自殺当日の職員会議


 昨年秋,糾弾学習会が開かれた頃のことである.
 「永井さんは相当疲れていたみたいで,日頃はグチをこぼさない人なのに,“最近はいろいろあってね.疲れたよ”と言っていました」
 と,永井校長と親しかった知人は打ち明ける.
 今年春に定年を迎える永井校長にとって,昨年は心労続きの年だったのだ.
 4月に校内で盗難事件が発生し,その処理をめぐってPTAから校長の管理責任が問われていた.さらにこの不況から,生徒の就職先がなかなか決まらないことも悩みの種だった.その上に同和問題が重くのしかかる.
 そうした事情を知っていた先の知人は,
 「教師最後の年なのにいろいろあってたいへんやな」
 と声をかけたという.
 永井校長は,
 「そうやねん.この1年は本当に問題が多くて,最後に大きな問題(同和問題のこと)が残っとるやろ.ワシが定年になっても,この問題は解決しないやろな.責任をまっとうしないで申しわけないけどな」
 「今では定年まで“あと何日”と書いたカレンダーを作っとるわ.定年になったら,嫁さんとどこか遠い所に旅行に行くねん.それまでの辛抱や」
 と話していたという.
 それなのに,どうして自殺したのか.
 「校長が気にしていたのは,生徒を集めて校内で行われる“報告集会”でした」
 と話すのは,松阪商業高校の関係者である.
「報告集会では,差別問題の事実を報告し,謝罪することになっています.しかし,差別問題を指導する立場の先生が差別したとなると,生徒は言うことを聞かなくなり,生徒との関係が崩壊することは目にみえています.それだけに校長は報告集会の開催に慎重で,先生の中にも反対する人が数名いたので,一度は開催が見送られたんです.ところが,糾弾学習会の後,ある先生から再び報告集会を開くべきだという提案があったんです.多数の先生が,開催に賛成でした.校長は,“ワシにもどうしていいのか全くわからなくなった”と言って悩んでいたんですよ」
 亡くなる直前には,こんなやり取りがあったという.
 ある教員が集会の開催を迫ったところ,永井校長が,
 「開催する自信がない」
 と答えたために,
 「あんたがそんな態度だから,駄目なんだ.同和教育を前進すべき時なのに,後退するような発言は控えてほしい」
 と突き上げを食らったという.先の関係者はいう.
 「校長が亡くなった12月15日は,職員会議で報告集会の開催の採決を取る日だったんです.開催賛成の多数派が,反対意見をそこで正式に潰してしまおうという日だったんです.それだけに校長は,死をもって報告集会を中止したとしか思えない」
 さらに12月末には,第2回目の糾弾学習会が予定されていた.校長の自殺は,差別問題の決着が長引いたことと無縁だといえるだろうか.
 部落解放同盟三重県連合会の森下勝幸委員長はこう反論する.
 「校長先生が亡くなられたことは非常にお気の毒なことだと思いますが,差別事件だけが校長先生を死に追いやったかのような発言や報道に対しては不快感と反発を感じています」
 だが,松阪商業の関係者はいう.
 「校長先生が生前に愛用していたカバンの中からノートが見つかって,そこには県教委による聞き取り調査や,確認会,糾弾集会の内容がびっしりと書き連ねてあった.遺族は,“父が死ぬ理由は他にない”と言っていたようです」


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