731部隊と細菌戦に関する
  鑑  定  書


2001年2月5日

慶應義塾大学  松 村 高 夫

 
 

目     次

はじめに

第1章 細菌戦部隊としての731部隊

1 731部隊の建設
2 731部隊の編成

第2章 731部隊と細菌戦に関する解明状況
1 中国の金宝善報告(1942年)
2 戦後アメリカによる調査報告
3 ソ連による調査報告
4 1980年代の調査・研究
5 戦後中国による調査報告
6 1990年代の調査・研究
7 731部隊と細菌戦をめぐる訴訟
 a、家永教科書第3次訴訟
 b、731部隊人体実験犠牲者に関する訴訟

第3章 細菌戦実施と疫病発生
1 731部隊における細菌戦準備
2 浙江への細菌攻撃
 a、寧波のケース
 b、衢県のケース
 c、2次3次感染のケース
3 常徳への細菌攻撃
4 浙〓作戦における細菌攻撃

結び?731部隊と細菌戦の後遺症

はじめに

 20世紀は「大量殺戮と戦争の世紀」(ルネ・デュモン)であり、「西欧の歴史における最も戦戮すべき世紀」(アイザイア・バーリン)であった。ジェノサイドによる殺戮は約1億人におよび、それ以外に戦争で殺された者は約8,000万人と推計されている。(a)
 第1次大戦中にC(化学)兵器がドイツ等により使用され、第2次大戦中に、A(核)兵器がアメリカにより開発・使用され、多数の犠牲者を生みだした。そして、「世界に先がけて」B(細菌)兵器を開発し使用したのは、他ならぬ日本であった。それは、日本現代史の汚点であるといえよう。(b)
 731部隊が実施した細菌戦を歴史的事実として明らかにせんとする本鑑定書は、次のような構成をとる。

第1章 細菌戦部隊としての731部隊
1 731部隊の建設
2 731部隊の編成
第2章 731部隊と細菌戦に関する解明状況
1 中国の金宝善報告(1942年)
2 戦後アメリカによる調査報告
3 ソ連による調査報告
4 1980年代の調査・研究
5 戦後中国による調査報告
6 1990年代の調査・研究
7 731部隊と細菌戦をめぐる訴訟
第3章 細菌戦実施と疫病発生
1 731部隊における細菌戦準備
2 浙江への細菌攻撃
3 常徳への細菌攻撃
4 浙〓作戦における細菌攻撃
結び?731部隊と細菌戦の後遺症

 「第1章 細菌戦部隊としての731部隊」では、731部隊の概要が示され、「第3章 細菌戦実施と疫病発生」では、731部隊での細菌戦研究にもとづき細菌兵器が製造され、それが実際に使用され、疫病を発生させたことが明らかにされる。
 あえて「第2章 731部隊と細菌戦に関する解明状況」をおき、細菌戦実施当時から現在に至るまでの解明の過程を詳述するのは、その70年間近くの間に、731部隊と細菌戦に関して、次第に事実が解明されてきたことを明示するためであり、同時に、第3章で展開される細菌戦実施と疫病発生の因果関係の論証のために依拠する諸史料が、いかなる経緯で作成され、いかなる性質をもつものであるかをあらかじめ示しておく必要があると考えるからである。

第1章 細菌戦部隊としての731部隊

1 731部隊の建設

 731部隊(1)(正式名称は関東軍防疫給水部)は1932年4月の陸軍軍医学校防疫研究室の設立に起源をもっている。石井四郎(京都帝国大学医学部出身)は30年、細菌兵器の研究・開発のための欧米視察から帰国すると、陸軍中央の梶塚隆二(陸軍省医務局衛生課長)、小泉親彦(同医務局長)、永田鉄山(同軍務局軍事課長)などに細菌戦のための研究・開発の必要性を説得し、その支持を得て防疫研究室を設置させ、自らが研究室の主幹となった。その研究室の設置は、日本が32年3月に傀儡国家「満州国」を建国した翌月のことである。
 満州には、32年から33年にかけてハルビンの南東70キロにある黒龍江省五常県背陰河に「守備隊」を装って防疫班(東郷部隊と称した)を設け、細菌戦の研究を開始し、中国人にたいする人体実験も始めた。だが、34年9月に16名の収容者が脱走に成功し、内部の秘密が露呈したため防疫班を閉鎖し、ハルビン南東12キロにある平房への移転を計画した(2)。
 35年夏には平房に日本軍が進駐し、731部隊の根拠地を建設するための土地選定の測量をはじめている。
  東郷部隊は一時東京に戻ったのち、ハルビン市南崗に移転した。1936年4月23日、関東軍参謀長板垣征四郎は、陸軍次官梅津美治郎宛に「細菌戦準備ノ為関東軍防疫部ヲ新設ス」(3)ることを要求し、その結果、東郷部隊は同年8月、軍令により正式な部隊として「関東軍防疫部」となり、部長に石井四郎が就任した。
 37年7月7日、北京郊外で起きた慮溝僑事件により日中戦争が勃発すると、731部隊の建設は急テンポで進められた。翌38年6月に「平房付近特別軍事地域設定ノ件」(関東軍参謀部命令第1539号)が布告されると、平房のなかの一村である黄家窟堡の農民は、平房讐察駐在所から1か月以内に全員立ち退くよう命令され、立ち退きをしているときに、警察が家屋に火を放った。こうして110年余の村の歴史に、強権的に幕がおろされた。
 さらに、「無人区」を広げるため平房の他の村も立ち退きを命じられたが、これら4つの村を合計すると、610へクタールの土地が強制占拠され、土地を囲いこまれて追い出された農民は計546戸におよんだ(4)。追い出された農民は、731建設現場で働くか、他の地域へ流浪せざるをえなかった。
 こうして囲いこまれた土地に、731部隊の本部官舎、各種実験室、監獄、専用飛行場、少年隊宿舎、隊員家族宿舎(東郷村)などが建設された。日本特殊工業が部隊の研究器材を、鈴木組が部隊建設を一手に請け負った(5)。38年初めから到着した建築工は、いずれも秘密保持のため石井四郎の郷里近くの千葉県山武郡か香取郡の出身者であった。
 731部隊の中心には口号棟と呼ばれる約100メートル四方、3階建ての巨大で堅固なビルが1940年に完成した。それは細菌培養・製造のために冷暖房が完備された近代的なビルだった。ロ号棟の中庭には特殊監獄として東西の方向に35メートル、南北の方向に16メートル、中央の廊下を挟んで計20の獄房を二棟建て、第7棟、第8棟と称した(6)。2つの監獄で収容人員は計200人から300人だったが、最大400人が収容可能だった(7)。因みに、45年8月の敗戦時の収容者数は400人余である。
 平房の特殊監獄に連行されてきたのは、日本の植民地支配に抵抗したもの、あるいは抵抗したとみなされたものであり、1938年1月26日に発せられた「特移扱二関スル件通牒」(関憲警第58号)により「裁判二付サズ、事件送致ヲセズ」に日本の讐察と軍隊が組織的に平房まで連行した。この特殊輸送のことを、当時は「特移扱」と呼んだ(後述)。ハルビン駅までは列車で連行し、そのあと平房までは幌と鎖の付いたトラックで運び、特殊監獄に収容した。その目的は人体実験である。

2 731部隊の編成

 731部隊は8部から編成されていたが、その中枢部は1部から4部までである。ロ号棟のなかには第1部の細菌研究部(部長は菊地斉)と第4部の細菌製造部(部長は川島清)があった。
 細菌研究を行なう第1部は細菌別に分けられた十数課からなり、チフスの田部井和、コレラの湊正男、凍傷の吉村寿人、赤痢の江島真平、ペストの高橋正彦、病理の岡本耕造、石川太刀雄丸、ウィルスの笠原四郎、結核の二木秀雄、炭疽(脾脱疽)の大田澄、天然痘の貴宝院秋雄などがそれぞれの課を担当した。
 第二部(部長は大田澄)は実戦研究を行なう部であり、植物絶滅研究(八木沢行正)、昆虫研究(田中英雄)、航空班(増田美保)はここに属しており、ペスト菌を感染させるノミもこの部で繁殖させていた。
 また、1943年には平房から120キロ離れた安達に野外の実験場をつくり、被験者を杭に縛り、飛行機からペスト菌弾や炭疽菌弾を投下・炸裂させ、感染効果を測定するような実験を行なった(8)。ハルビン市を流れる松花江の中州でも、同様の野外人体実験を行なった。
 第三部(部長江口豊潔)は石井式濾水器の製造をしており、これだけはハルビン市南崗にある陸軍病院におき、731部隊が防疫給水をする機関であるかのようにみせかけた。だが実際には、この部ではペスト菌などを入れる陶器製爆弾(字治型爆弾)の容器も製造していた。
 731部隊の第一部の細菌研究にもとづいて、第四部が細菌を製造した。この部には細菌を培養・製造する柄沢十三夫、ペスト菌を製造する野口圭一、炭疽菌を製造する植村肇などが所属していた。第四部の細菌製造能力は、細菌製造部部長川島清の証言によると1ヶ月間にペスト菌300キロ、チフス菌800?900キロ、炭疽菌500?700キロ、コレラ菌1トンである。細菌製造課課長柄沢十三夫の証言は、「第四部ノ生産能力ヲ最大限ニ利用シタラ、最良ノ条件下ニ於テ、理論的ニハ」ペスト菌300キロまで製造できるとしており、実際には10キロであったとしている。こうして製造されたペスト菌などが、実際に中国十数都市で散布されたのである。
  以上の4つの部の他に、教育部、総務部、資材部、診療部があった。診療部は部隊員の診療だけでなく、収容者の人体実験も行なっていた。731部隊の部隊長は大部分の期間、石井四郎がつとめたが、42年8月から45年3月の間は北野政次がつとめ、45年3月から敗戦の8月までは石井が再任している。
 日本軍は、1937年7月の日中戦争勃発直後の北京、天津の占領、同年8月の上海占領、12月の首都南京の占領、翌38年5月の徐州占領、10月の武漢占領と侵略地域を拡大した。しかしそれ以降は、中国国民政府が新たに重慶を首都として日本の侵略にたいする抵抗を強化したため戦線は膠着化し、中国共産党軍は、華北を中心にゲリラ地区を建設して日本軍を消耗させ、日中戦争は長期戦の様相を呈した。日本軍は兵員消耗と物資補給不足に直面するようになり、近代的兵器の不足が深刻化すると、細菌兵器が兵器のなかでも比較的安価に生産でき、しかも投下したことを容易に隠蔽することができる兵器として、重視されるようになる。このような状況のなかで、平房の731部隊には、1940年12月2日の軍令により4つの支部が設立された。牡丹江(643部隊)、林口(162部隊)孫呉(673部隊)、ハイラル(543部隊)の4支部である。
 平房の731部隊を含めて、石井部隊の総称を659部隊と称した。これらの支部はソ連国境に沿っており、対ソ戦に備えたものである。5番目の支部として、大連衛生研究所があった(9)。また、長春には731部隊の姉妹機関として関東軍軍馬防疫廠、通称100部隊が設立された(10)。そこは軍馬の防疫のための動物の細菌研究が中心であったが、人間に対する実験もなされた。
 以上の組織を支部まで含めてハルビン(平房)の防疫給水部と呼ぶならば、このような防疫給水部は中国名地につくられ、1940年までには、北京(「甲」1855部隊)、南京(「栄」1644部隊)、広東(「波」8604部隊)に防疫給水部が編成された(11)。
 これらの部隊は、731部隊が関東軍司令官の指揮下におかれたように、創設時はそれぞれ北支那派遣軍、中支那派遣軍、南支那派遣軍の司令官の指揮下におかれた。北京、南京、広東の防疫給水部はそれぞれが数支部から十数支部をもち、支部のなかにはその地域の陸軍病院、同仁会病院、満州医科大学と連携をもつものもあった。
 このように全体として網の目のような細菌戦のための組織ができたが、731部隊との人的・組織的連携は強力であり、石井四郎だけでなく、平房から731部隊員が各地の防疫給水部に直接出張することもしばしばった。日本軍の細菌戦は、これらの諸部隊が直接間接に参加して、中国各地に対して行われたのである。とくに南京の1644部隊との連携は、後述するように実際の細菌作戦の展開のさいに威力を発揮した。
 また、41年12月、日本が真珠湾攻撃と同時にマレー半島に侵略し、翌42年2月、シンガポールを占領すると、ただちにシンガポールにも南方軍防疫給水部(「岡」9420部隊)が設置された(12)。その部隊へ平房からは内藤良一や貴宝院秋夫などが派遣されて部隊を指導したが、この部隊もジャカルタ支部など数支部をもっていた。
 このように細菌戦のための体制は日本軍全体の構造のなかで形成・確立していったのであり、けっして石井四郎の個人的意向だけでなされたのではないことに留意する必要があろう。

第2章 731部隊と細菌戦に関する解明状況

1 中国の金宝善報告(1942年)

日本軍の中国における細菌戦実施については、その当時から様々な報告書が作成されていた。日本軍の細菌戦の実施について、世界に向けて最初に発信したのは、1942年3月31日、中国衛生署署長金宝善(Dr.P.Z.King)の報告書である(13)。
 金宝善報告書は、「過去2年間に日本が細菌戦の実施可能性の実験モルモットとして我が人民を使用せんと試みてきたことを示す充分な状況証拠が集められた。日本は飛行機を使ってペスト感染物質を散布することにより、自由中国にペストの流行を生み出そうとしてきた」と指摘し、40年10月4日の浙江省の衢県、同年10月27日の同省の寧波、同年11月28日の同省の金華への日本軍機からのペスト菌散布と被害について報告している。
 翌41年11月4日の湖南省の常徳への同様の散布と被害も、さらに詳しく報告している。この金宝善報告書は42年5月に始まる浙〓作戦開始直前のものであるから、当然浙〓作戦における細菌の地上散布については記されていない。
 金宝善報告は、寧波については、以下のように記している。

 1940年10月29日、腺ペストが初めて浙江省の寧波で生じた。その流行は34日間続き、99名の犠牲者を出した。10月27日、日本の飛行機〔複数〕が寧波を攻撃し、この港湾都市に多量の小麦を散布した、と報告された。「空からの穀物」を発見するというのは奇妙な事実であったけれども誰も当時は敵の意図を見抜けず、その穀物の徹底した検査はなされなかった。ペスト犠牲者の全員がその地方の住民であった。ペストの識別は実験室の検査で確かに確認された。その流行病が起こる前にはネズミの死亡の増加はみられなかった。注意深い検査にかかわらず、外からの感染源は発見しえなかった。

 次に報告されている衢県については、

 1940年10月4日、日本の飛行機1機が浙江省衢県に飛来した。短時間県城の上空を旋回したのち、飛行機はノミを混ぜた米と小麦を県城西部地区に散布した。多数の目撃者がおり、そのなかの許という人は自宅の外の通りからいくらか穀物と死んだノミを集め、それらを地方の防空隊に送り、検査のために省衛生試験所に転送してもらった。試験所の検査結果は、「細菌培養の方法で発見される病原体は存在しなかった」というものであった。しかしながら、11月12日に、日本機が飛来した38日後に、腺ペストが穀物とノミが大量にみつかった同じ地域で発生した。衢県の流行は24日続き、21人が死んだ。得られた記録が示すかぎりでは、ペストは衢県では以前に起こったことはなかった。状況の注意深い調査の結果、敵機の奇妙な飛来が流行病の原因であり、伝播媒体はネズミノミで、それは恐らくペストに感染し、間違いなく敵機から落とされたものであると、信じられていた。ペストは本来齧歯類の病気であるから、穀物は多分ネズミを引きつけ、ネズミをそこに混ぜられた感染ノミにさらすために使用された。集められたノミが正当には検査されなかったことは遺憾であった。貧弱な研究設備のために動物接種試験が行なわれなかった。それをしていれば、ノミがペストに感染していたか否かを示すことが可能だっただろうし、陽性の結果は日本に対する反論できない証拠になったであろう(14)。

と記されている。
また、金華では、日本軍機3機が飛来し、「こえびの卵ほどの小さな顆粒を大量に投下した」が、ペストは発生せず、日本による実験は失敗だったとしている。
金報告の約半分の量を占めるのは、41年11月の常徳への細菌攻撃についてであるが、これは陳文貴とポリッツァーの二つの報告書にもとづいて、「常徳のペスト流行は敵の行動により引き起こされた」とし、その根拠を詳しく二つの報告書から引用している。
金宝善報告は、結論的に次のように指摘している。

 これまで集められた事実の一覧表から、日本軍は中国で細菌戦争を試みてきたと結論せざるをえない。浙江と湖南で日本軍は空中から感染物質を散布し、ペストの流行を引き起こすのに成功した。災難を受けた地域の一般住民の一時的恐怖もさることながら、敵のこの非人間的な行動は最も非難されるべきものである。それは、一度その疫病が地方のネズミに根を下ろすと、今後何年間も人間に感染しつづけるからである。幸いこの感染の型とペスト制御の方法は知られているので、厳しい制御手段によってこの疫病を阻止しつづけることが可能である。現在の我々の困難は、必要な疫病予防剤の供給不足である(15)。

1942年4月6日、中国外交部は金報告書にもとづき、正式にイギリス政府宛に連合国の共同の奮闘による日本軍国主義の敗北によってのみ、かような虐殺と野蛮を止めさせられる、と言明した(16)。4月14日には、重慶のイギリス大使館セイモアーよりイーデン外相宛に、中国外交部長からの日本の細菌戦についての覚書が送付された(17)。
42年7月14日、中国の駐英顧維鈞はチャーチル主催の太平洋戦争協調会議で「日本軍の毒ガスと細菌戦に関する告発書」を手渡したが、そこでは金宝善報告書にある衢県、寧波、常徳などへの細菌戦と被害の発生が指摘され、「当地方のネズミに一度この病気が蔓延すると、今後数年間人間にも感染するという問題が継続されるので、日本軍のこの非人道的行為は最も厳しく譴責されねばない」と告発している。
 一方、アメリカも金報告書を中国外交部の覚書とともに1942年4月11日に重慶のC.E.ガウスから受け取ったが、その際添付されたガウスからワシントンの国務長官宛書簡は、日本が常徳に対してペスト菌で汚染された物質を投下し、それがペスト発生の原因であるとすることに疑義を呈していた(18)。だが、日本敗戦前の1945年6月28、29日に、アメリカCWS(化学戦軍務)の団長J.R.ギデスが常徳を訪れ、日本軍による41年のペスト菌使用について、現地で調査し、その結果、「1941年11月に常徳でペスト菌に汚染された米穀類を使って日本人がペストを散布した可能性は大きいと信じられる」(19)と報告している(ギデス報告については、後述)。
 1942年当時は疑義を呈していたアメリカは、45年自ら常徳に行き調査した結果、日本軍によるペスト菌散布と患者発生に因果関係の存する可能性が大きいと判断したのである。

