とりまきにはなりたくない

世の中には、尊敬できるすばらしい先生がたくさんいますが、私は基本的に、そういった先生の周りにいる「とりまき」が嫌いであり、自分がその仲間になることもとても嫌なのです。とりまきというのは、「先生、そのとおり!」と、いかにもお調子者の感じで、その方の言ったことがすべて正しいかのように、盲目的にしたがっている人々です。

私は逆だと思うのですね。尊敬しているし、素晴らしい先生だと思っているからこそ、反抗するのです。「いや、それは違うのではないでしょうか」というわけです。つまり、胸を借りるということであり、その先生が胸を借りるに値する素晴らしい方だというわけなのです。私は、その方が、そういった反抗的、挑発的な意見に対して怒るような心の狭い人ではないことを知っているし、また、未熟者の反論に対しても、丁寧に応対してくれることを知っているのです。だから、敢えて、反対意見を言ったり、その方の意見の弱点を攻めようとしたりするのです。

そうすることによって、自分が間違っていることを的確に指摘されるのであれば、それで自分も鍛えられるわけです。また、運良く金星をあげることができたならば、それは大きな自信につながるのです。単に、先生その通りですねとお調子者であるだけではまったく進歩がありません。先生を超えてこそ、恩返しというものですから、それを目指すべきではないでしょうか。

私はとりまきが嫌いなので、どちらかというとアウトローな先生や孤立した感じの先生とより親しくなるようです。

先生とは呼ばないで

最近、個人あての手紙やメールで○○先生といってくる場合がときどきあるが、正直行って自分はあまりそう呼ばれたくない、というか好きではない。そもそも、先生と呼ばれる器じゃないし、自分が上で下から言われているような気がする。先生とは、上から物事を教える偉い人というイメージがやっぱり私にはある。そんな姿の自分は想像できない。まあ、先生とは「先に生まれる」という意味だから、それだけ自分が年をとったということなのだろうが、精神年齢はまだ子供である。

会計士や弁護士などの士業や、お医者さんなどは、同僚であっても、普段から○○先生と呼ぶみたいだ。これは、いってみれば○○さん、と何も変わらないということで、単にボキャブラリがそうなっているというだけのことかもしれない。しかし、なぜそんな慣習があるのだろうか。たしか、中国語だと、さんは先生だったような気がするから、その影響でも受けているのだろうか。会話の中でお互いに先生と呼び合っているのを外から観察していると、そんな呼び方をし合っていて気分はいいのだろうかと真面目に思ってしまう。

まあ、先生と呼ばれるのは好きじゃないが、同様に、○○部長、とかいうように呼ばれるのもとてもいやである。ましてや、名前を呼ばれないで、たんに部長と言われたら、自分としたら最悪の気分になるだろう。

要するに、自分の名前に、なにかの社会的役割としての縛りをつける名称をくっつけられるのが嫌ということなんだろう。それだけで、すでに自由を失って、ひどく自分の言動が制約される気分になるのである。

日本は階層を好む社会

アメリカで、彼は私の先輩です。彼は僕の後輩です、と説明しようとするときに適当な言葉が見つからないのに気付く。というか、そもそも、先輩とか後輩とかを気にしない社会なのである。これは、兄と弟なんかにもあてはまる。年上には敬語を使わねばならないというきまりはない。偉い人であっても、社長とかであっても、平社員がファーストネームで呼んでもよかったりする。

こう考えると、やはり日本というのは階層社会なのだと思う。というか、文化的に階層が存在するのを好むのである。実は、上の人にぺこぺこして、下の人に偉そうに振る舞うのが好きなのである。自分が最下層の位置にいて誰にたいしてもぺこぺこしなければいけなくても、年をとるごとに階層的には偉くなっていくシステムになっているから、そのうち、下のものに偉そうに振る舞うことができる。そういったことの繰り返しである。そのような関係になっているほうが、はっきりいって落ち着くのである。誰でも彼でも対等に対応することがむしろ落ち着かないのである。

