雇用の契約変更ができない日本企業

まず、契約について最初に断っておくと、ここでいう「契約」とは「法律上の契約」ではなく、人と人が何らかの約束をするという意味での、心理的な契約を指している。一方が相手に対して何かを与える見返りとして、相手になんらかのアクションを期待するという約束の関係を指して契約と言っている。したがって、企業と従業員の結ぶ契約は、企業がなにを与え、その見返りとして従業員になにを期待するかの交換関係である。

このような契約関係は、必ずしも文章などで明示的に書かれたものではない。お互いの心理的なものなので、暗黙的な約束も入っているわけである。心理的なものなのでお互いに何らかの解釈のズレがあるだろうが、大まかな点については、お互いが契約に関して合意しているとみなすことができる。そして、その契約が履行される限り、その契約に関する大きな問題は生じないはずである。

さて、戦後高度成長期を経て発展したきた多くの日本企業が従業員と交わした契約は以下のような交換だった。

伝統的な契約形態

雇用の契約をするにあたって、企業は従業員に以下ようなことを提供する

  • 雇用は、定年になるまで保証する
  • 給料も、勤続年数にしたがって年々上げていく
  • 年齢があがればそれなりのポストにつける
  • 同期ならば、できるだけ処遇に差はつけない
  • 社員食堂、独身寮など私生活もできるだけサポートする
  • 従業員の家族もサポートする、冠婚葬祭も援助する、扶養にかかる補助金も出す、社宅も用意する
  • 定年時には厚い退職金を与え、老後の心配をしなくてもよいようにする

その代わり、従業員には以下のことを期待する

  • 若いときには給料が低くてもがまんせよ、将来必ず上がるから
  • 残業代が出なくても残業せよ、我慢強く働け、コツコツ働けば業績が上がる
  • 人事異動に逆らうことなく与えられた仕事をこなせ
  • 企業への忠誠心を高めよ、和を大切にすること
  • 上司の命令には逆らうな、上司が飲みにいこうといったら一緒にいくこと
  • 社内運動会、社内旅行などの行事には、仕事そのものと直接関係がなくてもちゃんと参加せよ

こういった契約によって、日本企業の従業員は従順で黙々と働く忠誠心の高い人材でありえた。個別の企業として、ユニークな経営戦略はなくても、コツコツと製品の品質を高めること、製造コストを下げること、顧客の意見を取りいれることなどによって、世界市場で日本製品の競争力を高めることに貢献できたわけである。

この契約の変更をすることなく、どちらかが期待されていない行動をするならば、約束が違う、ということになるのである。例えば、従業員が上司のいうことをきかず自分勝手な行動をしたり、人事異動を断ったり、残業をせずさっさと帰ってしまったり、社内行事に参加しなかったり。だから、そういう行動をするためには、本当は、企業と従業員の相互の合意のもとで、契約を変更しなければならないのである。現在よくいわれていることから、どのように契約を変更するべきであるかをまとめると以下のようになる。

新しい契約形態

雇用の契約をするにあたって、企業は従業員に以下ようなことをする

  • 従業員が自分の能力を発揮することができるチャンスを与える
  • 従業員がスキルや能力を向上させる為の教育などのサポートをする
  • 従業員が自分のキャリアを発展させるためのサポートをする
  • 成果を上げた従業員にはそれなりの高い報酬を与える
  • 年齢には関係なく価値の高い社員に高い報酬を与える
  • 成果を上げることができる従業員にとって居心地のよい職場環境を整える

その代わり、従業員には以下のことを期待する

  • 会社に成果というかたちで貢献できる能力やスキルを常に磨くこと
  • 企業の戦略や理念に沿った行動をすること
  • 会社は従業員の家族のことや社宅などについて十分に面倒を見ない、私生活のサポートまでは期待しないでほしい、そういったことは自分の責任でやること
  • 長期的な雇用の保証はしない、成果を上げられなければ魅力的な報酬は与えない
  • 勤続年数を積み重ねれば給料があがるということは期待しないでほしい
  • 自分のキャリアは自分でしっかりと責任をもって考えること、自分のキャリアの方向性と自社の業務がマッチしなくなったら、別の企業に移るのがよい

さて、日本企業のどれだけが、最初の契約から新しい契約への契約変更を、企業および従業員両方の合意のもとに行ったであろうか。もし、そういった契約変更を行うことなく、つまり古い契約関係にあるまま、企業があたかも新しい契約のようなやり方で、成果のでない社員に冷たくしたり、忠誠心がある社員のリストラに踏み切ったりするならば、それは約束が違う、契約違反である、といわれても仕方のないことである。

すべての企業が伝統的な雇用契約形態から、新しい契約形態に変更しなければならないというわけではない、古いままの契約形態を維持しながら、それでも企業競争力を維持し、高い業績を上げ続けることができるのであれば、そのままの契約を履行すればよいのである、要は契約関係を履行すること、履行しなければどちらかが裏切られた気分になり、お互いにとって不幸な結果になる、ということである。

契約を変えることは難しいこと

実際に前に結んだ契約を変更することは、当然難しいことである。難しいから、多くの企業が契約を変更することができずに、そのままにしているのである。契約の変更を行うための戦略は大まかにいうと2つある

1.既存の契約がだんだん形を変え、漸進的に発展していく変更

これは、時間をかけて徐々に徐々に少しずつ契約の内容を変えていって、気がついたら以前の者とずいぶん違う契約になっているな、というようにする戦略である

2.既存の契約を何らかの形でいったん破棄し、新たな契約を結ぶ変更

これは、既存の契約が現在にそぐわなくなっていることなどについて相互に合意した上で、最も望ましい契約を新たに結ぼうとする戦略である

多くの日本企業は、労使間の争いなどを避けようとするあまり、1の漸進的な契約の発展をもくろんでいるのではないだろうか。ちょっとづつ、少しずつ内容を変えていって、気がついたらずいぶん契約内容が変わっているな、という、ある意味では都合のよい契約変更である。

しかし、中には、新しい契約のうち、従業員に期待することのみ声高に叫び、逆にその見返りとして従業員に提供するべき事柄をぜんぜん準備していないという場合もあるだろう。そうなれば、求めるだけ求めておいて、そちらはなにも変えないというような非難の的となっても文句は言えない。