2 戦後アメリカによる調査報告

戦後の極東国際軍事裁判では、731部隊と細菌戦は不問に付された。裁判は1946年5月3日の開廷以降2年6ヶ月続いたが、細菌戦関係の事項は一度、46年8月29日に触れられただけであった。
トマス・M.モローは同年3月8日、国際検事局のD.N、サットンとともに戦争犯罪の証拠を収集すべく上海に行き、8項目を調査する必要があるとした。細菌戦と化学戦はその中の2項目だった。サットンは金宝善に面会し、日本の細菌戦に関する前述した金宝善報告書も入手していた。モロー報告は4月16日に完成し、同月23日には首席検事J.B.キーナンに提出された。
8月29日にサットンは、次のように主張した。「敵の多摩部隊(「栄」1644部隊)は市民の捕虜を医学実験室に隔離したが、そこでは毒物血清反応が試験されていた。この部隊は極秘組織の一つであった。この部隊により虐殺された人々の数は確認しえない」と。
しかし、1937年の南京虐殺事件に審議を集中するため、この件は継続審議となり、その後再審議されることはなかった。また、国際検事局は、南京1644部隊の元隊員榛葉修の供述書(20)を入手し、細菌戦についての手がかりを得ながら、軍事裁判には提出しなかった。榛葉は1946年4月17日に上海で、「1942年中国の栄部隊により遂行された細菌戦に関するハタバ・オサムの供述書」に署名している。このような主張が法廷に出されなかったのは、背後で、石井四郎たち部隊幹部とアメリカとの間で、戦犯免責の取引が進行していたからである。
 敗戦後ただちに、服部卓四郎(元大本営作戦課課長)、亀井貫一郎、内藤良一などが暗躍し、1946年初めまでにはマッカーサー総司令官とウィロビーG?部長に石井四郎ら731部隊幹部の戦犯免責を一応とりつけた。
 アメリカは1945年8月から47年11月まで4次にわたり731部隊の調査をマッカーサーとウィロビーの全面的協力の下で行なった(21)。731部隊の調査は戦後ただちに開始され、1945年8月下旬フィリピンで化学戦部隊に配属されていたマリー・サンダースがマッカーサーの命令により、731部隊と細菌・毒ガス戦関連の調査を開始し、サンダース・レポート(45年11月1日付)をアメリカ国防総省宛に提出した。
 45年末に潜伏していた石井四郎が発見され、増田知貞も帰国すると、アメリカの細菌戦研究所のキャンプ・デトリック(後のフォート・デトリック)からアーヴォ・T・トンプソンが日本に派遣され、石井と増田を調べ、トンプソン・レポート(1946年5月3日付)を同じく国防総省宛に提出した。しかし、この2つのレポートには、731部隊の機構や細菌爆弾の構造などは示されているが、尋問された731部隊員が口裏を合わせたため人体実験のことは記録されていない。
 一方、ソ連は、1946年秋に、拘束していた川島清(第四部の細菌製造部部長)とその部下の細菌製造課課長柄沢十三夫の供述から731部隊で人体実験が大規模になされたことを知り、また安達の野外実験場での細菌散布の実験も知り、平房の現地調査でそれを確認してから、47年1月初め(正式文書では1月7日)、アメリカに対し石井四郎、大田澄(第二部の実戦研究部部長)、菊池斉(第一部の細菌研究部部長)の731部隊幹部3人を人体実験に関して尋問したいと要求した。だが、アメリカはこれに応じず、あらためてキャンプ・デトリックの細菌専門家ノバート・H・フェルを日本に派遣して調査を継続した。
 フェルは同年4月16日に日本に到着し、約2カ月間、部隊の人体実験について調査した。ソ連が要求した石井、大田、菊池の3名の他に、亀井貫一郎、増田知貞、金子順一、内藤良一、碇常重、若松有次郎らも尋問した。だが、その背後で、マッカーサーはアメリカ国防総省に対し、「日本の細菌戦情報を情報チャンネルのなかに留め、そのような資料を『戦犯』の証拠として便用しないように」進言していた。石井四郎たちを戦犯免責することは47年9月までには確定していたので、かれらは進んで731部隊の研究「成果」をアメりカに提供した。
 アメリカ国務総省極東小委員会はマッカーサー宛に9月8日付で、石井とかれの関係者からの情報は戦犯の証拠としては使わないという言質を与えることは、「後日アメリカを深刻な事態に追い込む原因となりかねない。そうした言質を与えることは得策ではない。しかし安全保障のために、貴下は石井ら関係者を戦犯訴追するべきではなく、言質を与えずに、従来通りの方法で全ての情報を一つ残らず入手する作業をつづけなけれぱならない」(22)と命令している。
 こうして731部隊の全ての資料がアメリカの入手するところとなり、731部隊の事実は隠蔽された。以上のような経緯から、石井らに対する戦犯免貢をあたえる指示文書はそもそも存在しないが、戦犯免責を文書ではなく石井らに伝えるよう指示したアメリカ国防軍省とマッカーサーとのあいだの極秘電報は残ったのである。
 このような経過から、731部隊の人体実験が明確にアメリカに確認されるのは、第3次調査のフェル・レポート(1947年6月20日付)とそれを補充した第4次調査のヒル・レポート(1947年12月12日付)である(23)。当時はもちろんこれらの文書は「トップ・シークレット」(極秘)であった。しかし、これらの文書は情報公開法により1980年代になると公開されるようになり、現在では戦犯免責と部隊の研究「成果」の入手の裏取引の事実は明白になっている。
 フェル・レポートは英文で11頁から成る報告書であるが、これは2ヶ月かかって細菌戦の中心的研究者19名に細菌・化学の人体実験報告書(英文60頁は未発見である)を書かせたその要約であり、フェル・レポートの「総論」である(「各論」は未発見)。細菌別には、炭疽、ペスト、腸チフス、パラチフス、赤痢、コレラについて詳述され、「特記なきときは、ここに示されたデータは、全て人体実験にするものである」と記されている。
 そのほか、細菌爆弾あるいは噴霧(エアゾール)による細菌散布の報告、中国人に対する12回の野外実験、風船爆弾、家畜に対する細菌・化学研究についても調査した。野外実験については、次のように報告している。

 細菌戦の野外実験では、通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに1マイルほど離れた2地点にいる中国軍に対して、一大隊あるいはそれ以上を差し向けるというものだった。中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路1マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他の何らかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行なった。中国軍はその地域に24時間以内に急遽戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった。いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼も認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかし12回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは3回だけだったといわれている。(24)

 以上は1942年の浙〓作戦における日本軍撤退のさいの地上での細菌散布を指すものと考えて誤りなかろう。報告はつづけて、次のように書いている。

 高度約200メートルの飛行機からペストノミを散布した2回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちの一つでは、患者96人がでて、そのうち90パーセントが死亡した。鉄道沿いに手でネズミノミを散布した他の3回の試験では、どの場合も小さな流行は起ったが、患者数は不明である。コレラを2回そして腸チフスを2回、鉄道の近くの地面および水源に手動噴霧器でまいたところ、いずれの場合も効果があるという結果を得た。(25)
 この報告の中で、「ペストノミを散布した2回の試験」というのは、1940年秋の寧波と衢州であることは間違いない。金宝善報告書によると、前述したように、寧波の患者数は99人であった。
 フェル・レポートを補充するために調査したヒル・レポートは、「総論」だけでなく、細菌別に調査した69頁からなる「各論」も発見されている。ヒルは1947年10月28日、日本に到着し、翌29日から11月25日まで合計22名の部隊関連医師等の尋問調査を行ない、前述のように47年12月12日付でをアメリカ国防省宛に報告書を提出した。
 調査の目的は、
「A.細菌戦に関し、日本側要員から提出された諸報告を明確にするのに必要な追加情報を得るため。
B.細菌戦諸研究施設から日本に移送された人間の病理標本を調査するため。
C.その病理標本の意義を理解するのに必要な説明文書を得るため。」(26)であった。
 細菌毎に日本人研究者を尋問した「各論」は、例えばペスト菌については石井四郎、石川太刀雄丸 、高橋正彦、岡本耕造、炭疽菌については、大田澄、馬鼻疽菌については、石井四郎、石川太刀雄丸、発疹チフスについては、笠原四郎、北野政次、石川太刀雄等丸といった具合である。
 そして、「金沢病理標本は、ハルビンから石川太刀雄丸によって、1943年に持ってこられた。それは約500の人間の事例からの標本からなっている。その内400だけが研究適した標本である。」とされている(27)。
 その内訳は、炭疽36例(うち適切な標本31例)、コレラ135例(うち50例)、馬鼻疽22例(うち20例)、マスタードガス(イぺリツト)16例(うち16例)、腺ペスト180例(うち42例)、流行性ペスト66例(うち64例)、孫呉熱101例(うち52例)、破傷風32例(うち14例)、結核82例(41例)、腸チフス26例(うち9例)等などである。
 この内、マスタードガス16例は、1984年7月に公表された「きい弾射撃 ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察」に記録されている中国人被験者である(28)。その実験報告書の表紙には、加茂部隊(731部隊のこと)と印刷されている横に毛筆で、池田少佐担当と書かれている。これは、1940年9月7日から10日かけて実施された致死性イベリフトガス弾を人間に向けて発射した実験やイぺリツトやルイサイトの水溶液を人間に飲ませた実験等5種類、計30例の実験結果をまとめたものである。野外の3地域に配置された16名のうち、15名の「被験者ノ症状及其後ノ経過」が20頁にわたって詳述されている。その記録では、死亡したとの明記はないが、ヒル・レポートにより、全員が死亡し、解剖されて標本として日本に戻ってきたので、アメリカに送られたことが明らかである。
 また破傷風32例の内「適切の標本」14例は、同じく84年7月に公表された「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル『筋クロナキシー』ニ就イテ」に記録されている被験者14名である可能性が極めて大きい(29)。
 さらに、ヒル・レポートにある「流行性ペスト」66例(うち64例)とあるのは、1940年の新京・農安のペスト流行にさいして、死亡した患者から採取され、731部隊の平房に持ち帰って作成された標本である。この中で、1991年に発見されたアメリカユタ州ダグウェイ実験場資料館所蔵のダグウエイ文書の「Q報告」(30)(ペスト菌報告)に記されているイニシャルの氏名のうち、新京の分は、解学詩が指摘するように、満鉄新京工事事務所『ペスト防疫報告書1940年』の中の新京ペスト患者のフルネイムと一致している(31)。
 さらに昨年公表された『高橋正彦ペスト菌論文集』(32)のなかの新京・農安に関する論文により、農安の患者のフルネイムも判明し、これが「Q報告」のインシャル(農安分)と一致することが明らかになった。即ち、731部隊により、平房に持ち帰られ、標本化されたもの全てが、ヒル・レポートが指摘するように、一度1943年に金沢に持ち帰られ、戦後47年6月にアメリカに送られ、最終的にダグウェイ実験場の資料館に収まったことが判明したのである。
 日本の「寺や日本南部の山中に秘匿されていた」標本は、船積みされ、フェル・レポートが書かれたときまでにはアメリカに到着し(6月24日付フェルから参謀副長宛文書)、その標本作成に当たった日本人の病理学者を呼んで、「現在その標本の復元、標本の顕微鏡撮影、そして各標本の内容、実験上の説明、個別の病歴を示す、英文の完全なレポートを準備している」(33)とヒル・レポートでは指摘されている。この「英文の完全なレポート」こそ、ダグウェイ文書にほかならない。注目すべきは、44年に開設された細菌戦研究実験場ダグウェイがQ報告の他にA報告(炭疸菌報告)、G報告(馬鼻疸菌報告)を作成している点であり、日本より持ちこんだ史料・標本のうち実戦に使用して効果のあがるとみられるペスト、炭疸、馬鼻疸の3種類を選んでそれぞれ数百頁におよぶ報告書を作成したことである。
 フェル・レポートは、以下のように、その点を率直に評価している。

 我々が大規模生産という点でも、気象学の研究という点でも、実用的軍需生産という点でも、日本より十分優れていたことは明白である。…(中略)…しかしながら人体実験のデータは、我々がそれを我々や連合軍国の動物実験のデータと関連させるならば、非常に価値があることがわかるだろう。病理学的研究と人間の病気についての他の情報は、炭疸、ペスト、馬鼻疸の真に効果的なワクチンを開発させるという試みにたいへん役立つかもしれない。今や我々は日本の細菌研究について完全に知ることができるので、化学戦、殺人光線、海軍の研究の分野におけるかれらの実際の成果についても有益な情報が得られる可能性は大きいようである。(34)

 そして、ヒル・レポートは、調査で収集された証拠が「日本の科学者が数百万ドルと長い歳月をかけて得たデータである。……かような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。これらのデータは今日まで総額25万円で獲得されたのであり、研究にかかった実際の費用に比べればほんのはした金である。さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に提供した個々の人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるように希望する。」(35)と書いている。
 731部隊の幹部達が極東国際軍事裁判で不問に付されたのは以上のような背景からであり、これが戦後731部隊の事実が永い間隠された根本的原因となった。

3 ソ連による調査報告

 ソ連はアメリカに要請したような石井たちの証言は得られなかった。そこで1949年12月にハバロフスク軍事裁判を開き、細菌兵器の準備と使用に関わった12人を裁いた。公判書類は、翌50年に700頁を越える日本語版『ハバロフスク公判書類』も出版されたが、これに対しアメリカ対日理事会が、この裁判を日本人のソ連拘留問題から目を逸らせるためのソ連によるフレーム・アップであるとの声明を出したこともあり、日本では余り影響力を持たなかった。だが、この『ハバロフスク』公判書類は、731部隊の人体実験を含む細菌・化学戦研究の実態を明るみにだしたという点で、依然として重要な史料である。
 ハバロフスク裁判は、1949年12月25日から6日間、ハバロフスク市の士官会館で行われ、被告12名が起訴された。被告は様々な階位の者が混在していた。山田乙三(関東軍司令官)や梶塚隆二(関東軍軍医部長)や高橋隆篤(関東軍獣医部長)や佐藤俊二(関東軍第五軍軍医部長)のような指揮命令を下す立場にあった者から、三友一男(100部隊隊員)や菊地則光(海林支部員)や久留島祐司(林口支部員)のような者まで含まれていた。731部隊本部・支部の責任ある立場にいた者は、川島清(第四部の細菌製造部部長)と柄沢十三夫(同部の細菌製造課課長)、さらに西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)である。
 起訴状朗読のあと、被告尋問が川島から始まり、4日目の28日までつづいた。ひきつづいて証人尋問に入り12名が証言したが、古都良雄が中国における細菌散布や人体実験(凍傷実験)について、堀田主計中尉(ハイラル支部)が安達での人体実験について、佐々木幸助が柄沢班の細菌製造について、橘武夫(チャムス憲兵隊長)が「特移扱」について、倉員悟(ハルビン憲兵隊)が「特移扱」と人体実験について証言した。長春の100部隊(関東軍軍馬防疫廠)に関しては、桑原が敗戦時に馬鼻疽感染馬を放ち流行病を広げたことについて、畑木章が人体実験について証言した。
 判決の結果は、山田、梶塚、高橋、川島が矯正労働収容所収監(禁固刑)25年、柄沢、佐藤が同じく20年、以下2年まで各被告ごとに異なる刑が課された。12名全員がシベリア鉄道でモスクワ北東200キロのイワノボ収容所に送られ、そこに着いたのは1950年3月だった。死去した2名(高橋と柄沢)を除いて、1956年12月までには全員帰国している。
 ソ連の鑑定書はジューコフ・ヴェレジュニコフ主任鑑定人他5名が共同して作成したが、第四部細菌製造部部長川島清とその部下の細菌製造課課長柄沢十三夫の自白にもとづき、細菌散布について次のように判定した。

 石井四郎ヲ長トスル第731部隊ノ多年ニ亘ル細菌戦準備ハ、純然タル実験業務ノ域ヲ脱シ、同部隊ハ、細菌兵器ヲ実戦ニ使用シ得ルニ至ッタ。斯クテ、第731部隊ハ、中国ノ一連ノ地区ニ細菌兵器ヲ使用セシムベク数回ニ亘ッテ派遣部隊ノ派遣ヲ実施シタ。
 1940年、大量ノ腸チブス菌及ビコレラ菌並ニ多量ノペスト蚤ヲ供給サレタ第731部隊派遣隊ガ石井四郎ノ直接指揮下ニ、中国ノ寧波方面ニ送ラレタ。飛行機雨下法ニヨリ、ペスト蚤ヲ使用シタ結果、寧波方面デペスト病ガ突発シ流行スルニ至ッタ。同派遣隊ノ組織及ビ行動ノ技術上ノ諸特徴ハ、人間ノ大量感染ガ広範囲ナ規模デ実施サレタコトヲ示スノデアル。斯ル大量感染ガ、戦時ニ行ワレタコト及ビ戦時条件ト関連シテ住民ノ移動ガ激シカッタ事実ヲ考慮スル時、同派遣隊ノ工作ハ、特ニペスト流行ノ点ニ於テ、寧波地区ノミニ止マラズ、之レト隣接スル中国各地域ノ住民ニトッテモ極メテ危険ナモノデアッタコトヲ認定セザルヲ得ナイ。
 1941年ニモ、同様ノ派遣隊ガ常徳市方面ニ派遣サレ、該方面ヲ飛行機雨下ニヨリ、ペスト蚤ヲ以テ汚染シタ。此ノ派遣隊ノ工作ハ、前回ニ劣ラズ、危険ナモノデアッタ。1942年ニハ、第1644部隊ノ援助下ニ、同様ニ石井四郎ヲ長トスル派遣隊ガ新タニ第731部隊カラ中国中部ニ送ラレタ。今回ノ主要目的ハ、進撃シ来ル中国軍ニ対シテ流行病菌ニヨル汚染地帯ヲツクル為ニ実施サレタ地上汚染デアッタ。此ノ際ニハ、腸チブス菌及ビパラチブス菌ニヨル水源地、井戸及ビ食糧ノ汚染並ニペスト蚤ノ伝播ガ実施サレタ。(36)

 当の川島清自身は、中国での散布のための細菌の輸送と散布については、次のように証言した。

(問)中国ノ住民ニ対スル細菌攻撃ニ細菌ヲ送ッタ時ニハ、之等ノ細菌ノ梱包ハドンナニシマシタカ?
(答)50グラム宛入ル特製ノ小形壜ニ細菌ヲ充填シ、此ノ小形壜ハ金属製ノサックニ包マレ、若干個ノ此等ノ金属製ノサックハ、又特製ノ大キナ箱ニ梱包サレ、此ノ箱ノ内部ノ周囲ヲ冰デ包ミマシタ。

 川島はさらに、ノミの大量繁殖のために平房の第二部に4つの特別室があり、摂氏30度に室温が保持され、2?3ヶ月の製造周期に45キロのノミを採ることができたと述べたあと、次のように答えている。

(問)細菌戦ノ際、此蚤ヲドウスル積リダッタカ?
(答)ソレハ、ペスト菌デ汚染サレル筈デアリマシタ。
(問)ソシテ、細菌兵器トシテ使用スルノカ?
(答)ハイ、其ノ通リデアリマス。
(問)ペスト蚤ヲドンナ方法デ、細菌兵器トシテ使用シヨウトシタノカ?
(答)私ノイタ時ハ、蚤ヲ飛行機カラ投下スル方法ガ最モ有効ナ方法デアルト看做サレテイマシタ。
(問)中国派遣ノ時モ、蚤ヲ飛行機カラ投下シタカ?
(答)ハイ、ソウデアリマス。
(問)ソレハ、ペスト菌デ汚染サレタ蚤ダッタカ?
(答)其ノ通リデス。中国ニ於ケルペスト蚤ニヨル細菌攻撃ハ、ペスト流行病ヲ発生セシムル筈デシタ。(37)

