鑑 定 書

日本の国家意思による細菌戦の隠蔽
 

2001年2月5日

ジャーナリスト  近 藤 昭 二








目 次

第1部 終戦までの隠蔽

第1章 発足当初からの細菌戦研究
1 細菌戦
2 国際法違反
3 脱走事件

第2章 関東軍防疫部の編制
1 軍令による編制
2 機密保持
3 特移扱
4 特別軍事地域

第3章 細菌戦の攻撃的研究
1 攻撃の研究
2 増田知貞の研究

第4章 安達実験場
1 攻撃の実験

第5章 陸軍中央の指導
1 誰が知っていたか

第2部 終戦後の隠蔽

第1章 アメリカ軍の関心
1 日本軍に注目
2 中国からの訴え
3 日本軍への疑惑

第2章 終戦時の証拠湮滅
1 国体の護持
2 政府・軍中央の指示による証拠湮滅
3 部隊の破壊と撤退
4 隊員に対する箝口令

第3章 終戦後の隠蔽
1 サンダースの調査
2.トンプソンの調査

第4章 隠蔽事実の発覚と戦犯免責
1 ソ連の尋問要求
2 フェルの調査

第5章 取引の成立
1 アメリカによる隠蔽
2 アメリカに渡ったデータ

第6章 その後の隠蔽
1 ハバロフスク裁判
2 部隊幹部のその後
3 現在までの隠蔽 

結び
 

第1部 終戦までの隠蔽

第1章 発足当初からの細菌戦研究

1 細菌戦
 1932年、満州国建国が宣言された年の4月に、東京の陸軍軍医学校内に石井四郎を室長として防疫研究室が設置された。
 『陸軍軍医学校五十年史』にこの研究室設立の経緯が記されている。

  「防疫研究室は国軍防疫上作戦業務に関する研究機関として陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。此新設に関しては昭和三年海外研究員  として滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が各国の情勢を察知し我国に  之が対応施設なく、国防上一大欠陥ある事を痛感し、昭和五年欧米視察  を終へ、帰朝するや、前記国防上の欠陥を指摘し之が研究整備の急を要  する件を上司に意見具申せり。爾来陸軍に医学校教官として学生指導の  傍ら余暇を割き日夜実験研究を重ねつつありしが、昭和七年小泉教官の  絶大なる支援の下に上司の認むる処となり、軍医学校内に同軍医正を首  班とする研究室の新設を見るに至りしものなり。」(1)

 続いて、「防疫研究の基礎進むに随い、防疫の実地応用に関し石井軍医正は万難を排し挺身満州に赴き、防疫機関の建設にかんして尽瘁」した結果、(2) ハルビン南東約70キロの五常県背陰河の地に研究施設が設けられることになった。
 ここでは単に「防疫研究」といっているが、実際には、研究室の発足当初から細菌戦を想定し、細菌兵器の実用性の研究・開発を行うことが主なる活動だった。
 そのことは、後に石井四郎と共に細菌兵器の研究にあたった内藤良一が、1945年10月6日、アメリカ軍の調査官ムーレイ・サンダース中佐に対し、日本陸軍の生物戦研究の歴史について、述べた次の説明でも分かる。

   「この分野での日本の活動の始まりは、石井四郎中将、当時の石井少佐 がヨーロッパの視察旅行後日本に戻った1932年にさかのぼる。19  22年*のジュネーブ協定で生物戦がいちおう禁止されたのが最初のき   っかけだった。石井少佐は、生物戦に対する公式の禁止はその兵器とし  ての潜在能力を暗に示していると考えた。」
  (*原註=1922年と言及しているのには混乱がある。「・・・・そ  して細菌戦用病原体」を禁じた国際連盟軍縮会議は1925年に開催さ  れた)(3)

 石井は禁止されるほどの可能性をもつ武器として細菌兵器をとらえ、研究を始めたというのである。
 背陰河の施設で研究を行っていた時の一員北条圓了も『大東亜戦争陸軍衛生史』に、

  「当時自分(北条)は陸軍軍医学校付を拝命し防疫研究室に所属して、当研究室の使命である細菌戦に関する基礎的研究を分担」(4)

と記している。

2 国際法違反
 ジュネーブ軍縮会議には日本も代表団を送り込んでおり、細菌戦がこの時の軍縮協定で禁止されたこと、国際的な世論がこの種の戦争に反対であることを軍の上層部では当然認識していた。
 この会議に出席していた、後の陸軍大臣下村定はこの禁止協定の存在を知っていたし、後に陸軍省医務局長となる神林浩軍医中将も、「全世界の世論は細菌戦に反対している」という認識をもっていた。(5)
 この軍縮会議に出席した日本代表のひとり、陸軍省医務局員の原田二等軍医正が細菌戦に関する報告書を書いた。このジュネーブでの討議に関する原田の報告書は医学界全体で回し読みされたという。さしたる関心は呼ばなかったが、これが石井四郎の目にとまり、「細菌戦が秘める可能性に深く心動かされて、日本軍にとっての細菌戦の可能性の検討開始をこころざした」(6)ともいわれる。
 背陰河での研究では当初から、生きている人間を素材にしての細菌の感染実験が行われた。
 当時の隊員栗原義雄からの聴きとりによれば、ここでの人体実験は伝染病の範囲にとどまらず、例えば、食物を与えず湯のみ与えた場合と水だけを与えた場合とではいずれの人間が長く生きられるかという実験、あるいは、馬の生血と人間の血液を入れ替えた場合どのような結果になるかなど、軍陣医学として役立ちそうな実験を様々に行っていたという。(7) 実験の素材は中国人の捕虜や「匪賊」(ゲリラ)があてられていた。
  これらの生体実験は明らかに当時の国際法規に反していた。
 ハーグ陸戦規則(日本は1911年11月6日批准、同年12月13日批准書寄託)は、その第六条で捕虜の使役を禁じ、また第二三条において害敵手段として不必要の苦痛を与うべき兵器、投与物その他の物質を使用することを禁じ、また第四六条において個人の生命は尊重すべしと定めている。さらに同規則は、その前文にいわゆるマルテンス条項といわれる類推・拡張条項をもち、『一層完備した戦争法規が規定されるまでは、その余の場合においても、人民、交戦者は、文明国間に存する慣習、人道の法則および公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護と支配下にある』と定めている。背陰河で行われた生体実験、さらにその研究を継承、発展させた関東軍防疫給水部による生体実験、細菌あるいは毒ガス兵器の実験は、前記ジュネーヴ議定書と相まって少なくとも当時成立していた生体実験禁止の国際慣習法に反していることは明かだった。
 実戦上の理由からしても、また戦争法規の上からも人道的な理由からもここでの研究は極秘にしなければならなかった。
 施設には厳重な警戒体制が敷かれ、研究者の軍医たちはそれぞれ偽名を使い、外部との通信も自由にはさせぬ機密厳守の体制がとられていた。
 遠藤三郎は関東軍の作戦主任参謀として満州に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から「極秘裡に石井軍医正に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい」との依頼を受け、何度か背陰河の施設を視察した。
 遠藤はそれが極秘の研究所であることを次のように記している。

  「その研究所は哈爾賓、吉林の中間、哈爾賓寄りの背陰河という寒村に  ありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、  ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許され  ぬ気の毒なものでした。部隊名は『東郷部隊』と云っておりました。被  実験者を一人一人厳重な檻に監禁し各種病原菌を生体に植え付けて病勢  の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾賓監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のため  とは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の  電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。
   本研究は絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。」(8)
  また、視察した実験の模様についても、その当時の日記中の、一九三三年十一月十六日の項に、「午前八時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き、試験の実情を視察す」として、次のように記している。

「第二班の担当は毒瓦斯、毒液の試験、第一班、電気の試験等にわかれ各○○匪賊二(人)につき実験す。
ホスゲンによる五分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起し重体なるも昨日よりなお、生存しあり。青酸十五ミリグラム注射のものは約二十分間にて意識を失いたり。二万ボルト電流による電圧は数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し第二人目は五千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。
  午後一時半の列車にて帰京す。」(9)

3 脱走事件
 ところが1934年旧暦8月15日、16名の中国人収容者が脱獄に成功したことで、この研究所の秘密保持が困難になった。
 後(1948年)に帝銀事件が発生した時、この当時の隊員が捜査の対象としてあげられたが、捜査本部で留目刑事と金沢刑事が背陰河当時の隊員井上政美から聴き込んだ事実を報告している。

  「(三)留目ー金沢
    (略)
  背陰河の話が出た
  昭和八年末か九年初め出来た
    石井は東郷太郎と云った
              東郷部隊と称した
  其処で約一年位やった
  守備隊あり其の中に守備隊の格好で
  約二百名位研究していた
   此の時大量に逃げられた
  一年後軍医学校へ引き上げた」(10)

 脱走者16名のうち12名が東北抗日連軍第三軍に駆け込み、その通報をうけた第一師団長劉海濤は1936年1月「満州の情況に関する報告」をコミンテルン中共代表部にあてて提出している。

  「もう一つの情報は、日本帝国主義が専門の人間屠殺場を設けているというものである。
  この殺人場はハルビンの東南、双城県に近く拉林県の東にあたる背陰河  にある。そこは鉄道の駅があり、ハルビンから五常県、そして五常県か  ら吉林の敦化県に向かう鉄道が通っている。この背陰河に置かれた殺人  場は極秘のもので、人々はまったくこれを知らない。殺人場には数百も  の部屋があり窓は鉄製で、中にいる犯人[被拘留者のことー訳注]は外  を見ることができなかった。部屋のなかには鉄の棒で無数の檻が作られてあり、犯人は一人ずつその檻に入れられていた。」(11)

 脱走事件の後、防疫班(「東郷部隊」)は内部の秘密が発覚するのを恐れてこの施設を閉鎖し、いったん日本の陸軍軍医学校に戻った後、再びハルビン市南崗に移動した。
 

第2章 関東軍防疫部の編制

1 軍令による編制
 1936年、石井四郎の率いる「東郷部隊」(加茂部隊とも称した)は、5月30日の天皇の軍令陸甲第七号によって正式の軍隊となる。軍医学校の研究室の一出先機関といった組織ではなく軍隊として関東軍の隷下に入り、関東軍防疫部と称するようになったのである。
 この部隊が陸軍中央によって公式に編成・改編されていたことを示す文書は次の6点がある。

 (1)「満州派遣部隊一部ノ編成及編成改正要領決定案」(一九三六年四月一三日付け)(12)
  (2)「在満兵備充実ニ関スル意見」(一九三六年四月二三日付け)(13)
 (3)「関東軍勤務令」(一九三八年九月八日)(14)
 (4)「編成(編制改正)詳報提出ノ件報告」(一九三九年九月二三日付け)(15)
 (5)「満州駐屯陸軍部隊ノ編成・編制改正完結ノ件」(一九四一年七月一日付け)(16)
 (6)「関東軍防疫給水部略歴」(一九八二年四月六日衆議院内閣委員会に厚生省が提出したもの)(17)

 (1)は「関東軍防疫部」の新設着手の時期を「昭和十一年八月上旬但シ一部ハ同年十二月上旬」とし、軍医と薬剤官以下計七十名で編成し、必要ならば「人員ヲ増加スルコトヲ得」と参謀本部が決めていたことを示している。
 (2)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には、

  「 関東軍防疫部の新設増強
  予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究ならびに細菌戦準備の為関東軍防  疫部を新設す
  又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す
  関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」

とあり、関東軍防疫給水部の使命が「細菌戦準備ノ為」であったことがはっきりと示されている。
 また(4)(5)(6)のいずれからも、天皇の編制大権に基く軍令によってこの部隊の編制や改正の行われていたことが分かる。
 ただ極秘に扱われたことは同前で、この部隊に供給される年間経費一千万円(1940年当時)(18)についてさえ国会議員にも秘密のうちに支出されていた。
 元関東軍参謀副長松村知勝はハバロフスク軍事裁判の証人としてそのことを証言している(この裁判の記録に信用性のあることについては後述する)。

  「此の部隊ノ編成及ビ部隊デ行ワレテイタ細菌兵器研究業務ニ関連スル費用ハ、議会ニ対スル特別報告ヲ必要トシナイ関東軍非常軍事総予算に  繰リ入レラレテ居リマシタ。此ノ事ハ、議会ニ席ヲ占メ、軍事問題ニ疎  イ人物ニ対シテ部隊ノ業務ヲ極秘ニシテ置ク可能性ヲ与エマシタ。」   (19)
 

2 機密保持
 部隊用地としてハルビン市郊外の平房地区が選ばれ、1936年秋には民家を立ち退かせた上で部隊の建設工事が黄家窩堡と劉家窩堡の耕地で始まった。
 本部棟やロ号棟(研究室棟)は建設会社松村組が施工したが、ロ号棟の中庭にある、人体実験のための収容者を入れる特設監獄七棟・八棟の内部工事は、秘密保持のため石井四郎の郷里から集められた地縁血縁関係にある工事夫たちにさせた。
 1938年第一次建設班として現地に行った萩原英夫は、1953年4月15日、自筆の手記に次のように書いている。

  「私達の主な作業場所は 人間実験所の7、8棟であり到着時は内部は入口及奧の方に若干の間切りがしてあった丈で中間はまるで講堂の様に全く間切りがしてなかった。7、8棟は3、4、5、6棟に囲まれ外部から全く見えず而も入り口には厳重な鉄の扉があり、3、4、5、6棟の3階の隅々には7、8棟に向けて照明灯が取り付けられていた。7、8棟を囲む3、4、5、6棟(煉瓦積)及3、5棟に通する廊下(四階)(煉瓦桟)の裾約4メートルはセメン壁で塗られてあり3棟の屋上には一段高い望樓があった。
私達は現場到着時建設班の工藤技手より石井部隊員の命令として『七、八棟の内部工事を本年中(1938年)に終了すること及業務については部隊内の人と雖も絶対口外しないこと、若し口外した場合厳罰に処す』の伝達があった。(略)7、8棟出入者は出入毎に保機班より(機密保持の為組織されたもの)身分証明書及身体検査を受けた。大工、左官の責任者は内部の設計図を必ず保機班に返納し、20名の責任者叔父青柳は其の日の作業出場人員及作業種類と場所を必ず保機班に報告する様になっていた。」(20)