社会的な階層をつくることで、社会の秩序を保ち、平和を維持するような社会になっているのである。誰でも年をとれば階層の上位に上っていけることができるという意味でも平等なのである。だから、階層そのものが悪いということは、必ずしも真ではない。アメリカのようにもともと社会的階層意識があまり発達していないところで、組織のフラット化を実施すれば、より仕事がやりやすくなってくるかもしれない。アメリカの組織の階層というのは、そもそも仕事を効率的に行なうことを目的につくられたものだからであるが、それが現在は効率化の邪魔をしているということだからとっぱらってしまえ、といえば納得がいくのである。

しかし、もともと階層がシステム化されている社会の企業組織に、組織のフラット化を促進せよといっても難しいかもしれない。日本の企業の階層というのは、単に仕事の効率がよいからそうなっているのではなく、社会システムと一致しているからである。階層の上下は、仕事上だけでなく、本人の社会的身分、人格、そういった深い部分にまで絡んでくる。アメリカでは、社長であっても会社を出れば普通のお父さんであったり、近所でもまあ金持ちのお隣さん、というところであろうが、日本だと会社の社長であれば、会社以外でも偉い人だし、近所でも別の身分の人と思われる。このように、階層というのが社会に深く根差しているのである。

『頭の回転が速くなる方法』

「どうしたらアタマの基礎体力を高められるか!」は、多くの人にとって切実な思いなのではないだろうか。しかし「アタマの基礎体力」と「頭の回転の速さ」は、必ずしも一致しないであろう。基礎体力を示す要素にも、筋肉や心配機能などいろいろあるように、頭の回転の速さはアタマの基礎体力の一部でしかない。したがって、まず考えることは「頭の回転を早くすること」が、自分の市場価値を高めるのに最も得策であるか」と問うことであろう。

私の人間観察に基づくならば、アタマの良さは、コンピュータの比喩を用いて、次の3つに分類できる。

(1)CPU型アタマの良さ
(2)ハードディスク型アタマの良さ
(3)アルゴリズム的アタマの良さ

CPU型アタマの良さは、おそらく問題を提議された方が思っていらっしゃる「アタマの回転の速さ」で、そもそも高速なCPUを頭脳として備えている人を指す。ハードディスク的アタマの良さというのは、いわゆる記憶力に優れていることで、もともと容量の大きい記憶媒体を頭脳として持っているので多くの物事を覚えることができ、非常に博識である。この2つは、いわゆるハードウェアとしての脳みその特質に大きく依存する。つまり、生まれつき優れた脳みそを持っている人が有利であることは否めない。恐らく、どうがんばってもこの人には勝てない、というような頭の回転の速い人や記憶力の良い人に出会ったことがあるだろう。

3つめのアルゴリズム的アタマの良さは、むしろソフトウェアとして、考え方のコツを上手く習得している人を指す。たとえば、非常に論理的に物事を考えられる、要点を上手く捉えて記憶することができる、など、ハードウェアとしての脳みそが人並みであっても、ソフトウェアとしてのアルゴリズム、つまり考え方のコツを身につけることによって、アタマの基礎体力が大きく向上することを示している。

さて、アタマの基礎体力を高めるための具体的な戦略としては、まず自分のアタマの良さというのは、どのタイプに属するのか診断してみることだ。そして、もっとも当てはまるという部分をさらに伸ばす、というのが得策であろう。しかし「やはり私は頭の回転が速いことにあこがれているし、それを是非伸ばしたい」という人もいるだろう。(1)と(2)のアタマの良さは、生まれつき持つ脳の構造にある程度依存するが、筋肉と同じで、ある程度訓練すれば、イチローのようにはなれなくても、ノンプロの4番バッターくらいまでにはいけるかもしれない。

頭の回転を速くするためには、継続的に特訓することが早道である。具体的には頭の回転の速い人達との付き合いを多くし、常に彼らと接するということである。しかも、単なるお友達としての付き合いではなく、議論や、ディベートを積極的にふっかけてみる。勝った負けたを意識した議論を意図的に行なうことによって、彼らの肩を借りた稽古をたくさんこなす。例えば、わざと反対意見を言って、その正当性を主張してみたりするなど(しかしくれぐれも感情的なやり取りにならないように)。最初はかなわない相手でも、特訓を重ねることに、そこそこ勝負できるようになるだろう。それは、自分の頭の回転が速くなってきている証拠だ。