 この『公判書類』にもとづいて高杉晋吾『日本医療の原罪―人体実験と戦争責任』(亜紀書房、1973年)や山田清三郎『細菌戦軍事裁判』(東邦出版社、1974年)や島村喬『三千人の人体実験―関東軍謎の細菌秘密兵器研究所』(原書房、1976年)が出版された。山田の著書は、記録小説と銘うっているが、内容はソ連拘留日本人の雑誌『日本新聞』の編集にたずさわった経験をふまえて書かれており、史料的にも有益である。

4 1980年代の調査・研究

それから30年を経て、日本で731部隊の実態を一挙に明るみに出したのは、1981年の森村誠一『悪魔の飽食』であった。それは、日本、アメリカ、中国の取材を通じて、731部隊の実態の解明を深めていき、81年から83年にかけて毎年1冊ずつ刊行され、最終的には3部作となったものである。即ち、1981年に『悪魔の飽食』が731部隊の旧部隊員30名以上の聞き取り、『ハバロフスク公判書類』、北野政次等の医学学術論文等の既刊文献にもとづいて書かれ、つづいて82年に『続・悪魔の飽食』が主としてアメリカ側資料トムプソン・レポート等の発掘にもとづいて書かれ、さらに83年に『悪魔の飽食・第3部』が主として中国(ハルビン、平房、長春)での現地調査にもとづいて書かれた。取材は日本からアメリカへ、さらに中国へと国際的な広がりを持っていき、それに伴って第1部の旧731部隊隊員からの聞き取り、第2部のアメリカ側による部隊員の尋問調査資料、第3部の中国現地の聞き取りや遺跡調査などというように、731部隊が異なった角度から解明され、それらが整合性を持ち、相互に支え合っていることを明確にしていった。
こうして照射された731部隊の実態は、多くの日本人にそれを周知されると同時に、我国の現代史研究の空白部分を埋めたものとして学界にとっても大きな貢献をなしたことは、衆目一致するところであろう。
森村『続・悪魔の飽食』は、外国でも書評され、その内容が紹介されている。『マンチェスター・ガーディアン』に載せたロバート・ウィマントによる書評「ハルビンの屠殺者―戦犯への実験・日本の第二次世界戦争」は、『コネティカット・メディスン』(1983年3月号)に転載されたが、731部隊における「生体を医学の進歩のため解剖するこれらの実験は、極めてグロテスクなので、それに比較するとアウシュビッツのガス室も人間的にさえみえる」と書き、旧部隊員上園直二とのインタヴューを交えて、森村の著書から内藤良一、吉村寿人、北野政次等旧部隊幹部の実験内容を詳しく紹介し、戦後かれらが日本の医学界の重鎮として活動してきたと指摘している。
さらに、書評者は日本政府の、1982年春の731部隊についての最初の公式見解に次のように言及している。これは、同年4月6日、厚生省によって衆議院の内閣委員会に提出された「関東軍防疫給水部隊略歴」という数頁の文書についてである。「それは、1285名の兵士と1472名の市民(日本赤十字も含めて)が関連したことを明らかにした。だが、それですべてである。犠牲者の数や国籍については何ら明らかにしていない。ハルビンの屠殺者の命を救った、部隊長石井四郎と合衆国軍との間の戦後の秘密協定についても何ら明らかにしていない。」(38)
だがじじつ、この「部隊略歴」は、部隊の正式発足が1936年で、その後再編強化され敗戦時には支部も含め約2300名の隊員がいたことだけを明らかにしたのであり、人体実験については、全く言及されていない。それ故書評者は、次のように書いている。
「多くの日本人は自分たちの戦争を泥酔状態、つまり、最悪の逸脱行為は翌朝には許され忘れられる状態とみなしている。健忘症を促進させるという日本の公式態度は、東アジアの国々を激怒させたが、その態度は日本における反戦精神の弱体化や軍事支出の拡大と軌を一にしている。しかし、歴史学を書きなおす努力は、実際、数年前に始まった。―家永三郎が歴史教科書の一部を書き直させる圧力に反対しておこした教科書をめぐる訴訟は、1960年代に溯る。」(39)
常石敬一『消えた細菌戦部隊』も、731部隊の全貌を把えた著書であった。本書は『ハバロフスク公判書類』、『大東亜戦争陸軍衛生史』(陸上自衛隊衛生学校、1968?1971年)、『軍医団雑誌』等を資料として、731部隊の成立前史、部隊の編成、生体実験の実施、特移扱の実態について明らかにしたが、特に、石井四郎、北野政次に焦点を合わせ、かれらの個人史も視野に入れ、731部隊との関わりとかれらの果たした役割を解明した。
また、部隊における流行性出血熱や凍傷の研究を追跡し、さらにペスト感染ノミの散布実験や榴散弾爆弾による炭疽菌の散布実験、細菌培養とその大量生産についても分析している。凍傷実験に関しては、吉村寿人の「凍傷ニ就テ」(国立公文書館所蔵)を基礎的資料とし、尾形恒治の学界報告「凍傷」(1943年3月)や『ハバロフスク公判書類』と交差させながら、人体実験の行われたことを明らかにしている(40)。
「凍傷ニ就テ」は、吉村寿人による1941年10月26日の「第15回満州医学会ハルビン支部特別講演」である。吉村寿人は京都帝国大学医学部を卒業後、1938年陸軍技師として731部隊に所属し、敗戦まで第1部細菌研究の中の凍傷研究(吉村班)の責任者として平房に勤めた人物である。戦地の凍傷をいかに防ぐかは寒冷地での戦闘では解決しなければならない課題であり、凍傷実験の目的もそこにあった。
この資料は、人体実験を行なったことを明瞭に示す数少ない文献的資料の一つであるが、例えば、実験5では、5名の「被害者」について「諸種ノ生活条件ヲ変ヘタル後ノ血管反応ノ状況ヲ観察シ」抗凍傷指数を算出している。この「生活条件」の「空腹?」とは「絶食3日後」であり、「睡眠不足」とは「一昼夜不眠」、「水浴後」とは「10℃水中ニ10分」等などである。実験6は、「苦力101名ニツキ抗凍傷指数ヲ求メ」ている。実験1は、凍傷の発生をみるために塩水に手を入れさせ、その温度を下げていき中指に装置した「プレチスモグラフ」で、皮膚温度や指容積の変化を記録・撮影したものだが、零下20℃まで下げている(41)。
森村、常石と並んで1981年には、重要な論文がアメリカで発表された。ジョン・パウエルは『ブレティン・オヴ・ディ・アトミック・サイエンティスツ』誌に、「歴史における隠された1章」を寄せ、アメリカが国益のために戦犯免責を与えながら、巧妙に人体実験の成果を獲得した経過を明らかにした。『ワシントン・ポスト』(1976年2月19日)は、すでにTBSディレクター吉永春子のドキュメンタリー(1976年2月2日放映)について、吉永が日本中を取材し、20名の旧部隊員と接触し、その中で、協力的な江口豊潔、高橋正彦など4名の証言が、『ハバロフスク公判書類』と完全に一致したと報じていた。
パウエルは、この吉永のドキュメンタリーだけでなく、『ハバロフスク公判書類』や1947年6月、7月にGHQのマッカーサー総司令官やウィロビーG?部長と、アメリカ国防総省との間に交わされた前述の秘密電報等を史料としながら、アメリカが731部隊幹部の戦犯免責と引き換えに実験「成果」を獲得した裏取り引きの過程を、世界で最初に解明し公表した(42)。これらの史料は、パウエル自身の国家反逆罪の裁判が無罪となり、その後、自らの裁判関係資料の入手をアメリカ当局に求めて裁判に訴え、それに勝訴したのちもなお当局は史料を提出せず、代わりのものとしてパウエルに提示したのが、偶然、前述したアメリカと731部隊幹部との間の裏取り引きを示す史料だったのである。また、パウエル論文が、前述のヒル・レポートを紹介し、731部隊で人体実験が行われていたことを示した点も極めて重要である。
旧731部隊員の聞き取りは、郡司陽子によっても行われ、1982年までに同氏編『真相 石井細菌部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』(徳間書店、1982年)、および同『証言731石井部隊―今、初めて明かす女子隊員の記録』(徳間書店、1982年)として刊行されていた。
旧部隊員の体験記録の公刊は、少年隊員として入隊した秋山浩(変名)による『特殊部隊731』(三一書房、1965年)が早い時期に刊行されたが、1980年代に入って秋山寿恵夫『医の倫理を問う―第731部隊での体験から』(勁草書房、1983年)や越定男『日の丸は紅い泪に―第731部隊員告白記』(教育史料出版会、1983年)が刊行された。越定男は、1945年8月ソ連参戦後、731部隊で証拠隠滅をはかって全員殺されたマルタの骨や灰をカマスにつめ、松花江に運んだ体験を描いている。
また、1984年には、常石敬一『標的・イシイ―731部隊と米軍諜報活動』(大月書房)が刊行され、アメリカによる731部隊や、1644部隊の実態調査の内容が翻訳され、731部隊のいっそう詳細な実像が明らかになった。
さらに、1988年8月には、『陸軍軍医学校防疫研究報告』61冊が山中恒により発見され(『朝日新聞』1988年8月21日に公表)、石井四郎によって東京の新宿区戸山の陸軍軍医学校内に設置された防疫研究室と平房の731部隊本部との密接な関係が明らかにされた(43)。
とくに、その中の「支那事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関運用ノ効果ト将来戦ニ対スル方針並予防接種ノ効果ニ就テ」は、1940年3月30日、石井四郎による陸軍軍医学校で開催された軍陣医学学会での講演記録であるが、この中の第83図「本事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関」によれば、固定の防疫給水部として、ハルビン、北京、南京、広東とともに5番目に陸軍軍医学校防疫研究室が、「部隊長石井四郎、東京、310名、昭和8年4月1日編成」という記述とともに並置されており、防疫研究室とハルビンの731部隊本部の密接な関係を示している。因みに、そこではハルビンの関東軍防疫給水部は「部隊長石井四郎、ハルビン、1836名、昭和11年8月11日編成」とされている(44)。

5 戦後中国による調査報告

中国による戦後調査は1950年に始まった。同年3月、中央人民政府衛生部[省に相当]は東北人民政府衛生部に731部隊の調査を指示し、731部隊と100部隊の調査が着手された(東北人民政府衛生部通知  第17号、1950年3月11日)。それらの調査結果は、「平房細菌工場記録」(1950年)、「安達鞠家窰細菌工場記録」(1950年)としてまとめられた(45)。
前者は、部隊破壊後逃げたネズミがもたらした1946年の部隊周辺のペスト流行について、義発源村など住民の告訴状、防疫に参加した市政府衛生局防疫科長傅桂深の談話、松江省保健防疫科長戞徳敬の談話を載せたあと、死亡状況表を載せているが、それによると大東井子で28名、義発源で36名、後二道溝で39名、合計で103名が死亡している。
また、後者の安達の記録では、初めて安達の野外実験場の建物配置図が収録され、飛行場や移動テント(ネズミ飼育実験所)が示された(46)。長春の100部隊については、『長春新報』(50年2月14日)、『東北日報』(50年2月16日)に詳細な記事が載った。
朝鮮戦争中にアメリカが細菌を朝鮮や中国に投下したとの疑惑に対して、1952年3月29日、オスローで開かれた世界平和評議会執行局の会議は、「朝鮮および中国における細菌戦に関する事実調査の国際科学委員会(ISC)」の設立を決議した。ISCの調査が始まると、第二次世界大戦中の旧日本軍による細菌散布にも関心が高まった。当初6人から成るISC調査団は1952年6月末に北京に着いたが、調査団にはイギリスのケンブリッジ大学の生化学者ジョセフ・ニーダムがいた。ISCの700頁に及ぶ報告書の草稿を書いたのもニーダムであった(47)。
ソ連医学アカデミー副会長で細菌学教授の前述のジューコフ・ヴェレジュニコフも調査団の一員であったが、かれはハバロフスク裁判の主任鑑定人を勤めた経歴を持ち、北京に着くとISC最初の会合で、731部隊に関するハバロフスク裁判の記録を提供し、細菌が昆虫に付着し得ることを説明した。ISCの2回目の会合では、中国側が二種類の細菌戦の公式記録を提供した。一つは、常徳のペスト流行に関する中国衛生署からのもので、これは陳文貴報告書そのものである。他の一つは、11都市への細菌攻撃を示すものであった。浙江省は衢州、義烏、金華、寧波の4ヵ所、湖南省は常徳1ヵ所、河北省は正定1ヵ所、山西省が保徳、河曲の2ヵ所など、合計699名の死亡者となっている(48)。これらの数字は、後述するように実際の被害者の氷山の一角である。
ISCは、瀋陽などで調査を行ない、朝鮮の平壌に向かい、そこで陳文貴に会い聴取している。陳文貴は、戦後、新中国の下で中国医学協会西南支部会長を務め、1950年当時は重慶市立寛仁病院の医師であったが、朝鮮戦争時の多数のペスト流行のため、朝鮮の保健省に派遣され、平壌で防疫業務に従事していた。
ISCは52年8月9日に北京に戻り、最終報告を8月31日に発表した。ニーダムはこの聞き取りとすでに入手していた陳文貴報告書から、常徳への細菌攻撃をISCの最終報告書の中に収録している。
ISC調査団の活動は、中国の細菌戦調査を再度促進させた。作業は急がれ、1952年11月30日に、「『731』および『100』細菌部隊の罪悪活動の調査に関する報告」(49)が出された。これは、中国が作成した最初の体系的な731部隊に関する報告書であり、平房のロ号棟破壊跡などの写真34枚が収録されている。
そして、日本軍による細菌散布については、次のように書いている。

 1940年、第731部隊隊長石井は特別派遣隊を率いて寧波地区上空で飛行機からペストノミを散布した。この派遣隊はさらにチフス菌70キログラムとコレラ菌50キログラムを積んでいた。1941年、第731部隊はまた特別派遣隊を華中の常徳地区に派遣してペストノミを散布した。この時は130キログラムのパラチフス菌と炭疽菌を用意していた。この実験は南京『栄』部隊も参加した。反ソ細菌戦争を準備するため第731部隊と第100部隊は1942年にソ連国境地帯を偵察し、細菌戦別動隊をソ連国境付近に派遣して活動させた。第100部隊は鼻疽菌でソ連国境近くのデルブル河を汚染した。(50)

この時は中国被害地での調査はまだ行なわれていない。
その後、1989年になって、中国は731部隊と細菌戦に関する史料集を公刊した。それは、中央档案館他編『細菌戦与毒気戦』(『日本帝国主義侵華档案資料選編第5巻』、中華書局)であるが、731部隊関係者の撫順戦犯管理所における供述書も多く含まれていた。同史料集の中の細菌戦に関する部分は、のちに3分冊『証言 生体解剖―旧日本軍の戦争犯罪』、『証言 人体実験―731部隊とその周辺』、『証言 細菌作戦―BC兵器の原点』(いずれも同文館)として1992年までに訳出された。
撫順戦犯管理所の日本人戦犯の供述には、次のような経緯があった。ソ連は1950年2月の中ソ条約締結にともない、シベリア拘留者の内、969名を中国に引き渡したが、かれらは撫順戦犯管理所に収容されることになった。他に山西省で捕まえられた140名が太原戦犯管理所に収容されたが、中国が戦争犯罪を裁いたのは両者の合計1109名であった。かれらに対し、中国は一人も処刑することなしに1017名を起訴猶予処分にして釈放帰国させ、45名だけを裁判にかけた(拘留中47名死亡)。有罪判決は下ったが、全員刑期満了以前に釈放され、1964年までに帰国している。
撫順での供述書は、榊原秀夫(731部隊林口支部長)クラスの幹部は例外で、多くは少年隊員や一般の隊員であった。これは731部隊全体の組織系統の把握というような点では難点があるものの、逆に日常生活での生々しい具体例が豊富に示されているという点に長所がある。例えば、第4部の細菌製造部部長川島清と細菌製造課課長柄沢十三夫のハバロフスク裁判での供述に対して、柄沢班の一員だったこともある雇員田村(篠塚)良雄の証言は、川島、柄沢の証言を裏付け、一層具体化し豊富化しているという関係にあるのである。
田村良雄の供述書(1954年9月8日)は、1950年5月上旬から6月上旬の間、731部隊の田中班と篠田班がノミの培養を行なったさい、田村は18名の少年隊員とともにこの活動に参加し、「同年6月上旬、田中技師の指揮の下、15名の少年隊員とともに900ccのノミを繁殖させ、これらのノミは動物班に引き取られ、2000匹のネズミとともに航空班によって運ばれ、南京行の飛行機に積み込まれた。」また、1940年、「細菌大量生産によって製造されたチフス菌、パラチフス菌、コレラ菌、ペスト菌、脾脱疽菌、合計270キログラムは飛行機で南京および華中地区へ運ばれ、関東軍防疫給水部本部によって華中地区に派遣された柄沢十三夫率いる遠征隊がこれらの細菌を使用して謀略を実行し、華中地区の中国人民を殺害したのである」(51)とも述べている。
さらに1941年7月上旬から9月上旬の間と、翌42年6月中旬にかけて、田村ら柄沢班30名は柄沢班長の命令によってチフス菌、パラチフス菌、コレラ菌を製造し、41年にはこれらの細菌の合計約70キロが、42年には約140キロが航空班の飛行機で南京に輸送され使用された、と証言している。これは日本軍の細菌散布の時期と対応している(52)。
『細菌戦与毒気戦』は、1940年の浙江省衢県、寧波、金華の細菌投下に関する陳万里らの報告(1940年12月)も収録しているが、それによると、「今回、朶県(寧波)と衢県で前後して発生したペストは、両県とも極めて発病が速く、かつ伝染病学でいうペストの先行的予徴、例えば大量の死んだネズミの発見などがなかった。しかも、調査によって判明したところによれば、朶県はペスト発生の一週間まえに敵機が汚染区に小麦を投下、衢県では10月4日に敵機がやはり現在の汚染区の中心に穀類や粟を投下しており、その中にノミが混ぜられていた」。このノミは転々と配送されたため試験時期が2ヶ月近く経ており、病原菌の存在は証明できなかったが、「しかしながら、敵機のこの種の行動はちょうど両県のペスト発見地点と一致しており、万里らの科学的かつ客観的な推論によれば、両県のペスト発生原因は、敵機が散布した物質と極めて大きな関連があると思われる。さらに、細菌の敵機のペスト菌を金華に投下するという行動も、敵機が細菌戦を行なっているということの証明である。」(53)
さらに、同書には金華に投下された物質についての陳万里らの報告も併せて収録されている。そして容啓栄『浙江ペスト調査報告書』(1941年)(54)の抄録も収録し、これらによって寧波、衢県、金華の状況全体が判明した。常徳でのペスト流行について容啓栄『防治湘西鼠疫経過報告書』(抄録)と陳文貴報告書を載せたのも、この中国側の史料集である(55)。

和気朗は、戦後、国立予防研究所でペストワクチンの研究に携わった細菌学者として訳書『細菌作戦』に「解説」を書いているが、その中で、「ペスト診断について」、常徳ペストの陳文貴報告などを例として、「病学的にみても1940?41年に中国浙江省・湖南省常徳において流行した伝染病がペストである、と診断に誤りはなく、中国側医療関係者の検査方法にも基本的な問題はないといってよいと思われる」(56)と指摘し、つづいて和気は、日本軍の飛行機による細菌戦とペストの流行との因果関係について次のように言及している。