 部隊には常時ハルビン憲兵分遺隊から直属憲兵が派遣されており、隊内の機密保持、部隊で働く中国人労務者の防諜につとめていた。
 憲兵はこの地域に二つの系統の「協防班」(協和防諜班)を作った。

  「一つは労務者の中に作られたもので、秘密裏に彼らを買収して班員と  し、営区内で働く労務者の思想、言論、勤務態度について調査した。も  う一つの系統の協防班は、八つの分区事務所に置かれ、ハルビン憲兵隊  平房派遣隊と香坊区警察署平房駐在所が共同で管理していた。区長が協  防班の総班長を兼任し、各分区の協防班の班長は分区長が兼任した。各  村の村長を中心として、管区内の農民の言論と行動について極秘調査し  た。分区に置かれた八つの協防班は、中心人物の二七人を買収し、彼ら  は平房屯、腰二道溝、義発源、正黄旗三屯などに分散して、密かに三九  もの協防班を設立した。この結果、班長以上の密偵は六十数人に増加し  た。この二つの系統の協防班は、密偵活動の中で相互に協力する関係に  あった。」(21)

3 特移扱
 同じ頃、関東軍の上層部では、この部隊に実験材料としての人間を常時充当するための仕組み「特移扱」の規定を策定し、1938年1月26日関憲警第五八号として関東憲兵隊管下の各憲兵隊に通達している。
 その間の成り立ちを当時関東憲兵隊の司令部で警務部第三課長として「特移扱」を担当した吉房虎雄が手記の中で説明している。

   「九・一八 以後、日本帝国主義は、東北(満州)では「厳重処分」といって、現地部隊の判断一つで中国人民を、勝手気儘に惨殺する事が公然  とゆるされていた。だが、後から後へとつづく抗日烈士の抗争によって、  この「厳重処分」も、一九三七年、表面上、禁止しなければならなかっ  た。
  その後、関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、軍医石井四郎、参謀山岡道武及び関東憲兵隊司令官田中静壱、警務部長梶栄次郎、部員松浦  克己らのあいだで秘密裡に、この「厳重処分」にかわる中国人民虐殺計  画が進められていた。それは、なるべく簡単に、無制限に、中国人民を  細菌培養の生体材料として手に入れることであった。
  一九三七末、軍司令官は「特移扱規定」という秘密命令を出した。その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が中国人民を不法に逮  捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、  憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験の材料としてなぶり殺しにす  ることであった。」(22)

 なお、この手記は吉房が終戦後に撫順戦犯管理所に抑留中の間に書かれたものだが、のちに釈放されて帰国した後、日本で公表することを了承したもので、強制された供述ではないことは明かである。
 「特移扱」規定の通牒を発して5ヶ月後、次に軍の上層部は、平房の部隊周辺を特別軍事地域に設定し、満州国軍機保護法を適用した。次に掲げるのがその命令だが、これは1950年モスクワの外国語図書出版所で出版されたハバロフスク軍事裁判の記録『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』(以下『公判書類』と略す)に証拠書類の写真として掲載されているものである。(23)
4 特別軍事地域
  「◎ 平房付近特別軍事地域設定ノ件
  関参一発第一五三九号  昭和十三年六月三十日  軍參謀長
  首題ノ件左記ノ通リ定メラレタルニ付依命通諜ス
     左記
  一、 平房石井部隊廰庁舎(外柵以内)ヲ特別軍事營造物ト指定ス
  二、 別紙要圖甲地域ヲ満洲國軍機保護法施行規則ニ據ル第三種地域甲號地区トシ禁制事項ハ同規則ヲ適用ス
  三、 別紙要圖乙地域ニ於ケル左ノ事項ヲ禁止ス
   二層以上ノ建築物ノ新設ヲ禁止ス
  四、 航空禁止ニ関シテハ民間航空(満洲航空株式会社)ニ対シ航路並禁止空域ヲ指定ス
  五、 甲地域及乙地域ノ境界並禁止事項ノ掲示ハ治安部ヲシテ之ヲ行ハシムルモ軍ノ建築物ノ周囲ノ掲示ハ防衞司令官之ヲ行フモノトス
  六、 本件ハ直接関係アル部隊ノミニ通達シ一般ニ対スル公示ハ之ヲ避クルモノトス
  「別紙」
     省略
  第五項 警務ニ関スル諸規定」

  この部隊の進駐によって生れ故郷の黄家窩堡の村を追われた経験をもつハルビン市人民政府地方史編纂弁公室の関成和副主任は、研究者や防疫専門家からなる調査グループをつくって、かつて中国人労務者200名近くを訊ね、次の調査結果を得ている。

  「平房特別軍事地域は一つの基地と四本の防衛線から成っていた。基地  と日本軍内部で「一七号軍事基地」と称していたものであり、約六平方  キロの敷地に七三一部隊本部や各種関連施設、隊員の生活区がおかれた。  四本の防衛戦は、上空の防衛戦一本と陸上の防衛戦三本から成っていた。
   上空の防衛線は軍用・民間航空系統に軍令を通達し、違反した飛行機が  あれば、七三一部隊と八三七二航空部隊(現在のハルビン飛行機製造公  司の位置に駐屯)の専用機がただちに離陸して迎撃することになってい  た。高射砲も用意されていた。しかし、このような緊迫した状況が発生  することは、四五年に七三一部隊が撤退するまでみられなかった。
   陸上の防衛戦線は三重になっていた。一本目は、長方形をなして「一  七号軍事基地」内の七三一部隊の本部を取り囲む土塀であった。塀の高  さは二メートル、長さは総計五キロ、塀の上には電流の流れる鉄条網が  仕掛けてあり、塀の外には幅三メートル、深さ二・五メートルの堀が取  り巻いていた。塀の東側には門が二つ、南・西・北には一つずつあり、  歩哨所と衛兵所が配置されていた。西門は通常閉鎖されており、南門は  敷地内にある本部の建物の真正面に位置し、同部隊関係者の通行のみが  許され、門の傍らには歩哨詰所があり、両側に歩哨台が置かれていた、  歩哨詰所の隣は面積約八〇平方メートルの衛兵室で、常時一個分隊の兵  力が駐屯していた。南門前方片側に警備用の立て札があり、「関東軍司  令部の許可なく立ち入ることを禁ず」と書かれていた。中国人の労務者  が仕事のため出入りするのは、北門か東門で、出入りのたびに「労工証  明書」を示さねばならず、頻繁に身体検査や尋問が行われていた。
   二本目の防衛線は一五三九号訓令の定める「甲地域」で、その内側の  縁は七三一部隊本部から約二?五キロ離れたところにあった。内側の縁  と外側周囲の間には総面積三二平方キロの土地が広がっていた。「甲地  域」は特殊管理区となり、満州国の「軍機保護法」(勅令第四五三号、  三七年一二月)の定める各項目の規則(軍事施設やその周囲に対する無  許可の立ち入りや航空・航行、測量・観測・調査、撮影の禁止等)はど  れも適用された。
   三本目の防衛線は、「甲地域」周囲に広がる八〇平方キロの「乙地   域」であり、一五三九号訓令によれば、この地域では二階建て以上の建  物を禁止し、この地域の外側周囲、とくに交通路の地点には境界を示す  標識を立て、関係者以外の立ち入りを厳禁した。」(24)

 いかに厳重な警戒体制がしかれていたかが分かるが、その厳重さは、部隊の実験・研究が法規・人道に抵触するいかに重大な事実であるかを軍上層部が意識していたことの証左ともなっている。
 
 

 第3章 細菌戦の攻撃的研究

1 攻撃の研究
 部隊では特移扱として送られてくる人間を素材に、人体実験をくり返し、防禦よりも攻撃的な細菌戦の研究を推進した。
 前出の松村知勝元関東軍参謀副長が、戦後1977年に著した『関東軍参謀副長の手記』の中で述べているように、

  「石井中佐は防疫に止まらず、遂に攻撃用の細菌戦を企画するに至っ   た。」(25)

 研究の対象となり、実験に使われた細菌は、ペスト、コレラ、チフス、破傷風など25種類以上にのぼり、雨下などの攻撃的使用方法、凍結乾燥などの搬送方法が実験され、追究された。
 松村はさらに次のように明かしている。

  「石井部隊長はますますこの研究をおし進め細菌爆弾を考案し、ペスト菌を主体とする細菌を培養しこのためネズミと蚤を飼い陶器製の爆弾を  飛行機に積んで、軍医が操縦して投下するというものであった。このた  め実験用の飛行場をチチハルーハルビンの中間の安達(現在の大慶油田  付近)につくって研究していた。
   いよいよ実戦試験を中国戦線でやることになり、特別命令によって重慶の奥地や、中支の日本軍が撤退する某所でやったが、作戦的効果は期  待できないという結論になったものの、謀略としての効果はあるという  ことになった。」(26)

 ペスト菌を主体とする陶器製の爆弾を飛行機から投下、中国戦線での実地試験などの記述は、いずれも攻撃用細菌兵器の研究・開発を示すものである。
 この部隊の研究者が作成した論文、報告書で、人体実験・攻撃的な研究が行われたことを示すものには、次の4点がある。

 (1)「きい弾射撃ニ因スル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」(27)
 1940年9月7日から10日にかけて行われたイペリットガス弾を人体に向けて発射した実験など5種類の毒ガスの実験結果をまとめたもので、16名の人間が実験の対象となっている。
 (2)「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋『クロナキシー』ニ就テ」(28)
 破傷風毒素と芽胞を人間の足背部に接種して発症させた実験の報告であり、14名の人間を実験に使っている。
 (3)「『リケッチア』ノ生体外保存ニ就テ」(29)
 これは1942年の第11回日本医学会総会の軍陣医学部会で発表された作山元治軍医少佐の論文で、乾燥保存による病原体の輸送や乾燥させた病原体を鼻腔から感染させた実験の結果を報告したものである。
 (4)「細菌戦」(30)
 これは七三一部隊(関東軍防疫部は1940年8月1日に関東軍防疫給水部と称号変更、その後1941年8月から七三一の秘匿番号でよばれていた)に続いて、中支那方面を担当するため南京に設置された中支那派遣軍防疫給水部栄一六四四部隊の隊長であった増田知貞軍医大佐が、陸軍軍医学校の教官として1942年12月15日に発表したもので、終戦後アメリカ軍に押収され英語訳されたもの。アメリカ・ユタ州ダグウェイ実験場の資料室にファイル004として保管されていた。

2 増田知貞の研究
 1942年12月という時点は、40年の農安・新京のペスト流行と分析、浙江省寧波その他への攻撃実施、41年の常徳周辺の攻撃実施と42年の浙〓地区への地上からの謀略的細菌使用を行った後の時点である。
 このレジュメで増田は、細菌戦の攻撃面について多くを割き、使用場所や効果について縷々述べている。増田は、細菌兵器の使用対象として、

  「細菌戦は、敵の人員のみならず、人間、役畜、家畜、穀物、野菜を含む敵領土内のあらゆる生物に対して使用可能である。」(3頁)
  「敵国の同盟国となる兆しの見える中立国に対しても使用可能である。」(3頁)

と、述べ、敵の士気や経済への波及効果について

  「結果にかかわりなく、文明国の国民の間に細菌を撒き散らすことは彼らの士気に影響を及ぼす」(4頁)
  「国内各地での疫病の発生は、疫病を統制下に置くことに人員および資源の多くを費やさざるをえなくなり、ひいてはその国の戦争遂行能力を  大幅に阻害する」(4頁)

といい、細菌の性質を熟知して効果的な利用を知ることが重要であるとして具体的に、

 1.給水過程での汚染にはコレラ菌、チフス菌、赤痢各菌が使用可能
 2.食物の汚染にはコレラ菌、チフス菌、赤痢菌、ボツリヌス菌が使える
 3.川や海岸にはコレラ菌、チフス菌が使用可能
 4.公共の場や鉄道には結核菌と炭疸菌が使用可能
 5.家畜と軍用動物には鳥ペスト〔筆者注・インフルエンザA型ウイルスのこと〕、鼻疸菌、ツラレミア、炭疸菌を使うことができる

と説明している。これらはこの年浙〓地区で発生した疫病の病原体および発生場所とも符号している。
  増田知貞は、支那派遣軍参謀井本熊男の日誌によれば、1940年の寧波など浙江省の細菌戦の実施計画を参謀本部作戦課の荒尾興功と井本と共に策定した当の本人であり、細菌戦実施の指導的立場にあった人物で、その中国への細菌撒布の経験と実績に基いて述べているのである。
  井本の日誌中の1942年10月5日の部分には、増田大佐からの浙〓作戦での結果報告「地上実施ニ関スル実情」が記されている。

  「px(P〔ペスト〕其他)ハ先ツ成功?衢県T〔チフス〕ハ井戸ニ入レタルモ之ハ成功セシカ如シ(水中ニテトケル)」

 さまざまな細菌を撒布する方法について、増田は

  「攻撃戦術は、細菌雨や爆弾投下、細菌の詰まった砲弾、あるいはスパイの使用といった形で実現できる」(12頁)
  あるいは、
  「友軍と直接接していない敵軍に対して、とりわけ艦船が出港する直前にチフス菌によって食糧を汚染するという方法で敵の海軍に対して使用できる」(13頁)

とも説明している。
 さらに、「戦略上重要な使用」として、

  「細菌兵器実行計画については機密厳守のこと
  1. 攻撃の標的
    主に軍用動物
  2. 攻撃活動:
    攻撃活動は飛行機を使って迅速に履行すべく、このためには標的の近辺に航空設備または兵器製造工場が必要である。安全の保障を確保する必要もある。ペストとコレラ菌を使用する。
  3. 攻撃使用の特徴
   a. 汚染することによって、人工壁を作る事ができる
    b. 敵の長所を弱めることができる
    c.疫病を発生させる事によって、敵の密集地域での戦力を弱めかつその進路でも影響を与えることができる
    d. 敵の首都や軍用工場などでの疫病発生により、政治や軍事活動を衰退させる
   e. 戦地での軍隊を直接細菌兵器で攻撃する  (11頁)」

