競争力強化のための
ヒューマンキャピタル・セミナー

はじめに

キャピタルは、投資をすることによってどんどん価値が増えていくものである。キャピタルといえば、お金、つまりファイナンシャルキャピタルを想像しがちであるが、企業経営にとって、もっとも大切なものの一つが人、つまりヒューマンキャピタルである。ヒューマンキャピタルに積極的に投資することにより、企業のヒューマンキャピタルの価値を高めた企業が、競争優位性を獲得し、超過利益を得ることができる。

重要なのは、ヒューマンキャピタルの価値を高めるためには、投資をしなければならないということである。これは、人材の育成、人材の学習といった活動を意味する。ヒューマンキャピタルへの投資と企業業績との関係はどのようなものなのだろうか。

ところで、近年においては、自由と自己責任、エンプロイヤビリティ、あるいは人材の市場価値という言葉がよく使われるようになった。このような用語が使われる文脈の中で企業が抱える悩みとしては、人材の市場価値を高めるような人的資源管理を行ったとしても、彼らは流動化する人材市場において、より条件のよい職を求めて転職してしまう。それでは企業が人材に投資する意味がなくなるので、企業はこれまで以上に優秀な人材の引き止め策(リテンション)に力を入れなければならない。これまでは黙っていても企業が社内にとどまってくれていたのに、今後はそういうわけにはいかなくなるため、企業としての人材への投資と同時に、投資した人材が流出しないように努力しなければならないというのだ。

このような議論に関連して、今回は、ゲーリー・ベッカーのヒューマンキャピタル理論に基づき、最近わが国で議論されている話題などにも触れながら、ヒューマンキャピタルについての理解を深めるようにしたい。

ヒューマンキャピタルへの投資

企業がヒューマンキャピタルに投資するという意味での人材教育・人材育成は、正式な社内研修やスクール派遣のようなものにとどまらず、日ごろの職場におけるOJTや、人事異動などによる人材の育成も含まれる。特にわが国の場合は、ポテンシャルの高い学卒者を採用し、企業内で育成していくというスタイルをとってきたので、このような考え方はなじみの深いものである。

さて、このようなヒューマンキャピタル投資は、一般的な部分と企業特殊的な部分、つまり、どこにでも通用するようなゼネラルな知識や技能を獲得する部分と、その企業でのみ通用するような部分とにわけられる。一般的な部分の例としては、一般的なリーダーシップやマネジメントスキル、問題解決能力、論理的思考力、業界内で通用するテクニカルスキルなどがあげられる。企業特殊的な例としては、会社のどこにどんな資源があるかという知識、会社のリソースをうまく利用することができる技能、企業独特のノウハウなどがあげられる。

もちろん、実際の育成活動を、このどちらかに明確に分けることは不可能で、それぞれがある割合で含まれていると考えるべきであろう。ただしここでは、議論していくうえで、この2つを明確に分けて、それぞれについて企業がヒューマンキャピタルに投資することの意義を理解してみよう。

ヒューマンキャピタル投資と人材の市場価値

一般的育成は、どこにいっても通用するような知識や技能を身に付けさせるものである。これは、その企業に限らず広く通用する知識や技能なので、従業員の市場価値あるいはエンプロイヤビリティを高める。近年よく言われるのは、この市場価値やエンプロイヤビリティであり、他の企業でも雇われる能力、つまり何らかの理由で企業を離職せざるをえなくても他社で活躍できるような、汎用性があってどこでも使える能力、多くの企業がが求めている、欲しがっている能力を身につけるということである。専門性という言葉もよく用いられるが、これも、ある業界であればその専門性を持っていればどの企業に属していようが価値をもたらすという意味で、この一般育成の対象となる知識・技能に含まれる。

従業員は、この一般的な育成の結果得られた知識や技能を使って、現在属する企業への貢献度を高めることができるが、それはそのトレーニングを受けた企業に特定されるのではなく、どの企業でも同じように貢献できる種類のものである。だから、仮に転職しても、自分が獲得した知識や技能のぶんだけ賃金上昇が見込まれる。一方、企業特殊的人材育成というのは、その企業にのみ活用できる知識や技能を身に付けさせるものである。先ほどの例にもあるように、企業内の資源をどう使っていったらよい仕事ができるとか、企業が保有している特殊技術や特殊設備に関する技術だったりする。このような知識や技能は、他社に移ったりした場合には使えないので、従業員の市場価値やエンプロイヤビリティを高めることにはならない。つまり、その知識や技能は、転職などをした場合に、獲得した知識や技能が本人の賃金を上昇させる要因とはなり得ない。

