主義の根本的な不安定性にある。どうしても不安定でしかありえない資本主義システムを何とか安定させようとすることから、労働者階級から自由を剥奪する一方で奴隷身分として生計の資を彼らに保障する奴隷の国家が生まれる。そして資本主義が不安定にならざるをえない原因は、第一にこの体制が持つ者による持たざる者の支配を意味しているからであり、第二に、この体制の現実が各国の憲法に記されているような近代の法とモラルの理念に深く矛盾するからである。この二つは互いに結びついている。即ちすぺての市民が法的政治的には自由な人間でありながら、その大多数が無産の賃金労働者でしかないとき、資本主義は不可避に不安定なシステムになる。
 先に筆者は、冷戦と戦時プロパガンダの時代が終ると共に20世紀初めにべロックが論じた問題が歴史的に回帰してくると述べたが、それはこうした彼の分析のアクチュアリティに関係している。社会主義に勝とうが勝つまいが資本主義の根本的な不安定性という問題は全く未解決のままであり、今日それは暴走する巨大な国際金融機構により媒介され増幅されて、ますます極端になってきている。そしてこの不安定性を減少させるための奴隷制というべロックの議論も、歴史の現時点においてきわめてアクチュアルである。
 先進諸国では1980年代以来「小さな国家」を掲げるレーガン=サッチャー流の新自由主義が強力な潮流となり、指令経済の旧ソ連が崩壊した余波もあって、市場と国家のどちらが経済運営の主体たるべきかが長らく時代の争点となってきた。だが本書を読んでみれば、大きかろうが小さかろうが現存しているのは相変らず奴隷の国家に他ならないことがすぐに分かる筈である。「市場か国家か」は、我々を振りまわしてきたニセの争点なのだ。近代社会には市場と国家のどちらも必要なのである。こんなナンセンスにかかずらうことは止め、あくまで問題は「自由か奴隷制か」であり、持つ者による持たざる者の支配が許されるかどうかであることを我々はベロックと共に確認しなければならない。
 実のところ市場の自由に国家による規制を対立させる新自由主義のレトリックは、自由が持てる少数者の特権のことでしかない現実を覆い隠すための論理のすり替えなのである。そして少数者の経済的特権の観点から推進される民営化や規制緩和は、ビジネス・チャンスを拡大する以上に資本主義を不安定にする効果を持っている。過去一世紀にわたり資本主義はこの不安定性を克服するために死にもの狂いの努力をし、そこから奴隷の国家も生じた。それが今や、システムの不安定化それ自体の中にギャンブル的なビジネス・チャンスを求める方向に転じつつあるのだとすれば、これは資本主義が奴隷の国家を維持できなくなってきている徴である(そしてこの賃金奴隷制の破綻にすぎないものが「自由」などと称されているのだ)。ともあれ新自由主義や社会ダーウィニズム復活の方向にのめりこんだ今日の資本主義は、企業の収益や投資機会の点では大きな危機の中にあると見なければならないだろう。

 昔も今も持たざる者に自由はない。ベロックが言うように、自由とは何よりも契約の自由に基づいて労働を拒否できる自由である。他人の言いなりになって働かねば餓死する恐れのある人間は、自由な人間とはいえない。彼には契約も市場もない(新自由主義の「市場」とは、特権的少数者にとってだけ意味のある会員制クラブのようなものである)。たとえ大企業の管理職であっても失業の恐怖に脅える賃金労働者にすぎない人間に、自己責任やら選択の自由やら リスクを冒す精神やらの自由至上主義の説教をすることは、悪質な冗談でしかない。そしてこんな現状がある以上、「市場か国家か」の論争で国家の公的権威を擁護する立場から市場万能主義を批判する左派系の人々には、それなりに理があるように見える。彼らはこの立場から市場の限界や弊害を指摘し、マス・メディアの商業主義的退廃や教育の企業化に見られるような公的領域の縮小や削減は「社会の死」につながりかねないと警告する。しかし80年代以来この種の福祉重視の「大きな国家」論者たちはずっと旗色が悪く、市場万能の新自由主義に一方的   に押しまくられてきた。これは理由のないことではない。なぜ彼らは資本主義を批判するのか。結局彼らは、そう公言はしないものの、心の片隅では相変らず、すでに歴史的な破産を宣告された社会主義を捨てきれないでいるのではないか。こうした疑念が世にあるから彼らは信用されない。しかし「大きな国家」論者が落ち目であるより決定的な理由は、彼らが既得権益にしがみつく守旧派、それも強制労働におとなしく服するのと引きかえに奴隷としての身分保障を国家に要求するような守旧派たることにある。ベロックは本書中で再三、社会主義者たちは現実には意図せずして社会主義とは似て非なる奴隷の国家を作り出すと指摘しているが、同じことが今日なお「大きな国家」論者によって蒸し返されているのだ。これらの人々は特権的所有というものを正面から攻撃しない。だから彼らは自分では持たざる者を代弁しているつもりなのかもしれないが、実際には国家の権威と大衆の奴隷根性を代弁しているだけなのである。

 20世紀の先進産業社会には奴隷の国家が出現した。この国家は、資本家・労働者・社会主義的知識人の合意と協力のうえに成立し、大衆の奴隷化を条件とした資本主義の安定成長を可能にした。しかし今、奴隷の国家のきしみはひどくなってきている。資本家は企業収益の低下や投資機会の縮小に直面し、労働者はリストラの大波の下で奴隷身分の安心と安定を奪われ、知識人は公的使命を見失った。それでは、この国家体制からの出口はどこにあるのか。ベロックの反資本主義的自由主義は、どこに隷属からの解放の道があると指さすのか。そうした解放への道はかつて在ったし今も在る。だがその道に辿りつくためには、まず奴隷の国家がいかにして出現したかを知らねばならないだろう。だからもうそろそろべロックの言葉に耳を傾けて頂くことにしよう。

関 曠野