頭の回転の速い人は、いろんなところにいる。例えば「お笑いタレント」。ビジネスとは一見かけ離れていても、彼らは非常に頭の回転が速い。したがって、彼らとの会話は頭の回転を速める訓練としてはとても良い。ビジネスでも、一部の金融や戦略系コンサルティングファームなどに頭の回転の速い人が多いので、彼らとお近付きになって、是非特訓をお願いすることが大切だと思う。

ここでは、一例として頭の回転を速めるために、それに優れた人との接触を多くして学ぶことを挙げたが、別の2つのアタマの良さにも同じことがいえると思う。記憶力を高める法、効果的思考を身につける法、どれをとっても、先達を見つけることが先決だと思う。そして、彼らを良く観察し、時には積極的に稽古を申し込むことだ。特に、ソフトウェアとしての思考法については、生まれつき素晴らしい脳みそを持っていなくても、アタマの基礎体力を高める上で非常に有効であると思っている。

20世紀最後の紅白歌合戦

20世紀最後の紅白歌合戦は、まるでナツメロ歌合戦を見ているようでした。見ているうちに、ピンクレディーとか、アリスとか、昔の演歌とか、どんどんと、自分が幼少のときによく聞いたが出てくるたびに、その頃の思い出が頭の中を駆け巡り、二度とは戻れない過去の世界に、自分自身が引きづりこまれていくような感覚を味わいました。

特に、紅白歌合戦というのは、昔から年末に家族だんらんでテレビをつけて、こたつかなにかに入りながら見ていたものです。そういった昔から変わらない番組ということが、いま見ている番組と、幼少のときに紅白を見ていたときの自分とオーバーラップすることによって、さらに自分を過去の世界にひきこむ力を持っていたと思います。

過去の思い出に浸ること、特に幼少の頃に経験したことが、再現されて、そこに浸ること、これはとても心地良いものです。しかし、この感覚が行き過ぎると、ついに自分は頭の中にある過去の思い出に生きる人になってしまうのではないか、という危険も同時に感じました。例えば、自分が幼少のときのテレビ番組や歌謡曲ばかりを流している放送局があったとしたら、自分なら、毎日その放送ばかり見ながら生活してしまうのではないか、そして、ついには、現実にもどるのを拒否し、永遠に過去の思い出の世界で生活する、夢遊病者のような人間になってしまうのではないか。つまり、これは麻薬に侵されていく人間と同じなのではないかと思ったわけです。

おそらく、科学的に見ても、自分の脳の中では、同じような化学現象が起こっていたのでしょう。つまり、薬物をやったときと同じように、快楽物質が脳内に流れていたのでしょう。それが、昔はよかったというありふれた台詞に代表されるような、快楽の状態に自分を導いていたのでしょう。

さて、この出来事から考えたことは、過去は素晴らしいものである、過去の経験を基に、新たな人生を歩んでいくことは非常に大切なことではあるが、過去にひきづりこまれすぎるのも危険だ、ということです。過去は実はないのです。すべて現在しかない。過去というのは現在にある記録とか、自分の記憶に過ぎない。現実にいながら、そういった仮想的な世界に入り込んでしまうということは、現実から逃避してしまうことに他ならない。未来も同じ。未来というのは、現在においての期待が反映されたものにすぎない。だから遠すぎる将来を考えることも危険が伴う。自分が死んだときのこととか、死んだ後とか。100年後、200年後とか。現在も過去も未来も、人間が考えた概念であるから、それが私たちを超えた絶対的なものとして存在することはありえないのです。今を生きることにもっとも力を注ぐ一番大切なのだということを考えました。

