実践のための社会構成主義アプローチ

jinjisoshiki

社会構成主義とは

社会構成主義とは、現実をより深くより内容豊かに理解するためのアプローチである。社会構成主義のアプローチに従えば、現実を、そこに生きる人々が人々が言語を用いることによって構成されたものとして理解することが可能となる。そうすることにより、現実をワン・ショットでとらえ、そこに普遍性や不変性を見出そうとする静態的な理解から脱却し、現実における生成と変容の動態性を描き出していくことが可能になる(木村 2001)。

木村によると、現実は、具体的な場面におけるさまざまな「指し手の束」つまり無限にある指し手の中から、人々が能動的に切り取った指し手の集合体として捉えられる。主体は、指し手の束(現実)を切り取り意味付与し、それを参照しながら何かの行為を選択し、それを実践する。そして、指し手は他者によって意味付与され、それが新たな指し手が生まれるときに参照される対象となっていく。現実は、このような指し手の連なりである。つまり、現実はいくつかの行為や活動やできごとの束が重なり合ってそこにあるものであり、その現実は、無限の解釈を残したままそこで構成され続けるものであると考える。

現実の捉え方

社会構成主義の視点から眺める現実とは、過去から脈々と受け継がれてきた途切れのない人々の社会的相互作用の産物として眼前にあるのであり、それは生成と変容を繰り返しながら未来に向かっても延々と続いていく真っ只中にある。しかし、現在・過去・未来という時間の常識的な区分を考慮する場合、いまここにある現実は、過去の社会的活動によって構成された結果であるのに対し、未来は無限な可能性を秘めながら常に開かれたものであると理解できる。

例えば将棋の盤面を考えてみよう。将棋の盤面をいま議論の対象としている現実とするならば、それは対局者が1手づつ交代に指し進めることによって変化していくものである。将棋という81マスの狭い盤面のみの現実を考えても、指し手の組み合わせは無限に近いほどあり、例えばこれまでなされたプロ棋士による棋譜をすべて集めたとしても、最初から最後までまったく同じ指し手の組み合わせである棋譜が存在するということは想像できない。このことから、たかだか81マスの世界においても、対局が始まった時点では、その盤面がどのように推移していくかについては無限の可能性を秘めていると言える。

もっとも、対局者の特性、性格、その他の状況要因を考慮することによって、ある程度どんな対局になりそうか予測できるかもしれない。しかし、一手変わった手が指されることによって思いもかけない方向に盤面が変化していくことも十分ありうる。それは、どちらかの対局者が一方的に主導してそう持っていくのではなく、お互いの対局者がお互いの指し手の可能性を読みながら、対局者の相互作用によって、結果的にある方向性に対局が流れていくことになる。すでに進んでしまった指し手については固定化されているので、振り替えることができるが、これから盤面がどういった方向に進んでいくのか、どんな展開が待っているのかについては常にさまざまな可能性が含まれている。現在の形成のまま一方が押し切るのか、とんでもない間違いをやらかすのか、不利な方が奇手を放って形成を一気に逆転させるのか、それは対局者本人を含め、誰にもわからない。

現実の社会構成という視点は、このような将棋の盤面を現実と見たてたときの説明に似ている。将棋の説明は、たった2人の対局者の相互作用によって刻一刻と変化する盤面を現実に見立てて説明したわけだが、2人以上の人々によるさらに複雑な現実の構成過程を考えるならば、社会構成主義が主張する開かれた未来の意味あいがより明確になるだろう。

現在・過去・未来

このように、現実は社会的に構成されるから、どのような未来になるのかは、ある意味、どのように人々が現実を構成しているかというプロセスそのものの影響を受ける。しかし、現在というのは、過去と切り離されて独立して存在しているわけではない。いまこの瞬間の現実というのは、過去とつながっているし、未来にもつながっていく。つまり現在眼前にある現実というのは、過去の人々によって行なわれた社会的相互作用の産物でもある。

あまりにも具体的なモノ「たとえばそこにある石ころ」が社会的に作られた現実であるとはにわかには信じがたい。しかし、それは遠い過去に行なわれた現実の社会構成が完璧なまでに固定化されて継続しているのだと解釈することもできる。ここでは「石ころ」という物体が私たちの主観を離れて存在するかしないのかを問うているわけではなく、そういった存在論的議論にはあえて触れず、それを石ころだと認識するように至った人々の社会的な相互作用に目をむけることによって、現実とは何かを理解しようとしているのである。

だから、未来が突然、過去および現在と不連続のものとして現われるわけではない。現実の社会構成は継続的・連続的に行なわれているわけで、それがどの方向に進むかについては、先にも述べたように、決定論的に予測することはできないのである。

未来の可能性の開閉

未来が人々にとって無限に開かれた可能性を秘めているとしても、人々の社会的相互作用のあり方によっては、その可能生をどんどん狭めていく可能性も多いにあるし、すでに狭まっている世界の枠から広げることができずに、八方ふさがりのままの未来を経験していくという可能性も秘めている。