 細菌戦に関する外国の情勢については「各国は細菌戦の潜在的な危険性と有用性にすでに気づいている」と言っているものの、禁止条約のことにはふれず、細菌戦の攻撃的研究が不可欠とこう述べている。

  「細菌戦は奇襲攻撃であることが事実上必要不可欠である。防御面では、細菌攻撃の危険を前もって排除することは不可能であるが、より文明的な国は、訓練された科学者陣および科学的装備によって、疫病を最小限  におさえることができる。しかし、細菌攻撃への備えがなければ、事後の苦難は多大なものとなるだろう。」(18頁)
 
 

第4章 安達実験場

1 攻撃の実験
 七三一部隊では、部隊の東側飛行場、平房の南西にある城子溝、西北120キロの安達に特別演習場と呼ぶ野外の実験場をもっていた。
 それらの実験場では、細菌容器の投下実験、生きた人間を杭にしばりつけての細菌雨下(航空機につけた撒布器から放射する)試験あるいは各種細菌爆弾の投下による感染実験、毒ガスの実験などが行われていた。
  七三一部隊の林口支部榊原秀夫支部長は、安達演習場へ牡丹江支部長の尾上正男と共に行った時のことを終戦後の中国抑留中に次のように述べている。

    「會同後安達で殺人實験の演習があるから、支部長は希望ならば参加してもよいとの石井の話で私は参加致しました」
   「安達には既に第二部の演習員が第二部長碇大佐の指揮の下に演習の準備をしておりました。
   やがて重爆撃機が到着し中國愛國者の方四名と警備人員が降りました。四名の方は其の儘安達演習場に二五米ー三〇米の間隔に地に打ち込んだ丸太の棒に縛りつけられました。
   三時頃石井四郎、第一部二木技師、總務部企画課長田部中佐が飛行機でやって來ました。三時半頃軽爆撃機演習場の上空に飛來し約一五〇米の高度より素焼製爆彈(陶器の一種)を投下し五〇米上空で炸裂しまし  た。
   私は完全予防衣を身につけ五、六〇〇米位の距離から此の慘行を見たものであります。此の爆彈は怖るべき炭疽菌を充填した爆彈で鼻咽腔より吸入せしめ、當時絶對に生きることの見込みのない肺炭疽に、或いは  破片により皮膚炭疽を起こさせる全く酷悪の罪行であり、私も此に参加  したものであります。」(31)

 この安達演習場で検索班(第2部第5課ペスト検索班)の任務についていた川口七郎は筆者の聴きとりに対して要約次の通りに答えている。(32)

  ○一回の実験で多くて12、3人、ふつう10人の「丸太」(被実験者)を使用する
  ○同心円上にたてられた十字の杭に「丸太」が縛りつけられ、中心におかれた十文字の白布を目標に、無線で連絡をうけて来た飛行機が蚤のつまった陶器爆弾を落とす
  ○検索班員は防菌衣姿で、紛砕した爆弾の破片が被験者のどこに付着したかを人体図に記入、周辺に飛散した場所も記録
  ○「丸太」はトラックに積んで部隊本部に持ち帰った

 このほか、安達の実験場およびそこでの実験の存在を示すものには、次のものがある。
 (1)安達演習場の写真班員と杭を打つ工務班員の写った写真(33)
 (2)安達演習場の吹き流しと工務班員2名の写った写真(34)
 (3)安達に到着した「丸太」輸送用のトラックと写真班の写った写真(35)
 (4)東北人民政府衛生部が1950年に行なった調査の記録「安達鞠家窟細菌工厰記実」と写真、略図(36)
 (5)1954年、黒龍江省公安庁が行なった調査書「日本陸軍七三一部隊安達飛行場にかんする調査」(37)
  (6)ハバロフスク裁判の『公判書類』における川島清、柄沢十三夫、古都良雄の供述(38)
 

第5章 陸軍中央の指導

1 誰が知っていたか
 この細菌攻撃についてどういう立場の人たちが知っていたのか。
 井本熊男参謀本部作戦課員の日誌には、1940年の浙江省への細菌攻撃の準備段階にあたる一九四〇年五月三一日付の部分に「『ホ』号」(細菌攻撃戦の秘匿名でホ、ほ号、保号とも書かれる)と書かれ、その左側に、参謀本部・陸軍省・支那派遣軍・関東軍の上層部の次の名が列挙されている。
 参謀次長の「澤田中将」、参謀本部第一部長の「富永少将」、参謀本部作戦課の「岡田大佐、高月中佐、荒尾中佐、原野少佐、谷川中佐、松前少佐、編成動員課では「那須大佐、美山中佐」、陸軍省次官の「阿南中将」、陸軍省軍務局長の「武藤少将」、軍務局軍事課からは「岩畔中佐、西浦中佐、松谷中佐、松下中佐」、その他〔岡本大尉、原田大佐、など〕、
支那派遣軍関係では「司令官西尾大将」、總参謀長の「板垣中将」、「本多中将、公平大佐、井本少佐、渡辺少佐、など」、関東軍の軍司令官「梅津中将」、参謀長の「飯村少将」、「秦少将 有末大佐 中山中佐など」の名である。
 いずれも作戦に関わる軍上層部の顔ぶれである。
 吉見義明中央大教授・伊香俊哉立教大講師はこれについて、井本の著書
『作戦日誌で綴る支那事変』の記述(432頁)からして、

  「五月三一日に右のメンバーで会議が行われたわけではない。しかし右の日記の記述は、『ホ』号作戦すなわち細菌戦の実施のために、井本が参謀本部・陸軍省上層部などへ連絡をつける必要があったことを示すも  のであった。そして当然のことながら参謀本部では作戦課と編成動員課が、また陸軍省では軍務局軍事課が、作戦実施のためには重要であっ
  た。」(39)

と判断されている。
 その後1942年まで続く中国への細菌攻撃は、井本日誌を見ると、計画・準備・連絡・実施・報告のいずれもが参謀本部の指導・承認のもとに行われていることが分かる。
 1940年11月25日に発令された杉山元参謀総長の大陸指第七八一号によると「目下実施中」の「特種瓦斯ノ試験」(細菌兵器の実施試験のこと)は「大陸命第四百三十九号」に基く「大陸指第七百八十一号」をもって終了している。(40)
 大陸指というのは、天皇の命令「大陸命」に基いて、参謀総長が出す指令のことである。
 山田朗明明治大学助教授によれば、この大陸指の案文は慣例的に天皇に上奏されたというところからしても(41)、天皇は少なくとも細菌戦の作戦指示については知っていたと考えざるをえない。
 元大本営参謀瀬島龍三も、

  「陸軍は大陸命(大本営陸軍部命令の略)、海軍は大海令(大本営海軍部命令の略)といいますが、それがないと軍の用兵は何一つできない。参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ、勝手に軍を動
  かすことは一切できなかったのです。」

  と語っている。(42)
   1941年の常徳への細菌攻撃も井本の日誌の九月一六日の項に、「三、ホの大陸指発令」と記されている。
 さらに、1942年浙〓作戦での細菌攻撃についても5月30日、石井〔四郎〕少将、村上〔隆〕中佐、増田〔知貞〕中佐、小野寺〔義男〕少佐、増田〔美保〕少佐が参謀本部に招集され、「第一部長ヨリ大陸指及注意伝達」とある。
 中国への細菌攻撃はいずれも大陸命に基づいて、参謀総長名で作戦の指示が出されているのである。
 また、元大本営参謀朝枝繁春によれば、1944年サイパン島守備隊が全滅し、アメリカに占領されて、その奪還が参謀本部で問題になった時、服部卓四郎作戦課長が天皇に細菌兵器の使用を上奏した。しかし、
 「服部課長は、お上は裁可にならなかったと言って戻ってきた。これでもうサイパンはだめだと言ってガッカリしていた」(43)
という。
  また、この細菌攻撃が国際的に非難の対象となることを軍中央は認識しつつ作戦を遂行していた。次のように井本熊男と大塚文郎陸軍省医事課長の日誌にも記されている。

  「外国ノ非難等ニ対スル責任ヲ誰ガ負フカ
  『医務局アタリニ攻防ノ課ヲ作リ業務ノ遂行ヲ容易ニスルコトカ必要(衛生勤務ノ根本ノ教育訓練ヲスルコトカ必要)
  制度補充』(井本・1941年2月5日)

  「対米英戦ニ対スル判決(石井)―軍事課ニ提出セル□
   攻撃多量 先制
    〔中略〕
   国際的ノ問題ヲ遠慮スル事ナシ」(大塚・1943年11月1日)

  国際的に非難を浴びることを恐れずに、細菌攻撃を多量に先制的にやろうと石井が提言したというのである。
 

第2部 終戦後の隠蔽

第1章 アメリカ軍の関心

1 日本軍に注目
 アメリカが日本の生物戦の意志を懸念しはじめたのは、真珠湾攻撃の年の始めだった。
 アメリカ軍が日本の生物戦研究に目をとめたのは、1939年の2月に日本の陸軍軍医学校の教官内藤良一が、ニュヨークのロックフェラー研究所から黄熱病のウィルスを取得しようとして拒絶され、所員に賄賂を使って買収しようとしたことがあるという事実が伝えられてからだった。
 その6ヶ月後には東大伝染病研究所の宮川米次がウィルスを入手しようとしてロックフェラー研究所長を賄賂で説得していたと伝えられた。この報告を受けた参謀部は、「日本が黄熱病ウィルスの毒性の高い菌株を細菌戦用に入手しようとしている」と判断、ウィルスを所有する他の施設に対しても、日本あるいは枢軸側の手に黄熱病ウィルスが渡らないように措置をした。(44)
 アメリカではその6ヶ月後、1941年10月1日に陸軍省長官ヘンリー・スティムソンがアメリカ科学アカデミー会長に特別細菌戦委員会の委員の選任を要請して、生物学者9人で構成されたWBC委員会が設立された。
 この委員会は翌年、陸軍省長官あてに、細菌戦の「攻撃的および防衛的手法の双方について研究することを勧告した。それが大統領のうけ入れるところとなり、1942年8月、ジョージ・W・マークを筆頭として、細菌戦に関係する全ての作業を調整する戦争予備局War Reserve Service(WRS)が設置され、11月から陸軍化学戦部隊United States Chemical Warfare Service(CWS)が実際の細菌戦の研究を行うことになった。(45)

2 中国からの訴え
 この間日本軍の細菌戦活動、すなわち中国の衢県や寧波、常徳への細菌攻撃が常徳のペスト流行直後からアメリカへ伝えられていた。(46)

  1941年12月27日付の情報局レポート
 1941年11月27日付の化学戦部隊〔CWS〕情報部が手を加えた科学部による報告
 1941年12月12日に化学戦部隊情報部が発表した中国への医療援助団の実験報告
  1941年12月18日の目撃者の説明および化学戦部隊情報部の報告
 1941年12月19日の宣教師の同じ説明、中国からのエール大学の医療報告
  1941年12月20日および30日の検視報告。赤十字の報告、アメリカ大使館付武官による報告。

  さらに中国衛生署の署長金宝善の詳細な報告「中国における日本軍による細菌戦の企て」(1942年3月31日)の同封された、中国外務省からアメリカ大使館経由で送られた報告書もあった。
 この金宝善の報告は「Rocky Mountain Medical Journal」の1942年8月号にも掲載された。(47)
 しかしこれらの報告は確認されないまま長い間軽視されていた。日本軍の細菌戦研究が極秘裡に進められていたため情報を入手することができなかったのと、飛行機からの細菌投下によってペストが流行したということに懐疑的だったため、即ち細菌は投下によって死滅すると考えたためであった。さらに、遠距離にあるアメリカ国内で生物兵器を使用するための輸送手段を日本は持っていないであろうから危険はない、と判断したためである。

3 日本軍への疑惑
 アメリカ軍の細菌戦研究は、1943年、メリーランド州フレデリックにある州軍飛行場のキャンプ・デトリックを細菌戦研究の本拠地として4月20日から活動を開始し、ミシシッピー州のホーン・アイランドとユタ州グラニット・ピークに実験場を、インディアナ州ヴィゴに細菌の製造工場を設置して炭疸菌を中心にボツリヌス菌、ブルセラ菌、ペスト菌、牛疫など20種類以上の細菌を研究、特に細菌の宿主を研究して細菌の応用方法(撒布方法)を調べていた。担当者によれば、

  「人間、動物、植物を発病させられると考えうる生きた病原菌なら、あるいはそれから出る毒素ならば、いかなるものでも研究の対象になった。」(48)

  という。1944年春には、細菌兵器の開発は、炭疸菌を4ポンドの爆弾に充填するところまで進んでいた。
 アメリカ軍の研究者たちが日本の細菌戦研究の可能性についてはっきりと強い関心を持ち始めたのは、1943年になって数多く捕らえられるようになった日本軍捕虜、その中の軍医や衛生兵たちの知識と技術レベルの高さに気づいたからであった。
 日本軍が細菌兵器としてどの病原体を使用するかを知るために、日本軍の捕虜は何のワクチンを何回受けたかについて詳しく尋問されるようになった。
 細菌戦に関する情報の入手を切望した情報部は、細菌兵器の研究対象になっている病原体は、何か、どこで製造され保管されているか、関与している人物は誰か、など捕虜への具体的な質問事項を75項目にわたって用意した。

    「太平洋で戦うすべてのアメリカ兵は、細菌戦関連の医学書類や器材などの補給品を確保することが重要であると認識されたい」
    「日本軍の細菌戦の証拠となるものは、どのようなことでも直ちに諜報本部へ報告せよ」(50)

