社会科学の方法論について

社会科学で主流と思われる方法論は、自然科学的なアプローチである。つまり、なんらかの社会現象に関して法則性を見つけようとするものである。そして、その法則、関係性というものは、普遍であるという前提がある。

しかし、社会に存在する構造というのは、普遍的なものなのではなく、人類の歴史によって形成されてきた結果なのであり、また未来に向けて変化しつづけるプロセスの途中でもあるわけである。社会現象というのは、基本的にモノではなく、コトである。そしてそのコトをどう定義づけるか、どのようにカテゴライズするか、どう認識するか、そしてどう意味付けするかといったものは、私たちが社会化の過程で学習する習慣であり、そういった多くの認知プロセスは、生物的、先天的なものではなく、社会として人々の長年にわたる相互作用によって築き上げられてきた価値観やルールを反映したものなのである。

このように、社会における諸現象というのは、それを認識する人々がどう知覚、解釈するかによって異なってくるものでもあり、私たちの主体を離れて独立的に存在しえない。なぜなら、社会現象というのは主体としての人々の相互作用そのものなのだから。

これまで説明したように、今の社会に存在する構造や関係性というのは、テンポラルなものにしかすぎない。歴史を見ればわかるように、社会は常に変化しているのである。そのスピードは、日常生活を営んでいる人々から見れば、無視できるほど遅いものかもしれない。そのことから、むしろ社会現象を自然科学と同様に何らかの固定された法則や関係によって成り立つものとして解釈したくなる気持ちもわからないではない。

しかし、現在主流となっているような自然科学的なアプローチ、社会現象の中に法則性を見出し、それを生活に生かしていこうとするアプローチはむしろ、現在変化の途中でしかすぎない社会的な構造を、変化させずに固定させ、そのまま凍結してしまおうという力を加えていることになるのである。つまり、現在見出される社会現象の法則性が、時代を超えて存在しつづける普遍的な法則性であると結論づけてしまえば、人々がそういった理解によって社会を見ようとし、それが変化し得るという本質的な可能性を忘れさせてしまう。

一例を挙げて今まで挙げてきた視点を評価してみよう。自然科学的アプローチの典型として挙げられるのが、古典力学における引力の法則のようなものである。そして、社会科学の研究対象として、仮に、男女差が生み出す経済格差としてみる。ここで問題を、男女差が年収に与える影響はあるのか、ないのか、という問いに分解してみる。もし、自然科学のアプローチに忠実な社会科学的な方法をとるならば、以下にして問題となる諸変数を正確に測定するか、そしてその関係性が繰り返し観察されるか、ということになる。測定の問題については、男女差や年収の測定方法はそれほど難しくない。そして、おそらく、男の方が年収が高くなるという関係が、繰り返し観察されることになろう。

しかし、それをもって、この研究で発見された関係性を、普遍的法則として捉えてよいものであろうか。殆どの人は否と答えるだろう。それは、ここでは極端な例を出しているからである。男女差を持ち出して法則を見出すとは、道徳的にもおかしいという常識があるから、誰もだまされない。しかし、多くの社会科学の研究を見ていると、このような極端な例ではないが、同じようなことがなされていると言えるのである。社会科学で多くやられていることは、物理における引力の法則の発見のようなことを、社会現象を対象にしてやろうとしていることなので、先に上げた男女差と収入の関係のようなものを不変法則であるとの前提に発見しようとしているのである。

これは、現在の社会構造においてすでに有利な立場にいる側からすれば、とても都合のよいことなのである。なぜなら、社会構造が現在のままで凍結されるならば、現在有利な立場にある人々が半永久的に有利な地位をキープできるからなのである。逆に、社会が人々によって歴史的に作られたものでしかすぎず、現在の構造が刻一刻と変化しているものであるということがあらわになるならば、現在有利な立場にいる人々の地位を脅かしかねないのである。逆に、現在不利な立場にいる人にとっては、このように有利な側が方法論を支配して、社会と凍結させようとしていることになるならば悲劇の一言である。

社会がどうなっているかについて、われわれから離れた、見えない力、それも普遍的な力で動かされているものであるという解釈で、普遍法則を見出そうとするかのように自然科学的方法論に追従することも、まったく否定されるものでもないだろう。社会科学の分野によっては、そういったアプローチでも許されることもあろう。しかし、未来に向けて社会をどう作っていくか、現在の構造をどう変えていくかといった視点をなるべく抑制しようとする方法論が独占的に広がることは避けなくてはならないだろう。