 まず浙江省衢県や寧波、湖南省常徳で流行したペストが自然発生したものか、あるいは人為的なものかという点を考えてみると、
 ?ペストは本来齧歯類間の伝染病であり、それがノミによって媒介されヒトに感染する。そのためヒトの間でペストが発生する前には必ず齧歯類間の流行があり、その結果ネズミなどが大量に死亡し、それらの死体はペスト流行を告げる前兆となるのである。1940年の浙江省衢県や寧波、41年の湖南省常徳においてペストの流行前にそうしたネズミの大量死は発見されておらず、この点が自然発生とは異なる。
 ?発病率も人為的流行とみて不思議ではない。
 ?ペストの流行は本来一定の方向性をもって波のように移動していくものであるが、本書で報告されている例はどれも散発的で、日本軍の奇妙な空襲のあった地域で発生している。
 以上の3点から、1940?41年にかけて中国華中地域で発生したペストはけっして自然流行によるものではない、と判断してよいだろう。」(??は略す)

 そして、和気は、「?筆者は、ペスト・ワクチンの製造を任務として1954年から国立予防衛生研究所に勤務したが、戦時中石井部隊(731部隊)や南京の防疫給水部にいて、ペスト菌やノミを扱った数名の人の思い出話を聞いている。そのなかには死亡した人も現存する人もいる」と書いている。
 以上の理由により、和気は、「1940?41年の中国浙江省・湖南省におけるペスト流行は、あきらかに日本軍が散布した細菌によって人為的に引き起こされたものと考えられ、これを中国側の『政治的宣伝』として退けてしまうことはきわめて非科学的といわなければならない」と結論づけている。このような、日本軍による細菌散布がペスト流行をもたらしたという因果関係を明確化した和気の立論は、極めて重要なものである。
 ここでとくに留意したい点は、ソ連が戦犯を裁くために尋問し、一部ではあれ『ハバロフスク公判書類』として公刊したのに対し、アメリカは戦後4次にわたる調査を通して戦犯を裁かずに、細菌・化学戦のための実験「成果」を入手した点である。ヒル・レポートの「各論」が細菌別に実験の技術的内容を詳細に聴取していることに示されているように、アメリカは、ソ連に知られることを極度に警戒しながら、自らの国益のために調査したのである。従って、歴史学においては、米ソの各々の調査報告のなかに共通した記述があれば、それは歴史的事実として認定しうるということである。さらに米ソに加えて、中国の公刊した資料が加わってトライアングルの相互論証関係を形成しているといえる。

6 1990年代の調査・研究

 1990年代には市民運動も大きな進展をみせた。89年7月に東京都新宿区戸山の国立予防衛生研究所の建設現場から出てきた多数の人骨(約100体)は、その場所が陸軍軍医学校の跡地であり、そこに防疫研究室(室長石井四郎)があったことから、731部隊との関連が考えられ、究明するための市民団体が結成された。その市民運動の中から「731部隊移動展」が93年7月から始まり、1年半の間に全国64ヶ所で開催され、参観者は22万人を数えた。
 さらにその延長線上に95年夏、ハルビンで「731部隊國際シンポジウム」が開催され、日本と中国からそれぞれ約100人が参加し討議を重ねたが、その記録は『日本軍の細菌戦・毒ガス戦』(明石書店、1996年)として刊行された。
 「731部隊移動展」のなかで過去の事実を語りはじめる旧部隊員などが現れ、731部隊関係者の証言集『細菌戦部隊』(晩聲社、1996年)も刊行された。この本は、細菌散布に関する証言だけみても、ノモンハン事件の田村良雄証言、新京・農安ペストについての田村、鎌田信雄証言、731部隊田中英雄班のノミ培養についての小笠原明証言、北京1855部隊のノミ培養についての伊藤影明証言、南京1644部隊の人体実験についての松本博証言、広東8604部隊の香港難民大量虐殺についての丸山茂証言、シンガポール9420部隊についての大快良明証言、というように、現在収集可能な証言を網羅的に収録している。
 1990年代にはジャーナリズムも次々に731部隊のドキュメントを制作したが、とくにNHKが1992年4月に2日間放映した『731細菌戦部隊』では、ソ連のKGB解体によって明るみに出たハバロフスク裁判の基礎史料やアメリカ・ユタ州のダグウェイ文書をもとに、戦後の731部隊幹部の犯罪免責過程がうき彫りにされた。すでに引用したダグウェイ文書は、そのとき発見されたものである。
 その間に731部隊についても著作が次々と刊行された。まず資料集としては、朝鮮戦争時に中国側が行なった731部隊関係の前記の調査資料(遼寧省档案館所蔵)が小林英夫・児島俊郎編、林道夫訳『731細菌戦部隊・中国新資料』(不二出版、1995年)と題して刊行された。
 木下健蔵『消された秘密戦研究所』(信濃毎日新聞社、1994年)は731部隊も含めた陸軍登戸研究所に関する包括的な本であり、『731部隊〈アジアの声第8集〉』(東方出版、1994年)は、93年の「心に刻む会」の大会報告集である。常石敬一『医学者たちの組織犯罪―関東軍第731部隊』(朝日新聞社、1994年)は、日本の医者が直接平房に行っただけでなく、防疫研究室の嘱託医として、より多くの医者が平房の実験に間接的に関わっていたことを明らかにした。
 さらに、日本軍の細菌作戦の策定と実施を明示する史料の発見が、それに続いた。吉見義明らによる1993年の防衛庁防衛研究所図書館所蔵の井本熊男業務日誌の発見がそれである(57)。井本日誌によると、1940年の「目標 作戦浙〓沿線都市」とする細菌作戦は、同年6月5日に策定され、実施は7月中、実施部隊は支那派遣軍総司令部直轄、責任者は石井四郎とされ、ペストノミの雨下攻撃とすることが決められたことが分かる。
 その後、井本が7月22日に杭州を視察し、細菌戦出撃拠点として杭州市の旧中央航空学校を使用することを決定したこと、7月25日に731部隊に対し人員、武器、機械の輸送が命じられ(関作命丙第659号)、当作戦のため臨時編成された奈良部隊がハルビンから南京に着くまでの経過、到着後部隊員が南京1644部隊員たちと接触したこと、9月10日付で大田澄と増田美保(731部隊航空班)から井本宛に「寧波ト衢県ハ目標トシテ適当ナルガ如シ。(金華ハ?)」と報告したこと、9月18日には井本と奈良部隊との間で寧波、金華、玉山を細菌攻撃することが確認されたこと、等々が明記されている。
 1941年の常徳への攻撃も井本日誌では詳細に記されており、41年9月16日に大本営陸軍部指示により常徳に対する攻撃が発令されたこと、11月4日、日本軍機は朝6時50分に常徳上空に到着したこと、飛行機には「アワ[ペスト感染ノミ]36kg」を準備したこと、霧が深く高度を1000メートル以下に落として散布したことなどが記録され、また、1942年5月から9月末にかけて実施された浙〓作戦においては、地上にさまざまな細菌を散布したことを記録している。42年5月27日の参謀本部での細菌攻撃の打合わせ会には石井四郎、増田知貞、増田美保などが参加し、飛行機は新しい散布器をつけた97式双発機を使用すること、コレラ、チフス、パラチフス、ペストが使用可能な細菌であること、ペスト菌は平房に2キロ、南京に1キロ、その他に1キロ、合計4キロあることが確認された。
 しかし、7月15日には、現地の支那派遣軍のなかに地上の細菌散布は味方に被害が出ると懸念する声があり、またネズミ不足もあって、攻撃は8月中旬以降に延期された。
 井本日誌の8月28日付の報告には、広信、広豊、玉山ではペスト菌を地上で散布したことが示され、3つの方法、すなわち、毒化ノミ(3地域とも)、ネズミに注射して放す(広信と玉山)、「米ニP[ペスト]ノ乾燥菌ヲ付着セシメネズミ―ノミ―人間ノ感染ヲ狙フ」(玉山)といった方法が実施され、さらに江山と常山では、コレラ菌を「井戸ニ直接入レル、食物ニ付着セシム、果物ニ注射」し、衢県と麗水ではチフス菌とパラチフス菌などが散布されたことが示されている。さらに南京に細菌を集め、飛行機で衢州に送り自動車で目的地まで運んだことも記されている。このような日本軍側の細菌作戦計画と実施を示す井本日誌の発見は、日本による細菌の散布と疫病流行の因果関係を完全に証明することになったという意味で、研究史上大きな意義をもつものである。ここに至って先に指摘した米ソ中のトライアングルの相互論証関係は、日本の史料が加わり四角関係を形成したということができよう。
 また、『高校生が追う――ネズミ村と731部隊』(教育史出版会、1996年)は、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部が遠藤光司の指導の下で行なった研究成果であり、地元の春日部地方の農家で飼育されたネズミが731部隊に送られたことを追跡した記録である。
 森正孝らは浙江・江西省の細菌被害調査を91年より続け、森正孝・糟川良谷編『中国側史料――中国侵略と731部隊の細菌戦』(明石書店、1995年)を刊行した。400名近いペスト死者を出した義烏市郊外崇山村の人々は、94年10月8日付で在中国日本大使館に訴状を出し、細菌戦に対する日本政府の謝罪と賠償を求めた。森らは、94年に遺族から日本政府に対し謝罪と補償を求める訴状を託されたのを契機に、細菌戦の実態を究明する組織作りをすすめた。
 その結果、96年6月に「日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会」が結成され、浙江省の諸地域だけでなく常徳も含めた細菌戦被害調査が精力的にすすめられた。「明らかにする会」編著『細菌戦が中国人民にもたらしたもの―1940年の寧波―』(明石書店、1998年)は、寧波への細菌攻撃と被害に関する豊富な史料を提供している。
 また、中国人の側では、731部隊に関して、韓暁・辛培林『日軍731部隊罪悪史』(黒龍江人民出版社、1991年)につづいて、韓暁(山辺悠喜子訳)『731部隊の犯罪』(三一書房、1993年)が刊行され、「石井部隊はノモンハン戦争の決死隊に参加した」(同書第3章のタイトル)ことがより詳しく指摘された。韓暁・金成民『日軍731部隊罪行見証(第1部)(第2部)』(中野勝訳『死ぬまえに真実を―侵略日本軍731部隊の犯罪』(上)(下)、青年出版社、1997年)は、(上)の中国人の証言と(下)の日本人の証言から成っているが、主に731部隊に関してのものである。
 細菌戦に関しては、細菌被害地の地方史研究が進んだ。寧波については黄可泰・呉元章主編『残絶人寰的細菌戦―1940年寧波鼠疫史実』(東南大学出版社、1994年)とその続編ともいうべき黄可泰・邱華士・夏素琴主編『寧波鼠疫史実―侵華日軍細菌戦罪証』(北京中国文連出版公司、1999年)が刊行され、常徳については、陳大雅他主編『辛巳劫難―1941年常徳細菌戦紀実』(中共中央党校出版社、1995年)が刊行され、衢州については、邱明軒『罪証―侵華日軍衢州細菌戦史実』(北京中国三峡出版社、1999年)が刊行されたのである。関連地域には、細菌戦被害調査の委員会が結成され、被害者名簿の作成などの調査が進んだのもこの数年間のことである(58)。
 英語圏の著書では、731部隊と細菌戦に関する総合的な著作として、まずPeter Williams and David Wallace, Unit 731The Japanese army's secret of secrets, Hodder & Stoughton,1989 が最も早いが、それにつづいて、Sheldon H. Harris, Factories of Death―Japanese biological warfare 1932-45 and the American cover-up, Routledge,1994が刊行され、シェリドン・ハリスの著書は、近藤昭二訳『死の工場―隠蔽された731部隊』(柏書房、1999年)として刊行されている。さらに、Hal Gold, Unit 731-Testimony,Yenbook,1996も刊行された。
 一方、1992年から731部隊と細菌戦に焦点を合わせた日中共同研究『15年戦争期の中国における疫病の社会史研究』が、慶応大学経済学部と中国吉林省社会科学院日本研究所等との間でなされ、その成果は、731部隊に関しては、関成和著、松村高夫・江田いづみ・江田憲治編訳『731部隊がやってきた村―平房の社会史』(こうち書房、2000年)として、また細菌戦に関しては、松村高夫・解学詩他著『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』(本の友社、1997年)として刊行された。後者は中国版『戦争与悪疫―731部隊罪行考』(北京、人民出版社、1998年)も刊行された。
 『戦争と疫病』は、731部隊と100部隊について素描したのち、新京ペスト謀略―1940年(解学詩)、浙江・江西細菌作戦―1940?44年(李力)、湖南常徳細菌作戦―1941年(松村高夫)、国民政府の防疫戦―1938?45年(江田憲治)、東北ペスト大流行―1946?48年(郭洪茂)の分析がつづき、細菌戦の研究史(松村)で結ばれるという、細菌戦の総合的研究である。即ち、中国各地の档案館から現在可能な限りの細菌戦関連史料を蒐集し、さらに1国だけの史料に依拠することなく英、米、日本など関連諸国の史料も使用しながら、後に詳述するように、日本軍による細菌散布という歴史的事実と疫病の流行との因果関係を重層的複合的に解明したものである。
 上記2冊の著作では、731部隊は平房で少なくとも3000人の中国人などを人体実験しただけでなく、製造したペスト菌を実際に中国十数都市に散布し、多数の被害者を生み出した事実が明らかにされている。中国人は日本軍によりいわば2重に死を強制されたのである。
 そしてこの2重の死に対して、現在2つの裁判が進行中である。1つは、平房の731部隊における人体実験の犠牲者の遺族による訴訟であり、95年8月に、731部隊の犠牲者朱之盈の妻・敬蘭芝や、王輝軒と王学年の遺族たちが、日本政府に対し謝罪と補償を求めて訴えを起こしたものである。他の1つは細菌戦実行による被害者および遺族によるものであり、これはいうまでもなく本訴訟である。

7 731部隊と細菌戦をめぐる訴訟

 近年、731部隊と細菌戦をめぐって2つの訴訟の判決がだされた。1つは家永教科書第3次訴訟であり、1997年8月に最高裁で家永側勝訴、国側敗訴の判決がだされた。他の1つは上に述べた95年8月に731部隊の人体実験による犠牲者の遺族により提訴されたもので、99年9月に東京地裁で国側勝訴の判決があり、原告側が控訴し、現在東京高裁で審議中である。

 a、家永教科書第3次訴訟
 この訴訟は、家永三郎が高校学校用日本史教科書『新日本史』に日中戦争の記述の脚注として、「ハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕えて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた」(277頁)と書いたのに対して、文部省検定当局が「731部隊のことは現時点ではまだ信用にたえうる学問的研究、論文ないし著書などが発表されていないので、これを教科書に取り上げることは時機尚早である。事実関係が必ずしも確立していないので、もう少し固まったものが出るまで待つべきだ」として、全面削除を命ずる修正意見を出したことに端を発する。
 家永が改訂検定申請原稿において先の脚注をつけたのは1983年9月4日であり、文部省検定当局が先の一文の全面削除を命ずる修正意見をつけたのは83年12月27日である。家永は、この修正意見に対し、84年1月17日付で、「731部隊のことは当時の軍幹部、軍医、部隊員やいわゆる帝銀事件捜査担当者等の証言としての性格をもつ雑誌論文などのおびただしい文献や、テレビ・ドキュメント等が存在するので、今日ではすでに公知の事実である。731部隊の建物は今も残っており、日刊新聞にもその写真がたびたび掲載されて、多数の国民は731部隊のことを知っている。単に学術書に広く記載されていないという理由で教科書に載せてはいけない、というのは納得できない」と意見申立てを行なった。しかし、文部大臣は84年2月1日、この意見申立てを認めない旨の決定を通知、家永はやむなく731部隊に関する記述を全文削除したのである。
 東京地裁では、1987年に家永側から歴史学者江口圭一と『悪魔の飽食』の作家森村誠一が証言し、国側からは歴史学者秦郁彦が証言した(59)。第1審判決(加藤判決)は、一方で、家永側の膨大な証拠にもとづいて、家永原稿に学問的根拠があることを認め、「本件原稿記述程度の731部隊に関する記述についてその削除を求める修正意見を付すことが果たして当を得たものといえるかは問題とする余地のあるところであろう」とまで述べた。
 しかし他方で、判決は秦証言だけを事実上唯一の根拠として、「当時学界においては、731部隊に関する学術的研究は未だ不十分であったとして高等学校の教科書においてこの点についての事実を記述することに慎重であるべきものとする見解もある」と、あたかも1983年検定当時、学界に秦のような見解があったかに読み取れる書き方をしている。
 一審判決は、「これら双方の学問的見解の優劣については当裁判所の判断しうるところではない」としながらも、実質的には、検定理由が「合理的根拠を欠くということはできない」と判定した。
 控訴審では、家永側から筆者松村が、国側から再び秦が証人として立った(60)。筆者の「意見書」及び証人尋問は、主として次のような特徴があった。
(1)『ハバロフスク公判書類』やアメリカ側尋問調書や中国側史料がいかなる経緯で作成されたかを明らかにし、それぞれが独自に作成されたにもかかわらず、内容的に相互に照応し、その事実性を証明しあう関係にあることを明確にした。
(2)第一審で焦点の1つとなった731部隊における人体実験を存在を、改めて確認した。秦証人が「フェル・レポート」が見つからないかぎり人体実験が行なわれたとは確信できないと第1審で主張していたのに対し、松村は「フェル・レポート」が存在することを確認した。
(3)1981年には森村、常石、パウエルの著作が刊行され、教科書記述程度のことはすでに検定時に十分明らかになっていたことを示した。
(4)検定時以降証言の時点(1991年)までのその後の研究の発展は、家永教科書記述が正しいことを一層確定した。その間、731部隊の問題がテレビ・ドキュメントや新聞を通して国際的な反響を呼んだことも紹介し、特にアジア諸国の人々が、判決を注視していることを指摘した。
1993年10月20日、東京高等裁判所の第2審判決(川上判決)は、731部隊に関しては理由らしい理由も示さずに家永側敗訴とした。当判決は国側のいう「時期尚早論」を繰り返したにすぎず、731部隊に関しては明らかに第1審判決より後退していた。
判決で理由らしきものは、わずかに「本件検定処分当時における731部隊に関する研究は、早くからその存在に言及した出版物等はあったものの、飛躍的にその事実の解明が深化したのは、本件検定の2年前である」1981年に発行された常石敬一『消えた細菌戦部隊』および森村誠一『悪魔の飽食』であり、「しかも右『悪魔の飽食』はそれが元とした史料を学術書のような形式では明らかにしておらず、他の研究者がその記述内容の真実性を検証するには困難があったといわざるを得ない」としている個所だけである。
筆者は1994年4月に、第2審判決を批判して次のように書いた。「なぜ、検定の2年前にすでに『飛躍的にその事実の解明が深化した』のに、全面削除を命じたことが正当といえるのだろうか、まったく不可解である。制度違憲、適用違憲は依然として重要な点であるが、最低限裁量権濫用に関して整合性のある判決は、『飛躍的にその事実の解明が深化したのは、本件検定の2年前である』から、『内容の選択において時機尚早であるとして修正意見を付した判断過程に、看過し難い過誤があったと認めざるを得ない』とする以外にはなかったはずなのである」(61)と。
そこには『悪魔の飽食』に対する評価が混乱し、学術書のような形式を取っていないために、他の研究者が追試できないとされたその著作が、「飛躍的にその事実の解明が深化」させたことになっている。1981年には森村、常石、パウエルの著作が発表され、すでに731部隊の核心は十分判明したという家永側の主張を判決も認めざるをえず(パウエルは無視されたが)、しかも国側の「時期尚早論」を通そうとしたことから、判決は覆いがたい矛盾を露見していた。
そして、1997年8月29日の最高裁第3法廷は、家永側勝訴の判決を出したのである。最高裁判決は、731部隊に関する家永記述を「全面削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法がある(多数意見要旨―園部、大野、尾崎各裁判官)」とした。
こうして、最高裁「判決は、中国人らに生体実験などをしたとされる日本軍の『731部隊』の記述を削るよう求めた文部省の検定を、新たに違法と認めた」(『朝日新聞』1997年8月30日社説)のである。

b、731部隊人体実験犠牲者に関する訴訟
731部隊の人体実験の犠牲者遺族による訴訟は1999年9月22日東京地裁で判決がなされ、法律論で原告敗訴となったものの、判決内容を見ると事実認定では「731部隊の存在と人体実験について疑う余地がないと認める」としている。
まず、家永第3次訴訟ですでに確定した最高裁判決について、「本件で特に問題とされている『南京虐殺』及び『731部隊』については、本件と同様に国を被告とするいわゆる『家永教科書検定第3次訴訟』の控訴判決〔同1623号(平成10年2月11日号)49頁〕において、教科書に取り上げて記述するのが果たして相当かどうか、どのような形でどのような記述をすべきであるかという観点も含めて、すでに判断されており、少なくとも右訴訟においては、被告団においても、その詳細を除いて、それに相当する事実関係のあったこと自体は争っていないところと認められる」(62)とし、判決のなかで事実関係を次のように述べている。

