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日韓併合の過程


1.国書刊行会「高等学校最新日本史」
 (平成6年文部省検定済み)
(本文)日露開戦直後の明治37年(1904)2月,日本は韓国にせまって日韓議定書をむすび,韓国領内における日本軍の自由行動を認めさせた.ついで8月には第一次日韓協約がむすばれ,韓国政府の財政・外交顧問に日本政府の推薦者をいれることとなった.翌年,日本はさらに第二次日韓協約(日韓保護条約)をむすばせ,韓国の外交権を接収して保護国とし,首都漢城(ソウル)に統監府をおいて,伊藤博文が初代統監となった.韓国は,1907年にハーグでひらかれた第2回万国平和会議に皇帝の密使を送って国内の実状を訴えようとしたが,列国には受けいれられなかった(ハーグ密使事件).
 これをきっかけに日本は第三次日韓協約をむすばせ,ついに内政権まで統監の手中に収め,統治を強化した(注釈文1).明治42年(1909),前統監伊藤博文は,満州視察の途中のハルピン駅頭で,韓国の独立運動を進めていた青年安重根に射殺された.翌年8月,日本は韓国にせまって併合条約を調印させ,朝鮮総督府をおいて(注釈文2)すべての政務を統轄することとなった(日韓併合).
 (注釈文1)このとき韓国軍隊を解散させたため,各地で抵抗がおこった.韓国の軍人らは満州や沿海州などに渡って,各地に抗日集団をつくり,アメリカ在留の指導者とも連絡をとり独立運動をつづけた(義兵運動).
 (注釈文2)初代総督には陸軍大将寺内正毅が就任した.

2.実教出版株式会社「高校日本史B」
 (平成6年文部省検定済み 平成7年発行 平成8年度用教科書)
 (本文)大韓帝国の支配をめぐる対立から日露戦争が始まると,日本政府は韓国政府の局外中立声明を無視して,韓国内に軍をすすめ,1904(明治37)年,日韓議定書を強要して,軍事上必要な土地を収容するなど,戦争遂行に必要な便宜を獲得した.さらに日本政府の推薦する財政顧問(注釈文1)と外交顧問を韓国政府に送りこむ第1次日韓協約を認めさせた.
 日本政府は1905年8月ポーツマス講和会議開催に先だって,米英両国から韓国支配に関する承認(注釈文2)をえた.さらにポーツマス条約で,韓国に対する日本のいっさいの指導権をロシアに認めさせた.
 日本政府は日露戦争後,韓国の保護国化政策をとった.1905年,訪韓した枢密院議長伊藤博文は,保護国化に抵抗する韓国皇帝高宗に対し,「我が政府,今や確定案として此の協約案を提出せるものなれば,寸毫も変改の余地なし」と承諾をせまった.さらに韓国駐留の軍司令官をともなって韓国政府の閣議に出席した伊藤は,一人ひとりに条約締結の賛否を聞いた.参政大臣と度支部大臣(注釈文3)は「絶対に否なり」と答えた.外部(外務)大臣は黙したがそれは承諾したものとされ,ほかの四大臣はしぶしぶ同意した.そこで伊藤博文は賛成多数として第2次日韓協約(保護条約)を強要した.この協約によって,日本政府は韓国の外交権をうばいとり,内政・外交に大きな権限をもつ韓国総監府を漢城(現ソウル)におき,保護国とした.初代統監には条約交渉の中心人物であった伊藤が就任した.
 日本の侵攻に対し,韓国国内では憤激の声が高まった.皇帝も1907年,ハーグ平和会議に特使を送って,保護条約の不法を訴えた(ハーグ特使事件).しかし日本の働きかけもあって列国はこれを無視した.この事件を利用して伊藤統監は,皇帝の退位と内政の実権をうばう第3次日韓協約を強要し,韓国軍隊の解放を強行した.さらに1909年7月に,日本政府は韓国を廃滅にする方針を閣議決定した.
 韓国内では解散させられた軍隊が抗日闘争に加わり,日本の侵略に武力で抵抗する義兵闘争が全国的に高揚した.また,都市の知識人・学生らは,民族意識の高揚を目的に,愛国啓蒙運動をおこした.日本政府や軍隊は憲兵を動員し,義兵闘争などの抗日運動(注釈文4)を弾圧したが1909年10月,前統監伊藤博文はハルビン駅頭で義兵闘争の指導者安重根に射殺された.
 日本政府は1910年,韓国政府に「併合条約」(注釈文5)をおしつけ,韓国を日本の植民地とした(韓国併合).韓国統監府を朝鮮総督府に改組するとともに,韓国を朝鮮と称することを決定した.朝鮮総督には現役の陸海軍大将をあて,初代総督には第3代統監寺内正毅を陸軍大臣のまま任命し,憲兵警察制度による武断政治を実施した.朝鮮語の新聞・雑誌の発行や集会・結社などをきびしく制限するいっぽう,教育勅語の精神を基本とし,日本語の普及を重視する同化主義教育を実施した.
 (注釈文1)財政顧問には大蔵省の目賀田種太郎を任命した.目賀田は朝鮮の貨幣を回収し日本と同一の価値をもつ新貨幣にかえる貨幣整理事業をおこない,第一銀行に発券・国庫金業務を扱わせた.
 (注釈文2)桂−タフト協定でアメリカのフィリピン支配を認め,第2次日英同盟でイギリスのインドでの特権を容認するかわりに,日本の韓国支配を承認させた.
 (注釈文3)総理大臣・大蔵大臣と同様の職.なお日韓協約に賛成した李完用ら五閣僚は「乙巳五賊」と称され,売国奴として批判された.
 (注釈文4)朝鮮人の抗日闘争は植民地化ののちも国内外で継続された.
 (注釈文5)「併合」という用語は1909年7月の「韓国併合ニ関スル件」閣議決定ではじめて使われたが,「韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明らかにすると同時に,其語調のあまり過激ならざる文字を選ばんと欲し」て外務省の官僚が考案したものである.

