仕事に対する報酬「再考」

「同一職務・同一賃金」という言葉がある。賃金が労働の対価だとすれば、おなじ仕事をやっている人たちには同じ額の賃金を支払うべきだという考え方であって、古くからあるものである。これは、欧米では基本であって、いわゆる職務給という形でもっとも普及している報酬形態である。

一方、日本ではいわゆるブルーカラーにおいてはこのような考え方の報酬が行われることが多くても、たとえば大企業の事務系ホワイトカラーの場合、年功や職能、あるいは役割に応じた給与というのが一般的であり、最近では成果主義のもと、結果に対して支払う報酬への注目度が高い。基本的には、人に対して払うのが報酬だという考え方であり、その人がどのような役割を担うのか、どのような貢献をしているのか、成果を上げたのかというのを、報酬の基準としようとする考え方である。

ここまでは、よくいわれている話であるが、今回再考したい問題定義は、上記にあげたような古い意味での同一職務・同一賃金ではなく、わが国の企業がより新しい雇用形態、組織形態になっていくなかで、仕事に対して報酬を払うという考え方を積極的に用いていくことの提案である。従来の「同一職務同一賃金」が意味する考え方というのは、社内にある職務や仕事というのは安定していてそう変わることがなく、そのような安定した仕事を束ねて役職あるいは職位とし、その役職の給与を仕事をベースに決めることによって、職務給、役職給、職責給というのを決めていくというものである。しかし、これから説明する再考の部分はそうではない、むしろ、これだけ環境変化や技術革新が激しい中では、会社の仕事というのは常に変わっていくし、陳腐化して要らなくなる仕事がある一方、新しく必要となってくる仕事がどんどん社内で生み出されていく。このようなダイナミックな組織環境において、仕事に対する報酬という考え方をどうマッチさせていくか、という点がこれから議論したいポイントなのである。基本となるポイントは、人材のみならず仕事が流動化しているなかで、どのように仕事に対する報酬を考えていくか、ということになる。

まず、事務系ホワイトカラーのような仕事の場合、仕事あるいは職務というのは、実はきちんと定義されていてされていない。たとえば、米国のように厳格な職務記述書によって運営されているわけではない。むしろ、職場の管理者やリーダーが、適切な社員に適切な量のタスクを、状況に応じてうまく分配していくようなマネジメントをやることによって仕事を回している。たとえばある仕事の担当者が長期的な休暇を取るといった場合には、うまい具合に彼/彼女のやっているタスクをみなでシェアしながら日常の仕事を回していく。また、わが国の場合、個人個人が工夫をすることによって、仕事のやり方をカイゼンしていくということは良いことであると考えられている。したがって、仕事のやり方が日々変わっていくということは十分ありうることである。

このように、誰が何をやるということが明確に定義されていない仕事、仕事の定義がされておらず、仕事の中身も比較的容易に変わっていくような仕組みになっている場合、「融通が利く」ため、柔軟性が高く、円滑に物事を進められるという長所を持っている。しかし、このような融通が利く仕事の仕組みになっている場合に起こりうることとして、優秀な人材の負荷がどんどん高くなっていってしまう、というものがある。つまり、優秀な人材にはどんどんと仕事が舞い込んできて、それを受けている間に首が回らなくなってしまう、あるいは過労で倒れる、またはバーンアウト(燃え尽きてしまう)という危険性もある。優秀な人の負荷がかかるのは、実は自然なことであり、新しい仕事が出てきたとき、大事な仕事のとき、全社的プロジェクトといった場合には、どうしてもそれらの仕事を優秀な人材にまかせたくなるのである。器用な社員ほどうまく使われて貧乏になってしまう。

こういったような現象は、仕事の内容が明確に定義されていないがゆえに可能となるわけでであるが、それでは優秀な人材がつぶれてしまうか、あるいは自己防衛のために優秀であることを隠してしまう、わざと手を拭く、やり過ごす、という政治的行動を誘発することにもなりかねず、それが進めば、本来優秀な人材も、それなりに差し障り なく、適当に仕事をこなす典型的大企業型優等生タイプの人材になってしまうことになりかねない。なぜならば、本人にしてみれば、他の社員とそれほど給与が大きく違わない中で、自分だけ多くの仕事を任せられ、自分が会社をよくするために積極的に提案しても、言いだしっぺがすべての責任をとらされ、十分なサポートが得られないまま、社内を走りまわらねばならず、自分が一番忙しくなってしまい、真に会社のために働くことに対する見返りがない、だったら、何も言わず、問題点を発見しても見て見ぬふりをし、だまって言われたことだけやっていたほうが得である、という考えになってしまうのである。ある意味、企業変革を担うかもしれないような血気盛んな若者が、サラリーマンになったのち、組織によって去勢されていくプロセスを反映しているとも言える。