 1938年(昭和13年)、満州国ハルビンの平房(地名)に我が国の731部隊のため数十棟の建物を備えた研究所と付近の飛行場が建設された。石井四郎の細菌戦部隊は、すでに1934年(昭和9年)頃からその付近の五常(地名)に研究所を設置していたが、これを拡大するため平房を建設したもので、細菌武器の大量生産、実戦での使用を目的とし、そのため『丸太』と称する捕虜に対する人体実験もした。1945年8月の敗戦の間際に証拠隠滅のため、右施設は極度的に爆破された。戦後の極東軍事裁判ではその実態が追及され、日本軍人の責任が問われた。右731部隊の存在と人体実験等がされていたことについては、否定の余地がないところを認められる。(29頁)

「細菌兵器の大量生産、実戦の使用を目的」とする731部隊と称する「細菌戦部隊」の存在が、最高裁(家永第3次教科書訴訟)や東京地裁(731部隊人体実験犠牲者に関する訴訟)で認められた以上、細菌戦の実施とその被害についてもそれらの判決の延長線上にあるものとして法的に法廷で認められることは不可避であろう。

以上、731部隊が細菌兵器を開発し使用した歴史的事実が、散布当時から現在にいたるまで次第に解明される過程を辿ってきた。
日本軍による細菌散布と疫病の流行との間の因果関係が、史料としては1国だけの史料ではなく関連諸国の史料に依拠しながら、徐々に、しかも確実に解明されてきた過程である。その場合、歴史学の今日の方法に照らして、史料とは文献資料だけに限られず、オーラル、写真、遺跡、残された建築物等を含むことはいうまでもない。その因果関係は、空間的、地理的にみるならば、1地域だけを取り上げると、直接的論証が可能な地域と状況証拠で推論する以外に方法のない地域がありながらも、アメリカ、ソ連、中国、日本の史料の全体的相互論証関連の中では明確になってきたし、また、時系列的にみるならば、状況証拠から直接的論証へと、けっして直接的ではないけれども、着実に進行してきたことが理解されよう。
しかしながら、日本では、とりわけ731部隊と細菌戦に関する史料の大部分が未公開である点は極めて重大な問題である。1986年9月1日、米下院復員軍人委補償問題小委員会の公聴会において、ハッチャ―国防総省記録管理部長は、戦後アメリカが入手した731部隊の資料が1950年代後半に日本に返還されると語った。日本の国会図書館は調査の結果、「731部隊に関する第1次資料は、日本へ返却後、最初外務省復員局に渡され、その後防衛庁が設置された際、外務省から防衛庁に移され、さらに戦史室の開設に伴ない、戦史室に移された」(63)ことを明らかにした。
これとは対称的に、アメリカでは、ファインスタイン法が可決され、大統領が署名するなど、731部隊関連資料も原則公開される動きが強まっている。日本でもこうした史料は、1日も早く公開されねばならないし、そうすることによって、731部隊と細菌戦の事実は一層明らかになるだろう。
 

 第3章 細菌戦の実施

1 731部隊における細菌戦準備

 平房の特殊監獄に連行されてきたのは、日本の植民地支配に抵抗したもの、あるいは抵抗したとみなされたものであり、1938年1月26日に発せられた「特移扱二関スル件通牒」(関憲警第58号)により「裁判二付サズ、事件送致ヲセズ」に日本の警察と軍隊が組織的に平房まで連行した。この特殊輸送のことを、当時は「特移扱」と呼んだ。ハルビン駅までは列車で連行し、そのあと平房までは幌と鎖の付いたトラックで運び、特殊監獄に収容した。その目的は人体実験である。
 撫順戦犯管理所における日本人憲兵など70人近い関係者の「特移扱」に関する供述には、731部隊の被収容者が人体実験に供されることをほぼ知っていながら、関東軍司令部の「特移扱」割当を実行していった経過が示されている(64)。そのなかで,42年10月以降東安憲兵隊長であった平木武は、「『特移扱』の経過をのべよ」と問われて、「『特移扱』とはすなわち、憲兵隊が逮捕して抗日地下工作員あるいは甚だしい反満抗日思想を有していたものを、尋問ののち、隊長から関東軍憲兵隊司令官の許可を申請し、ハルビンの『防疫給水部』に護送して、細菌実験に供したものである」(65)と答えている。
 中国人の他にロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが名前を奪われて3桁ないし4桁の番号を付され、「マルタ」と呼ばれて1本2本と数えられた。その犠牲者の数は少なくとも3000人を数えた。少なくとも3000人という犠牲者数は、川島清のハバロフスク裁判予審尋問における、「部隊ガ平房駅ニ在ッタ5年間ニ、即チ1940年ヨリ1945年ニ至ル間ニ、此ノ殺人工場デ殺人細菌ニ感染セシメラレテ殺害サレタ者ノ数ハ、少クトモ3000名ニ達シマシタ」(66)という証言、および、731部隊のレントゲン技師が「マルタ」の番号は1500番まで付けられ、それが敗戦までに2巡したとの証言に依拠するが、さらに最近のハルビンにおける「特移扱」名簿の発見が、その数値の根拠をいっそう確かなものにしている(67)。
  三尾豊(当時、大連憲兵隊本部戦務課外勤曹長)は、1943年10月の大連事件で大連憲兵隊長の指揮のもとで21人を逮捕し、そのうち沈得龍、王燿軒、李忠善、王学年の4人を731部隊に送ったことを、次のように供述している。

 1943牟10月、私は大連憲兵隊本部戦務課外勤曹長であったが、隊長白浜重夫の指揮のもとで、特高課長藤田正少佐以下30名、分隊長平中清一以下20名、満州八六部隊無線分隊小松少佐以下10名とともに、総勢60名で一斉出動をおこない、大連市黒石礁で抗日地下工作員沈得龍夫妻、および同居していた写真技師ならびにそのほかの関係者六名を逮捕し、無線機1合を押収した。つづいて洛陽で中共党員李忠善を、天津で抗日地下工作員王燿軒、中共党員王学年および裕興紡績工場工場長杜某を、海城県哈滝塘村で沈得龍夫人の親戚8人を前後して逮捕した。その後、沈得龍、王燿軒、李忠善、王学年の4名を石井部隊に送って殺害にいたらしめた。そのほかの17名は2週間から1カ月監禁したのち釈放した。この事件において、私は沈得龍の逮捕に関与し、またみずから王燿軒および王学年の遠捕・拷問を行なった。さらに、石井部隊に送るとの報告を提出し、みずから以上の4名を石井部隊に送って殺害にいたらしめた。(68)

 また、大連憲兵隊特高係思想対策班第2班長だった長沼節二は、次のように供述している。

1943年10月初め、私は逮捕班長として、部下を指揮し、大連市黒石礁在住の抗日工作員沈得龍を遠捕した。同年10月中句、憲兵5名を指揮して瀋陽に赴き、李忠善を逮捕、また天津に赴いて王燿軒ほか1名を逮捕した。その後、大連憲兵隊隊長白浜中佐の命令により、前記の4名を石井部隊に送った。(69)

 さらに、大連憲兵隊警務係で伍長の任にあった今中俊雄は、沈得龍などの逮捕隊隊長として行動し、逮捕した人間を「どう処理するか検討したさい、石井部隊に送ることを提案、また憲兵隊長名義で報告書をしたため、関東軍憲兵司令官三浦中将の裁可を申請して、同年11月末、沈得龍、李忠善、王燿軒、ほか1名の共産党員を石井細菌部隊に送った」(70)と供述している。
 人体実験では、細菌兵器開発や「軍陣医学」のためのさまざまな種類の実験が行なわれた。さまざまな種類の細菌を注射して細菌感染効力を検査する生体実験をはじめとして、人間は水分をどのくらい抜いても生きていられるか、低圧のなかに入れたらどうなるか、動物の血液と交換したらどうなるか、X線を長時間照射したらどうなるか等々の実験がなされたのであり、『悪魔の飽食』の作者森村誠一の言葉を借りれば、それは「残酷オンパレード」であった。

 731部隊が細菌の中で実戦で使用できるものとして重視したのは、ペストと炭疽であった。ノミをペスト菌に感染させ飛行機などから投下する方法は、ノミが人間へのペスト感染を媒介する機能もはたし、ペスト菌を空中から投下すれば菌は死滅するという当時の世界の生物学会の常識を超えるものであり、731部隊が考案した独自のものであった。ペスト感染ノミは、ペスト菌を注入した鼠にノミをたからせ、その血を吸わせて製造された。前記のフェル・レポートは、ペスト菌強制感染の実験について、「MID〔使用した動物の50%に感染をひきおこす最少量〕50は、皮下注射では10?6ミリグラム、また経口感染では0.1グラムであることが判明した。菌を5ミリグラム/CC含んだ空気を10秒吸うと、80%が感染した」(71)と報告している。
 また、直接感染については、「潜伏期間は通常3日から5日で、死は発熱が始まってから3日から7日のうちに生じた。人工的にペストに感染させられ腺腫ができて死亡した場合の多くは、死の3日前に肺炎を起こし、ついで高い感染力を示した」と記し、「ペスト爆弾は不安定なので満足できる細菌兵器ではないが、ノミを使ってペストを流行させることははるかに実用的である」(72)としている。これは、ハバロフスク裁判において柄沢十三夫が、1944年の春の安達でのペスト菌実験で、柱に縛られた被実験者から10メートル離れたところでペスト菌で汚染された液体が入った試験管を爆発させる実験が、感染に成功しなかった、と証言しているのに対応している(73)。
 注目すべきことは、フェル・レポートが、「結果としてこの〔ノミを使う〕方法は、部屋の中に実験材料を閉じ込めて行なっても、また低い高度で飛行機から噴霧し菌にさらしても、ともに極めて効果的だった。各種実験に使われた実験材料の30から100%が感染し、死亡率は少なくとも60%だった」(74)と指摘している点である。このように、「ペスト菌を液状で、あるいは乾燥することで安定化することはできなかった」ので、ペスト感染ノミを使う方法を独自に開発したのである。
 炭疽菌については、フェル・レポートが「炭疽の感染量あるいは致死量」として、「感染した人間の死亡率は、皮下注射による感染では66%、経口感染では90%、経口・吸入感染では100%であった」(75)と記している。また、ヒル・レポートでは、炭疽菌は36例の標本(内適切なのは31例)とあり、大田澄の尋問から、人間(Mと記されている)に対し炭疽菌を耳に注射、皮膚に塗布、皮下注射、経口、吸引とさまざまに方法を変えて投与したことを記録している(76)。アメリカのダグウェイ細菌戦実験場が所蔵する「ダグウェイ文書」では、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見を人体模型図入りで記録し、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとに顕微鏡写真入りで記録している(77)。さらに炭疽菌の噴霧実験については、フェル・レポートに、「10立法メートルのガラス室に四人の人間をいれ、1ミリグラム/CC溶液300CCをふつうの消毒用の噴霧器で噴霧した(78)。とあり、ヒル・レポートの「各論」の「噴霧、1947年11月20日、高橋博士」では、チェンバーの大きさや装置が詳しく記されている(79)。
 以上のような実験にもとづき細菌が製造され、実戦で散布されたのである。
 1939年5月?9月のノモンハン事件(ハルハ河会戦)で、731部隊員約20人が腸チフス菌をハルハ河支流ホルステン河上流に撒いたことについては、旧部隊員の西俊英、篠塚良雄、鶴田兼敏の証言がある(80)。それにつづいて、日本軍は40年から42年にかけて中国十数都市で細菌を散布した。即ち、40年秋には浙江省の衢県、寧波、金華で飛行機からペスト菌を散布し、翌41年秋には湖南省常徳で同じく飛行機からペスト菌を散布し、さらに42年には浙〓鉄道沿線の諸都市に地上でペスト菌などを散布したのである。

2 浙江への細菌攻撃

 1940年6月5日、浙江、江西に対する細菌作戦(「ホ号作戦」)のため支那派遣軍作戦参謀総長井本熊男は、参謀本部の荒尾興功(作戦課員)などと打ち合わせ、7月中に浙〓沿線都市に対し、ペストノミなどの細菌攻撃をすることを決めた。7月21日、井本はハルビンに飛んで「石井部隊ニ於テ『ホ』ノ件打合セ」をしたのち、翌22日杭州に飛んで視察し、731部隊員から編成される「奈良部隊」をハルビンから杭州の旧中央航空学校へ進駐させ、そこを細菌戦の前線基地とすることを決定した(81)。一方、石井は「奈良部隊」の編成にとりかかり、第二部部長大田澄、増田美保など40人を選出した。関東軍司令部は、参謀山本源一を遠征隊に参加させて指揮にあたらせたが、作戦中は石井四郎も自ら前線に赴いている。
 40年7月25日、「関作命丙第659号」により奈良部隊と機材の鉄道輸送が命じられた。同関作命にもとづいて翌26日出した関東軍野戦鉄道司令部「後勤命令第178号」の付属文書には、「在ハルビン奈良部隊(平房石井部隊ノ一部)将校以下40名器材(秘密器材)関作命丙659号ニ依ル輸送概見表ナリ  山海関―天津―上海」と書かれている(82)。40人の部隊員と機材は7月末に平房を出発、8月5日に南京対岸の浦口に到着した。8月16日、支那派遣軍司会部から派遣された井本は、731部隊遠征隊(奈良部隊)と細菌戦準備の連絡を取り、同月28日には東京に行き参謀本部の第一部長富永恭次、編成動員課編成班長美山要蔵、作戦課作戦班員荒尾興功と会い、30日には中支防疫給水部の増田知貞と奈良部隊について連絡をとっている(83)。このように、参謀本部、支那派遣軍、関東軍が一体となって細菌作戦を実施したのである。
 この間、平房の731部隊では、細菌の大量製造など、細菌戦の準備が本格化した。田村良雄の供述書(1954年9月8日)によれば、40年7月上旬から11月上旬の間、田村は少年隊員として川島清大佐を総指揮官とする細菌大量生産隊に、120名の者とともに参加した。40年5月上旬?6月上旬の間、田中、篠田班のノミの培養に従事したが、6月上旬900ccの繁殖させたノミは、2000匹のネズミとともに南京行きの飛行機に積み込まれた。同年7月上旬から8月下旬の間には、神崎中隊の無菌室で、コレラ菌、パラチフス菌の植え付けとノミとりを行ない、一人で約3キロのコレラ菌とチフス菌を掻きとった。その後8月下旬から小林松蔵少尉の命令により、細菌運搬用の冷凍剤を製造した。
 40年9月初旬になると、鈴木啓久少佐の命令によりペプトンの空き瓶に約10キロのチフス菌を詰め、二つの木箱におさめ、ドライアイスを詰めた後、航空班に運ばせ、南京行きの飛行機に積み込まれた。この間細菌大量生産によって製造されたチフス菌、パラチフス菌、コレラ菌、ペスト菌、脾脱疽菌は合計270キロになり、飛行機で南京および華中地区へ運ばれた(84)。
 細菌作戦の実施は、当初1940年7月中旬の計画であったが、輸送の遅れなどから9月18日まで延期された。8月16日以降井本は具体的な攻撃目標の捜索を指示し、9月10日に奈良部隊の大田澄と増田美保から報告があった。寧波、衢県、金華が候補であるとの「井本日誌」9月10日は、「寧波ト衢県ハ目標トシテ適当ナルカ如シ(金華ハ?)……第1回C〔コレラ〕ヲT〔チフス〕ニ改ム」とある。寧波は浙江省東北部の重要な港湾都市であり、衢県と金華は浙〓鉄道上の戦略要地であった。9月18日の「井本日誌」には、「目標、寧波ハ可ナリ」とあり、金華、玉山も対象とされた。
 それ以降40年10月7日までに合計6回の細菌攻撃を行ない、そのなかには少なくとも1回のペストノミの散布が含まれていた。10月8日、井本は参謀本部第一部作戦課に転任となり、出発前、後任の吉橋戒三、増田知貞と「ホ号作戦」について意見を交換し、「十二月ニナレバ」「実験」を終わらせる方針が話し合われた。進行中の細菌戦については、「C〔コレラ〕ハ出ナイト思フ、P〔ペスト〕ハ或ハ成功スルカモ知レス」(85)と記されており、ペスト菌散布に期待がかけられていたことが分る。コレラ菌、チフス菌などによる攻撃が所期の効果をあげなかったため、日本軍は10月中旬以降は、ペスト菌散布に重点をおくようになった。
 ここで、日本軍は地上では農安・新京で、空中からは寧波などへペスト散布の実験を行なったことに注目したい。前者は、「満州国」の首都新京(現在の長春)とその西北60キロにある農安でのペスト流行である。40年9月23日、新京の日本人軍属が突然高熱を発し、29日に死亡し、病理解剖により真性ペストであることが判明した。この間にその軍属の近隣の田島犬猫病院の家族ら7人が短期間に死亡し、それ以降、新京でペストが猛烈な勢いで流行し始めた。平房からは731部隊が派遣され、新京に「関東軍臨時ペスト防疫隊本部」が設けられ防疫活動に入った。731部隊は同年10月20日から11月6日まで農安のペスト防疫にも出動した。そして、埋めた死体を掘り起こしたりしてペストの死者の内蔵を標本として平房にもちかえった。
 現在では解学詩の研究により、新京のペスト流行は731部隊が意図的に菌を散布したことによって起こされたことが明らかにされ、その謀略は日本軍による40年秋の中国浙江省での細菌戦の実施から目をそらす目的でなされたことが指摘されている(86)。
 他方、空中からは10月下旬に寧波城内にペストノミが投下され、その結果、寧波にペストが流行した。同様に衢県でもペストノミが投下され、ペストが流行した。10月27、28日は金華県城の上空からもペスト菌を散布した。金華では現地の衛生機関が日本軍の投下物の中にペスト桿菌を発見し、寧波、衢県で流行したペストの原因も日本軍によるものとして重視されるようになった。
 1940年12月の初めには、浙江省衛生処長の陳万里は金華で菌の検査を行ない、日本軍がペスト菌を撒布したことを確認した。かれは12月初めに、浙江省長の黄紹〓宛に報告書を送り、寧波と衢県でのペスト流行が、日本軍の細菌攻撃である可能性が高いことを伝えた。これを受けて、同月初め浙江省長黄紹〓は各県に緊急通告を打電した。
 この頃には、浙江省政府は勿論のこと、軍からも蒋介石に浙江省における日本軍によるペスト菌撒布と被害の状況が報告されるにいたった。蒋介石はただちにペスト流行拡大の防止を通達するが、寧波では、10月29日から12月6日までに97人が死亡、衢県では11月12日から12月5日までに21人が死亡した。さらに12月下旬、衛生署の容啓栄署長、エットマー博士を貴陽から浙江に派遣し、寧波、衢県のペストの流行状況と発病原因について調査することを決めた。41年1月15日、容一行は浙江に到着し、調査の結果を「浙江ペスト調査報告書」として発表した。