外人に対して早口でしゃべる人

たまに、こっちが全く聞き取れないくらいに早口な英語でしゃべってくる人がいる。面と向って話しているので、こっちの英語を聞けば、英語の下手くそな外国人であることはわかるはずである。しかし、アメリカ人どうしが会話しているよりも早口でしゃべりつづけてくる人は、どういった精神構造をしているのだろうか。

これは、相手が外国人であっても差別しないという、歓迎すべき態度なのだろうか。よく、障害者の場合は心のバリアフリーというようなことを聞く。私はこっちでは言葉に不自由しているわけだから、通常の人よりもハンディキャップを追っていることになる。そういう私を見下すことなく対等に扱うという意味なら、ありがたいことである。たまに私が出くわす人というのは、こういった言葉が不自由な人と、通常の英語を話す人を全く区別せず、同じようなペースで話す人なのである。

たいてい、話している人の目をみればわかる。確かにそういった人は私を外人だからとか言葉が不自由だからというような目で見ていない。まったく差別していない。しかし、それと同時に、言葉が不自由だから相手にわかるようにゆっくりと話してやろうという意識もまったくない。相手に対する思いやりが欠けているとかいう問題ではないような気がする。日本人ならそんな人はいないだろう。相手が外人だったら、少しくらいゆっくりと話すであろう。常識とか、道徳とか、そういうレベルじゃなくて、意識しなくてもそうなってしまうというレベルのことだ。それがあたりまえでない米国とはいったいどんな国なのだろうか。不思議だ。

経営コンサルティング業界

現在の日本では、経営コンサルティングという言葉は多くの人が知っています。一昔前は「それっていったい何ですか」という反応がほとんどでしたが、最近では「戦略系ですか?IT系ですか?」というような反応が返ってくるくらいですから、コンサルティングのブランド化がかなり進んできたといえるでしょう。

さて、コンサルティング・ファームと聞いて日本人でも真っ先に思い浮かぶのが、大手外資系コンサルティングファームの雄、マッキンゼーとボストンコンサルティンググループですね。そして、日本におけるこの2社のコーポレート・ブランド確立の立役者となっているのが、間違いなく、大前研一氏と堀紘一氏です。

この2人は、日本に欧米のコンサルティングの手法を紹介し、みずからが大手コンサルティングファームの日本拠点の長として、マスコミを始めさまざまな場に論客として登場し、コンサルティング・ファームの知名度と市場の拡大に貢献してきました。まさに、プロレスで言えば、アントニオ猪木とジャイアント馬場といったところです。

これはあくまで比喩ですから、どちらがどっちというわけではありませんが、強いていうならば、早めにマッキンゼーを退き、政治家への道を目指した大前さんは猪木タイプ、一方、ボストンコンサルティンググループの顔として、日本の社長を長年勤めてきた堀さんは馬場さんタイプと言えるかもしれませんね。

ML組織の盛衰2

ML組織には、ライフサイクルがあると考えられます。よく観察されるのは、一時期ものすごい量の投稿数がでてきて、自分のメールボックスがパンクするのではないかと心配になるくらいなのですが、いつしか投稿数が減って、しかも急激に減ったりして、その後ほとんど投稿がなくなってしまう、またあってもほんの一部の常連というか、管理人関係の人だけの投稿になっていく、というライフサイクルです。前にも書いたように、ML組織はしぶといのでなかなか死にません(もうすぐ死ぬ、もうだめだろう、と思っていてもしぶとく生き残るのは日本企業にも多いですが)。そこで、何故このようなライフサイクルなのか、という関心がでてきます。

一つは、燃え付き効果でしょう。そのMLのテーマとなる議論がひととおり出尽くしてしまったがために、新しい話題を提供する人がいなくなってしまうのです。えてして、同じような議論を何度も何度も、新しい人が入ってくるたびにむしかえすこともありますね。ネチケットの話とか、チェーンメール、スパムなどの議論は、何度も何度も出てきます。しかし、たいていはみんなもうあきて、新しい話題をさがす気力がなくなってしまうと思われます。

もう一つのダイナミック仮説は、参加者がつぎつぎと新しいMLを見つけて、活動の主体を移動させていくことが原因だと思います。同時に複数のMLに対して同じくらいの力を注ぐことは大変です。ましてや仕事をしている人は、(業務中にMLに投稿している人は別として)、そんなに時間をかける余裕はないでしょう。また、新しいMLもつぎからつぎへと生まれてくるわけです。このような要因が重なって、先に書いたようなライフサイクルが出現すると思います。

I don't think so. には御用心?