従業員側、会社側から見た損得計算

それでは、この一般的なヒューマンキャピタル投資と、企業特殊的なヒューマンキャピタル投資を、従業員、企業それぞれから見た場合、どのような損得計算が見込まれるのであろうか。一般的人材育成と企業特殊的人材育成を比較する場合、従業員側から見た場合は、前者はどこでも通用する知識や技能の獲得によって本人の市場価値やエンプロイヤビリティを高めるので、基本的には自己負担しようとするインセンティブも働くたぐいの投資といえる。しかし後者は、その企業を離れた場合にはまったく使えない知識や技能であるため、市場価値、エンプロイヤビリティは向上しない。したがって、自己負担してでもその育成を受けようというインセンティブは基本的にわかない。

一方、企業側から見た場合、一般的人材育成は自社の企業収益の向上に貢献するが、他社の収益にも同等に貢献することが可能なものなので、それは他社と比較した競争優位には働かない。結局、収益が増えてもその分賃金として従業員に還元しなければならない、つまり市場価値が増大した分だけ賃金も上げなければならないので、企業にとって実質的な利益上昇はゼロである。

もし、収益上昇分を従業員に還元しなかったら、それは本人の市場価値以下の処遇をしていることになり、その従業員は、獲得した一般的な能力による市場価値に見合った対価を正当に払う意志のある企業に転職することによって今よりも高い賃金を得られることになるので転職してしまう(ここでは人材の企業間移動が比較的自由な自由労働市場を仮定している)。つまり、企業が従業員にほどこす一般的トレーニングは、他社よりも多い利益を稼ぎだすためのトレーニングにはなり得ない。

仮に会社負担で一般的な教育投資を従業員に行っても、従業員が退職して他社に移った場合に、その会社負担分だけ損をする。一方、その転職者を受け入れた企業は、本人が与えられた投資の効果で収益を増加させることができるが、会社からは投資コストを負担していない分だけ得をする、つまり自社としては投資をせず、どこかで他社の負担で投資された人材をうまく獲得することができたわけである。ということは、教育投資を行う自社にとっては、他社の収益を高めるために会社負担で投資している、つまり比較競争劣位を生み出しているものとなってしまうので、そのような投資をするインセンティブがわかないのである。つまり、企業としては会社負担で従業員に一般人材育成を施すインセンティブは基本的にはない。

一方、企業特殊的な人材育成の方は、その企業が他社と比較して競争優位を生み出すためのものである。ゆえに、本人はその知識や技能を他社で使うことはできない。他社も、自社にいる人材のこのような特殊知識、技能を真似することはできないので、いったん差がついてしまうと追いつけない。このような投資は結果的に他社よりも多くの利益を生み出すことにつながると想定されているので、会社負担であっても企業特殊人材育成とすて教育投資するインセンティブがわくと言えるのである。

以上の議論をまとめると、従業員のエンプロイヤビリティを増加させるような一般投資は会社側からは負担するインセンティブがないが、本人からは自己負担でも行うインセンティブがある。よって、企業がそのようなトレーニングを施す場合には、そのコストを賃金から差し引くことによって、実質的に本人が自分の賃金の一部によって投資し、その投資リターンは、将来の貢献度の高まりによる賃金の上昇という形で従業員が得る形に落ち着くことになる。

これは、従業員が企業から一般教育投資をうけず、むしろもらった賃金を使って自己負担で企業外のビジネススクールなどの場で知識や技能を磨くのと結果はまったく変わらないということになる。企業が主体として育成しようが、外部の教育機関が教育しようが、要は従業員が自己負担でどこにでも通用する知識や技能を身につけているということである。近年よくいわれている自由と自己責任の原則で市場価値とエンプロイヤビリティを高めるために自己投資しようという考え方とある意味整合性がある。要するに、どこにでも通用する知識や技能を獲得するという意味では、企業の育成と企業外のスクールのどちらが効果的かという判断基準になるわけで、企業外部のほうが優れているということであれば、企業としては一般的な教育投資をせず、その分は賃金の形で従業員に還元してしまって、あとは本人の自律性に任せるというわけだ。

一方、企業の比較競争優位をもたらす企業特殊的トレーニングの場合は、従業員側から見た場合はエンプロイヤビリティを増加させないので自己負担で投資するインセンティブはわかないが、企業側から見た場合は、他社よりも多くの利益を生み出す機会を増加させるので、会社負担で投資するインセンティブがある。よって、このようなトレーニングは、従業員の賃金から差し引かず、会社のコストとして投資し、その投資リターンは、従業員がコストを負担しているわけではないので、会社が得る権利があるという形に落ち着く。