a 寧波のケース

 寧波(当時の正式名称は、朶県県政府、人口約26万)は浙江省東部の交通網の中心に位置する重要な港湾都市であった。とくに日本軍が上海、広州を占領したのち、寧波は中国から海外に向けての数少ない主要な海上ルートとなり、戦略的にきわめて重要な位置を占めていた。
 1940年に入ると、日本軍は中国に対する海上からの国際的な物資援助ルートを断つため、艦艇を派遣して寧波沿海を封鎖し、空から寧波爆撃をくり返した。同年4月にも海上から攻撃をかけたが、中国軍により撃退されていた。中国側は寧波を防衛するため、地方部隊を配送したほか、陸軍第194師団などの正規軍を駐屯させていた。日本軍は9月13日から攻撃を中止し、空中偵察を強化した。
 1940年10月27日、ペストノミが小麦の粒と共に投下された。日本軍機は当日二回(午前6時47分と午後2時20分)寧波市に飛来した(『時事公報』(1940年10月28日))。当時朶県衛生院内科主任であった孫金鉐は、「1940年10月27日の早朝6時か7時、日本の飛行機が一機、寧波市の上空に侵入して一回旋回して去った。昼12時ごろ、また日本機一機が市街地区上空を低空飛行した。当時、市の中心の東大路、開明街が交差する一帯の商店や住居では屋根や中庭に麦や栗の類が散らばっているのが見つかった。角ではいっそう多かった。ある人は飛行機が飛び去るとき屋根でバラバラと音がするのを聞いた」(87)と回想している。
 穀物などに隠されて、大量のペストノミが地上に落とされた。当時寧波臨時防疫処の消毒隊副隊長であった鍾輝はこう証言している。「ペスト発生後、隔離病室の病人が語ったところでは、日本軍機が飛来したとき多くの麦と栗がいっしょに落下し、飛び跳ねる小さな物もたくさんあった、という。その後、白色の防ノミ服を着てリノリウムの長靴をはき、汚染区で仕事をして出てくると、下半身にふつうより小さい真っ赤なノミが大量にはっていた。死者がいちばん多かったのは、麦がもっとも多く落下した家である。宝昌祥号では14人、元泰紹酒店では6人死亡したが、この二軒は麦の落下がもっとも多かった」(88)。
 10月29日に最初の患者が発生し、2日後には死者がではじめた。衛生院は11月4日検査の結果ペスト患者であると確認した。11月2日から、朶県政府は、防疫措置をとり、流行地区が封鎖され、6日、臨時防疫処が設置され、地区内に隔離病院が設置された。11月6日までに死者は47人を数えていた。40数人の患者を隔離観察とし、死体を消毒するものとし、西南郊外の老龍湾で地下深く埋葬した。流行地区内の全家屋115戸が11月30日夜全て焼き払われた。流行は12月2日に最終の患者が死亡するまで35日間つづき、死者は109人であった。1ヶ月にわたる防疫活動の結果、11月末に流行は抑えられた(89)。
 1940年寧波ペストの流行は、明らかに人的な伝染の特徴があった(90)。その理由は、第1に、甲部隔離病院に運び込まれた61例の症例の記録によると、ほとんど全て腺ペストであり、疫病に感染したノミに噛まれて感染したものである。
 第2に、10月27日午後投下され、29日には発病者が出た。潜伏期は48時間にも満たず、短い。特別な毒性のペスト菌であった。
 第3に、前出の鍾輝の証言にもあるように、投下された麦粒が多かった地域で、最も多くの死者が出ている。
 第4に、流行の前にも、流行期間にもネズミの死体が発見されていないので、通常ペストがネズミなど齧歯類の間で流行し、大量のネズミの死体がでたのちに、人間の間で流行するのとは全く異なっている。
 第5に、疫病地区の範囲が限られている。疫病の発生は開明街と中山東路口5000平方メートルの範囲に限られており、日本軍が疫病に感染したノミを投下した範囲と一致している。
 第6に、腺ペストの流行が容易に発生しない季節に爆発的に流行した。第7に、病例は時間的に集中している。主として投毒後一週間内に集中しており、全ての死者の半数近くを占めている。
 最後に、当時、治療活動に参加した丁立成が、「自身の保存する寧波の伝染病流行状況の統計資料からみて、1940年以前に寧波にはペスト患者の発生はなかった」と証言したように、1940年10月以前には寧波でペストが流行した形跡はない。以上の理由により、1940年10月以降寧波に発生したペストは、自然的流行とみることには困難があり、日本軍によるペストノミ投下によると判断する以外にないと考えられる。

b 衢県のケース

 衢県は浙江省西部の衢州地区に位置し、浙江から江西につながる戦略上重要な地点であり、水路の交通が発達していた。1941年当時衢県県城の人口は3万5千人であり、衢県は終始日本軍の細菌戦の主要目標の一つであった。
 日本軍が最初の攻撃をしたのは、1940年10月4日である。同日朝午前9時頃、「敵機一掃が偵察を旋回し、尾根をかすめて飛び去った。敵機が去ったのち、紫家巷一帯で麦、黒麦、アワ、ノミが大量に発見された。」細菌散布の「17日後、衢県県城では大量の死んだ鼠が発見された。」(91)
 同年11月上旬になると、日本軍がペストノミを散布した地点で、突然ヒトペストが爆発的流行をみせた。11月12日、紫家巷三号の呉士英が最初に発病し15日に死亡した。11月18日に患者のリンパ液を検査した結果、グラム陰性杆菌が発見され、ペストと診断された。12月7日までの26日間に患者は25人になり、そのうち24人が死亡した(死亡率は96%)(92)。
 11月20日には県衛生院が患者診断から腺ペストと断定し、22日にはペスト防疫委員会が設置され、同日、警官が派遣されて、流行地区を封鎖した。12月7日を最後にペスト流行はいったんおさまったかにみえたが、12月16日、防疫委員会は感染家屋の焼却を決定し、12月22日ー24日の間に10戸37間を焼却した(93)。しかしネズミ類の間でペストがすでに感染していた。「衢州ペスト流行状況と予防治療工作」によると、1940年の防疫期間に「家ネズミ1588匹を解剖したところ、133匹がペスト菌を帯びていて」(94)、2次感染の危険が迫っていた。
 41年3月上旬、ペストが衢県県城地区の坊門街で再発し、まもなく城内十数本の街巷で同時に発生した。同年6月衛生署は防疫のためポリッツァーを派遣して、流行は同年12月になってようやく終息したが、その間県城の37の街巷で流行した。中国側の発表によると、41年に衢県県城地区で発生したペスト患者は281人、うち死亡者は274人であった(95)。
 衢県でペストが流行している間、日本軍の飛行機が県城を空襲したため、住民が周辺の農村に疎開し、ペストの患者も封鎖地域から逃げ出したため、ペストは農村に拡大した。衢県の臨時防疫処副主任邸如崑医師は、ペストの死者は県城、農村を合わせると少なくとも1200人を数えたと推測し、衢州市衛生局の邱明軒医師は、その後の調査をふまえ、死者約1、500人以上と推定している(96)。
 11月27日、28日金華に対して日本軍機は上空からペスト菌を直接散布した。白い霧状に見える顆粒が散布されたが、それを福音病院に持ち込み検査したところ顆粒内にグラム染色法の陰性桿菌が含まれているのが発見され、ペスト菌の疑いがもたれた。すぐに県政府と省衛生処に通報され、同月29日浙江省衛生試験所の呉昌豊が金華に到着した。翌30日衢県で視察と防疫に協力していた浙江省衛生処処長の陳万里も金華に到着し、病院で再度この顆粒を検査した。呉が顆粒を麗水の省衛生試験所に持ち帰って培養したところ、繁殖能力は失っていたものの、金華上空から投下されたのはペスト菌であることが確認された(97)。しかし直接ペスト生菌を散布したためペスト菌が死んでしまい、金華ではペストは流行しなかった。日本軍は寧波、衢県にはペスト感染ノミを、金華にはペスト生菌を直接散布し、その効果を比較検討したものと推測される。731部隊はペストノミの方法が効果的であることに確信を持ったのである。

c 2次3次感染のケース
 生物兵器散布の「威力」は第2次、第3次感染を引き起こす点にある。金華地区に属する義烏の流行は、この一例である。義烏で最初にペストが流行したのは1941年9月である。
 41年9月2日、浙〓線の36歳の鉄道員〓冠明が衢県に出張中感染し、発病後の9月5日に列車で120キロ程離れた義烏県城北門街5号の自宅に戻り、翌日6日に死亡した。1か月後の10月6日、北門街一体で続々とペスト患者が発生し始め、住民は流行地区外に逃れたため、ペストが急速に県城内で拡大した(98)。10月9日に防疫委員会が設置され、流行地区の封鎖、隔離病院の設立、ペストワクチン注射などの措置を決定した。義烏県城付近には陸軍第49軍第86軍等が駐屯していたため、国民政府は防疫を重視せざるをえなかった。衛生処医務隊第16隊、医務隊工程隊第9分隊、軍政部第4防疫分隊等が次々と派遣された。
 さらに、11月下旬にはポリッツァーが衢県から義烏にかけつけ、防疫の指揮をとった。しかし経費不足や住民が日本軍の空襲から逃れて、周辺農村地域に広がったため、12月の末にはペストの流行が県城全域に及んだ(99)。42年2月になってようやく義烏県城地区のペストは抑制された。義烏のペスト流行は、41年末までに患者255人、死者23人を生み出した。
 しかし、周辺農村地域では蔓延を続け、蘇渓、義東、東河などの郷に次々と拡大していき、ついには県境を越えて、東隣りの東陽県にまでペストは拡大し、少なくとも死者113人を出した。41年10月から42年4月上旬にかけての東陽流行がそれである。感染源は義烏に働きに行った左官がペストに感染し、その後八坦頭村に帰ったことである。こうして東陽県のペストは、義烏に近い八坦頭村を起点として、そこから急速に県内に広がり、結局14ヵ村で117人の感染者、うち13人が死亡を出した(100)。
  以上のように細菌戦は、感染した個人の移動を通して、次々と被害地域を拡大していく点に特徴がある。義烏県域のペストは、一度収まったものの、1942年浙〓作戦を発動した日本軍が義烏県城を占領すると防疫工作は中断され、ペストの流行は再び激しくなった(後述)。
 崇山村にも伝播はおよび、住民約1200人余りの約3分の1に当たる396人が死亡した(1998年5月の調査)。1956年57年に義烏県の防疫ステーションは、戦時のペスト流行調査を実施し、被害者名簿を作成している。筆者は1996年11月と97年5月にその当時調査に従事した劉書臣にインタビューしたが、その調査(劉書臣「義烏鼠疫流行始末」義烏県政秘書処編『文史資料通迅』第5期、1984年が発表されている)によると、義烏市から周辺の農村に次第に拡大していくことが分る(101)。崇山村・江湾一帯では、1942年9月29日からペストが発生し、「現在も疫病の勢いは猖獗をきわめ、増加する一方で、一向に減らない。死亡者を合計すると300余人を下らない」と崇山村が属する仏堂区区長から義烏県長官宛に発信されている。42年10月14日老哭皮こと王煥章(60歳)が死亡し、その後12日間に、嫁、息子、孫娘が死亡し一家全滅となる。王を看病した村で治療活動をしていた王道生(63歳)も死亡し、かれの葬儀にきた多数の人々に感染した。南京の1644部隊に勤務していた近喰秀大は臨時防疫隊を編成し、崇山村(松山村)に赴いた(102)。かれは屍体解剖を行ない、「各臓器ごとに肝、脾剖面および血液などにより検査材料を摂取した」。村は11月18日に突然日本軍に包囲され、200余戸が焼かれた。現在でもその焼かれた跡が残っている。12月になってようやくペストは終息した。結局、義烏県の流行は1943年5月までつづき、政府の不完全な統計でも、613人が感染し、563人が死亡した(103)。

3 常徳への細菌攻撃

  1941年6月22日独ソ戦開始により、日本は「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(7月1日決定)により、南部仏印進駐が行われ、ソ連に対しては強大な陸軍兵力を動員して関東軍の増強を行なう「関特演」が実施された。その結果、中国戦線には制限が課せられ、その制限の下で長沙作戦が41年9月5日開始され、日本軍は9月27日に長沙を占領したものの直ちに撤退せざるをえなかった。そうした情勢下で、11月4日常徳に細菌が投下されたのである(第1次長沙作戦は11月6日に終了)。
 1941年8月11日に南京に赴いた井本熊男は、杉本参謀の指示により、9月16日に常徳細菌散布の作戦発動を命じた(104)。この作戦の指揮をとったのは、731部隊第2部の実戦研究部部長大田澄であった。41年7月に中支那防疫給水部(1644部隊)長に着任したばかりであった。石井部隊からは40?50人が派遣され、作戦参加者の総数は約100人であった。
 支那派遣軍参謀の長尾正夫から井本宛に、常徳へのペスト攻撃について報告されたのは同年11月25日であるが、それによると、11月4日、731部隊の航空班増田美保が97式軽爆撃機を操縦して飛行場を5時30分に出発し、常徳に6時50分に到着している。井本日誌には、「霧深シ H〔高度〕ヲ落シテ捜索、H800附近ニ層雲アリシ為1000m以下ニテ実施ス(増田少佐操縦、片方ノ開函不十分、洞庭湖上ニ函ヲ落ス。アワ36キロ、其後島村参謀捜索シアリ」と記録されている。「アワ」はペストノミの符牒である。即ち、36キロのペストノミを双方の函に詰めて、常徳上空高度1000メートル以下から投下したが、片方の函が開かず、それは洞庭湖上で函ごと捨てたというのである。さらに、その後の経過は島村参謀が捜索し、「6/11〔11月6日〕 常徳付近ニ中毒流行(日本軍ハ飛行機1キニテ常徳附近ニ散布セリ。之ニ触レタル者ハ猛烈ナル中毒ヲ起ス)。20/11頃猛烈ナル「ペスト」流行、各戦区ヨリ衛生材料ヲ集収シアリ。判決『命中スレハ発病ハ確実』」と報告している。12月2日には、支那派遣軍高級参謀の宮野正年大佐が井本宛に、「常徳ヲ中心トスル湖南ニテハ『ペスト』猖ケツヲ極メアリ」と報告した。
 これらのペスト流行の観察は後に述べるように不正確であり、願望が込められ誇大に書かれてはいるが、11月20日頃のペスト発生はかなり正確に把握されていた。12月22日には増田美保は井本宛に、「1、部隊ノ士気上ル。アワニ対スル自信。2、主要兵キアワ第一」と、ペストノミが細菌兵器のなかで最も優れていると報告している。さらに増田は42年6月以降のペスト散布を計画し、「4、人員可能。ラット30万手ニ入ル見込、設備モ大体可」としている。
 次に、『ハバロフスク公判書類』から常徳攻撃に関するところをみよう。
 1949年12月25日の公判で川島清(第4部の細菌製造部部長)は、1941年夏に731部隊の安達の実験場で実験の責任指導者大田澄のもとで、15人の「被実験者」を柱に縛りつけ、飛行機からペストノミを充填した爆弾を投下し実験したことを述べたのちに、「731部隊ノ派遣隊ガ中国中部ニ於ケル中国軍ニ対シテ兵器トシテ殺人細菌ヲ使用シタコトガ1941年ニ1度、1942年ニモ1度アリマシタ」と述べ、次のように証言した。

 第1回目ハ、私ガ述ベマシタ様ニ、1941年ノ夏デシタ。第2部長田大佐ガ何カノ拍子ニ中国中部ニ行クト語リ、其ノ時私ニ別レヲ告ゲマシタ。帰ッテ来テ間モ無ク、彼ハ私ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳市付近一帯ニ飛行機カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ語リマシタ。斯様ニシテ、彼ガ述ベタ様ニ、細菌攻撃ガ行ワレタノデアリマス。其ノ後太田大佐ハ、私ノ臨席ノ下ニ第731部隊長石井ニ、常徳市付近一帯ニ第731部隊派遣隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、サテ其ノ数ガドノ位カハ私ハシリマセン。
(問)此ノ派遣隊ニ第731部隊ノ勤務員ハ何人位参加シタカ?
(答)40人ー50人位デス。
(問)1941年ニ於ケル此ノ派遣当時ノペスト菌ニヨル地域ノ汚染方法如何?
(答)ペスト蚤ヲ非常ナ高度カラ飛行機デ投下スル方法デアリマス。
(問)コレハ細菌爆弾ノ投下ニヨッテ行ナワレタノカ、ソレトモ飛行機カラ蚤ヲ撤布スル方法ニヨッテカ?
(答)撤布ニヨッテデアリマス。(105)

 この証言と日本側の史料との間には、証言が常徳の細菌散布によるペスト患者が「若干」であるとしている以外には相違点はない。
 ソ連の国家検事エル・エヌ・スミルノフは論告のなかで、常徳作戦について次のように告発している。

1941年夏、部隊ノ1部長太田大佐ノ指揮スル第2次派遣隊ガ中国ニ派遣サレタ。派遣隊ハ、ペスト流行病ノ蔓延ト言ウ特殊目的ヲ以テ派遣サレタ。日本軍統帥部ハ、常徳市ヲ重要地点トスル中国軍隊ノ交通路ノ遮断ヲ主要任務トシテ派遣隊ニ課シ、常徳市ノ住民間ニペスト流行ヲ惹起スベキコトヲ命ジタ。派遣隊ニ参加セシメル為30名ノ細菌専門家ガ割出サレ、参加者総数ハ100名ニ達シタ。派遣先カラ帰還シタ太田大佐ハ、部隊庶務部長被告川島ノ立会ノ下ニ、石井ニ報告ヲシタ。太田ハ、常徳市及ビ洞庭湖付近ノ他ノ住民地点ニ対シ派遣隊ガペスト菌ヲ以テ汚染シタ蚤ヲ大量投下シタコトヲ石井ニ報告シタ。
太田、石井ノ両人ハ、此ノ派遣隊ノ工作ノ結果ヲ極メテ高ク評価シタ。尚此ノ工作中、常徳付近ノ中国住民間ニ猛烈ナペスト流行ガ突発シタ(106)。

