創造活動としての理論構築
発見か創造か

学術におけるモデルの構築、理論構築は、あたかも、世の中の真実を見つけ出す活動の一つと考えられる場合がある。つまり、学問あるいは科学とは、真実を発見することなのだという基本的態度である。しかし、モデルの構築や理論の構築というのは、創造的な活動、つまり新しい何かを作り出すプロセスだといったほうが適切である。だから、理論やモデルが正しいかどうかという議論は適切ではないのである。

真実を見つけ出すというアプローチは一見すると正しいやり方のような気がするが、真実が存在するという仮定自身がかなり無理がある。仮に、この世に真実があったとしても、それは私たちの認知能力や言語能力をはるかに超えたところにあるはずで、永遠にたどりつくことのできないイデアの世界である。そのことについて論じるのは形而上学であって、科学のやるべきことではない。

学問あるいは科学の活動というのは、世の中を説明することであって、世の中そのものを映し出すことではないのである。あるモデルや理論をこしらえて、それによって世の中を説明する、つまり、モデルや理論は道具なわけである。これが重要である。だから、道具が正しいかどうかという議論はまったく意味が無く、むしろ道具が役にたつかどうかでその価値が判断されるべきである。道具が、世の中をうまく説明できるかどうかということである。だから、道具づくりはクリエイティブなのである。クリエイティブな道具(モデル)を作ることによって、そのモデルを用いた説明が、私たちが世の中についてもっている理解や解釈にどういったインパクトをもたらすのか、新しい洞察をもたらすのか、ということがもっとも重要である。

モデルや理論が真実を映し出す鏡ではないことをハッキリさせたため、世の中に絶対的なモデルや理論など存在しないし、存在しえないことがわかる。だから、モデルや理論は、常に発展していく余地があるものであり、あるいは他の理論にとってかわられる余地があるわけである。そういう意味では、モデルや理論は永遠に未完成なのである(完成というのが、世の中をそのまま映し出すようなものであると仮定すれば)。未完成だから価値がない、発表するに値しないというのは的外れである。発展する余地の高い未完成のモデル、理論こそ、世に問うべきである。

さらに言うならば、創造としてのモデルづくり、理論作りには「雄弁さ」あるいは「文学的センス」が必要不可欠なのである。一見するとこれは見当違いのように思える。モデル、理論とは、数式を中心に、より簡潔に平坦な言葉で作られれるべきであるというのが常識的な見方だからだ。しかし、先ほど述べたように、モデルや理論は創造の産物である。モデルや理論における言語あるいは記号が非常に重要な意味を持っている。人々は言語や記号あるいは図で表現されたモデルなり、理論を見て、そこから洞察を得るのである。真実を知るのではなく、洞察を得る、想像を巡らす、といった活動がポイントである。そのことが、私たちがどのように世界を見て、どのように世界を説明、解釈するのかに影響を与え、それがひいては私たちの行為や実践に影響を与える。もしかすると、そのプロセスがさらに世界のあり方に影響を与えるかもしれない。世界は唯一存在する絶対的なものではなく、わたしたちの行為の相互作用によって作られるものであるからだ。そのような世界を語るための道具としてのモデル、理論であり、モデルや理論が世界を創っているという言い方もできるだろう。