どうもアメリカに住んでいると、ストレートな表現に慣れてしまうというか、議論が好きになってしまい、平気で「私は違うと思う」といってしまいます。むしろ、はっきりしない発言は嫌われる傾向さえあります。「なるほど、たしかにあなたの意見は素晴らしいと思います。えっと、しかし、私には少し気になるところがありまして...といいますのは、・・・」といったように前置きをながくするのが日本流なのでしょうが、逆にそんなことをいっていたら、この人はいったい何がいいたいんだ、と思われてしまいます。しかし、「私は違うと思う」というストレートな意見を日本語のメーリングリストなどでも使うと、10人に2人くらい、怒り出す人がいるので注意が必要です。こういったトラブルは、自分自身も経験していますし、他の人達がそういったトラブルに遭遇している場面もたまに見ます。

私は他の人にどう見られているか

でる杭は打たれるといいますが、MLなどであまり目立つと攻撃されることもありますね。以下の発言は私が参加していたメーリングリストで頂いたものです。こうストレートに言ってくれると、ある意味、ありがたいですが。

「・・・そもそも 誰に向ってお説教タレてんの?、って感じ。このMLのメンバーは 余程何も分かっていない人ばかりだと思っているのかねえ。そうなんだろうねー、だから例えば、・・・などといった発言が絶えず出てくるんだろうな。それにしても、いろんなMLに入っていて 今までいろんな発言を見てきたけど、これ程まで どうでもいいこと・分かりきったこと・間違っていること・矛盾したこと・意味不明のこと を堂々と主張する人というのは、正直言って見たことがない。それに、頭の中でこねくり回した思い付きを理屈をこねて喋っているだけなので、まったく参考にもならない。 ふつう学生の発言などでも、勉強していて筋のいい人のは とても参考になったりするんだけど。MLを道場と考えて、そこで相手を打ち負かそうというのも、ちゃんと手合わせしてくれる優しい道場主がいれば それはそれでいいのだけれど、でもしばらく続いた道場主とのやり取りを勝負とするなら、どう見ても道場主の方が勝っている。時間はたっぷりあるようなので、長期戦・消耗戦に持ち込む以外に勝ち目はない、ってところだろうけど、それも読まれてしまったり。自分の考えたことを「パラダイムシフト」と言ってのけることが出来るくらいの人なら、こういう小さな道場でなく、もっと大きな道場やアカデミックな人たちが集まっているMLで発言した方がいいんじゃないかな。パラダイムシフトをもたらす位のものなら、もっと多くの人に伝えるべきだし、もしかしたら ずっとたくさんリアクションが得られるかもしれないし、、、ノーリアクションというリアクションも含めて。でも、人のたくさんいるところで発言する度胸なんかないんだろうね、えてしてこういう人は。あと、自分のホームページでやるという手もあると思うけど。全世界に向って発信できるし、また掲示板を設けて反応も得られるだろうし。」

