GO TopPage RankingSurfingGuestBookChat
ThemeSearchSendformBBS
E-mail
GO WallStreet


平成 11年 (1999) 1月 7日[木] 赤口

主張 自由と規律のバランスを


【学級崩壊】
どこへ消えた「仰げば尊し」

 児童生徒が騒ぐことによって授業が成立しない「学級崩壊」の現実を、ようやく文部省が認め、実態調査を行うことになった。学級崩壊は、「自由」と「規律」のバランスを失った戦後教育の欠陥が露呈した象徴的な現象である。子供には、自由の尊重もさることながら、規律を守ることの大切さを、小さいころからきちんとしつけておかなければならない。

 学級崩壊がどこまで広がっているのかは、まだ十分に把握されていない。昨年の本紙の『教育再興』シリーズでも、担任の教師が表ざたにすることをきらい、校長や教頭、同僚の教師にすら相談しない実情を伝えている。

 実際のケースでは、はじめはクラスの数人が「こんな問題、わかるかよ」「つまんねー」などと騒ぎ出し、教師が手をこまねいているうちにクラス全体に広がるという。何カ月かたつと、授業中に教室を走り回ったり、無断で外へ出ていったりして、手のつけられない状態になってしまうのだ。

 その結果、自信をなくした教師が休職や退職に追い込まれている。それも、若い教師よりベテランに多いという。未熟なのではなく、今までやってきたやり方が通用しなくなっているのである。日本の学校教育の根幹を揺るがす危機的な事態といえる。

 では、どこが問題だったのか。現時点ではっきり言えることは、「授業は静かに聞く」「学校では、先生の言うことを聞く」という学校生活の規律を、親も先生も教えてこなかったからだ。どちらかというと、親の責任の方が重い。『教育再興』でも、「うちの子は影響されているだけ」「学校の問題は学校で解決してほしい」「先生の指導が悪い」と責任を転嫁する保護者の声が目立った。

《個性やゆとりも大切だが》

 戦後教育は、児童生徒の自由や自主性を重んじるあまり、規律や秩序を軽視してきたきらいがある。「個性尊重」「ゆとり教育」などを打ち出した最近の中央教育審議会答申でも、その傾向は変わっていない。個々の能力や特性を見いだし、それを最大限に伸ばす教育はもちろん大切である。しかし、それはあくまで、集団生活に必要な規律やルールを守ることを前提にしたものでなければならない。

 英文学者の池田潔の著書『自由と規律』は、自ら体験した英国の学校生活を描きながら、自由と裏腹な関係にある規律の大切さを説き、敗戦後の日本人に大きな影響を与えた。だが、今は、自由だけがことさらに強調され、規律がなおざりにされている。

 校則や制服をすべて罪悪視するような風潮も、“あしき自由主義”のあらわれである。校風や教育理念に基づく合理的な規律は必要であり、生徒もその学校に在籍する以上、守らなければならないのは当然だ。

《父性を軽視し徳育怠る》

 教育のバランス論でいえば、「学校教育と家庭教育」「父性(強さと厳しさ)と母性(優しさと温かさ)」「知・徳・体」のバランスも失われている。戦後教育の過程で、家庭が教育力を失い、父性が希薄になり、徳育を怠ってきたことが今日の学級崩壊などの教育荒廃を招いたことは、われわれも繰り返し指摘してきた。

 共働き家庭や離婚による母(父)子家庭が増え、「子供には目が行き届かない」「しつけも学校でやってもらわなければ困る」という声を聞く。日本より離婚率の高い欧米でも、きちんとした家庭では、子供をしつけることに大変な努力をしている。母(父)子家庭でも、父性と母性のバランスをとった教育は可能なのである。

 「憲法の政教分離規定があり、宗教に基づく道徳教育ができない」という声もよく耳にする。だが、米国では、キリスト教のモラルを基礎とする道徳教育や人格教育がごく普通に行われている。英国でも、キリスト教を基本としつつ、地域によってイスラム教やヒンズー教などにも配慮した宗教的な情操教育を行っている。道徳教育は、その国の伝統的な宗教とは切り離せないものである。日本でも、神道や仏教、儒教などに基づく情操教育は行っていいし、また行うべきなのである。

 戦後、教室から教壇が次々と姿を消した。卒業式で“わが師の恩”に感謝する「仰げば尊し」を歌う学校も少なくなった。日教組(日本教職員組合)は自ら“聖職”としての地位を捨て、「教師は労働者である」とする倫理綱領を定めた。生徒が先生を尊敬する気風は失われつつある。

 生徒が先生の言うことを聞かない学級崩壊の一因もここにある。教室には教壇があっていい。卒業式には「仰げば尊し」を歌うべきである。そのためには、教師自身も自らを厳しく律し、教育者としての研さんに励み、生徒や保護者だけでなく、地域社会からも尊敬される存在でなければならないのである。


平成 11年 (1999) 1月10日[日] 先負


産経抄

 数日前の本紙「主張」で、学校の卒業式では「仰げば尊し」を歌うべきだ、と訴えていた。歌われなくなったことに象徴される教師と生徒の間の絆の崩壊を憂えているのである。

 ▼「仰げば尊しわが師の恩」と始まるこの歌は、明治十七年「小学唱歌集3」に初めて登場した。「作詞・作曲者不詳」である。日本全体が坂の上を目指していたころであったが、曲は短調の物悲しい調べで、少し前までは卒業式の定番になってきた。

 ▼この歌について数学者でエッセイストの藤原正彦さんが著書『父の威厳 数学者の意地』に書いている話がいい。藤原さんは、小中高と卒業式にはいつも感激してきた。「仰げば尊し」の斉唱となり「互いにむつみし日頃の恩」と歌ってくると、もう何かこみあげてくる。

 ▼そして二番の「身を立て名を上げ」の小節になると、いけない。決まって胸がつまり歌えなくなるのだそうだ。ただ藤原さんによれば、歌詞の内容に胸打たれたわけではない。日本人が心の底に共有する別れの無常感によるのではないかというのである。

 ▼それもその通りかもしれない。「仰げば尊し」を歌ったからといって急に子供が先生を尊敬するわけではない。ただ、この歌に秘められた日本人共通の感性だとか、礼節、恩愛、気概などの伝統までを歌とともに捨ててしまった。そこに教育の悲劇があるのは間違いないのだ。

 ▼そういえば、藤原さんのエッセーには落ちがある。勤め先の女子大の卒業式で「仰げば尊し」を歌った。例によって感激したが卒業生たちの目に涙はない。ただ一人だけ、白いハンカチを当てていたのは日本文化研究に留学していたアメリカ人学生だった。


もどる