平成 11年 (1999) 1月31日[日] 先勝

主張 厳粛に行われることに意味


【成人式騒動】
 仙台市の成人式で、新成人たちが騒ぎ、大学教授の講演をまじめに聞かなかった問題で、仙台市長はこの教授にわび状を出した。礼を失した若者たちに社会人の資格はない。社会のルールや規範をきちんと教えてこなかった学校や家庭の責任でもある。

 この問題は今月十五日、仙台市の成人式で、エジプト考古学者の吉村作治早大教授の講演が行われたものの、ほとんどの新成人が会場の外ではしゃいだり、中にいても携帯電話をかけたりして騒ぎ、吉村教授が激怒した−というものだ。

 騒いだ若者らは「講演には興味がない」「たまに会った友人と話がしたい」「振りそでを着たいので出席した」などと話したというが、心得違いもはなはだしい。私的な会合ではなく、市の税金で賄われている公的な行事である。しかも、一部の若者は吉村教授の講演をまじめに聞いているのだ。講演に興味がなくても、他人には迷惑をかけないのが常識ではないか。

 本紙の投書欄を見ると、こうした成人式は仙台だけではないようだ。大阪市内の成人式に出席した女性(二〇)は、いすの背もたれに土足を投げ出して座る男性や、人込みの中で知人を見つけ傘を振り回す女性らの無軌道ぶりを嘆いている。また、川崎市の女性(二〇)は、式典が始まっても、携帯電話をかけたり、市長にやじを飛ばしたりする若者を見て、「日本を立て直さなければ」という使命感を持ったという。

 学校現場では、児童・生徒が騒ぎ、授業が成立しない「学級崩壊」が深刻な問題となり、大学の講義でも私語がまん延している。今回の成人式騒動も、そうした教育荒廃の延長線上にあるといえる。藤井黎仙台市長は「精神面の欠落というか、戦後教育の象徴を見た」と言うが、同感である。

 識者の一部には、「行政は金だけ出して口は出さず、若者主催の成人式を」という声もあるが、この考え方も間違っている。若者が主催してやるなら、若者が金を出し合ってすればよく、税金を使うべきではない。

 吉村教授は講演後、「九九%が上の空の催し物は、やめた方がいい」とも言っている。だが、親や先生に甘えられた子供の時代から、自己責任を免れない大人へと脱皮する「人生の節目」にあたる成人式はやはり必要であり、それが公的な儀式である以上、厳粛に行われるべきである。そのためには、家庭や学校教育の中で、「他人には迷惑をかけない」「時には、嫌なことも我慢する」「自分を律する」といった社会に巣立つ際の基本的なルールや心構えを教えておくべきなのである。


平成 11年 (1999) 2月 9日[火] 仏滅
正論 エッセイスト・共立女子大学教授、木村治美

来年の成人式をどうする
目に見えない価値で二極化


《金輪際引き受けまい》

 仙台市における成人式の惨状を伝える記事に、たいへん興味をもった。実は私も何年か前に、ある地域の成人式の講師に招かれ、同様の目にあった。その頃は携帯電話はなかったし、おそらく仙台市ほどではなかったろうが、それでも「金輪際引き受けまい」と誓ったものだ。

 今回の記事を見て、ある自治体の教育関係者もぼやいていた。「この町でも同じだ。わずか三十分の式典に、どうして静かにしていられないのだろう」

 新成人にいわせると、「久しぶりに友だちに会いにきたのであって、講演をききにきているわけではない」となるようだ。しかし自治体からの招待状には、式次第が書かれてあったはずである。式服を着用して参加したからには、その企画を受け入れたということだ。

 参集者は会の進行に協力する義務がある。同窓会は二次会でやればよい。式典がいやなら二次会にだけ顔を出せばよい。ただしその場合、振り袖という式服を着る必要はなくなる。式服は着たい、式典には出たくない、というジレンマを自分勝手に解決するから、あのような行動になるのであろう。

 仙台市の場合、市役所内部や市議会から、従来のやり方は「人寄せに傾き過ぎている。若者にこびない厳粛なものにすべき」との声があがり、昨年の新成人の意見も聴取した結果、「厳粛な式を望む」という要望が多く寄せられたので、今回の形式をとったという。

《黙っているのは無責任》

 人生の節目を厳粛に行いたい気持は、だれにもあるだろう。それが雰囲気にのみこまれて、騒いで終わってしまったが、頭の片隅には、一生に一度のかけがえのない日を、こんなふうに過ごしてしまった後悔が残ったのではあるまいか。仙台市の一件が全国的に話題になったいま、新成人はあらためて自分たちの行動の無分別、無自覚を恥じたにちがいない。私たちにも、永い人生にそういう経験がまったくなかったとはいいがたいので、よくわかる。

 仲間のあいだで、静粛を求めるけん制がなかったことも不思議である。ここにも現代日本の病弊としての「関わらない主義」がみられる。たとえばフランスでも教室や講演会場がさわがしいことはよくあるが、そのようなとき、真剣に聞きたいと思っている他の会衆から、かならず声があがるという。「どうか静かにしてくれ、シルブプレ!」

 フランスでは個人主義が適切に機能しているということだろう。他人の迷惑になってならないのはいうまでもないが、重要なのは、迷惑をこうむったら、迷惑だとひるまず自己主張することだ。日本人は自由をはきちがえていると同時に、他人の迷惑をがまんしすぎる。つまり放任している。仙台市の会場でも、がまんしすぎた若者は何人かいたろう。多くの者が自らを律することができなくなっているのは、周囲の者が、仲間が、親が、教師が、こうむった迷惑にたいして、自尊心をもって正当な抗議をしないからではないか。黙っているのは無責任でさえある。

《大人の自主性と分別》

 大学における私語がよく話題になる。おしゃべりを平然と無視して講義をつづける教師の側に問題はないのだろうか。私は私語がきこえれば講義はやめる。教壇から声を掛け、あるいはその学生の脇に立ち、注意をうながす。私の大学では私の知るかぎり、私語で授業が成り立たないという話はきいたことがない。

 さて、成人式の話にもどろう。来年からどうするかがこれからの問題になる。「式の在り方の見直し」が求められているという意見がある。私の考えはこうである。自分を律することのできない若者に迎合するのは反対である。若者の風潮がどうのこうのという前に、先輩としての大人が、成人式はどうあるべきかを真剣に考えなければいけない。政治にも経済にも教育にもビジョンがないのは、現状に迎合することばかりを考えて、理想や哲学を語らないからである。

 仙台市議会ではいみじくも理想を形にして、こういう結果になったのであるが、実施の方法に手ぬかりがあったと思う。

 式典にも講演にも、出席の意志表示をした者には、マナーを守る約束をさせる。携帯電話は切り、私語は許さない。席を立たない。これを守らない者は、約束違反として容赦なく退場を求める。成人とはいえ、その行動を見ていると未熟な子供でしかない。心ある大人は、かれらを教え導き、厳しくしつけをする責任を放棄してはなるまい。

 新成人は、そのような成人式に出席するかしないか、まず自己決定が求められる。自由意志で参加を決めたなら、主催者側の指示に従い、マナーを守り、他人の迷惑にならないようにする。それが大人の自主性であり、分別というものだ。

 このような方針をとった場合、賛同する者とそっぽを向く者とに二極分化するだろう。日本は階層のない平等な大衆社会であるが、今後、マナーとか生活態度とか人格形成とかいう目に見えない価値で、二つのグループに分けられていくと思う。チャンスさえ平等に与えられるなら、それを割り切るしかないと思う。(きむら はるみ)


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