 常徳で日本の飛行機からペスト菌を散布した緒果、何が起こったのか、次にその経過をみてみよう。
 1941年11月4日、朝5時頃(日本軍側の先の史料の常徳到着6時50分は日本時間)、日本軍の飛行機1機が常徳上空の霧のなかを低空飛行し、穀物、綿紙、正体不明な顆粒物を投下した。投下地点は県城の中心の関廟街、鶏鵝巷と東門付近であった。午後5時警報が解除されると、その投下物の一部は県城東門のはずれにある広徳病院(長老派宣教病院)に送られ、顕微鏡検査がなされた。当時、常徳の医療防疫機関は、アメリカ系の教会病院で100床をもつこの広徳病院と、外来のみで入院設備をもたない県衛生院だけであった。他に紅十字会総会〔赤十字本部〕救護総隊の第2中隊が駐屯していた。
 この事件に最初に接したのは医師の譚学華(H.H.Tang)と検査技師の汪正字であった。譚はそれまで7年間広徳病院に勤務しており、当時副院長であった。院長のアメリカ人ジョージ・トウテル(徳采、George Tootell)はその病院に30年近く勤務していたが、常徳に細菌が散布されたときには休暇でアメリカにいっており、常徳に戻ったのは同年12月26日になってからである。
 検査技師汪正宇は、1942年に次のように書いている。

民国30年11月4日早朝、敵機一機が常徳上空に飛来し、低空で行き来すると、粟、麦などを大量に投下した。その後、防空指揮部、警察局、さらに郷鎮公所がそれぞれ敵機の投下した粟や麦を少量ーノミは含まれていなかったー検査のために病院に届けてきた。そのとき私たちは、敵機が1種の神経戦術を用いてわれわれを恐怖に陥れようとしている以外、最も可能性が高いのは、伝染性の細菌を散布することだと考えた。もし細菌を散布しているとしたら、それはペスト桿菌であろう。その理由はきわめて簡単である。?ペストは最も恐ろしい伝染病で、感染が速く、死亡率が高い。?投下された粟や麦などはどれもネズミの食物である。?現地にはネズミが非常に多く、ペストを伝播しやすい。?新聞によれば、敵は浙江省衢州などでペスト桿菌を投下しているといい、今回もその可能性がある(107)。

  そして、投下物の検査方法を詳しく記しているが、「第1段階として、敵機の投下した粟や麦を少量、無菌の生理食塩水中に浸し、15分後にガーゼを数枚重ねて濾過し、穀物を取り去った。この濾過液を遠心分離器を使って沈澱させ、淀んだ物質を取ってプレパラートを作り、固定したのちグラム染色法で染色した。顕微鏡で検査したところ、多数のグラム陽性桿菌以外に、少数の両極に看色した陰性の桿菌が発見され、ここにいたって最初の疑いを強くした。しかし、確実を期すため、第2段階の細菌培養を行なった」。細菌培養を行なった結果、「顕微鏡下において、多数のグラム陰性の両端に着色した桿菌が発見され、マイクロメーターでその大きさを計ると、平均1・5×O.5ミクロンであった。……われわれは一層疑いを深くした」(108)。
 また医師の譚学華は、投下物を検査しただけでなく、ペスト患者を診察し、死体解剖も行なった。かれは、現在判明しているかぎり、4つの記録を残している。即ち、1942年3月『湘雅医学院院刊』の「湖南常徳ペスト発見の経過」、1945年のアメリカ調査団の聞き取り、1950年2月5日『人民日報』紙上の記事、1972年の自筆回想録である(109)。いうまでもなく、事件に最初に接した地元の医師として、かれの記録は重要である。
 先に触れたアメリカCWS調査団は、譚学華が「事件を調査した最初の人物であり、ペスト流行以前もその間もその後も常徳に居住しており」、ペスト細菌散布に関する「第1次情報源」であるとして重視し、次のように記している。

 1941年11月4日、日本の飛行機1機が常徳に米穀類を投下したが、そのサンプルは収拾され、病院でその医師が検査した。その米穀類からバクテリアが発見され、それは形態上はペスト桿菌に特徴的なものであり、着色するとペスト菌の特徴を示した。7日以内に常徳のネズミが多数死に、人間のペスト患者が現れた。人間の犠牲者がペストによるという完全な診断は、常徳の長老派宣教病院で行なわれた。1941年以前に常徳近隣でペストが発生したことはなかった。

 調査団は譚学華医師からの聞き取りを報告したのち、多少疑問を残しながらも、次のようなコメントを加えている。「米穀類の投下以前には当地でペストが発生していないこと、ペストに形態学上類似している細菌の表示、譚博士のペスト流行の予測と米穀類投下7日後のペスト患者(複数)の出現、これらはその症例の信憑性を実証している。これは日本が細菌兵器を使用した、現在まで中国で得られた最強の証拠である。これは真実の症例であるように思われるが、おそらく実験的試行(an experimental trial)であったろう。というのは、これらの戦術はその後観察されていないし、報告もされていないからである。」そして、前述したように「日本が1941年11月に常徳でペスト菌を含んだ米穀類を使ってペストを拡大させた可能性は、きわめて大きいと信じられる」との結論をだしている。
 細菌散布がなされた翌朝、11月5日、常徳県衛生院、防護団、国民党軍警機関、広徳病院の会合が開かれ、「その席上、譚博士は症例はおそらくペストであるから、制御手段がただちに採られなければならない、との意見を表明した。そして譚は次のことを薦めた。?日本の飛行機から投下された穀類を収集し、焼却しなければならない。?ペストの専門家を要請する電報を省政府に打たなければならない。?ペスト防疫手段を拡大しなければならない。?ペスト患者用の隔離病院を準備しなければならない」(111)。これは驚くほど的確な判断であり、対策の提案であった。
 じじつ、ペスト患者が発生しはじめる。1941年11月10日、多数のネズミが街路で死に、数名の人が高熱の病気であると報告された。投下物のあった地点2カ所で多くのネズミが死んでいるのが見つかったが、しかしネズミの検査はこの時点ではまだなされていない。
 投下地点の関廟街に住む少女が、母親に連れられて広徳病院に来たのが11月12日である。この患者は蔡桃児といい、発病から36時間後に死亡した。疑似腺ペストであった。11月13日と14日には、3名のペスト患者が死亡し、死後解剖された。即ち、2番目の患者は、11月14日に入院した徐老三という25歳の労働者で、12日に突然発熱、頭痛、錯乱状態が始まり、入院時に右鼠径腺が腫れて柔らかかった。彼は入院した日の午後、死亡し、譚と方徳誠(常徳衛生院院長)が検査した。3番目の聶述生という58歳の患者は、12日鼠径腺が腫れ、13日タ刻死亡した。検査医師は銭保康であった(112)。
 つづいて4番目の蔡玉貞という27歳の患者は、東門内常清街に住み、11日高熱をだし、13日死亡した。この患者は生前に病院へ運ばれたものではない。民衆はペストで死亡したものを密かに埋葬しようとした。これは偶然、死亡した翌日の14日朝、紅十字の医師ケント(Heinrich Kent)隊長が、棺を徳山〔常徳県城南5キロ〕の路上で止め死因を尋ねたところ、ペストの疑いがあるので棺を開いて検査した例である。その死体を解剖した緒果、ペスト菌に似た菌が肝臓と脾臓から採取した塗沫標本の染色検査で検出された(113)。
 街頭で死亡した例が報告され、噂が常徳県城内に広がり始めた。再び電報が省衛生処に打たれ、その結果、数人のペスト専門家が常徳に派遣されることになった。陳文貴が命令をうけて湖南常徳ペスト調査隊を組織し、紅十字会総会救護総隊部が置かれていた貴州省貴陽を出発したのが41年11月20日、常徳に到着したのが同月24日であった。陳文貴は、1936年、国連衛生部の招きでインドのハッフキン研究所に赴きペストを研究した細菌学者で、当時は中国軍政部戦時衛生要員訓練総所検査学班主任であり、紅十字会総会救護総隊部検査医学指導員であった。常徳行きには、教官兼医師の劉培、薛蔭奎、助手兼検査技師朱全綸、丁景蘭らが、応用実験機材、ワクチンの他、ペスト特効薬のサルファチアゾールを携帯して同行した。サルファチアゾールはインドで使用され効果をあげていた。
 陳文貴の一行が常徳に到着した11月24日夜8時ごろ、6番目の患者である宏超勝という28歳の男性が死亡した。翌朝陳文貴が、東門外の徐という地主の家屋を改築した隔離病院でその死体を解剖し、細菌培養、動物接種などの実験を行ない、その結果、患者は真性腺ペストにかかり、ペスト菌の引き起こした敗血性感染によって死亡したことが証明された。この患者は11月19日に常徳にきて4日間滞在したあと、23日に発病し、高熱、四肢が脱力症状を呈し、つづいて右鼠径リンパ腺が腫れ、24日に死亡したものであった。そして、陳文貴たちは、それ以前に死亡した5人の臨床記録も検討した結果、いずれも疑似腺ペストであるとの結論に達したのである。
 陳文貴報告書は、常徳への細菌散布の詳細な報告書である(114)。報告書の結論は、
 「?1941年11月11日から24日にかけて、常徳では確かに腺ペストが流行した、
?ペストの伝染源は、敵機(日本の飛行機)が11月4日朝に投下したペスト伝染物体のなかのペスト伝染性を持つノミである」
という2点に集約されている。
 陳文貴は、11月11日から24日にかけての前記6つの症例が、11月4日早朝、日本の飛行機からの穀類などの投下と関係あるか否かを検証している。そのさいペスト発生の3つの可能な原因を検討する。即ち、
「(A)敵機が穀類などを投下する以前に、常徳にペストがあったか。
(B)常徳ペストは国内の近くの流行地域から伝染しえたかどうか。
(C)常徳ペストは、敵機が投下したペスト菌に汚染された穀類などによって発生したのかどうか」、である。
これらの状況証拠から、まず(A)については、「知られているかぎり、常徳はペストに汚染されたことはない」、また(B)については、「常徳にもっとも近い汚染区」でも「約2,000キロ離れている」、としてともに否定し、消去法で(C)を確定していく。(C)とする理由は以下のとおりである。
 ?すべての症例が、投下された穀類の最も多い地域からでていること。
 ?投下された穀類にはペストを伝染させうるネズミノミが隠されていたと推論できること。当時そのノミが発見されなかったのは、(a)市民はペスト伝染について知識をもたず、注意を払わなかったこと、(b)当日、常徳は終日、警報がだされ(朝5時から午後5時まで)、警報解除後に穀類などの物体の収集および清掃を行なったため、ノミはすでに逃げ、人家に隠れてしまったこと、の2点にあるとする。
 ?そして伝染性物体がペストを発生させた経路は、敵機から投下されたノミの1部が、直接人を噛んでペストの流行を招くという経路であったとする。ここでは、穀類などを事前にペスト菌で汚染しておき、→それをネズミが食べ感染する→ネズミからノミへ感染する→ノミから人間に感染する、という経路は否定され、また、ペストノミが穀類とともに投下される→ノミがネズミの体に付く→ネズミのペストが流行する→ネズミからノミへ感染する→ノミから人間へ感染する、という経路も否定されている。それは腺ペストの潜伏期間(ノミにかまれて感染した日から発病するまで)は3?7日で、ときに8日あるいは14日のこともあるからだという(115)。
 しかし、陳文貴が、常徳のぺストが終焉したとして常徳を離れたのは誤算であった。代わって衛生署外国籍専門官ポリッツアーが、1941年12月21日常徳に到着し、調査研究を開始した。オーストリア出身のポリッツァーは、すでに1921年中国東北においてペスト研究に従事したが、日中戦争期に米国赤十字に志願し、浙江、湖南などで防疫活動を指導したペスト専門家である。以後、ポリッツァーは常徳に約1年間とどまり、ペスト流行を阻止するために献身することになる。ポリッツァーは到着後すぐにペスト流行が日本軍の細菌散布によることを確信し、41年12月30日には金宝善(Dr. P. Z. King)衛生署署長宛に報告している。ポリッツァー報告書も、症例を検討した結果、日本軍がノミを使用した疑いが濃厚であることを次のように書いた。

 人間の感染は、もし飛行機から投下された物質がペストに感染したノミを媒介する役割を果たしていたなら、ずっと発生しやすいであろう、ということは認められねばならない。したがって、後者の過程のほう(ノミによる運搬)が、専門家にとっては、細菌戦に加わるなら望ましいものであることは疑いない。そして私自身もこの方法がこの場合では用いられたとの考えに導かれるものである。この推定を支持するものとして、幾人かの証人が、飛行機が穀物の他に木綿や布切れ、また紙や木片などとさまざまに表現される他の物質を投下していたと述べていることがある。そういった物質、とくに初めの二つは、ノミをよく保護するものなのである。(116)

 そして、最近のペスト流行が敵の行為によるものであるとの推定は、以下の点を考慮すると、さらに支持されるとしている。

  (a)流行の時期と場所にたいする観察は、このような推定に合致する。
 最初の患者は11月12日に入院した。これは一連の攻撃の八日後であり、とくにもし感染したノミがふくまれており、最初に食いつく人間を探さなければならないならば、これは納得のいく期間である。一方ペストノミは、数週間あるいは数ヶ月間さえ、感染可能であることが知られている。
  最初に確認された六つのペスト感染例は、二つの地域で生活している人々の間に広まったものである。この地域には大量の飛行機から投下された物質がばらまかれていた。そして七番目の患者だけが、これらの地域のなかの一つから若干離れた地域で生活していた。
  (b)もし我々がいったん議論のために、常徳における最近のペストの流行が敵の行為によるものだという仮定を否定するならば、我々はこの流行が何によっているのかを述べるにあたって当惑することになるだろう。
 この点に関して以下の点が考慮されるべきである。
  (1)近年において湖南におけるペストの流行は、今回以前には記録されておらず、1937年末以来この地域では徹底した防疫活動が実施されており、ペスト発生を支持するいかなる根拠も存在しない。
  (2)ペスト感染を想定しうる最も近い地点は、浙江省東部と江西省南部である。どちらからでも常徳に到達するには最低10日はかかる。したがっていずれかの一つからやってくるペストに感染した人物は、常徳到着以前に発病することになろう。(中略)
  (3)常徳は浙江や江西とはまったく異なった河川交通上の地点にあたっているので、感染したネズミやノミの移動をもたらしかねない船による直接の交通は問題にならない。
  (4)常徳地域は米と木綿を生産するので、感染したネズミやノミを伴ったその手の商品が、他の地域から移入されたと考えるのはつじつまが合わないことである。
  (c) 浙江や江西における我々の観察によって最近確認されたところによれば、腺ペストの中国における流行は、すべてではないにせよ、極めて顕著な地元のネズミの死滅が先にくる事例が大半である。常徳ではそのようなネズミの減少はみられておらず、我々はネズミが感染するにいたったという確たる証拠を得ることは到底できそうにもない。(117)

 ポリッツァーは、以上のような理由より、「常徳における最近のペスト流行が、11月4日の飛行機の攻撃と関連があるということを疑う余地はほとんどない。」と結論づけたのである。しかし、ポリッツァーが当市に来るまでネズミの検査は不充分であった。ポリッツァーは、一時常徳を離れたが、42年1月中旬に常徳に戻って感染ネズミを調査した結果、それが発見され、数は月を追って着実に増加し、2次感染の起ることを警告した。そして、実際に3月末以降保菌ネズミの増加によるペストの2次感染患者が出た(118)。
 1942年3月末、2名の患者が報告され、ともに死亡した。4月には39人の患者を検査するが、その中で明確にペストであるのは20名、疑わしいのは3名だった。3月以来スルファゾールを得て患者に使用し始めたが、その時まで病院にきた患者は全員死亡した。そのことは、患者が病院に来ることを鈍らせた。4月11日以降は、スルファゾールの治療により5人が治り退院した。常徳のペスト患者は再び減少しはじめ、5月6名、6月2名、7月1名となった。こうして第2次流行は合計31人の患者となった(疑似患者を含めれば34名、うち28名が死亡)(119)。7月の1名以降第2次流行の患者は出ていない。病人発生の届出が義務づけられた結果、常徳の場合にはかなり詳細な症例の記録が残っている。
 1942年5月初め、肺ペストが常徳県城から北西に22キロ離れた桃源県漆家河莫林郷に広がった。豚を売りに来ていた農民李佑生が常徳県城で感染し、密かに故郷に帰り、同月10日に死亡した。人から人へと感染する肺ペストは、5月13日に李佑生の妻が発病し19日に死亡したのをはじめ、看病した家族、訪れた親戚、隣人と看病したその家族、見舞いに訪れた人、葬儀に来た者などが次々に感染し、合計17人が死亡した。5月下旬には他に10人の患者がいたが、防疫が迅速であり、くわえて夏だったこともあって、流行は5月27日の患者を最後に終っている。(120)

4 浙〓作戦における細菌攻撃

 1942年4月18日、アメリカのB25爆撃機が東京・名古屋を初めて空襲したのに衝撃を受けた日本は、同飛行機が着陸した中国の浙江省内の航空基地を破壊し、さらに浙〓線を打通するために、大本営は4月30日は「浙江作戦(せ号作戦)」を発動し、浙〓作戦(1942年5月15日?9月末)を実施した(121)。作戦の主力を受け持ったのは、主力の第13軍(司令官沢田茂)と支援の第11軍(司令官阿南惟幾)であった。作戦は第1期(5月15日?5月29日)、第2期(5月30日?6月15日)、第3期(6月16日?8月14日)、第4期(8月15日?9月30日)の4段階に分かれる。
 第1期には、第13軍隷下の第6師団、第15師団、第22師団、第20師団などが杭州と寧波の間から集中展開して、攻撃を開始した。42年5月28日には金華と蘭渓を占領し、衢州攻略の拠点とした。またこの第1期作戦中、義烏や崇山村等が占領された。
 つづいて、第2期には、第13軍は衢州攻略戦に移った。6月3日から始まった衢州攻略戦は7日になってようやく結着をみた。軍は直ちに広豊、さらに中国軍第3戦区軍司令部所在地の広信に向かい、6月14日、同地を攻略した。この間5月末からは、第11軍が隷下の第34師団などを南昌南東方地区に集中して攻勢をかけ、6月3日撫州を占領した。
 本作戦は元来、アメリカ軍による日本本土空襲への反応として大本営が立案したものであるが、支那派遣軍内部には、それ以前より浙〓線打通を第13軍と第11軍の東西狭撃により実現しようとする構想があった。そのため、この作戦は、航空基地撃破のための浙江作戦として発動されながら、6月18日になると支那派遣軍司令部の要請によって浙〓線打通へ、さらには鉄道資材の獲得などの目的を加えた浙〓作戦へと拡大されたものである。
 このような目的変更により、第3期には、浙〓線打通と占領地域の確保が求められ、作戦期間も当初の7月末までに撤収という予定が大きく変更されることとなった。まず、打通については、7月1日に第13軍の谷津支隊と第11軍の岩永支隊が相会して目的を達した。その後浙〓線沿いに展開した第13軍と第11軍隷下の部隊は、浙〓線の鉄道施設(レールその他)を取り外し、日本側で利用すべく後送するため、また螢石資源の確保のため占領を継続し、結局占領は8月中旬まで延長された。この後の第4期に各部隊が原駐地に帰還したが、この撤退する過程で、細菌が本格的に散布されたのである。