という通達を出した。
 1944年12月4日になって初めて、捕虜番号230号の口から日本軍が中国の浙江省金華近く、湖南省常徳の近くなどで細菌戦を行っていたことの確認がとれた。自分が知っている時期と場所と使用した細菌を述べた上で、
  「前記の事例のいずれも、細菌は飛行機から撒布された」(51)
と答えている。
 捕虜への調査が数多く続けられて行き、1945年4月6日には、4人の捕虜の尋問から、陸軍の指揮下で研究が行われて「細菌研究所 ハルビン」があることや生物戦にたずさわっている人物として「神林軍医中将、梶塚隆二軍医中将、石井四郎ー関東軍の細菌研究所長」の存在が判明している。
 翌月、陸軍化学戦部隊(CWS)は、湖南省常徳へ調査チームを派遣し、1941年11月4日の日本軍による細菌撒布を調査させた。日本軍の投下物を最初に検査してペスト患者を診察し、死体解剖も行った医師譚学華からチームは詳細に聴き取りを行い、結論としてチームの長ジェームス・R・ギデス少佐から次の報告が出されている。

  「米穀類の投下以前には当地でペストが発生していないこと、PPに形態学上類似している細菌の表示、譚博士のペスト流行予測と米穀類投下7日後のペスト患者〔複数〕の出現、これらはその症例の信憑性を実証  している。これは日本が細菌兵器を使用した、現在まで中国で得られた最強の証拠である。これは事実の症例であるようにおもわれるが、おそ  らく実験的試行(an experimental trial)であったろう。というのは、これらの戦術はその後観察されないし、報告もされていないからである。」

 と述べた上で

    「日本が1941年11月に常徳でペスト菌を含んだ米穀類を使ってペ
  ストを拡大させた可能性は、きわめて大きいと信じられる」(52)

と記している。
 終戦直前の時点1945年7月26日に軍情報部がそれまでに収集した情
報を要約してまとめた報告書では、

  「日本は大規模な攻撃で真先に細菌戦を使用する意図はなかったけれども、発覚する可能性がほとんど、あるいはまったくないほどの小規模な
  使用は行っているかもしれない」(53)

としている。
 前記3点の報告書からすると、終戦直前の時点では、アメリカ軍は日本軍の細菌戦研究は、調査の必要はあるけれども、アメリカにとって「深刻なる脅威ではなかった」(54)とし、中国での細菌使用は事実だが、小規模な使用であって、「実験的試行」(55)という程度のものだと判断しており、生きた人間をつかった実験がくり返されていたこと、アメリカへの細菌攻撃が計画されていたことなどはまだ把握していなかったことが分かる。
 

第2章 終戦時の証拠湮滅

1 国体の護持
  1945年7月26日、米英中三国名で対日降伏要求のポツダム宣言が発表された。
 鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を黙殺、あくまで戦争完遂と発表したが、8月6日広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾が投下され、ソ連が満州に侵攻してくるにおよんで、最高戦争指導会議構成員会議が開かれ、閣議の上、御前会議が開催されて、天皇の裁断によりポツダム宣言の受諾が決定した。
 受諾か否か議論は紛糾したが、いずれの立場も皇室の護持を第一義としていた。
 御前会議の幹事をつとめ議事の経過を記録していた池田純久綜合計画局長は次のように記している。

「総理〔鈴木貫太郎発言〕本日ポツダム宣言を中心とし戦争指導会議開催したるに意見纒まらざるも次の条項を認むることとしては如何との意見有力なりき。
   1.皇室の地位の絶対保持安全
   2.武装解除は内地に帰り復員す
   3.戦争犯罪人は国内にて処理す
   4.保障占領は保留す
   尚外務大臣は左の意見なり。
   客月二六日附け三国共同宣言〔ポツダム宣言〕に挙げられたる条件中には天皇の国法上の地位の変更を包含し居らざることの了解の下に日本政府は之を承諾す。
   外務大臣案賛成  六
   四条項案賛成   三
   中間       五  但し条項を少なくせよとの意見あり。」(56)

  東郷茂徳外相の「唯一のものを提案すべし。それは天皇の護持安泰なり」という意見に対して、米内光政海軍大臣は同意し、阿南惟幾陸軍大臣は「和平をやるとせば四条件は絶対なり」との意見を、梅津美治郎参謀総長は「四条件は最小限の譲歩的要求なり」と意見を述べ、受諾する場合の条件設定に違いはあるが、いずれも皇室、統治権の護持を第一目標に考えていた。
 翌10日、日本政府は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言受諾を通告した。
 これに対し、アメリカのバーンズ国務長官の回答は「降伏の瞬間から天皇および日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属するものとする」としてきた。(57)
 ただ、このバーンズ回答が「日本の究極的政治形態はポツダム宣言にしたがい、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである」と通告してきた通り、占領統治は、日本政府を通じる間接的統治がなされることになった。
 その結果は、旧支配勢力が温存されることになった。
 日本の占領統治の特徴として、従来から言われている通りである。

    「日本のばあい、イタリアのような有力なレジスタンス勢力が存在せず、間接統治という形式からも、旧勢力が存続する条件をのこすことになった。
     このため日本の支配層は、『国体護持』を最大のスローガンにして、天皇制の政治、社会秩序を保持することを最大の課題とした。占領軍が進駐して、しだいに占領政策を実施するようになると、日本政府はなん  とか、『国体護持』を実現しようとして、執拗な抵抗を続けるのである。」 (58)

 ところが、アメリカ軍進駐後まもなく、9月6日にトルーマン米大統領がマッカーサーに送付した「降伏後における米国の初期対日方針」などの戦争犯罪人の処罰に関する指針にしたがって、9月10日以降次々にアメリカ側から戦犯逮捕指令が出されていた。
 9月18日に行われた東久邇稔彦首相の外国記者団との会見では、質問が天皇の戦争責任と捕虜虐待問題に集中した。この時明確に回答できなかったこともあって、政府は戦争犯罪問題の対策を講じ始め(9月21日「外人記者会見後ノ要措置事項」通達)、天皇に責任がないとの説明を各部局に作成させた。
 10月2日には連合国軍総司令部に法務局が設置されて、戦争犯罪の証拠収集、捜査活動に動き出す。
 天皇の戦争責任問題への波及をなんとしてもくいとめたい内閣は翌10月3日に各部局からの回答をまとめて「戦争責任等に関する応答要領(案)」を作成した。
 こうした情勢の中で、国体護持を第一の要諦、最重要の命題とする政府、旧軍上層部にとって、大陸命に基く大陸指によって遂行された七三一部隊の中国への細菌攻撃の事実はもちろんのこと、国際法違反の人体実験による細菌戦研究は絶対隠蔽しなければならない事実のひとつであった。
 作戦の遂行に関しては憲法運用上の慣例に従って大本営、政府の決定した事を天皇は却下されなかったのだという点を含んだ、次のような通則を堅持するようにと、11月5日、内閣は「戦争責任等に関する件」を閣議決定した。

  「戦争責任等に関する件
   第一、一般通則
  左の諸点に準拠し之を堅持すること
  (1) 大東亜戦争は帝国が四囲の情勢に鑑み己むを得ざるに出でたるものと信じ居ること。
  (2) 天皇陛下に於かせられては飽く迄対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること。
  (3) 天皇陛下に於かせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられ居る慣例に従はせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと。
  (4) 日米交渉継続中に攻撃を加ふることを避けんが為日米交渉打ち切りの通告の通達方努力せること。
   (注) 当時帝国に加へられたる軍事的経済的圧迫等の実情に照し我方は自衛権を発動したるものにして開戦に関する海牙条約の規定は阻却せられ得るものなりとの見解なりしこと。
  (5) 宣戦の大詔は主として国民を対象とする対内的のものなること。
  (6) 英国其他に関しては当時米国の英国其他の諸国との関係に鑑み之を分離し取扱うことを得ざりしこと。」(60)

2 政府・軍中央の指示による証拠湮滅
 ポツダム宣言の受諾が決定し、天皇の「玉音放送」のある8月15日、陸軍省では連絡会議が開かれ、そこで阿南惟幾陸軍大臣からの証拠湮滅の指示が出された。
 後にそのことを明かした田村浩俘虜情報局長の記録が残っている。
  1946年3月7日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の国際検察局(IPS)のG・S・ウールワースの尋問に答えて、田村局長は、

  「連合国側に見せてつごうの悪いような軍の文書は全て焼却せよ」(61)

という命令を副官から口答で伝えられ、その命令に従ったと述べている。
 七三一部隊へは、陸軍省軍事課員新妻清一中佐の判断でいち早く、同じ8月15日の午前8時半に証拠湮滅の指示が出された。
 新妻は、日本陸軍の特殊兵器の研究を含む全ての技術研究を統轄する責任者の立場にあった。
 新妻から直接取材した共同通信の太田昌克によれば、新妻は、

  「一四日に終戦を告げられ翌朝から連絡を取った。大臣命令ではなく、私自身の判断でやった」
    「細菌兵器の開発が米国に分かると細菌兵器の使用を禁じたジュネーブ議定書に触れ国際法上まずかった。私の判断でいち早く処理を関係先へ連絡した。」

と証言したという。(62) そして新妻は、

  「あわただしい省内の一室で、国内外の関係部所に順次電話をかけ始めた。
  午前八時半、まず兵器の開発や製造を所管する陸軍兵器行政本部へ。終戦と聞いて真っ先に新妻中佐の脳裏をよぎったのは、秘密戦・謀略戦の研究を進めた陸軍登戸研究所(陸軍第九技術研究所)と、対米戦の秘密  兵器として同研究所で秘密裡に開発が進められた「ふ」号の「処置」を  同行政本部の担当将校に命じた。
  次に連絡したのはソ連軍侵攻ですでに敗走を開始していた関東軍だった。目的は満州で防疫給水を担当した関東軍配下の二つの特殊部隊。疫病駆除や給水という本来業務とは別に、「マルタ」を使って細菌兵器の  実戦開発を進めた七三一部隊と、家畜や農作物への細菌攻撃を画策した一〇〇部隊だった。さらに新妻は兵糧を所管する陸軍糧秣本廠へも連絡  した。処置の対象は「糧秣本廠1号」の秘匿名で呼ばれ、種子島で研究中の特殊兵器だった。そして出先機関に一通りの電話をかけた後、自室を訪れた顔なじみの陸軍省医務局関係者らに電話連絡の概要を伝えたうえ、彼らにも  『処置』の念を押した。」(63)

  そうするうちに正午の「玉音放送」がはじまった。新妻は午前中に連絡した先と時間、担当者を忘れないように「特殊研究処理要綱」の表題をつけてメモにした。

  「特殊研究処理要綱         二〇・八・一五
                                      軍事課
  一、方針
    敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置ス

  二、実施要領
   1、ふ号、及登戸関係ハ兵本草刈中佐ニ要旨ヲ伝達直ニ処置ス(一五日八時三〇分)
   2、関東軍、七三一部隊及一〇〇部隊ノ件関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡処置ス(本川参謀不在)
     3、糧秣本廠1号ハ衣糧課主任者(渡辺大尉)ニ連絡処理セシム。(一五日九時三〇分)
     4、医事関係主任者を招置直ニ要旨ヲ伝達処置、小野寺少佐及小出中佐ニ連絡ス(九、三〇分)
     5、獣医関係、関係主任者を招置、直ニ要旨ヲ伝達ス、出江中佐ニ連絡済(内地は書類ノミ)一〇時

 B5版の便箋の表・裏に鉛筆で記されたこのメモは現在遺族の手元に残されている。
 この証拠湮滅の指示は一軍事課員の判断で伝えられたものだったが、ひとり軍事課員の独断によって指示できることの範囲をこえており、前後の状況、直後に陸相から同様に「連合国側に見せてはつごうの悪い書類の焼却」の指示が出ていることと合わせて考えれば、それは陸軍省の意を体しての指示だったということができるだろう。
 新妻中佐は関東軍に対して連絡をしたのだが、実はその時点で、七三一部隊のほうでは、すでに証拠湮滅が行われており、部隊を破壊して、隊員はこぞって日本内地と朝鮮・江界方面へ撤退を続けているところであった。
 それは大本営作戦参謀の朝枝繁春少佐から石井四郎部隊長へ直接に指令された結果の行動だった。
 8月9日午前4時、市ヶ谷台上の参謀本部作戦課作戦室にいた朝枝中佐は、関東軍司令部との直通電話で、ソ連軍が軍事行動を開始したと知らされた。
 それを聞いて朝枝が苦慮した問題の一つは、七三一部隊のことだったと後に手記に記している。

  「七三一部隊がソ連の手中に陥れば、その実態が世界に暴露され、やがては『天皇の戦犯』の大問題がおこり、皇室の根底にもかかわることとなりかねないと判断したのだった」(64)

 朝枝は、10日に石井部隊長あてに参謀総長電として「今次ソ連の対日参戦にあたって、貴部隊の処置について、朝枝参謀をして支持せしむるにつき、本8月10日正午頃、新京の軍用飛行場において待機せらるべし」との暗号電報を、上司の決済を経て打電したという。
 同じ頃、関東軍の司令部でも管下の七三一部隊の処置について検討がなされており、全ての実験室と細菌培養設備が破壊されることに決していた。
 そのことは当時の関東軍参謀副長松村知勝が、ハバロフスク裁判の法廷で検事に対して証言している。

  「第一ニ、之等部隊ノスベテノ設備ハ秘密ニサレテイテ、之ヲ敵軍ノ手ニ残スコトハ出来ナカッタカラデス。ノミナラズ、之等部隊デ行ワレテイタ業務自體モ亦秘密デアッタ爲、之等ノ業務ガ行ワレタト言ウ事   實ヲ隠蔽スル爲、對策ヲ講ジナケレバナラナカッタノデアリマス。換言スレバ、細菌戦準備ニ關シテ部隊デ行ワレテイタ業務及生キタ人間ヲ使用スル寳験ノ痕跡ヲ湮滅スル事ガ必要ダッタノデス。」(65)