3.自由書房「高等学校新日本史B」
 (1993年文部省検定済み 1994年発行 1995年度用教科書)
 (本文)1904(明治37)年,日露戦争の開始とともに,日本は軍事力を背景に日韓議定書をむすんで,日本が軍事上必要な土地を接収する権限を韓国に認めさせ,さらに同年,第一次日韓協約をむすび,日本政府の推薦する財政・外交顧問の受けいれを承認させた.日露戦争の結果,日本による韓国の保護国化が,欧米列強から認められる(注釈文1)と,日本は1905(明治38)年,第二次日韓協約(乙巳保護条約)によって,韓国の外交権をとりあげてこれを保護国とし,さらに総監府を漢城におき,伊藤博文が初代総監となった.ついで1907(明治40)年,ハーグ密使事件(注釈文2)を機に韓国皇帝を退位させるとともに,第三次日韓条約によって,韓国の内政権をも手に入れ,秘密協定で韓国軍隊を解散させた.そして1909(明治42)年,日本政府は韓国を併合する方針を決定した.
 こうした日本の侵略に対し,韓国では義兵運動とよばれる民族的抵抗が各地にひろがり,同年,前統監伊藤博文はハルビンで,義兵運動の指導者のひとり安重根によって射殺された.日本は憲兵・警官を増強して,翌1910(明治43)年,日韓併合条約をむすばせて韓国を併合し,朝鮮を植民地支配のもとにおいた.新たに朝鮮総督府を設け,現役の陸海軍大将を総督(注釈文3)に任じて統治した.
 朝鮮総督府は,憲兵・警察制度をととのえて治安維持をはかり,朝鮮人の権利・自由に厳しい制限を加えた.また,1910年から大規模な土地調査をおこない,村の共有地など,全耕地の半分以上を官有地として接収し(注釈文4),その一部を東洋拓殖会社(1908年設立)や日本人などに安い値段で払い下げたので,日本の植民地支配に対する根強い抵抗がつづいた.
 (注釈文1)1905(明治38)年,アメリカは桂−タフト協定,イギリスは日英同盟改定(第二次日英同盟),ロシアはポーツマス条約でこれを認めた.
 (注釈文2)韓国皇帝がオランダのハーグでひらかれていた万国平和会議に密使を送り,第二次日韓協約の不当さを列国に訴えようとした事件.列国はこれを無視した.
 (注釈文3)初代総督には併合条約の全権寺内正毅を陸軍大臣のまま任命した.
 (注釈文4)土地をうばわれた朝鮮人のなかには,職を求めて満州・日本に流出する者も急増した.

4.第一学習社「高等学校改訂版新日本史B」
 (平成9年文部省検定済み 平成10年発行 平成11年度用教科書)
 (本文)1904(明治37)年,日露戦争がはじまると,日本は日韓議定書を結んで,韓国に日本軍の戦略にとって必要な土地の接収を認めさせた.また,同年,第1次日韓協約で日本人顧問による韓国内政への発言権をえた.1905(明治38)年には,アメリカやイギリスに,韓国における日本の優越を承認させた.ついで同年,第2次日韓協約を協約を強制して韓国の外交権を手にいれ,漢城に統監府をおき伊藤博文を初代統監とした.1907(明治40)年には,ハーグ密使事件を機に,日本は韓国皇帝を退位させ,第3次日韓協約によって韓国の内政権を手にいれた.同年,韓国軍隊を解散させると,一部の韓国軍が日本軍と衝突し,全国に民族的な抵抗運動が拡大した(義兵闘争).1909(明治42)年には,前統監伊藤博文がハルビン駅頭で韓国人青年に射殺された.日本は翌年,日韓併合条約を結んで韓国を植民地とし,漢城に朝鮮総督府を設けた.朝鮮総督府は,土地調査事業を開始して朝鮮の農民から土地を奪うなどの政策を強行した.


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