 浙〓作戦では、石井四郎らの指揮の下に731部隊と1644部隊が共同で細菌作戦を展開した。井本日誌は、すでに1942年4月12日に、「昭和十七年ホ号指導計画」と記述しており、その攻撃目標として麗水、玉山、衢県、桂林等6ヶ所が挙がっていた(122)。
 浙〓作戦の開始とともに、細菌戦実施の動きが生まれ、5月27日の参謀本部での細菌作戦の打合せには石井四郎、増田知貞、村上隆、増田美保、小野寺義男が参加し、コレラ菌、チフス菌、パラチフス菌、ペスト菌が投下可能な菌であり、ペスト菌は平房に2キロ、南京に1キロ、その他に1キロ、計4キロあることが確認された(123)。またその他にも(1)機密の保持、(2)編成装備の具体的計画、(3)友軍の感染防御と機密保持のため2個班派遣なども確認されている。5月30日には参謀本部に石井四郎、村上隆などが招集され、参謀本部第一部長の田中新一より、細菌戦実験に関する大陸指と注意が正式に伝達された。陸軍中央と現地部隊が連携する作戦であることが分る。
 ところが地上での細菌攻撃については、現地の支那派遣軍の中で、味方に被害が出るのではないかという懸念が出された。後宮淳総参謀長は兵士の被害を心配し、また実施部隊の中心となる沢田茂第13軍司令官も実施にやや消極的であった(124)。沢田は『陳中記録』の42年6月16日に、「……辻中佐 [当時参謀本部作戦課作戦班長であった辻政信] の言によれば大本営は当方面に石井部隊の使用を考えあるが如し 反対なる旨開陳しおけり 日支関係に百年の痕を残す且つ又利益なく我方防疫の手続き丈も厄介なり 山中田舎の百姓を犠牲にして何の利益あらん……」(125)と記している
 このように沢田は第13軍司令官として細菌戦実施に反対であったが、6月25日には、「石井部隊の使用、総軍よりも反対意見を開陳せしも、大本営の容るる処とならず、大陸命で拝したり、とならば致し方なきも、作戦は密なるを要す…ペスト防疫の為の一部家屋の焼却の命令を出す」(126)と記すに至り、細菌戦の実施を決定したのである。しかしその後もなお沢田は、細菌戦の実施に消極的であった。
 7月11日には、「石井少将連絡の為来著す 其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し 効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ 蓋し王者の戦をなせば可なり 何故こんな手段を執るや予には不可解なり されど既に命令を受けたる以上 実施せざるべからず」(127)と書いている。
 細菌戦がもたらす弊害の一つは、当初から懸念された味方への被害であったが、この懸念は後に現実のものとなった。浙〓作戦の異常な数の戦病者として現われ、全期間を通じた損害をみると、戦死(含む戦病死)1284人、戦傷2767人に対して戦病1万1812人であったが、特に第13軍の本隊が金華以北に撤退する過程で本格的な細菌戦を展開した第4期(1942年8月15?9月30日)をみると、戦死77人、戦傷85人に対して、戦病は実に4709人を記録している。こうして作戦後半期(第3・4期)に戦病者の約84.7%が集中する事態を生んだ(戦死者は同期に約40.4%、戦傷者は同じく約25.1%)(128)。
 このように浙〓作戦で多発した戦病者は、その多くが日本軍自らが実施した細菌戦の被害者だった可能性は大きい。1644部隊の隊員だった榛葉修は、1942年の6月から7月にかけて細菌を撒布したこと、その場所は浙江省金華一帯を中心としたことを証言しており、細菌散布の結果、「中国軍がすみやかに撤退したために、日本軍が散布地域に入ってしまい、休息、野営のさい付近の水を飲料水や調理用に使ったので、多くの伝染病患者が発生した」と述べている(129)。
 この榛葉の証言にあるように、中国軍の撤退が日本側の予想よりも速かったため、中国軍に対して行なった細菌戦によって汚染された地域に日本軍が侵入し、しかも細菌戦が秘密戦であるため、現地部隊に細菌戦についての連絡がなく、防疫活動前に水を飲用するなどして大きな損害を出したのである。榛葉は、「昭和18年9月、私が杭州陸軍病院に行ったとき、同病院は伝染病患者(日本軍兵士)でいっぱいだった。毎日数名が死んだ。聞くところでは、この8月ころ、同病院では庭にむしろを敷き、数千名の患者を収容したということである。」(130) とも述べている。
 以上みてきたとおり、大本営は現地軍司令官の意向を無視して細菌戦を実施した結果、日本軍兵士にも数多くの犠牲者を出し、そのことが以後日本軍が細菌戦の実施を見合わせた原因となったと考えられる。

 次に、細菌戦の実態を少し詳しくみよう。
 浙〓作戦開始後まもなく、義烏とその周辺地域は日本軍支配下となった。当時の義烏は衢県から伝染したペストが流行しており、その防疫活動の最中にあったが、日本軍の攻撃と占領により、防疫活動は中断せざるを得なくなった。当然、義烏におけるペストの流行は再び拡大した。6月に入ると第13軍の各部隊は、衢県(7日)、江山(11日)、玉山(12日)、広豊(14日)、上饒(14日)、麗水(24日)などを次々と攻略した。
 石井四郎はハルビンの731部隊に戻り、細菌戦に参加する派遣隊の組織と必要な細菌の増産に着手した。『ハバロフスク公判書類』の川島清の証言も、1942年の6月に石井四郎が731部隊本部に戻った後、中国中部派遣隊を組織したこと、その目的が「所謂地上汚染方法、即チ地上ニ於ケル細菌ノ伝播方法ノ研究」だったこと、そのさい選ばれた細菌はペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌だったことを明らかにしている。この後、川島は石井の命令により、パラチフス菌と炭疽菌を130キロ製造し、派遣隊に渡した。今回の細菌戦の主力である731部隊派遣隊は6月下旬ようやく準備を終え、「六月ノ末カラ七月ノ初メ迄、該派遣隊ハ数カ班ニ分レテ、飛行機及ビ汽車デ南京『栄』部隊ニ派遣サレ」た(131)。この作戦行動に参加した731部隊第1部雇員の古都も、次のように証言している。

  1942年7月ニ、120名ノ将校及ビ軍属カラナル第731部隊別班ガ汽車デ込櫛鴛市ヲ出発シマシタ。吾々ハ、日本ノ中国中部派遣軍防疫給水部ガ所在シタ中国中部、南京ニ到着シマシテ、其処ノ防疫給水部カラ将校、兵ノ一団ガ吾々ニ加ワリマシタ。吾々ノ派遣隊ノ人員ハ結局、150―160名デアリマシタ。(132)

 派遣隊は南京到着後、すみやかに戦闘準備をととのえた。「井本日誌」によれば、731部隊の碇常重中佐は7月6日東京に飛び、参謀本部に「支那ハ準備出来タ、天候コレヲ許セハ常時進出可能也」と報告している。浙〓作戦中の日本軍の地上部隊では病気による減員が激増しており、支那派遣軍内部で細菌戦について前述した意見対立が生じたのは、この時である。日本軍は最終的には「住民ノ侵入後ヲ狙フ如ク無住地帯ニ施策ス」とし、撤退時に住民が逃亡した地域で細菌を散布する方法をとることになった。このほか、「餅〔ネズミ〕不足」のため、「実力攻撃ハ8月中旬以降ト予定」することになった。
 8月下旬、日本軍は計画に従って、上饒(19日)、広豊(19日)、玉山(20日)、江山(21日)、常山(21日)、から撤退し、衢県一帯に集結した。この移動を受けて731部隊は「ホ号作戦」を開始し、上記の地区に細菌を散布したのである。さらに8月27日には、部隊の衢県、麗水撤退に伴い、両地域で細菌を撒布した(133)。その方法は、「井本日誌」8月28日に記載されている長尾参謀の「ホノ実施ノ現況」には、広信へはペスト(ノミ、ネズミ)、広豊へはペスト(ノミ)、玉山へはペスト(ノミ、ネズミ、米にペスト乾燥菌を付着させ、ネズミ―ノミ―人間の感染を狙う)、江山へはコレラ(井戸へ直接入れる、食物に付着させる、果物に注射)、常山には江山と同じ方法、衢県と麗水にはチフスとペストノミ、と解読しうる記述がある(134)。

 以上のような、日本軍による細菌戦の被害を検討するばあい、留意しておくべきこととして、被害者数の問題がある。
 これまで挙げてきた犠牲者の数字はあくまでも隔離病院などに収容され、そこで死亡したものだけである。近年の現地調査が明らかにしたことは、多くの犠牲者は国民政府当局に知られると、家屋を焼却され家族も隔離病院に収容されるので、秘かに死体を近くの土地に埋めたため、これは数字に示されていないということである。実際の犠牲者は統計に示された数字よりもはるかに多いのである。しかも、風土病と間違われることもしばしばあった。
 増田知貞は、1941年7月に南京1644部隊隊長が大田澄に代わるまで、細菌戦実施を指導し、その後陸軍軍医学校で教官をつとめるが、その教官時代に書いた『細菌戦』(1942年12月15日)のなかで、細菌戦を実行したときの「検出の困難性」について、次のように書いている。「細菌は少量が使用されても大きな潜在力を持っている。それ故検査されることなしに容易に運搬できる。病気の原因も簡単には発見されず、幾つかは検出が全く極めて困難である」。したがって、「細菌を検出したり、自然流行と人工的流行病とを区別することは困難なので、破壊行為をするために公然と戦争する必要はなく」目標を選ぶことができるとしている。そして、「攻撃的行動は細菌をばらまくために飛行機を利用し、迅速に遂行されねばならない。これをするためには、目標地域にかなり近い空港をもつ必要があり、必要な武器〔細菌弾〕を製造するプラントをもたなければならない。防護手段が強制されなければならない。ペストとコレラが使える」(135)とも書いている。
 これは、1940年から42年にかけての中国での細菌散布の増田知貞自身の経験のうえに書かれたものであるが、人為的疫病と風土病の区別が困難な点こそ、細菌使用の「メリット」だったことを明確に示している。

 
結び―731部隊と細菌戦の後遺症

 1945年1月、陸軍中央は、細菌戦の戦略的実施を中止することを決定した。1944年にはすでに日本軍は太平洋の制海権と制空権を完全に奪われ、南太平洋の拠点を次々に失っていたので、大規模な細菌戦の実施は不可能になっていた。しかし満州ではなお対ソ戦で細菌を使用する計画を捨てず、ソ連の対日参戦が確実になった45年2月以降も関東軍と731部隊はペスト菌培養用のネズミ類(ハタリス)を収集し、また増殖もした(137)。731部隊は平房から南満州の通化に移転しここを防備線とするよう計画し、45年5月以降、731部隊の所持していた重要書類の一部を通化(及び朝鮮北部の江界)に疎開した。
 1945年8月9日午前0時、ソ連が対日参戦し、ソ連軍がソ満国境を南下すると、関東軍司令官山田乙三は731部隊の施設の破壊、秘密書類の焼却、細菌・ノミ・標本及び機具・機械の焼却、特殊監獄(第7棟、第8棟)のなかの「マルタ」の殺害・焼却などの証拠隠滅を命令し、それはただちに実行された。9日午後には収容されていた400人余の「マルタ」の焼却が始まり、その灰をカマスに詰め込みハルビン市内を流れる松花江に捨てた(138)。ロ号棟の内部の破壊が12日昼過ぎに終わると、同日夕方からロ号棟の建物を破壊しはじめた。最初は堅固な建物のため破壊されず、13日と14日にハルビン駐屯の独立混成131旅団の石原工兵大隊が、731部隊の建物すべてを破壊した。安達の野外実験場も14日には破壊し終わった(139)。
 1700人の部隊員と家族、さらに物資を優先的に日本まで運ぶために満鉄を運行させた。10日には部隊の引込み線に33輌の列車が入り、第1陣が撤退し始め、最後の列車が14日午後7時にでるまで、次々に人と物資を運んだ。かれらは朝鮮半島を南下し、8月下旬には仙崎港などに到着した。このように731部隊は秘密部隊であるが故に最優先されて、最も迅速に日本まで撤退したのである。石井四郎は部隊を解散のさい、「部隊の秘密は墓場までもっていけ、戦後、公職につくな、隊員相互に連絡をとるな」と命令した、と旧隊員たちは証言している。このことは戦後長い間旧部隊員たちが731部隊について口を開かなかった一つの原因となった。
 731部隊の破壊は、大量のペスト感染ネズミが逃げ出したことにより、731部隊の周辺の村にペストを流行させた。破壊後、近くの村では突然大量のネズミが出現し、中国東北では見られない白鼠も現れた。翌46年6月から9月までに部隊周辺の後二道溝、義発源、大東井子でペストが発生し、死亡者は計121人を数えたのである。義発源で7?8月に最初の腺ペストの患者があらわれ、10月に終息するまで全村21戸に波及し、41人が死亡した。つづいて後二道溝で、村人の張彦廷が草刈りに行き体中ノミに噛まれ、帰宅後眩暈を起こして高熱を発し、リンパ腺が腫れ、まもなく死亡した。張家の葬儀を手伝った青年靖如先が感染、さらに家族19人中12人が死亡した。同村では10月の終息までに42人が死亡した。時を同じくして大東井子でもペストが流行し、李海新一家4人が全員死亡し、李玉恒の家族12人中6人が死亡、全村では22戸が感染し、38人が死亡した(140)。現在でも住民は身体が真っ黒になって死んでいった犠牲者のことを記憶している。
 その後59年までペストが散発的に流行し、被害を出した。日本軍による細菌攻撃の被害も、攻撃当時とその直後に止まるものではなかった。例えば、1940年10月29日から12月2日にかけてペストが流行し、判明しているだけでも109名の犠牲者を生んだ浙江省寧波市では、防疫措置の一環として汚染区の建物等が焼却され、その後も市の中心街でありながら危険な「鼠疫場」として長く放置せざるをえなかった。この地に建物の再建が許可されたのは、1970年代に入ってからのことだったという。
 また、同じく浙江省衢州市では1940年10月に衢県城にペストが発生したさい、日本軍の空襲を逃れて患者が分散し、41年の大流行を引き起こした。農村地域に拡散したペスト菌を帯びたネズミは、さらに宿主を犬猫や野ネズミなど他の野生動物まで広げたため、ペストの病巣地(自然感染源地域)が形成されてしまった。ひとたび病巣地が形成されると、その根絶が極めて困難であることは、疫学の常識となっている。
 実際、浙江省では放射免疫沈殿試験方法(RIP-radioimmune precipitation assey)をもって1989?1995年の間にネズミから92例のペストF1抗体陽性材料が検出された。それらは義烏、蘭渓、寧波、東陽、龍遊などの地域に分布しており(141)、これらの地域でのペスト菌の存在を意味する抗体陽性検出は、病巣地の形成を証明しているといえよう。
 このような日本軍の細菌戦の後遺症に対して、中国当局は、これまで半世紀以上、ぼう大な資金と労力を費やして、伝染病の発症を抑え込まなければならなかった。統計の残っている衢州では、専門の防疫関係者だけで60年間に延べ100万日/人分が予防対策にたずさわり、衛生運動にかりだされた一般民衆は、1000万日/人にのぼるという(142)。このような負担が現地の経済発展や生活レベルの向上を圧迫しているとの切実な声に、われわれは耳を閉ざしてはならない。細菌戦の被害は、決して過去のものではなく、極めて現代的な要素をはらんでいるといえよう。
  他方、戦犯免責された731部隊の幹部の多くは、戦後医学界や医薬業界に復帰し、その中枢の位置を占めたことを指摘しておかねばならない(143)。
 凍傷実験の吉村寿人は京都府立医科大学学長、病理の岡本耕造は京都大学医学部部長、近畿大学医学部部長、病理の石川太刀雄丸は金沢大学医学部部長というように、戦争中731部隊と細菌戦に全面的に関わっていた日本の医学界は、戦後自己反省することなしに、その構造的体質をそのまま継承した。また、医薬界では、731部隊の幹部内藤良一が1951年創業し、北野政次や二木秀雄が協力した「日本ブラッドバンク」がその典型であり、朝鮮戦争時に731部隊の開発した乾燥血漿などの技術を利用してアメリカ軍に売り込み、莫大な利潤をあげた。この会社は1964年「ミドリ十字」と改名し、翌年以降アメリカから大量の血漿を輸入したが、そのなかにHIV(エイズ・ウイルス)が混入されていた。82年7月にはアメリカの「疾病予防センター」(CDC)がすでに非加熱製剤のエイズ感染の危険性を指摘したにもかかわらず、また、ミドリ十字は82年12月に傘下の米国アルファー社よりアメリカの血液のエイズ感染の事実を知らされていたもかかわらず、輸入をつづけ、加熱処理を加えず85年まで製造しつづけ、その結果、血友病患者を中心に約2000人がHIVに感染させられた(144)。

 以上、筆者は、731部隊と細菌戦について、日本軍が中国において細菌投下した時点から現在まで、歴史的事実としていかなる点がいかなる過程を経て明らかにされてきたかを述べ、次いで、731部隊が人体実験を含む様々な細菌実験を行ない、そこで製造されたペスト菌などの細菌がいかなる地域に撒布され、いかなる被害を生みだしたかについて明らかにした。
 いま筆をおくに当たり、ひとりの歴史学研究者、教育者として次のことを付言することをお許しいただきたい。
 細菌戦の事実は、わが国内においても国際的にも、とくにこの十数年間に、すでに周知の事実となっている。それは、日本現代史における一大汚点であって、被害国民はとりわけ、日本国民がこの恥ずべき歴史的行為をどのように認識し、反省・克服していくか厳しい目を持って見つめている。731部隊が核となって実施された細菌戦が、中国に多数の被害者を生み出したことについて、これを否定するなどということは、特に昨今の国際常識に照らして、あってはならないことと考える。
 中国人被害者の代表として原告が裁判に訴えているのは、補償金欲しさであると邪推するならば、それは全く事の本質を見失っているとしかいいようがない。筆者も中国の現地調査に幾度か参加したが、かれらが求めているのは「人間の尊厳」なのである。
 もし、当裁判で、日本軍による細菌戦によって祖父や祖母や父や母や親戚が死んだという事実が認められないならば、死者の人間としての尊厳は回復されない、ということなのである。細菌戦がなかった、あるいは細菌戦による被害とはいえないというような判決は、かれらにとって耐え難いことであることを、是非ご理解願いたい。
 現在、アジアの国々の人々からみて、日本は必ずしも信頼しうる国だとはみなされていない。その原因の一つ(全てではないが)が、1945年の日本敗戦以前の日本軍による様々な非人間的行為について、日本国政府が明確な謝罪と補償を行なっていないことにあることは、しばしば指摘されてきた。このことが現在、日本の政治的、経済的、社会的な対アジア関係に、一定の困難をもたらしており、将来ももたらすだろうことは、否定しえないところである。とくに日本の将来を担う青少年が、たとえ日本現代史の陰の部分ではあっても、歴史的事実として認識することが、アジアの人々、ひいては世界の人々との間に、真の理解と友好を築きあげるうえで不可欠である。そして、こうした友好関係を築くことが、「戦争と虐殺の世紀」でない21世紀を創り出す第一歩になるであろう。
 裁判所におかれては、これらの事情を直視され、国際協調への障害の一つを除いていただきたく、歴史に残る公正なご判断を切望する。