 部隊の解消と朝鮮への引揚げ(七三一部隊ではソ連侵攻に備えて朝鮮・江界に先遣隊が新しく陣地を構築していたところだった)に関する命令は、松村の部下草地大佐によって作成され、山田乙三司令官が署名、部隊あてに送られた。
 一方、大本営の朝枝参謀は、8月10日正午新京第二軍用飛行場の格納庫で石井部隊長に会い、参謀総長の特命として次の指示を出したという。

  ?貴部隊は速やかに全面的に壊し、職員は一刻も早く日本本土に帰国させて一切の証拠物件は、永久にこの地球上より雲散霧消すること。
  ?このためハルピンの○○○師団より工兵一コ中隊と爆薬5トンを貴部隊に配属するようすでに手配済みにつき、貴部隊の諸設備を爆破して下さい。
  ?建物の丸太は、之また、電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰はすべて松花江(スンガリ河)に流しすてること。
  ?貴部隊の細菌学の博士号をもった医官53名は、貴部隊の軍用機で直路日本へ送還すること。
  その他の職員は、婦女子、子供達に至るまで、南満州鉄道で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。このために、大連所在の満鉄本社に対しては関東軍交通課長より指令の打電済みであり、平房店駅には大連直  通の特急(二五〇〇名輸送可能)が待機させられています。(66)

 以上に見られる通り、陸軍省の軍事課、関東軍の司令部、大本営の作戦課、いずれも軍の上層部にあった人間が、ソ連軍が侵攻を開始するとすぐさま念頭にあげたのが七三一部隊の処分であった。当の山田乙三司令官が法廷で供述しているように、「関東軍司令官ハ、コレラ部隊〔七三一部隊と100部隊〕ノ、業務ヲ中止セシメ、部隊ヲ解散セシメル全権ヲ持ツテイマセンデシタ」(67)この権限を持っていないにもかかわらず、山田司令官は七三一部隊に証拠湮滅を指示したのである。新妻清一中佐の動きにしても然り、その権限をこえていた。それほど七三一部隊の活動の隠蔽は最重要事であり、何よりも優先させねばならない急務であったのである。三者の動きがそのことをはっきりと物語っている。
 それらの命令に従って七三一部隊では直ちに証拠湮滅が始まるが、参謀本部でもそうした処置がとられており、日本に戻ってきた朝枝参謀がたまたまそのもようを目撃している。

「16日夕刻立川空港に戻った私は、直路市ヶ谷台上の参本作戦課に帰って来た。夕刻だったが室内は、テンヤワンヤで重要機密書の搬出をやっており、外では、書類焼却の煙がもうもうと空に立上っておった。連合軍司令部にやがて古〔筆者注・占の誤植〕領されたときに備えて一切証拠をいん滅しようとする、配慮からであった。」(68)

3 部隊の破壊と撤退
 軍中央からの命令をうけて七三一部隊では細菌戦研究の証拠湮滅が組織をあげて行われた。
 部隊の中心をなす研究室棟(ロの字形からロ号棟と呼ばれた)や研究設備、実験要具、資料の類をことごとく破壊した。
 当時、部隊内の特設監獄7棟8棟にいた被実験者「丸太」は、吉村班(凍傷研究の班だが、「丸太」の管理もしていた)と特別班(監獄の看守担当)の手によって毒物で殺害され、部隊の現役兵(西山班など)と軍属少年隊によってロ号棟の中庭で焼却、骨と灰はカマスに詰めて破壊した監獄の鉄扉とともにトラックで運ばれ、朝枝参謀の指示した通りにハルビン市中を流れる松花江に沈められた。
 野外の実験場として様々な細菌兵器の人体実験が行われた安達演習場の施設と要具も、跡形もないまでに破壊された。
 1940年12月以来ソ満国境の孫呉・林口・牡丹江・海拉爾と大連に配置されていた部隊支部には第二部「実験研究部」の部長碇常重大佐が爆撃機を使って回り、菌株や重要書類を部隊本部へ急送するよう示達し、全施設の破壊を命じた。
 ロ号棟のほか70以上あった部隊の建物・施設は工兵隊の手でことごとく破壊され、わずかに破壊時の最後まで指揮本部になっていた第一棟、部隊の業務について発覚のおそれのなかった隊員宿舎、航空班と田中班の建物外郭、冷凍実験室と小動物飼育場のコンクリート部分の形骸などを残すのみとなった。
 405人いたという実験用「丸太」が全員処分されたことを報告する場に立ち会っていた溝渕俊美伍長の見聞、死体の運搬、焼却にあたった大竹康ニの体験、松花江へ投棄するトラックを運転した鈴木進の告白は相互に齟齬もなく、筆者らが聞き取っているほか、その告白をまとめて実名のもとに出版している。(69)
部隊支部の大連衛生研究所総務部長だった目黒の言によれば、石井隊長は8月15日夕方、部隊破壊の跡を撮影したフィルムを飛行機で大連衛生研究所に持ってきて現像し、内地の陸軍省にそれを見せに行ったという。石井が陸軍中枢の命令に従って隠蔽工作に動いていたことは改めて言うまでもない。
 ただし、主要幹部らの研究データに関する重要書類は実は焼却されずにこっそり持ち出されて日本国内に運びこまれ、金沢市に隠匿された後、千葉県の石井四郎の郷里、元第四部部長の川島清の家に持ち込まれて隠されていた。 そのことはこの資料の輸送にあたった運輸班の運転手越定男が著書『日の丸は赤い泪に』の中で詳細に語っている。(70)
 部隊第1部血清班の責任者だった秋元寿恵夫は終戦後まもなくにこの破壊時の体験を記し(71)、動物班員の郡司陽子(筆名)は撤退時の様子を詳細にその著「証言七三一石井部隊」に述べている。(72)
 厚生省の発表した前出「関東軍防疫給水部略歴」と旧部隊員たちの語るところによれば、撤退時に3559名いた部隊員たち第一陣は新京付近を通過中に停戦を知り、そのまま南下、他の隊員も釜山から8月26日より9月5日にわたって仙崎、萩、米子、門司などにそれぞれ上陸して復員した。

4 隊員に対する箝口令
 秘密保持を徹底しようとする石井隊長は、撤退に際し、いざという時のために隊員たちに自決用の青酸カリを持たせた。
 また「業務感染」(隊員の執務中に起きた感染事故のことをこう呼んだ)のために隔離入院していた保菌患者の隊員約40名を連れて帰れぬと判断、青酸カリの錠剤で殺害して、隠蔽を図った。(73)
 撤退中に新京近くで終戦を知った石井隊長は、復員後、内地での戦犯事実の発覚を恐れ、新京の駅と釜山港で隊員に対して、軍歴と業務内容、隊員相互に連結をとらぬこと、公職につかないことを厳命した。(74)
 七三一部隊の隊員と家族の復員は、軍事機密として扱われている。陸軍省軍事課が石井隊長にあてた通達が、防衛庁防衛研究所に残っている。

 「軍事機密
    一部部隊復員ニ関スル件
  陸機密電八八號(昭和二十年八月二十八日)
  関東軍司令官及支那派遣軍総司令官ハ防疫給水及化學部関係ノ部隊ノ一部若クハ全部ヲ 成ルヘク速ニ復員スルモノトス
  前項復員貫施ノ細部ハ陸機密電第八六號ニ據ル「ノ外関東軍防疫給水部本部ノ復員ニ方リテハ陸機密第三六九號帝國陸軍復員要領細則ヲ準用スルモノトス但シ同部ノ現役将校中部長以下最小限ノ将校ハ別ニ辭令ヲ用  フルコトナク金澤師管區司令部附ニ命課セラレタルモノトシ其ノ他ノ現役将校ハ復員完結ノ日ヲ以テ待命翌日豫備役仰付ラレタルモノトシ細則  第七條第六號ニ示ス轉属ハ之ヲ行ハサルモノトス
   註「本件ハ石井中将ニ傳達濟」(75)

 最少限の将校を金沢師団管区の司令部附にしたのは、再び部隊の召集をかける時は金沢に本部を置くことが想定されていたためであった。その他のものを予備役としてほかへ転属させないように措置したのは、隊員の分散を避け、秘密の漏洩を防ぐためであったと考えられる。
 隊員たちはそれぞれの上陸地から方面ごとに梯団を組んで帰省して行ったが、その後、全国を地方ごとにブロックに分け、そのブロックにおかれた連絡員がしばしばうけもち隊員のところを回って、隊長の厳命厳守を確認し、必要に応じては生活費を名目に金銭を与えて口封じをしていた。
その情勢を見て、秘密の暴露を脅迫の種にして石井四郎に金銭の無心をした隊員もおり、その石井宛の書簡がアメリカ国立公文書館に保管されている。(76)
 この隠蔽工作はその後も続き、GHQから各地の隊員に出頭命令が出て取り調べがされるようになってからは、戦犯訴追を恐れて下級隊員たちもいっそう口をつぐむようになった。
東京裁判が終わってからも、一九四八年に帝銀事件が発生、七三一部隊員への容疑が浮かんで捜査が進んだこともあって旧隊員たちは部隊のことについては一切緘黙し、家族にすらこの部隊にいたことさえも明かさないという隊員がほとんどだった。
 
 

第3章 終戦後の隠蔽

1 サンダースの調査
  アメリカ軍は、終戦と同時に科学調査団の一員としてキャンプ・デトリックの細菌戦研究の第一人者であるマレー・サンダース中佐を日本に派遣して調査にのり出した。
 サンダースのアシスタントとして内藤良一軍医中佐があてられた。内藤が軍医学校の教官としてロックフェラー研究所に黄熱病の菌株を手に入れに行った人物で、中国への細菌戦にも関わった、あるいは南方軍防疫給水部の細菌戦の準備に携わった人間だということをサンダースは知らなかった。細菌学者で英語に堪能な人物としてさし向けられたとのみ受けとめていた。
 調査は、宮川米次東大伝染病研究所長を皮切りに、細菌戦に関わりあると見られる出月三郎軍医学校防疫研究室室長、井上隆朝細菌学教室室長などから、軍上層部にまで及んだが、はかばかしい成果は得られなかった。
 出月・井上にしても「陸軍内部における流行病の予防」研究の内容にしかふれず、研究者についても軍医学校の研究員のリストくらいしか明かさなかった。
 サンダースが「これは生物戦についての最初の会談だったが、まったく不満足なものだった。日本の軍医の言っていることが本当なら、この側面の防御はまったく稚拙で粗っぽいものである」(77)としか評価できないほど内容のうすいもので、実際の情報は隠されたままだった。
 細菌戦の研究は、あくまで防禦面での研究しかしていなかったと言い張っていた。

  「問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていたか。
  答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面についてなにも研究していなかった。
  問 攻撃された場合、最も使われそうだと考えていたのはどんな生物兵器用病原体だったか。
  答 腸チフス菌および腸管系細菌である。
      (略)
  問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解すべきなのか。
  答 攻撃に関する研究はなにもしていなかった。敵の攻撃を避ける研究だけをやっていた。これらの研究は軍医学校でおこなっていた。
      (略)
  問 我われは日本が生物戦用爆弾を保有しているというレポートをそれぞれ独立の情報源から得ている。この爆弾の特徴については全レポートが一致している。
  答 これは戦略的(?)事実である。これは我われの責任範囲外のことであり、当然のことながらそれについてはなにも知らない。
  問 これについて知っているのはだれだ。
  答 参謀本部の人間である。
  問 参謀本部のだれだ。
  答 我われは知らない。
  問 攻撃面の知識なしに、どうやって実効の上がる防御の研究ができるのか。
  答 一般的な措置はとれると信じていた。
  問 防御についての研究の記録類をみせてもらいたい。
  答 建物のほとんどが焼失し、それとともに生物兵器について書かれていた医学研究の資料も失われた。」(78)

 これらは、まえに第1部第3章・第4章で述べた細菌戦攻撃の研究、安達演習場での実験、中国への実施という事実からいって、明らかに虚偽である。
 焼失したという研究資料についても実は新潟や山形の疎開地に避難させて隠匿していた。
 11月に入ってから軍の上層部を次々に調べていったが、全ての対象が虚偽を申し立てた。そこでも共通しているのが、攻撃用の研究は行われていなかったという主張である。

  ・若松只一元陸軍省次官ー「私は生物戦に注目するのでなく防疫を強調した」(79)
    ・河辺虎四郎元参謀次長ー「私が知るかぎり日本陸軍は攻撃面の研究はけっしてやっていなかった」(80)
    ・梅津美治郎元参謀総長ー「日本軍は攻撃面の研究をしようという意志はなかったと明言できる。そうした研究の唯一の目的は有効な対抗措置をとることであったと明言できる」(81)
  かつて関東軍司令官だった時に、寧波や衢州の細菌攻撃に数々の指令を出した当の梅津までがこう述べているのである。

  「〔梅津〕細菌の使用は国際法で禁じられている。それゆえ私は、こうした戦闘方法はどんな場合でもとるべきではないと信じている。」

  下村定陸軍大臣(細菌戦を含む浙〓作戦を行った第13軍の司令官だった)は、陸軍省の関知しないところでの研究だったとまで言っている。

  「〔下村〕満州で石井部隊が陸軍省の知らないところで、独自に対生物戦防御の問題にとりくんでいた、と知らされた。
           (略)
  問 〔サンダース〕防疫給水部のような大きな組織が一〇年ものあいだ、陸軍省が知らないままにこの問題を研究できたというのは驚きであるといわざるをえない。
  答 〔下村〕まったく同感である。私自身驚いている。そのため私は防疫給水部を調査したいのである。」(82)

 これまで述べてきた各資料から見て、これらの答えが虚偽であることは明白である。しかも事実を隠蔽するために、事前に答弁内容の統一を図ったこと、つまり口裏合せをしたことをうかがわせるものである。それぞれのおかれていた立場からすると、これは国をあげての隠蔽工作だといわざるをえない行為である。
 またサンダースを補佐するとして動いていた内藤良一も、背後で指示をうけて情報をコントロールしていたことを疑わせるふしがある。後にイギリスの国営放送BBCの番組制作者のインタビューにサンダースはこう語っている。