MLの盛衰

組織の盛衰を研究した本がありましたが、MLの盛衰を研究した本はまだないのでしょうか。だったら、私が書いてみようかなと思うところの時間がなくて無理だな、というところなので、軽くこの場で考察してみます。MLの性質とは一体なんでしょうか。いくつか法則的なものを考えてみましょう。まず、MLは非常に少数のコアと非常に多くの周辺を抱えている点で、伝統的な組織と違うでしょう。少数のコアの発言により、ML組織の文化や風土が形成され、その風土を壊したり文化を変えることは、周辺のメンバーにとっては難しいでしょう。また、コアと周辺の絶対数の違いも注目に値します。周辺メンバーは、ほとんど発言しない傍観者から、たまに得意な話題になったときに登場してくるメンバー、また、思いがけないときに突然発言しだすメンバーなど、さまざまです。まず、新規参入したときに、挨拶程度の発言をする人と、発言せず様子をみる人の2つのタイプに別れるでしょう。そして、両方とも、MLの風土や文化が自分に合わないと感じてしばらくして発言するのを止めてしまう、また発言をまったくしないままにしておくケース、その一方、調子付いてめちゃくちゃな勢いで発言しまくるメンバー、その中間の人々などがいるでしょう。ここで注目すべきは、発言しなくなったメンバーの全員が、MLを退会するわけではない、ということです。面倒くさいからなのか、理由はわかりませんが、そのままMLの購読だけは続けます。ここがML組織のしぶとい性質で、ML組織はなかなか死にません。まったく発言がなくなって、死んだのかな、と思っていると、突然発言し出す人がいます。このように、ML組織の性質の一つは、なかなか死なない、休眠状態のMLが多数存在することだと思うのです。では、つづきはまた今度にします。

チアリーダー

インターネットで遊んでいたら、たまたまチアリーダーをやっていた友達が紹介されているホームページを見つけました。そこで思い出したのが、チアリーダーの練習現場に一度招待されていったときのことです。練習そのものはハードな感じで、よくやるなという感じだったのですが、すごく息苦しさを感じたんです。それは気持的にじゃなくて、ほんとうに酸欠だったんだと思う。それだけ、彼女たちの肺活量がすごいのだと予測できます。私はスポーツマンじゃないので、通常でもそんなに酸素を必要としませんが、彼女らのように体を思いっきり使うスポーツは、おそらくかなりの量の酸素を必要とするし、通常の生活でもかなりの肺活量なのだろうと思います。実際、練習以外のときの明るさとかはきはきした感じに表れているような気がします。そういったことで、実際彼女らと一緒にいるときは息苦しさを感じたという次第である。もしかしたら単に圧倒されていただけなのかもしれませんけど(笑)

音楽を聴きながらの勉強はやっぱり無理?

むかしはよく、音楽を聴きながら勉強したことがあったのですが、英語となると、それができないことに気付きました。音楽を聴きながら、英文の書物を読もうとすると、注意が文章に集中できず、理解することができないのです。日本語だったら、そんなことはありません。実際、この文章は音楽を聴きながら書いているのです。これが英語だと無理です。それは、やっぱり英語が外国語であるため、英語で読んだり書いたりすることは、相当の認知資源を使うということだと思います。コンピュータに喩えれば、日本語の作業はCPUリソースをそれほど使わないのに、英語になると、CPUリソースを非常に多く占用してしまう、ということになります。英語の読み書きに私のアタマが持っている情報処理能力の大半が使われてしまうので、音楽を聴いていると、それに必要な能力が確保できないということになると思います。

進化心理学を知っていますか?

進化心理学という言葉を聞いたことがありますか。進化心理学とは、ダーウィンの進化論の思想に基づいて展開されている心理学だそうです。ダーウィンによると、私たち人間も、下等動物の進化の結果誕生したわけであって、下等な動物とは連続的なつながりがあるということになります。たとえば、人間はサルがさらに進化した結果誕生した動物である、というような考え方です。進化心理学が何をいわんとしているのかというと、進化はなにも私たちのからだだけが起こったわけではなく、私たちのこころも進化によってもたらされたものである、ということです。からだもこころも、環境の変化に適応できた生物が生存し、それができなかった生物は死滅するという、自然淘汰のプロセスによって、つくられたものだということです。

さて、進化心理学が強く主張するのは、私たちのこころはまだ石器時代の狩猟民族の段階でとどまっている、ということです。社会の発展が、人間の生物学的進化のスピードをはるかに超えた速さで行われたため、生物としての人間のこころはそのスピードに取り残されてしまっている、ということなのです。

私たちのこころの本質は、石器時代の狩猟民族、そのこころを持った人間が、文明の高度に発達した社会で暮らしている、こういった事実が、社会におけるわたしたちのいろいろな問題を理解するカギとなる、ということが進化心理学の大きなテーマなのです。