人々の現実の社会構成のあり方が、ある種の現実のこれからの可能性を、狭いほうに狭いほうに向けることによって、あるいはある概念や見方考え方を、固定化する方向に向けていくことによって、その固定化された現実によって身動きがとれなくなるという可能性もある。つまり、人々が自分達の手で構成した現実が、こんどは逆に人々の思考や現実構成の仕方を縛ることによって、ますます未来の可能性を限定してしまうわけである。そういった場合は、今にして現実の呪縛から解放されるかどうかを真剣に問わねばなるまい。

逆に、一見すると、可能性は狭まったままで未来に移行すると思われていても、人々の豊かな想像力などによって、既存の殻が打ち破られ、どんどん新しい可能性が見出され、それにともなってこれまでとは全く異なる未来が出現する可能性もある。

例として企業組織の変革をあげるならば、組織が変われると信じている人が大多数を占める組織と、変われるわけがないと半分諦めている人が大半を占める組織とでは、その他の条件が全く同じであったと仮定しても、起こるべき未来は全く異なるであろうということは想像に難くない。全く同じ状況であっても、それにどのような意味を見出し、どのように解釈し、未来をどう見ていくかという思考過程やそれに基づいたコミュニケーションプロセスが、実際の組織変革に影響を及ぼすのだと考えられるわけである。

過去から学ぶ方法

過去から現在に至るまで、現実はすでに人々にとって構成されてきたわけであるから、過去の筋道をたどることにより、ある程度将来を予測できるかもしれない。特に非常に近い未来ならそうであろう。あるいは、過去のデータを分析することによって、法則性を見つけ出すことができるかもしれない。しかし、これもテンポラルなものに過ぎないだろう。繰り返しになるが、社会構成主義の視点にたって現実を考えるうえで基本的な前提としてあるのは、未来は常に開かれているということ。決して決定論が当てはまらない世界であるということだ。

このように、人々の社会的相互作用によって現実を作り続けているプロセスの真っ只中にある状態として現在を考える以上、未来は予測できないものであるのだが、既に起こった過去を振り返るならば、どういう相互作用が行われたのか、なぜこのような道筋をたどってきたのかについて、ある程度考察し、論理的な説明を試みることができる。特に、これまで起こってきたプロセスをできるだけ網羅的に記述して、そのプロセスを論理的に説明しようと試みることは、開かれた未来に向かって行動していこうとする再の洞察につながると考えられる。

社会構成主義の立場にたてば、個々のケースを、他に代替できない、経路依存的かつユニークな出来事として、普遍的な法則性の発見や将来の予測といった伝統的なパラダイムの枠に縛られない自由な観点から解釈し、言語的、論理的な説明を試みることによって理解を深めようとするアプローチの仕方を可能にする。人々がある種の現実に直面した際、似たようなことがこれまでに何度も起こってきたと思うのならば、それが起こる確率は理論的に確定できなくても、また同じ事が繰り返されるかもしれない。すべての事象を一回きりのケースとして深く理解することを繰り返す経験をすることによってて、実践における場面で、これはこういう状況と似ている、あるケースだとこういう状況の場合はああなっていくというシナリオがあった、などと、豊かな想像性を働かせながら、現実に起こっていることと戯れながら実践を楽しむことにつながると考える。

実践に役立てる方法論

社会構成主義の視点から、いかにして過去から学び、それを現在の実践に生かし、明るい未来を築いていくための方法としてまず挙げられるのは、具体的かつ詳細な記述のケースとして、そういった想像性の源となる洞察を蓄積していく方法である。それはビジネススクールのケースやシミュレーションといった擬似体験が重要な役割を占めるだろう。

もう1つの方法としては、具体的な経験から、エッセンスを抜き出しながら抽象化するという過程を通じて、コンパクトなフレームワークを作っていくという考え方も成り立つ。この種のフレームワークは、何かを予測したりするものでもなく、世の中における法則性のようなものを発見する目的で追究されるものではない。その目的は、先ほどにも述べたように、これまで起こった過去を振り返るとともに、開かれた将来に関する豊かな想像性を働かせ、いま目の前で起こっていることと戯れながら、現実をよりよく生きる、あるいは実践を楽しむためのきっかけないしは援助を行うことである。対象が個人レベルであるのか、チームまたは組織レベルであるのかは問わない。組織メンバーが、より実りのある組織変革を実践するという捉えかたも1つである。また、モデル自体が現実としては完成された(つまり静止した)状態ではなく、常に未来にむかってより実りのあるものに改善されていく可能性を残しながら、研究成果があるごとにその有効性を確認あるいは問題点の発見およびその解決の方向性などが発表されていくことになろう。

参考文献

木村純子 (2001) 『構築主義の消費論』 千倉書房