  「問 事実上、あなた〔サンダース〕に手渡す情報を彼〔内藤〕がコントロールしていましたか?
  答 そうです。後で分かった事なんです。明らかに彼は謙遜家で、内気で用心深く、毎晩家に帰り次の朝早く仕事に出てきました。興味深いことは、後から分かった事ですが、彼は家に帰っていたのではなく、日本の数々の司令部(headquarters)へと駆け回っていたので    す。
  問  あなたに次の日に提出する情報を整理していたのですね。
  答  そうです。そして私たちの任務(mission)を報告していたのです。
  問 言い方は悪いかもしれませんが、彼はあなたが情報を知り過ぎないように働いていた訳ですね。
  答 全くそのとおり」(83)

 サンダースは調査があまりはかどらないので内藤を脅したという。「私は彼〔内藤〕に自分の顔がつぶれただけでなく、それが原因で本国に送還されることになったと言いました。こうなっては狐のだまし合いです。私は帰国するつもりは全くありませんでした。しかし彼を怖がらせたことは事実で、彼は『24時間何もしないでくれ』と言ったのです。私の代わりにもっと厳しい人間がやって来ると彼に言った。」(84)すると、内藤は翌朝手書きの12枚のレポートを提出してきた。それには、天皇から枝分かれして中国各地の防疫給水部に到る命令系統、組織図が記され、細菌兵器研究の目的と結果が総括的に述べられていた。
 しかし、人体実験のことはあくまで隠蔽されていた。このレポートの最後の頁にサンダースによる書き込みと署名がある。

  「内藤博士に、かつて捕虜を実験用の〓生きた材料〓として使ったことがあるかどうか訊ねたが、彼は〓誓って〓そうしたことはないと言った」
  (85)

  このレポートが調査の突破口になると判断したサンダースは、マッカーサーに見せて、次のように提案した。サンダースにとっては戦争犯罪の追究よりも細菌戦の情報入手のほうが重要事だったのだろう。

   「どうやって科学的な詳細を手にいれればいいか。」「生物戦に関係した者が誰も戦争犯罪者として裁かれることはないと、内藤に約束するこ  とです。」
    「マッカ?サーは、『この件に関する科学的側面を担当しているのは君だ。拷問する訳にもいかないだろうし、そうしないと情報すべてを入手できないと思うなら、マッカーサーの意思だと言って内藤に約束するこ  とだ』と言った。」(86)

  サンダースは免責を内藤に告げ、2日後まず内藤本人から尋問を始めた。次に731部隊に詳しい陸軍省の新妻清一中佐、細菌爆弾の設計と制作にあたっていた金子順一少佐、石井四郎の右腕ともいえた増田知貞大佐、前述の通り細菌戦攻撃を計画し、方法論まで発表していた増田へと調査を進めていった。
 しかし、免責の条件を持ち出されても内藤たちは、警戒をゆるめず、隠蔽した事実を明かそうとはしなかった。この当時七三一部隊の予算についての答弁に苦慮していた新妻清一のところへ、増田知貞から届いた書簡が残っている。サンダースが調査の結果をレポートにまとめ、補足的な尋問をしている時期に当たるが、その文面からは増田たちが隠蔽工作にいかに腐心しているかがよく分かる。

「原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企画せし事無之故、予算に於いても攻撃用として予算を組みし事ハ無之候筈に御座候はずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令達研究費予算内の極一少部分に過ぎず と云ふ事に可相候(小生等の説明を基礎として論ず)実際問題として731にて攻撃として使用仕候予算の大部分はPx関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方の攻撃意図が暴露致候事と可相成候」(87)

 サンダースの調査の結果は、細菌爆弾の種類、構造を明らかにするところまではたどりついたが、それを使って人体罹患率まで実験・研究していたという、隠蔽された事実を明らかにすることはできなかった。

2.トンプソンの調査
  サンダースは調査の第一段階が終わったところでいったんアメリカに帰国した。生物兵器と化学兵器の高額な支出をめぐって起きていた官僚間の紛争を調整しに戻ったのだが、結核を患ってそのまま日本に来ることができなくなった。
 代わってキャンプ・デトリックのアーヴォ・T・トンプソン中佐が日本に派遣されることになった。
 キャンプ・デトリックでサンダーズのレポートを検討した結果、今度は、石井と、1942年8月から45年3月まで2代目の731部隊長をつとめた北野政次の2人を尋問し、平房の部隊の活動を明らかにしようということになった。
  サンダースは自分がもっていた疑いをトンプソンに引きついだ。

  「私はトミー〔トンプソン〕に炭疸菌爆弾と人体実験について話した時のことをよく覚えている。私は彼に宇治型爆弾と人体実験について調べるように指示した」(88)

 トンプソンの日本での調査は、1946年1月11日に始まったが、その2日前にGHQ/SCAPは、「石井軍医中将東京ニ連行方命令」という覚書を日本政府に出し、1月16日に到着させられない場合は、石井の所在と出頭できない理由、出頭させられる日などの詳細を報告するよう要求した。
 しかし、政府はその16日になって、「終戦連絡中央事務局は遅滞なく、〔石井がいると思われる〕金沢地方世話部に電報による問い合わせをしたが、現在に至るまで回答が得られていない」(89)と返事をしてきた。次いで翌日、「東京牛込区若松町七七の石井四郎将軍の自宅から電話連絡があり、彼が上記の自宅に戻っていること、および彼が現在、胆のう炎を患っていることを知らせてきた」(90)と伝えてきた。
 トンプソンはこの17日になって初めて石井の尋問ができている。 トンプソンはその後5週間にわたって断続的に技術情報部員のD・S・エリス中将などの協力のもとに、石井への尋問を行った。
 石井は尋問に対して事実を隠した。捕虜を使った実験や攻撃用の大規模な細菌兵器の開発に関わったことを否認し、平房での研究は小規模なもので、小動物だけが使われたと主張した。
  この調査が行われている頃、満州はソ連軍によって閉鎖されており、サンダースと同じくトンプソンも現地に行って調査することはできなかった。
 一方北野は終戦時に第13軍軍医部長として上海で捕虜になり刑務所に拘留されていたが、米軍機で1946年1月9日帰国した。
 1月11日、まずS・E・ホワイトサイズとA・H・シュウィツテンバーグ両大佐によって北野は取り調べられた。
 北野は、細菌兵器を武器として使用する用意はなかったと述べ、平房での研究では「猿、鼠、リスなどの小動物」だけが使用され、「そうした実験に人間が使われたことはない」(91)と答え、トンプソンの尋問に対しても、「細菌戦は、ジュネーブ条約で禁止されている事項であり、認められた行為ではなかった」と答えて、細菌戦研究の実際については終始隠し続けたたままであった。
 北野には実は陰で隠蔽工作がされていた。どのように事実を曲げて答えるか、指示が出されていたのである。前出の新妻清一の家にその指示書の現物が残存している。陸軍の便箋1枚に手書きで次のように記されている。

  「  北野中将へ連絡事項
  一、○及「保作」ハ絶対ニ出サズ
  二、関防給ハ石井隊長以下尚在満シアリ
  三、増田大佐ハ万難ヲ排シテ単独帰還シ「マ」司令部ヘ出頭セリ
  四、関防給ハ総務部長兼第四部長大田、第一部長菊池、第二部長碇、第三部長兼資材部長増田大佐トナリ其他ハ転出又ハ解隊シアリ
  五、第一部研究、第二部防疫実施並ニ指導 第三部給水実施並指導及資材修理 第四部製造、資材部資材保管補給ヲ担任シアリ
  六、七、八棟ー中央倉庫、田中班ーP研究、八木沢班ー自営農場ニ使用シアリ
  七、「保研」ニ関シテハ石井隊長、増田大佐以外ハ総合的ニ知レルモノナシ
    研究ハ細分シテ常ニ人ヲ代ヘテ之ニ当タラシメアルヲ以テ他ノ者ハ部分的ニ之ヲ知レルノミナリ  而モ其ノ目的ハ知得シアラザルナラ    ン
  八、北野中将在職中「保研」ハ前任者ノ実験ヲ若干追試セル外 積極的ニ研究セズ中止ノ状態ナリ
  九、「保研」ハ上司ノ指示ニアラズ 防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノナリ
  一〇、北野中将ハ在職中専ラ流行性出血熱ノ研究ニ没頭セリ(92)

  「○」は実験用人間「丸太」の符牒、「保」は細菌戦のこと、「作」は作戦、「保研」は細菌戦の研究を意味する。
 「丸太」を収容していた監獄「七、八棟」は中央倉庫に、ペストノミの研究をしていた田中班はペストの研究をしていたことに、植物破壊菌を研究していた八木沢班の菜園は自営農場ということにおき換えて、言い抜けるように指示されている。
 前に述べたように、部隊員はすでに復員しており、上記の二は明らかに嘘であるし、三の増田の「単独帰還」も事実ではなく、部隊の撤退時に行動をともにしているのは多くの隊員が目撃している。
 五の「第二部防疫給水実施並ニ指導」についても、安達実験場の管理、実験の実施はこの第二部が行っていたことからしてこれも虚偽である。
 八については、北野の在職中の1943年と44年に安達の実験場で炭疸菌とペスト菌の人体実験が行われていることは、ハバロフスク裁判で柄沢十三夫被告と古都良雄証人が述べている。
 前述の井本熊男の日誌における記述を勘案すれば、九も明らかに虚偽である。
 新妻より直接取材した共同通信の太田昌克記者によれば、この文書は80部作成されたと新妻が逝去する直前に語ったという。(93) もしそれが事実だとすると、関係者に口裏合わせのために配布された可能性も考えられる。
 こうした尋問の内容は、新妻清一がやっていたように記録にとって、政府の関係者に報告して指示をあおいでいたと考えられるふしもある。
  石井四郎の尋問でその役割をはたしていたのは、長女の春海であった。
 春海がタイプした尋問録を届けて指示をうけた先は、かつてアメリカとオーストラリアへの細菌攻撃を画策した(大塚文郎陸軍省医事課の備忘録による)服部卓四郎元参謀本部作戦課長である。服部は当時、1945年12月1日に陸軍省が改編された第一復員省で史実調査部長の職にあった。1987年4月27日、ジャーナリスト西里扶甬子のインタビューに答えて、春海は要旨次のように述べている。(94)

    ・石井隊長と一番最初に接触したGHQのアメリカ人はトンプソンではないかと思うが、服部参謀が主になってお膳立てした
   通訳は服部が用意してくれた陸軍省のマキがやった
    ・尋問内容をタイプにしたものを元の陸軍省の建物に自分が届けた 連絡の仕事は全て自分がやったが服部の命令だった タイプをおぼえたのも服部の指示でだった

 これらを見ると、トンプソンの調査においても政府が関与して七三一部隊の関係者が相互に連絡をとり合いながら、事実を隠蔽していたことが分かる。
 結局、トンプソンが最終的にまとめ上げたレポートには、サンダースの場合と同様に、七三一部隊の人体実験についてひとこともふれられていない。が、隠蔽工作がされているかもしれないことについては、

  「日本の生物戦研究・準備について、それぞれ別個の情報源から得られた情報は見事に首尾一貫しており、情報提供者は尋問で明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思える」(95)

と疑いをもっていた。
 
 

第4章 隠蔽事実の発覚と戦犯免責

1 ソ連の尋問要求
 731部隊の人体実験の事実発覚の端緒は、ソ連からの尋問要求だった。
 1947年1月7日、国際検察局(IPS)を通して極東国際軍事裁判所のソ連代表部がGHQのG2参謀副長あてに、細菌戦部隊の将校3名の尋問を求めてきた。ソ連の次席検察官A・ヴァシリエフ少将名の文書も届いた。
 1月15日米ソ間でもたれた会談の席上、ソ連のレオン・N・スミルノフ大佐が尋問要求の理由として、これまでにソ連側が、捕虜にしていた731部隊第4部部長の川島清と彼の補佐役柄沢十三夫から得た情報を説明した。
 731部隊の人体実験、ノミや細菌の生産量、ノミの生産方法、監房に入れられた人間の感染実験、安達での実験、平房の証拠湮滅などの犯罪容疑をあげ、これに関与した石井、菊池齊大佐(第一部部長)、大田澄大佐(総務部長)3人の尋問を要求するというのである。
 1月24日、内藤良一が再度、法務局の取り調べをうけた。
 内藤は今度は微妙な言い回しで人体実験のことにふれ、石井は有罪だと認めた。調査官は次のように記した。

  「この供述は、石井が細菌戦研究で捕虜を使って人体実験をしたという  数多くの告発に追加されるものである。内藤の供述は、匿名ではない情  報源から得た最初の告発であると記すことができる。」(96)

 2月10日、マッカーサーは本国の参謀本部へ尋問を許可するかどうかの決定を求めた。
  国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会が検討した結果は、尋問を許可してもソ連は大した情報を得ることはないであろう、こちらの監視下で尋問させれば、ソ連の質問のやり方でソ連の細菌戦の知識について手がかりが得られるかもしれない、事前に3人に予備尋問をして、ソ連に公開すべきではない情報は口外しないように、このアメリカの調査についてはふれないように3人に指示した上で、ソ連に対する友好国的ジェスチャーとして許可を与えるべきだ、という結論だった。
 統合参謀本部がその条件づきの許可という回答をマッカーサーに送ったのが3月21日。ソ連は回答が遅いのでほとんど毎日執拗にアメリカに問い合わせをしていた。
 その間「ソ連は石井の確保を何度か試みているが、我々がかくまってきた」と、チャールズ・A・ウィロビーG2部長が参謀長に報告している通り、731細菌戦部隊をめぐる米ソの攻防戦という状況が生まれてきた。
  だめ押しをするかのようにソ連側は、川島清の供述調書2通、柄沢十三夫の供述調書をアメリカ側に渡してきた。
 ここに述べられている、部隊の組織、研究内容、実験の内容、中国への細菌攻撃の事実などは、後のハバロフスク裁判で二人が供述する内容と全く同じものであった。

2 フェルの調査
 内藤良一に続いて、3月17日、増田知貞も法務局の調査官ニール・R・スミスの取り調べをうけた。東京裁判の戦犯調査の動きも激しくなっていたが、こちらも事実の把握は遅れていた。
 増田は重要な事実を隠し続ける。