最近の処遇で中心的な話題をさらっているのが成果主義であるが、わが国の経営は成果主義よりも、仕事によって社員に報いるという仕組みが適しているという人もいる。つまり、優秀な人にはそれなりの「やりがいのある」仕事を与える、あるいはレベルの高い仕事を与えることによって、本人の誇りを刺激し、モチベーションを高める、という意味である。そうすれば、成果によって報酬を変動させるという考え方をとらなくてもうまくいく、という考えである。この考え方は一理あるが、先ほど述べたように、少数の優秀な人材に仕事を集中するような現象が起こってしまうと、逆効果なのである。がんばってもそれにみあった報酬が得られないという考えが社内に蔓延してしまうとそれでアウトなのである。

これらの問題を解決するために、仕事に対する報酬という考え方をこれらのケースに少しあてはめてみよう。たとえば、ある社員に対し、いまやっている以上の仕事をやってもらいたい時には、その仕事の内容を説明するとともに、その仕事がいくらなのか、つまり彼/彼女の給料とは別に、その仕事をやることによって支払われる額を提示する。それによって、お互いに、仕事の中身、それをやることによって得られる報酬などについての合意がなされれば、彼/彼女はその仕事を受けることになる。行ってみれば社内で仕事の取引市場があるようなものである。仕事そのものを売り買いする仕組みである。社内労働市場という言葉があるが、むしろ、社内仕事市場という感覚である。仕事自体が、社内で取り引きされ、適切な価格(報酬)になっていき、それを引き受けたい人、引き受けるにふさわしい人がその仕事を引き受けていくというようなイメージである。

全社的に重要なプロジェクトを立ち上げることになって、ある人材にそのプロジェクトメンバーとして参加してもらいたい、ということになったならば、彼/彼女は、日常の仕事をこなしながら、その合間あるいは時間をとって、プロジェクトに参加することになる。しかし、全社的に大切なプロジェクトなのであるから、片手間でやってもらっては困るし、面倒くさいな、
と思われても困る。だから、明確に、プロジェクトに参加することに対する対価を支払うのである。社内兼業あるいは時間外の社内アルバイトと考えてもいい。つまり、同じ会社であっても、複数の仕事を掛け持ち、複数の賃金をもらっているような感じにする。同じ給与の中で、どちらかに力を入れてどちらかがおざなりになるというのではなく、両方とも仕事の対価という意味での金額が決まっているために、それに見合った働きぶりを示す責任感を維持させる。

プロジェクトメンバーの選定については、指名でなくても、公募でもいい。社内でアナウンスして、我こそはという人材に立候補してもらう。そうすれば、受け身の社員ではなく、積極的に参加したい社員からにジョインしてもらうことができる。公募の際には、仕事の内容、求められる能力やスキル、そして報酬を提示する。そうすれば、結果的には成果主義に近い報酬にもなっていく。ある仕事に対して、自分で手をあげ、そして選ばれた人材が、その仕事をこなすことによってプラスアルファの報酬を獲得する、というしくみであるため、従来型のあいまいかつちょっとした格差のある職能型報酬のなかで、優秀な社員が会社に都合のいいように使われてしまうといったものとは違うわけである。

特定の組織横断的なプロジェクトの他に、たとえば社内の研修講師を引き受けてもらって、講師料を支払うというやり方もある。人材育成に力を入れていきたい企業の場合、企業を代表する優秀な社員が講師となって、他の社員を教育するような仕組みを作っていくことは重要であり、それをやってもらう場合には、それなりのステイタスに見合った報酬を与えてみるというやり方も考えられる。このように、仕事に対する報酬という考え方は、従来型の経営ではなく、未来型の経営あるいは組織形態においても活用していくことが可能であると考えられるのである。