ヒューマンキャピタル投資と離職対策

次に、従業員が離職することによる企業への影響を考えてみよう。一般的人材育成の場合は、従業員が実質的に自己負担することによって投資し、市場価値、エンプロイヤビリティの向上という形で投資リターンを得るという構図になっていることがわかった。企業としては、従業員が一般トレーニングによって企業利益への貢献度を高めた分だけ、賃金上昇という形で支払う必要があるため、プラスマイナスゼロという計算になる。

企業として会社負担しているわけではなく、投資しているのは従業員自身なのであるから、一般的ヒューマンキャピタル投資から得られるリターンはすべて従業員側に属するという考えである。よってそういった従業員の離職は、企業にとって大きな損失とはならない。従業員にとっても、どこでも通用する知識や技能を獲得しエンプロイヤビリティが高まっているので、他の企業でも同等の貢献ができるし、その見かえりとしての報酬を受け取ることができる。仮に企業が経済上の理由で人員削減をしなければならない場合であっても、こういった一般トレーニング投資をされたヒューマンキャピタルを優先的に削減することが合理的である。

一方、会社負担で企業特殊的な教育投資が行なわれた従業員の場合、もしその従業員が離職したならば、企業は会社負担分の投資が回収不可能になってしまい問題である。

従業員側からみたら、企業特殊的なトレーニングで選られた知識や技能は他社ではまったく使えないが、その投資に自己負担していることにはなっていないので、トレーニングのリターンを得る権利は基本的にはなく、投資効果は本人の賃金上昇には反映されていないはずである。よって、従業員にとっては、離職は賃金にはあまり影響を及ぼさない。企業特殊的トレーニングで得られる知識・技能とは別の部分で、別会社に貢献し、その見返りを賃金で受け取るということで、前職と同じ水準の賃金を獲得できる。そもそも、企業特殊的な人材育成では市場価値は変化していないのだから当然である。

こうしてみると、企業特殊的トレーニングを施した従業員の離脱は、会社側が一方的に損をする構造になっている。しかし、この議論で前提としてあるのは、企業特殊的トレーニングは会社負担で行っているので、その投資リターンは従業員ではなく、会社が全部得るというものである。

そこで会社としては、企業特殊的ヒューマンキャピタル投資で得られたリターンの一部を従業員にも与えるという解決策が出てくる。つまり、従業員の賃金に、リターン分の一部を上乗せすることである。そうするならば、仮に従業員が離職して別の企業で職を見つけたときに得られる賃金水準よりも高いことになる、つまり従業員の現賃金が、一般的な知識・技能で見た場合のマーケットの賃金の相場、すなわち自分の市場価値よりも高いことになるので、従業員にとっては離職するインセンティブがなくなり、企業にとどまろうとする。企業特殊的人材育成を施した従業員が定着すれば、企業は長期的に彼らから高い貢献を得るという形で、ヒューマンキャピタルに対する企業特殊的投資を回収することができる。

これまでの議論をまとめると、エンプロイヤビリティを高める一般トレーニングの場合は、従業員の自己負担で投資し、企業への貢献度の向上というリターンは、それに見合った賃金の上昇という形で本人が受け取るため、従業員で自己完結する投資になる。一方、企業特殊的トレーニングの場合は、それによって、企業は他社よりも多くの利益を獲得することができるようになり、その超過利益の一部を従業員に分け与えることになるので、従業員側にとっては、企業に属して企業特殊的トレーニングを受ける方が、自己負担ゼロで賃金の上昇を得ることができるので、お得なのである。これは、企業特殊的トレーニングが、比較競争優位をもたらすという前提があるので、それに成功すればの話である。

まとめ

企業特殊的なヒューマンキャピタル投資は、自社のコアスキル・コアコンピテンスへの投資である。他社に真似のできない唯一性の高いコア・コンピテンスであるからこそ、従業員が獲得した知識や技能の他社への活用は困難であるし、従業員本人の市場価値やエンプロイヤビリティを高める投資とは言えない。しかし、このような企業特殊的投資こそ、企業が会社負担によって積極的に行うものであり、それを行ってこそ、持続的な競争優位性を獲得できるチャンスが高まる。従業員にしても、会社負担とはいえ、自分が身につけた知識や技能がその企業でしか使えないとなれば、他社に転職するインセンティブは弱まり、かつ企業が自分の市場価値よりも高めの賃金を支払ってくれるのであれば、なおさら定着することになる。よって企業は、会社負担で投資した価値あるヒューマンキャピタルを企業内にとどめておくことができる。すなわち、価値の高い人材のリテンションを効果的に行うことができるわけである。