「問 「東郷ハジメ」について聞いたことはあるか
答 東郷部隊につては聞いたことがある
問 東郷部隊というのは何か
答 知らない
問 石井が秘密の研究所を動かして、そこで細菌戦の実験を行っていたというのはほんとうか
答 はい
問 研究所はどこにあったのか
答 満州の平房だ
問 どんな種類の研究が行われたのか
答 細菌戦の防禦だ」(97)

 アメリカ本国からは、3人の予備尋問にあたる専門家として化学戦部隊の(CWS)のノーバート・H・フェル博士が派遣され、4月16日に日本に到着した。
 この頃、化学戦部隊の研究者たちはかなりのところまで研究をすすめていたが3つの点で行き詰まっていた。
 1.病原体の人体罹患率を理論化するのに動物実験に頼るしかなく、完璧  なデータではなかった
 2.細菌戦で病原体をどのように撒布したらいいかの方法が推測の域を出 なかった
  3.実際の戦場での細菌戦の行使ができていない(98)

 こういったところから化学戦部隊にとっては、もし日本軍の人体実験や中国への攻撃がソ連の言うように事実ならば、その情報をぜひとも入手したいという意向があった。
 フェルがいざ増田知貞やソ連の要求する3人に尋問するときには、亀井貫一郎という人物が仲介役をした。サンダースの調査の時から内藤良一と共に通訳として調整にあたっていた元衆議院議員で、戦時中は聖戦技術協会の理事長として秘密兵器の開発を支援していた人物である。亀井をフェルにさし向けたのは日本政府である。そのことを当時亀井は、こう書いている。

  「進駐軍側に於ける日本陸海軍の新兵器及秘密兵器の研究生産、我国の陸海軍の繊維資料並に食料の保有量並に陸海軍機構の調査に当り、米国側と有末機関及鎌田機関を通ずる日本陸海軍省部との間の当初の日本側より推薦せられたる最高通訳として、後に米国側の日本人通訳筆頭として右調査業務及折衝業務に従う」(99)

 フェルが増田知貞を尋問するにあたっては、まず、亀井が増田に会って、その結果をフェルに伝えた。

「中国中央部で中国軍に対して細菌戦の試験が行われたことはまちがいない」

「サンダーズ中佐とトンプソン中佐が行った尋問は、降伏後あまりにも間がなかった。しかし、実験の結果を実際に知っている者が、あなた方の尋問が純粋に科学的見地からのものであることを〔戦犯の追及のためでないことを〕確信できれば、あなた方はより多くの情報を得ることができると思う」

「増田は、人体実験が行われたことを私に認めた。犠牲になったのは死刑の宣告を受けた満州人の犯罪者だ。この人体実験の遂行に関わった要員は、けっして情報を漏らさないと誓っている」(100)

 そして、1週間にわたって亀井とフェルのかけ引きが続いた後、4月29日、増田は取り調べを受けた。その最後にこう言った、

  「あなたに協力して貸しを作りたいが我々には友人たちに対して責任が  ある」
「もしあなたが戦犯免責を保証する文書を発行してくれるなら、我々はおそらく全ての情報を揃えることができるであろう。隊長は言うまでもなく、部下も詳細を知っている」

ときり出した。そして翌日には、

  「サンダース氏は嘘をつかれたと言うよりは、真実を伝えられていな
  かったのである。現在の世界情勢を鑑みると、米国およびソ連が世界を  制覇するであろう。私個人としては米国に味方をしたいと思い、協力を  したいと思う。」

と言っている。
 石井四郎の尋問は5月8日から2日間にわたり、病気を理由に東京の石井の自宅で行われた。
 フェルは、石井に尋問は、「技術的、科学的情報のためであり、戦犯のためではない」と前置きして始めた。
 石井はそれでも嘘と真実を複雑に交えて語り、アメリカのほしがる情報をほのめかしながら、増田と同じように、戦犯免責を要求した。

「私は平房の全責任を負っている。そこで起こったことで部下や上官が問題に巻き込まれるのを見たくはない。もしあなた方が私自身と上官、部下のために文書で免責をくれるなら、あらゆる情報をあなた方に提供できる。あなた方が知っているという増田、金子、内藤は多くの情報を提供できるだろう。私はまた、アメリカに細菌戦の専門家として雇われたい。ロシアとの戦争の準備において、私の20年の研究と実験で得たものを提供できる。私は細菌兵器の使用と防衛の戦略的問題に多大な考察をしてきた。私は様々な地方や寒冷な気候で使用されるべき最適の病原菌の研究をしてきた。戦略的使用の短い考察を含む細菌戦の本を書ける。」(101)

  2日間の尋問を終えて、フェルは、通訳の吉橋太郎を通じて、近々ロシア人による尋問をうけるが、人体実験のこと、蚤の大量生産や中国軍に対する実地試験のこと、さらにアメリカによるこうした指示のことは明かさないように、と伝えた。
 こうして今度は、アメリカ軍による隠蔽工作が始まったのである。
 報告をうけたマッカーサーは、本国の陸軍省あてに現状を伝えた上で、情報を内部に隠蔽し、戦犯免責を与えてはどうかと勧告した。

「発信ー極東軍最高司令官、東京、日本
あて先ー陸軍省
                    アルデン・ウェット少将 番号ーC五二四二三             一九四七年五月六日
  統合参謀本部〔JCS〕電報W九四四四六、SWNCC三五一/一、および軍事航空便による一九四七年四月二九日および五月三日付のフェル博士の手紙について。
 第一部 当地の日本人から得られた言明はソ連の捕虜、川島および柄沢の尋問調書の言明を確認している。
 第二部 人体実験は三人の日本人が知っており、それについて述べた。また石井はそれを暗黙裡に認めた。中国に対する実戦試験は少なくとも三回行われた。信頼できる情報源である増田についての調査報告では、一九四五年八月に平房で乾燥した炭疸菌四〇〇キログラム〔後に40キロと訂正〕を破棄したという。植物に対する生物戦の研究は行われていた。石井がしぶしぶ述べているところからすると、上官(多分参謀本部員)は生物戦の計画を知っており、かつ承認していた。石井は文書によって戦犯免責が彼自身、上官および部下に与えられるなら、計画を詳しく述べることができると言っている。石井は理論的に高い水準の広い範囲にわたる知識を持っていると主張している。その中には極東という地理的条件に最適な生物兵器用病原体についてのいくつかの研究にもとずく、生物戦の防御および攻撃の両面で戦略的および戦術的使用法があるし、またさらには寒冷地での生物戦の方法があるという。
 第三部A これまでに得られた言明は、説得、日本人のソ連に対する恐怖心の利用、それにアメリカに協力したいという日本人の希望によるものである。人体実験の結果について、および穀物を全滅させるための研究についての生物戦上重要な技術情報の大部分を含むデータの多くは、こうしたやり方で、「戦犯」裁判とは関係ないと考えた下級隊員から入手可能である。
    B 石井のいくつかの言明も含め、これ以上のデータを入手するには、当該の日本人に情報は情報チャンネル内に留め置かれ、「戦犯」の証拠とはしないと知らせる必要があるだろう。
    C 石井や陸軍上層部の計画や理論も含めた全容は石井や彼の協力者に文書による免責を与えれば入手可能であろう。また石井は彼のかつての部下の完全な協力をとりつけるうえで役に立つ。
 第四部 前記の影響力のある人はだれも、貴下の電報W九四四四六の条件下で短時間行われたソ連との合同尋問にはでていない。
 第五部 前記第三部Bの方法の採用は極東軍最高司令官の勧めによる。早急な返事を求む。
                 承認  C・S・マイヤーズ                                            大佐、参謀本部                                             Gー?、高級将校
             附属 覚書」(102)
 


 第5章 取引の成立

1 アメリカによる隠蔽
 東京裁判の捜査段階で、細菌戦と毒ガス戦については、国際検察局で、日中戦争の時期を担当する作業グループの責任者モロー大佐が追及しておりG2に対して石井四郎の尋問を要求したがG2は拒否していた。モローは3月中旬以来中国での現地捜査の成果などをまとめてキーナン検事にレポートも提出したが、キーナンのとり上げるところとはならなかった。なぜキーナンが取り上げなかったか、マッカーサーの指示によるかどうかを判断できる記録は今のところ見つかっていないが、戦犯の隠蔽を勧告するマッカーサーが認めるはずもないと考えられる。
 戦犯免責の結論が出るまでに長い時間がかかった。
 しかし、本国で協議が続く間に、フェルの手元には続々と成果が集まっていた。
 6月20日に化学戦部隊長にあてた、いわゆるフェル・レポートに記されている通り、「A 細菌戦の重要人物19人が集まって書いた60ページの英文レポート」(未発見)のほか、中国に対して行った12回の攻撃試験の要約や地図など、8種にのぼる細菌戦関連のレポートや文書を獲得、8月までにはさらに3つのレポートや顕微鏡写真が入手できる予定になっていた。
 7月に入って本国の結論がほぼかたまった。

「SFE 182/2                    E・F・リオンズ,Jr ./71436/mds
         C・F・ヒューバート

       ソ連検察官による何人かの日本人に対する尋問

  本書類の目的
 1.SWNCC351/2/Dにある推薦案、日本軍のBW〔細菌戦〕情報は米軍情報チャンネルに留め置かれること、およびこれらの書類は『戦犯』証拠として使用しない、との事項を実行するか否かの決断について。
 2.SWNCC351/2/D CINCFEに、日本から入手した情報には日本のBW  計画で人体実験も含まれていたことを明記している。このBW計画の  権威石井将軍は、彼と上官また部下の『戦犯』免責を書面において保証  するなら、プログラムの詳細を説明すると申し出た。彼は防禦的、侵略  的使用を目的とする大規模な研究に基づいた高度のBWの情報知識を  所有していると言う。
 3.CINCFEは、日本側に情報は情報チャンネル内に留め置かれ、戦犯証拠として使用しないことを告知すれば、このような情報および付加情報は石井から入手できると見ている。加えてCINCFEは、石井が彼の元関係者の全面的協力を確保するとも言っていることを明記している。
  討議
 4.日本軍のBW部隊員はアメリカの機関に,書物、レポートやBW実験の対象となった人間や動物の解剖から採集した細胞組織のスライドという形で協力している。石井は、彼の20年に及ぶBW研究の全行程を論文にまとめている。
 5.日本軍のBW部隊は戦犯をおかしたであろう証拠があるが、東京の国際検察局はこれを立証するには広範囲の捜査が必要であると表明している。また現在進行中の東京裁判において、これは現在ニュールンベルグ裁判で訴追されている罪の内容と類似のものであるため、今後ソ連から日本軍がおこなった戦争犯罪の証拠を取り上げられる可能性もある。
 6.日本軍からすでに入手しているBWの情報およびこれから入手すると思われる情報は、科学兵器部関係そして情報部関係においてわが国の安全保障に致命的な重要性を持つ。
 7.日本軍のBW部隊は、生物兵器が科学的にコントロールされた環境内で人体に与える影響データの唯一の情報源である。加えてこの部隊から、動物や植物に対するBW実験の貴重なデータも入手できるとみている。またこれらの情報の任意的分配は、これ以外の分野での研究情報も、今後入手の可能性があることも重要である。
 8.日本軍のBW情報はわが国の安全保障に致命的重要な役割を果たすため、実行委員会と国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会は、日本側に対して、BWに関してこの部隊が提供した情報全てを政府の情報チャンネル内に留められることを、表明することに合意した。この決断は下記の事項を考慮し、その上で決定された。
  (a) わが政府はBWについて日本軍BW部隊の人員を戦犯者として訴追しない。
  (b) 現在係争中の東京裁判において日本軍BW活動を戦犯と結びつけ、成立させる目的で、今後ソ連側が独断的に捜査をしその証拠を暴露す る可能性がある。
  (c) また、ソ連の暴露した証拠の中に米国人捕虜もこの日本軍BW部隊の実験材料として使われていたという証拠も出てくる可能性がある。
  提案
 9.民事部員にこのSFE 182/2を承認されることを推薦する。」(103)

  8月1日の三省調整委員会極東小委員会の文書SFE188/2でも、戦犯訴追よりも国益上日本の生物戦データの価値ははるかに重要で、他国が入手できないように隠蔽すべきだという結論を示している。(104)

2 アメリカに渡ったデータ
 フェル・レポートに記されたレポート類は現在未発見だが、731部隊の資料がアメリカに渡ったことを示す証拠がある。
 アメリカ・ユタ州ダグウェイの実験場に「Qレポート」と題する解剖レポートがある。もとはフォート・デトリックに保管されていたもので、1940年の農安・新京でペストが発生した時の患者57名を病理解剖したレポートである。全744頁にのぼる大部のものである。
 レポートの「まえがき」には、「高橋(正彦と思われる)医師と他の人たち共同で、疫学と細菌学の調査を行った。日本語で印刷されたそれらのレポートは1948年7月、すでにアメリカ軍に提出している。私と他のメンバーは、9月29日から11月5日の間にこの二つの地域で死亡した全てのケースを病理解剖学的に調査した」と述べられている。

