なぜ買い手のほうが交渉で有利なのか

仮に、買い手であるAと売り手であるBとが、全く同じ交渉力を持っているとしよう。それでもなお、買い手であるAのほうが、実際には有利に交渉をすすめ、結果としても有利な形で売買交渉を成立させるということを示す理由がある。

ちなみに、以前のコラムで、価値創造型(価値創出型)の交渉のススメを書いたわけだが、ここでは、分配型の交渉を想定しよう。つまり、典型的な売買交渉のように、高く売り抜けたか安く買い叩いたかといった、どちらかが有利であればどちらかが不利な条件で売買が成立するという状況である。

一般的に、買い手のほうが売り手よりも有利な交渉を進めるという理由の根拠となるのが、ノーベル賞受賞者であるカーネマンらによって提唱されるプロスペクト理論である。プロスペクト理論は、意思決定において、人間は必ずしも合理的に意思決定するわけではないということを示す理論で、合理的な人間観を前提に組み立てられてきた経済学に一石を投じた理論である。

プロスペクト理論をごく簡単に表現すると、人間は何かを得るという状況においてはリスク回避的であり、何かを失うという状況においてはリスク好意的になるというものである。通常、合理的な人間観のもとでは、常にリスク回避的であるという前提を用いて議論を展開する。例えば、確実に100万円もらえるケースと、50%の確率で200万円もらえるが、残り50%の確率で何ももらえないというケースとでは、多くの人は確実に100万円をもらうというケースを選択する。この2つのケースは、確率論でいう期待値は同じである。後者のみがリスクを含み、前者はリスクがゼロである。よって前者を選ぶというのはリスク回避的だというわけである。ところが、確実に100万円失うケースと、50%の確率で200万円失うが、残り50%の確率で何も失わなくてすむというケースを比べた場合、あわよくば何も失わなくてもよい後者を選ぶ人が増えてくる。これは、リスク好意的を意味する。同じ期待値なのに、リスクのあるほうを好むというわけである。これが正しければ、人間はどんなときでもリスクを回避したがるという前提で理論を組み立てることが不適切だということになるわけである。

さて、話を売買交渉の場面に戻そう。プロスペクト理論のフレームを用いて、買い手と売り手の心理を分析するならば、売り手は、商品を売ることで、代金を得るという立場にある。つまり、欲しいお金を手に入れるという「得る立場」にある。一方、買い手の方は、必要なものを手に入れるために、自分の財産の一部である金銭を犠牲にするという「失う立場」にある。

そうすると以下のことが言える。得る立場としての買い手のほうは、リスク回避的になる。リスク回避的であるがゆえに、法外な値段をいって交渉が決裂するようなリスクはとりたくなくなる。よって、相手が合意しやすいように、やや控えめなオファーを出す傾向にある。ということは、自分が望むゾーンよりも低いところで売買価格が成立してしまう可能性を高めることになる。またリスク回避的ということは、出来るだけ早く交渉を成立させようとする方向に動く。例えばなんらかのオファーを元に暫定的な売買価格が設定されたとすると、その価格を変動させたくないがために、早めに合意にこぎつけたいという心理になるわけである。その価格に満足せず、さらに交渉を長引かそうとするのは、価格が上下に変動する可能性を高めることになるので、リスク回避的な売り手には魅力的な選択肢ではなくなるのである。とにかく、現在の価格が、自分が望む売買価格よりもやや劣っているとしても、その代金を得るのが確実であるならば、それを失う可能性を高めることよりも、その金額で合意することを望むのである。

一方、「失う立場」にある買い手は、プロスペクト理論に従うならばリスク好意的になる。リスク好意的であるということは、交渉を決裂させてしまうリスクを犯してでも、極端な値引きを要求したり、上手にでたりする行動を誘発しやすいことになる。そうなると、控えめなオファーを出しやすい売り手に対して、売り手のほうが攻撃的、高圧的、積極的な交渉を挑みやすいということになる。

そうすると、自然に交渉は、買い手が押し、売り手が譲歩するというスタイルになりやすいわけである。さらに、早く売買を成立させたい売り手側と、交渉が決裂してもいいからできるだけ有利な形を導き出すために交渉を続けたいという買い手の心理とがあいまって、この売り手有利の状況が加速されるのである。かくして、売り手と買い手が全く同じ交渉力を持っていたとしても、買い手にとって有利なかたちで交渉が成立してしまうのである。

参考文献

マックス H・ベイザーマン (著), マーガレット A・ニール (著), 奥村 哲史(訳)「マネジャーのための交渉の認知心理学―戦略的思考の処方箋」白桃書房 1997年