 症例総数57名のうち農安が39名、新京18名で、レポートの始めに、「まえがき」に続いて患者の一覧「摘要」がある。
 患者ごとに「患者番号、名前のイニシャル、年齢、性別、発病日数、治療形態」が記されているが、新京のほうの患者番号1は「KF 8 ♀ 8 G」となっている。KFとは誰のことなのか。
 それは、松村高夫(慶応義塾大学)教授、江田憲治(京都産業大学)助教授、江田いづみ(関西大学)非常勤講師、と中国の研究者グループ(解学詩、郭洪茂、李力)の共同研究の結果あきらかとなった。
 石井部隊が防疫隊として乗り込んだ時に(農安では「雁部隊」といった)、流行地域を封鎖する仕事をした満鉄新京工事事務所が「ペスト防疫作業報告書」をつくっている。その中に1940年新京のペスト患者の一覧表があるのだが、そこに、室町4丁目7号宝昌楼に住む「藤田君香」の名前が載っている。
  年齢は8歳、女性、9月25日に発病して8日目の10月2日に死亡と記されている。この記述が、アメリカの「KF」の表とまさに一致するのである。
  さらに、その農安・新京ペストを分析した高橋正彦の論文が松村教授によって発見された。それは、増田大佐が主任で、石井四郎軍医少将の担任指導のもとに陸軍防疫学校防疫研究報告として作成された「昭和15年農安及新京ニ發生セル『ペスト』流行ニ就イテ」と題する論文である。
 この中にまた「藤田君香」を含む患者たちの解剖検査の結果と分析が述べられている。しかも、731部隊の業務室保管のペスト菌との比較、毒力検査までがされている。
 このことから、731部隊の高橋正彦が分析していたデータを、1948年になって高橋のチームでレポートにまとめて、アメリカ側に渡したのが「Qレポート」であるということは明白である。
 フェルの調査後、10月28日からはエドウィン・V・ヒル博士とジョセフ・ヴィクター博士が日本で補足的調査を行い、石井四郎以下、高橋正彦、増田知貞など「ハルビンまたは日本で細菌戦に関して研究した人たち」24人の尋問を記録して、化学戦部隊長に「生物戦調査の概要報告」として12月12日付で提出している。
 このレポートの記述によれば、石井は11月22日の尋問で、自分が研究していたボツリヌス菌について、「人体実験は5人を使って行われた」と述べており、他の連中も実験の内容をあからさまに説明していて、すでにこの時点では免責の取引が成立していたことをはっきり示している。
 チフス菌やブルセラ菌、サルモネラ菌を担当していた早川清は、翌年7月26日、帝銀事件の捜査本部の刑事に、細菌戦関係の事実についてはアメリカの指示によって隠蔽していることを内々に語っている。

  「三、留目ー金沢組   軍医学校関係
      元陸軍大佐    早川  清
  七三一当時はパラチフスBの研究と製造に専従し(略)部下としては一〇〇ー二〇〇程度居った
         (略)
   帝銀事件が発生した頃は未だ進んでいなかったけれ共、最近になってGHQの吉橋という二世を通じて私達の身柄を保障して呉れると米軍では申し、若し米ソ戦争が開始された際には身柄は早速米国本国へ移す事  になっていると聴いている
  細菌戦術の優れた点も幾分認めているらしい
     (略)
  〔刑事が〕当時使用した□□方法人員等につき聴くに
   GHQで調査された際関係者同志 本件については絶対口外せぬ様誓約したのであるから勘弁して呉れとの事で語らなかった
  生体解剖の件も戦犯にならぬ事が最近判ったので申した次第ですと付言す(GHQでは本件に関して秘密を厳守するがお前達の方から墓穴を掘る様な事の無様 警察官のなかにも共産党あり 警察官にも口外せざるとの事 何万かの部下を保護する為にも)」(105)
 
 

第6章 その後の隠蔽

1 ハバロフスク裁判
 ソ連側の石井への尋問はなにも聞き出せず、不首尾に終わった。
 ソ連側は、自分の処で捕捉していた約100人にのぼる細菌関係者の中から、山田乙三関東軍司令官以下、731部隊支部で鼠の飼育にあたっていた一兵卒まで12人の被告を選び、1949年12月、ハバロフスクで軍事裁判を開いた。
 世界に日本の細菌戦の犯罪をアピールしようとして、法廷の模様をラジオで世界に流した。しかし、アメリカは日本人抑留問題から目をそらそうとするソ連のプロパガンダだとして無視した。日本の新聞も小さな記事しか載せなかった。
この裁判に対して政府はどう対応したのだろうか。
裁判の判決から2ヶ月後の1950年3月1日、衆議院の外務委員会で聴濤克己議員(日本共産党)が質問に立っている。

「○聴濤委員・・・(ソ同盟は)二月一日にはあらためてこの裁判に漏れておるところの天皇を初め、当時の関東軍の軍医中将石井四郎、北野マツゾウ〔政次のことー筆者〕軍医中将あるいは若松獣医少将等を国際軍事法廷を開いて裁判すべきであるということを、アメリカ、イギリス、中華人民共和国に覚書を発送してこれを提案しておる。事柄の内容は非常に重要であります。これについて、政府はこの問題の経緯および内容について、如何なる情報を持っておるか、お聞きしたいと思う。
○殖田〔俊吉〕国務〔法務〕大臣 今の聴濤さんのお尋ねの細菌戦術の話でありますが、その経緯とか内容とかについては、私は詳しく存じません。私の存じておりまして申し上げたいことは、法律的の問題でございますが、日本人である戦争犯罪人に対する裁判は、ポツダム宣言受諾に伴い、連合国によって行われることになっておるのであります。でありますから、最近伝えられております細菌戦術にかんする日本人戦争犯罪人の問題につきましては、政府としてはこれに関与すべきでない、こう考えております。・・・
○聴濤委員  一体政府の方は戦争中にこういう事実があったということも知らぬとおっしゃられるのかどうか承りたい。
○殖田国務大臣  政府はそういう事実を聞いてはおりますけれどこれを照査する権能も持たず、またこれを調査する必要もないのであります。ことに天皇を戦犯として処分すべしというがごとき問題は日本政府としては絶対に反対であります。かような提言をすることは、外国のやり口と字軌を同じくするものでありまして、かような行動は日本国の利益ではないと考えておるのであります。また日本人としてかような提言をすることは、日本国民の意思を代表するものとも私は考えないのであります。かような質問をされること自体がはなはだおもしろからざるやり方でありまして、私はある外国が裏で糸を引いておって、そして日本に対して反感を与えるためにやられておるのではないかと考えておるのであります。」(106)

 殖田法相の答弁は終始、戦犯問題は連合国側に任すべきで自国の介入すべきことではないと繰り返すばかりだった。
 ソ連側はハバロフスク裁判の記録をロシア語で一冊の本にまとめ、同時に英語版、中国語版、日本語版、朝鮮語版(ほかにもあるといわれるが筆者未見)などをつくって、各国に配布した。『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』である。
 しかし、扉に「モスクワ外国語図書出版所」発行とあるのみで、流通経路もはっきりせず、ほかに関連資料も一切なかったために、偽書のように扱われ、裁判自体もはたして存在していたのかと疑われて、無視されてしまった。数年後に三友一男被告人本人の書いた書物で明らかになったにもかかわらず、家永教科書裁判の第三次訴訟の一審判決でもなお「来歴の窺いしれない書物」だと判断されてしまう。1992年になってソ連が捜査段階での記録や公判記録のファイル・写真を公開したために、ようやくこの本が歴然とした資料であると確定し、現在では評価は定着している。
内容的にも、中国で戦犯として拘留されていた関係者の供述、フェル・レポートに記されているところと照合するときちんと符合し、信用性のあるものだということは、これまでの研究で明らかにされている(107)。
 筆者も当事者の三友一男元被告、久留島祐司元被告、元証人の福住光由、桜下清、畑木章から直接に、陳述内容の記載が正確だという確認を取っている。
 翻訳についても、日本人でも読みとれないような人名・地名・印鑑に至るまで正確にうつされている。

2 部隊幹部のその後
 2年後、やがて朝鮮戦争におけるアメリカ軍の細菌兵器使用問題が起きてきた。日本学術会議(1952年10月24日)では、第4部会の会員から「細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ条約批准を国会に申し入れる件」の提案があったのだが、第7部会(医学部会)のメンバーが強硬に反対した。3年前の同会議でも、戦争中に科学者がとった態度への反省を声明に盛り込むことを妨害した部会の人たちである。この時反対に起ち上がったのは、北岡正見会員、木村廉会員、戸田正三会員といった顔ぶれで、かつて石井部隊長の下へ教え子たちを送り込んだ細菌学者たちである。戸田会員は「(細菌は兵器として)今日ほとんど実用になりません。実用にならないものを苦労してまで日本でつくるばかが出ましたら、そんなばかなことをするなという勧告を私からよくいたしますから、どうかその点でご安心下さい」と言ったという。
  こうしてその後30年間、森村誠一著『悪魔の飽食』が出版されて世間で騒がれるまで、731部隊の問題は明かされずじまいになった。
 一時期、防衛医大の設置をめぐって軍陣医学の復活だとして反対する医学生たちが731部隊の問題を発掘・追及するという動きがあり、かつて731部隊員だった東大医学部長や金沢大学医学部長が指弾されたが、いずれも知らぬ存ぜぬ、忘れたという姿勢で、「国家の要請だった」「天皇の命令だった」と弁解していた。
 ジャーナリストの高杉晋吾は、731部隊で凍傷の人体実験をしていた吉村班長(京都府立医大学長)に取材したやりとりを著書に載せている。

 高杉「ハバロフスク公判記録に、例えばこう出ています。
   (略)
『…三名の中国人は手の指を切り取られ、他の者は、指の骨が露出していた。吉村はこれが彼が実施した凍傷実験の結果であることを私に説明した・・・という風に書かれていますが、これはいかがですか?」
吉村「それも私は知りません」
高杉「つまり、こう書かれている吉村がいれば、これは別人であるということでしょうか?」
吉村「吉村といいましても、部隊の中に吉村班というのがあったんですよ。その班の中のことであるかも知らんですけど、それはわたしの知らんことなんです」
高杉「そういたしますと、先生は石井部隊の隊員であったことは・・・?」
年村「それは確かです」
高杉「ほかにも梶塚隆二(軍医中将)とか西俊英(軍医中佐)が証言していますですが、それが凍傷実験をやった、と言っていることですからね、先生が中国で凍傷実験をやっておられたのは事実だろうと思うんですけど…」
吉村「あのねえ、凍傷実験というよりもですねえ、それは生物学的な寒さに対する反応があるわけなんです。局所耐寒反応といっておりますけれども。局所の血管反応を見ておったわけです。」
高杉「これは人体・・・でということですか」
吉村「これはねえ。水鳥がねえ、田んぼの中で立ってましょ?その水鳥の足をさわって見ると温いんですよ。何故温いかといいますとね、水かきの血管が開きましてね、そこへ温い血液を流しこむために温まるわけですよ。そういう寒さに対して手足を温める反応があるんですよ。それを兵隊さんやハルビンにおりましたクーリーとか、興安嶺におるオロチョン族やとか、そういう人たちについて調べたということなんです。ですから、それは人体実験だ、といわれれば、そういうことになります。けれども人体実験という名の与えるイメージは何か陰惨な感じを与えますんでねえ。そういうものじゃないんですよ。」
高杉「例えば指先が腐って骨が出ていた、という証言がそれぞれなされていますけど、それが吉村先生でないにしても、一般的に凍傷の人体実験についてなされていたのでは・・?」
吉村「そういう人体実験はやってありませんわ」
高杉「石井部隊の中でもですか?」
吉村「ええそうです」(108)

 実験に731部隊の監獄にいた「丸太」を使ったという事実は、大勢の証人と資料がある。(109)

3 現在までの隠蔽
 1982年4月6日、参議院の内閣委員会で榊利夫議員が、731部隊の戦犯免責問題などを追及したが、政府の答えは「その御指摘のような事実、それに関する記録というようなものがあるか、この点は承知しておりません」というに尽きた。
その次に国会でとりあげられるのは1997年12月17日、アメリカの陸軍記録管理局長ジョン・H・ハッチャーが、731部隊より吸収した資料類は「箱詰めにして日本政府に返した」と言っていることに関連して栗原君子議員から質問がされた。

 ○栗原 そこで朝日新聞の調査では、1986年9月19日(の記事)によると、それらの資料は日本に返却後、最初、外務省復員局に入り次に防衛庁が設置された際に外務省から防衛庁に移され、戦史室の開設に伴い戦史室に移されたことが明らかにされた。
 これらの資料は現在どこに所蔵しているのか。細菌戦被害の事実を明らかにするためにこれらの資料の公開をするべきではないかと考えますけれども、どこにあるのでございましょうか。(発言するものあり)
 ○佐藤 (防衛庁防衛局長) お答えします。
 防衛庁におきましては昭和三三年に米国が押収した旧陸軍の資料の返還を受けまして、戦史に関する調査研究に資するため防衛研究所におきまして約四万件の資料を保存しておりますが、この中には、御指摘のいわゆる七三一部隊、正式名称は関東軍防疫給水部、これの活動状況や当該部隊と細菌戦の関連を示すような資料は存在していないと承知しております。
 ただ、この返還資料の中で、関東軍の部隊編成などを示す資料の中にこの関東軍防疫給水部に係る記述がなされているものが合計四件確認されておりますけれども、当該部隊の活動状況や細菌戦との関連を示すものはございません。(110)

  1999年2月18日田中甲議員が、アメリカからの返還資料について問いただしたのに対しても「史料は確認されていない」(野呂田防衛庁長官)という答弁だった。
 

結び

 こうして見てきて明らかなように、731部隊の歴史は現在に至るまで「隠蔽」の歴史である。
 政府・軍中央と部隊が、国際法に違反することを知りつつ、秘密裡に細菌兵器を研究・開発して、中国戦線で使用して、多大な被害を与えことは関係資料から明らかである。
 終戦時、責任追及が天皇に及ぶことを恐れて、国家をあげて、細菌戦や毒ガスの犯罪を隠蔽したことも事実である。
 その証拠を湮滅し、終戦後にそれを追及するアメリカ軍に対して研究データの提供を代償に戦争犯罪の訴追を免れる取引をし、一切を隠蔽したこともまたアメリカに残る記録から明らかである。
  本来ならば、政府はポツダム宣言を受諾した時に、宣言が望んだように「日本国民のうちに民主的傾向が復活され強化されるように」、非人道的な犯罪行為を国民と国際社会の前に明らかにする義務があった。それにもかかわらず、現在に至るまで事実を認めようとはせず、隠蔽をし続けているために、被害者ばかりでなく当の部隊関係者まで救済されず、さらに、歴史事実が歪曲することで後代にまで加害が及ぼうという事態にいたっているのである。